生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

政界の策士・岡崎邦輔(和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

  今回は、明治時代後期から昭和初期にかけて政治家・実業家として活躍し、「政界の策士」との異名を取った岡崎邦輔(おかざき くにすけ)を紹介します。

岡崎晩香翁之像(「晩香」は邦輔が用いた号)

 けやき大通りの三木町新通バス停の東にある小さな公園に岡崎邦輔銅像が建てられています。

 岡崎邦輔嘉永7年(1854)※1和歌山市生まれで、同郷の「カミソリ大臣」こと陸奥宗光(むつ むねみつ 1844 - 1897)とは従兄弟の関係(互いの母親が姉妹 岡崎の方が10歳年下)にあります。
※1 現在、多くの資料では「嘉永7年(1854年)3月15日生まれ」としているが、Wikipediaによればこれは衆議院に提出した履歴に基づくものであり、この他に嘉永6年(1853)生まれとする説もあるという。また、後述の「人事興信録」では「安政元年三月十五日(第4版)」「安政元年正月(第8版) 」に生まれたとの記述があるが、「嘉永」が「安政」と改元されたのは「嘉永7年11月27日」のことであり、「嘉永7年=安政元年」ではあるものの厳密に言えば安政元年には正月や3月は存在していない。岡崎邦輔 - Wikipedia


 明治21年(1888)には駐米特命全権公使となった陸奥に従い渡米。帰国後の明治24年(1891)には陸奥議員辞職に伴う第1回衆議院議員総選挙補欠選挙衆議院議員に初当選し、以後当選回数10回を数えます。立憲政友会の結成などに活躍し、大正14年(1925)にはわずか4か月弱の期間ではありましたが農林大臣も務めています。
 また、実業家としての顔もあり、渋沢栄一らとともに京阪電気鉄道の設立に関わって大正6年(1917)には第3代社長に就任しています。社長在任時には大阪-和歌山間の新たな鉄道路線開設にも尽力し、後にJR西日本阪和線となる阪和電気鉄道の設立に大きな役割を果たしました。

 こうした岡崎邦輔の足跡については、国立国会図書館のWebサイトにある「近代日本人の肖像」というコーナーでも取り上げられており、次のように紹介されています。

岡崎邦輔(おかざき くにすけ)

生没年
嘉永6年3月15日~ 昭和11年7月22日
(1853年4月22日 ~ 1936年7月22日)

出身地
和歌山県

職業・身分
政治家、実業家

別称
晩香

解説
父は和歌山藩士。本姓長坂
戊辰戦争参加後、広島県庁、大蔵省、内務省、司法省等に出仕。
明治21(1888)年渡米し、ミシガン大学に留学。
23年に帰国し、翌年衆議院選挙に被選挙権を得るために岡崎家に入籍して立候補、当選。
以後、独立倶楽部を経て自由党憲政党立憲政友会に所属。33年第4次伊藤内閣星逓相(筆者注:逓信大臣を務めた星亨(ほし とおる)のこと)官房長を務めた。
その後しばらく政界を離れ、実業に専念
38年古河合名(筆者注:古河財閥(現在の古河グループ)の中核企業)監事、39年京阪電鉄取締役、大正6(1917)年同社長就任。
明治41年再び当選し、大正元年犬養毅尾崎幸雄らと第一次護憲運動を起こす。
第二次護憲運動でも普通選挙法の成立に貢献した。
14年加藤高明内閣農相
昭和3(1928)年貴族院議員
陸奥宗光の従弟。

www.ndl.go.jp

 

 また、明治36年(1903)から平成21年(2009)まで断続的に発行されてきた人物情報誌「人事興信録」では度々岡崎邦輔が取り上げられています。名古屋大学大学院法学研究科では、このうち初版明治36年版)、第四版大正4年版)、第八版昭和3年版)をデータベース化してWeb上で公開していますが、この全てにおいて岡崎邦輔が取り上げられており、版ごとにその記述内容が変化していく様子を伺うことができます。非常に興味深いのでその内容をまとめて引用しておきます。

岡崎邦輔

初版[明治36(1903)年4月] の情報
君は立憲政友會の名士にして 
一代の奇才を以て鳴る
君曾て和歌山縣警部たりし時 陸奧伯の知遇を受け
其股肱として伯の政治的生涯の樞機に與り
伯逝て後 星亭に知られ 
遞信大臣となるや擢でられて
官房長に任じ正五位に叙せらる
君夙に籍を自由黨に置き 
立憲政友會たる本日に至るまで 同黨の參謀として仰がる
現今 又古川市兵衞の顧問として 傍ら力を實業界に注ぐ
岡崎邦輔 (初版) - 『人事興信録』データベース

 

第4版[大正4(1915)年1月] の情報
君は和歌山縣平民 長阪學彌 の二男にして
安政元年三月十五日を以て生れ 後岡崎姓を冒す
夙に米國ミシガン州アナーバーワシントン府に留學す
甞て古河市兵衛顧問として盡し 古河礦業會社理事たり
同二十五年以來 衆議院議員となること六回
現に其任にあり立憲政友會に屬す
機智に富み夙に政友會の帷幄に參し參謀を以て稱せらる
岡崎邦輔 (第4版) - 『人事興信録』データベース

 

第8版[昭和3(1928)年7月]の情報
君は舊和歌山藩士 長阪學彌 の二男にして
安政元年正月を以て生れ
岡崎文左衞門の養子となり
明治二十九年分れて一家を創立す
夙に米國に留學し 
歸朝後 遞信省官房長に任ぜられ
次で古河市兵衞顧問に聘せられ
古河鑛業會社理事に擧げられ
京阪電氣鐵道 大同電力 新京阪鐵道各會社重役に就任す
明治二十五年以來 衆議院議員に當選する事十囘に及び
曩に農林大臣に親任せられ
昭和三年貴族院議員に勅選さる
岡崎邦輔 (第8版) - 『人事興信録』データベース

 

 ここでは、岡崎はもともと長坂家の生まれであったが岡崎家の養子となったこと、人物としては「一代の奇才」で「機智に富」んでいたこと、古河市兵衛※2に重用されたこと、京阪電鉄※3大同電力※4京阪電鉄※5の重役を務めたこと、などがわかります。
※2 古河財閥の創業者。陸奥宗光と親しく、陸奥の次男・潤吉を養子にした(市兵衛の死後に潤吉が古河家の家督を継いだが、その2年後にわずか35歳の若さで肺炎により死去した)。
※3 京都-大阪間を結ぶ鉄道事業者として明治39年(1906)に設立された企業。明治43年(1910)に大阪・天満橋駅-京都・五条駅(現・清水五条駅)間で開業。第二次大戦の際に阪神急行電鉄と合併して京阪神急行電鉄となるが、戦後、新たに京阪電気鉄道株式会社として分離・独立した(京阪神急行電鉄は後に阪急電鉄となる)。詳細は後述。
※4 大正時代から昭和時代初期にかけて活動した電力会社で、当時は日本の「五大電力」の一つに数えられた。日本政府が推進した電力国家管理政策により国策会社である「日本発送電株式会社」が設立されたため、同社に事業設備を譲渡して解散した(清算終了は昭和15年(1940))。大同電力 - Wikipedia
※5 淀川東岸沿いに線路が敷設された京阪電気鉄道に対し、淀川西岸での新路線を開設・運行するために設立された企業。京阪電気鉄道の子会社として設立されたが、一旦京阪神急行電鉄に合併した後に京阪電気鉄道が分離・再独立した際には京阪神急行電鉄側に残留することとなり、これが現在の阪急京都線・阪急千里線・阪急嵐山線となっている。新京阪鉄道 - Wikipedia

 

 さて、上述のとおり岡崎明治21年(1888)陸奥宗光に従って渡米してミシガン州アナーバー(Ann Arbor)にあるミシガン大学で学ぶのですが、この時、意外な人物と交流することになります。それが岡崎と同じく和歌山県出身の「知の巨人」こと南方熊楠(みなかた くまぐす)です。
 熊楠についてはこのブログでも度々エピソードを紹介していますので詳しくは述べませんが、アメリカに留学していた熊楠は、ちょうど岡崎と同時期にミシガン州立農学校を退校してアナーバーに居を移していたのでした。その当時の二人の状況について、講談社刊の「南方熊楠を知る事典松居竜五、月川和雄、中瀬喜陽、桐本東太編 講談社現代新書 1993)」の「岡崎邦輔」の項では次のように描かれています。

 岡崎邦輔(旧姓長坂)和歌山県出身で、明治~昭和期の政党政治家である。陸奥宗光の子分かつ分身として出発し、星亨の懐刀原敬の片腕として活躍し、立憲政友会の領袖として、衆議院議員当選十回、勅選貴族院議員の略歴をもつ。今日あまりその名が知られていないのは、表舞台に立つことを避け(大臣は、農林大臣に一度なっただけである)、もっぱら党務に専念したからであろう。そのため謀士策士と呼ばれる一方、私欲のない高潔の士とも評された。もとより和歌山県選出議員であるから、その点で熊楠との関わりはある。しかし二人がもっとも緊密に交際したのは、アメリカのアンナーバー時代 - それも喧嘩相手としてであった。
 岡崎邦輔嘉永6(1853)年3月15日(ただし衆議院議員提出の履歴書によると翌嘉永7年同月同日)紀州藩長坂角弥の次男として生まれた。長坂家は当時家禄四百石、西町奉行勘定奉行をつとめるほどの名家であった。邦輔の母陸奥宗光の母の妹で、邦輔は十歳も年長の従兄を終生尊敬した。維新後、明治6年には陸奥を頼って上京し、陸奥邸の食客となり、いくつかの役所に出仕したが、明治11年には郷里和歌山に帰り、警察関係の職務に就いた。13年には和歌山警察署長になったが、博徒との付き合いが原因となって、翌年11月免職となった。熊楠はアンナーバー時代、邦輔攻撃の武器としてこの「経歴」をさかんに使っている。
 明治21年陸奥が駐米全権公使として渡米したとき邦輔随行した。陸奥は秘書として使うことも考えたようであるが、当時36歳の邦輔は英語の読み書きも会話もできなかったので、日本人留学生の最も多かったアンナーバーのミシガン大学に留学することになった。邦輔には没後まもなく刊行された二つの伝記(小池龍吉『晩香岡崎邦輔』と平野嶺夫『岡崎邦輔伝』)があるが、この時期に関してはあまり詳細ではない。ただ陸奥邦輔の「才機」を相当高く買っていて、新しく開かれる議会に送り込む考えを持っていたこと、ミシガン大学の学資も陸奥が出し、川田甕江(筆者注:かわだ おうこう 東京帝国大学教授・貴族院議員などを歴任)の娘婿の杉山令吉(熊楠と同船同室で渡米、当時ミシガン大学に留学)に世話を依頼する手紙を書いていることなどは、史料的に明らかにされている。ただ、まず小学校初年級に入り、ABCから勉強をはじめたというから、本当に大学に入学したのかどうかも定かではない。
 昭和60年自民党和歌山県支部刊行の『岡崎邦輔関係文書・解説と小伝』(伊藤隆・酒田正敏共著)が、「前記伝記にはミシガン大学卒業とあるが、正規の大学課程ではなく、なんらかの特別コースでもあったのであろう」と述べ、さらに陸奥の意図について、「当時の日本人が最も多く留学していたアンナーバーに邦輔を送って人材を物色していたのであろうか。あるいは今後の政治的秘書役を訓練することに主眼があったのだろうか」と論じているのは、ほぼ首肯できるところである。-いずれにせよ、こうして熊楠邦輔との接点が生じたのである。
 アンナーバーにおける熊楠と邦輔との対立と確執については『珍事評論』の項を参照されたい※6邦輔の側に立っていえば、ミシガン大学エンジェル学長から日本人留学生の酒と借金の問題を提起されたとき、解決困難な借金の問題をはぐらかすために、あっさり禁酒決議で迎合するというのは、おそらく邦輔の知恵だろう。政治家見習としての小手調べの気持ちもあったろうし、留学生間に威信を確立する下心もあったろう。策としては当を得たものともいえるし、成功の可能性も小さくなかった。 - 熊楠という奇妙な人物さえいなければ。
(以下略)
南方熊楠・青春遍歴の周辺 ―『南方熊楠を知る事典』から ―

※6 ミシガン大学の学長から「日本人留学生は借金と大酒で道徳地に堕ちる状態にあるから、対策を講ぜよ」との提案があったことを受け、岡崎が議長を務めた留学生大会において「禁酒決議」が提案された。しかしながら、熊楠を含む全員が一度は賛成票を投じたものの、根強い反対があったことから決議は行われなかった。後に、熊楠は大学当局の意向を汲んで熊楠らの禁酒反対派を圧迫しようとした岡崎らを強く批判し、自らの主張を展開するために個人新聞「珍事評論」を発行した

 

 アメリカから帰国した岡崎は、前述のとおり陸奥宗光議員辞職(農商務大臣には引き続き在職していた)を受けて補欠選挙に立候補して衆議院議員に当選します。その後の政治家としての経歴については、小学館日本大百科全書(ニッポニカ)」の「岡崎邦輔」の項から一部引用しておきます。

 陸奥の政治活動を支援するため1891年和歌山から代議士に出馬、紀州組をつくった。
 1897年自由党に入党、ついで憲政党結成に参加したが、星亨(ほし とおる)とともに隈板(わいはん)内閣(筆者注:明治31年(1898)大隈重信首相,板垣退助内務大臣によって構成された内閣)の分裂を策し、分裂後の憲政党第二次山県有朋(やまがた ありとも)内閣と提携させるため尽力。
 1900年(明治33)立憲政友会の創立に参加、第四次伊藤博文(ひろぶみ)内閣では逓信(ていしん)大臣の下で官房長を務めた。
 1901年の死後は古河合名会社の理事に専念、足尾鉱山の鉱毒問題処理などにあたった。
 1908年ふたたび代議士となり、第一次護憲運動では政友会を代表して活躍、一時尾崎行雄らと政友倶楽部(くらぶ)をつくったが、やがて政友会に復帰、大正時代を通じてその幹部として総裁原敬(はら たかし)高橋是清(これきよ)を助け、党内の取りまとめ役を務めた。
 1924年(大正13)護憲三派(筆者注:立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の結成に尽力、翌年の普通選挙成立にも寄与した。同年加藤高明内閣農林大臣に就任したが、三派内閣の瓦解(がかい)でまもなく辞任。
 1928年(昭和3)普選法実施を機に政界引退を宣言、同年貴族院議員に勅選された。
 政界の裏面での活躍に才能を発揮したため策士と目された。
岡崎邦輔とは - コトバンク

 

 上記引用文では岡崎を「策士」と評していますが、この一例として、海野大地氏が「政友会院外団の成立過程 政党組織における院外団の再定位(「史学雑誌 130巻6号」公益財団法人史学会 2021)」において「院外団(いんがいだん 議院外の政党活動に従事した非議員からなる集団)」の組織化に岡崎が果たした役割について次のように記していることが参考になると思われます。

 すなわち院外団の意義は、自由党時代より継承した強固な組織維持志向にあった。党の中央集権化を目指す党幹部とくに原敬は、陸奥宗光のもとで親交を深めた岡崎邦輔を介し、党人派(硬派)の取り込み、その利用をはかった(110)政友会で主導的立場をとりえた要因は、この硬派の利用にあったと推察する。


(110) 1903年12月22日、岡崎は「党の手足となって働くべしとの決意ある数名を招き会食する事」をに打診した結果として、永江純一ら党人派の代議士・院外者「十名斗」を集め一席を設けた。そのメンバーには、永江岡崎が前日に会した「秋岡[義一] 村野[常右衛門] 菅原[伝]」らが含まれたと思われる(『原敬日記』第二巻、福村出版、1965年、1903年12月22日条、永江純一「当用日記」『永江文書』C3-10、同21日、22日条)。また日露開戦後の1904年10月、岡崎に対し「[党幹事の]人選となれば随分困難に候得共、党派本位之硬骨にて他之籠絡を受けぬ人物ならば別段之働なくとも宜しと存候」と書き送っている(「1904年10月22日付岡崎邦輔宛原敬書簡」、伊藤隆・酒田正敏『岡崎邦輔関係文書』自由民主党和歌山県支部連合会、1985年、147~48頁)
政友会院外団の成立過程

 


 岡崎はまた実業家としての顔も持っており、特に「京阪電気鉄道株式会社」の創業に深く関わった人物として知られています。平成24年大阪市旭区役所が発行した「旭の今昔 旭区地域史(旭区の今昔を知る会編)」には「京阪電車史話」という項が設けられており、京阪電鉄創業前後の状況が紹介されていますが、これによれば岡崎経営者というよりはむしろ投資家としてこの事業に関わっていたことが伺えます。

京阪電車史話
1.開業まで

 

京阪電車の設立計画が東京・大阪で起きる
 明治34年(1901)、東京と大阪でほぼ同時に京阪電車の会社設立計画が起こった。地元大阪側では松本重太郎※7ら関西財界の大物で、関西経済の発展と旧京街道沿道の住民の利便を意識したものであった。
※7 関西財界の重鎮とされる人物。第百三十銀行(後に安田銀行に吸収合併される)の設立を皮切りに次々と近代的企業の創業・設立に関わり、「西の松本、東の渋沢」と呼ばれた。彼が設立に関与した企業には、大阪紡績(後の東洋紡)、南海鉄道(後の南海電気鉄道)、大阪毎日新聞(後の毎日新聞)、大阪麦酒(後のアサヒビール)などがある。松本重太郎 略歴

 一方、東京側は政界の黒幕策士と評される岡崎邦輔ら投機を目的とした人々であった。しかしその意図するものは異なっても両者はすぐ手を結んだ。「畿内電気鉄道株式会社(仮称)」設立の認可申請は早速、政府に提出された。
 しかし政府は難色を示した。それは明治10年以来、京都~大阪間の鉄道事業を独占してきた官鉄(筆者注:官設鉄道 政府が開設し自ら運営する国営鉄道)にライバル参入は許しがたきものであった。
 申請はただちに却下された。だが設立発起人達は諦めなかった。計画は何度も手直しされ、5年間に申請→却下が10回以上も繰り返されたという。

 

開業の立て役者 岡崎邦輔
 この行き詰まり状況の打開に実力を発揮したのが東京側の岡崎であった。政界に顔の利く彼は得意の駆け引きで働きかけ、原敬内相に直談判、明治39年(1906)8月、ついに許可を勝ち取った。彼の政治的策略がなければ、京阪電車の誕生はもっと遅れていたであろう。
(中略)
 一方、線路、駅舎、車庫、変電所の建設工事も進められたが、用地買収は沿線がほとんど田畑地であるだけに大部分は順調に進んだが、買収を拒否したり、不当な額を要求するなど難航する場合も当然起こった。
 しかし、ここでも岡崎は地元有力者を動かし、説得工作に乗り出し、持ち前の策士ぶりを発揮した。
 工事が始まり工事資材が続々と現場に届くと、沿線の住民の関心も高まり、期待感が次第に大きくなっていった。また、それまで冷めた目で見ていた関西経済界も京阪電鉄の動向に注目するようになった。岡崎(第三代社長)は本社に出社するよりも北浜の取引所に通い、京阪電鉄株の相場に夢中になっていた。
 彼の期待通り株価は次第に上昇、62円に上がった時、所有株5万株全部をあっさり売却してしまった。これによって60万円の利益を手にした彼は大正14年(1925)、社長を辞めて東京へ帰ってしまった。
大阪市旭区:「旭区地域史」を発行しました (…>まちを楽しむ>旭区の歴史)

 

 京阪電鉄は、明治43年(1910)に最初の路線である大阪・天満橋駅~京都・五条駅(現・清水五条駅が開業。宇治線開通三条駅への延伸京津電気軌道(軌道部門)琵琶湖鉄道汽船(大津電車軌道部門)との合併などの戦略を通じて路線の拡大を図っていきました。
 併せて電車を運行するために大量の電力を確保したことから、これを活用した電力供給事業にも取り組みます。最初は森小路駅(現在の千林駅に相当)~香里駅(現・香里園駅間という限られたエリアでしたが、後に摂津電気を買収して淀川右岸でも電力供給事業を開始し、大正10年(1921)には和歌山水力電気を、大正15年(1926)には日高川水力電気を、それぞれ吸収合併したことにより、一時期は和歌山県の電力供給の約75%を京阪電鉄が供給していたと言われています。以前「鵬雲洞」の項で和歌山市海南市を結んでいた「チンチン電車(和歌山電気軌道)」のことを紹介しましたが、この電車事業の経営母体が和歌山水力電気であったことから、上記の吸収合併によりこの電車もまた京阪電鉄の傘下に入っていたことになります。

oishikogennofumotokara.hatenablog.com

 

 また、この時期、京阪電鉄は大阪と和歌山を結ぶ「阪和電気鉄道(現在のJR西日本 阪和線」の建設にも深く関わっています。これについてWikipediaの「阪和電気鉄道」の項には次のような記述があります。

京阪電気鉄道の阪和間参入
 京阪電気鉄道は大正 - 昭和初期にかけ、岡崎邦輔(第3代)太田光(第4代)と2人の社長の下で、有力政党・立憲政友会との関係をバックに大幅な拡張政策を採り、近畿一円に一大電力コンツェルンを形成した。その一環として和歌山進出を目論み、1922年には和歌山県内の有力電力会社であった和歌山水力電気を買収して自社の和歌山支店とした。そしてこの延長線上で、従来南海鉄道南海本線のみが通じていた大阪 - 和歌山間でこれに平行する新しい高速電気鉄道の建設計画に資本参加したのである。
阪和電気鉄道 - Wikipedia

 

 北山敏和氏が運営するWebサイト「北山敏和の鉄道いまむかし」というサイトには鉄道の歴史を中心とする各種史料が多数掲載されていますが、その中に岡崎の跡を継いで京阪電鉄4代目社長となった太田光(おおた みつひろ)の自伝太田光熈著「電鉄生活三十年」自伝 1938年刊行)の抜粋があり、阪和電鉄の創設に関するエピソードも紹介されています。非常に興味深い内容ですので、その一部を引用します。

 紀州は改めていうまでもなく、五畿内に接続する古国で、上代以来の古き歴史を有し、水産、材木その他の物産が頗る豊富であるに拘わらず、その交通は頗る不便で僅かに大阪商船の定期航路がある外は、陸上の交通機関として何等見るべきものがなかった。
(中略)
 従って和歌山県民は多年紀勢両国を繋ぐ鉄道開通を希望しており、同県選出の代議士で中央政界の有力者であった岡崎那輔氏も、この問題の為めに奮起し、種々手を廻して政府方面に運動し、寡っては鉄道院総裁であった後藤新平(当時は男爵)一行を態々紀州まで引張って来て、南紀一帯を人力車で観察させたこともあった。
 こうした努力が酬いられて、氏を首班とする政友会内閣当時元田鉄相の下で、三重、和歌山二県に跨る紀勢東西両線が鉄道敷設法中の予定線に加えられたのであった。
 よって政府に於て斯の如く紀勢両線の建設に着手することになった以上、大阪方面との連絡を執る必要上南海鉄道を買収するの議が起ったので、鉄道省に於ては既に、省議を決し、当時の石丸副総裁は南海当事者とも打合せの上、監督局長佐竹三吾氏をしてその調査に当らせた。
(中略)
 ところがここに端なくもこの事を洩れ聞いた和歌山方面の株主の間に、猛烈な反対運動が起った
 この反対運動は日一日激しくなって、遂に南海当事者も鎮圧することが出来ないのみか、その意見を容れて買収談を中止せねばならないことになった。
(中略)
 上に述べた如き事情で政府の南海鉄道買収沙汰止みになったが、然し紀勢両線が既に決定して建設工事に着手する以上、大阪と和歌山間を繋ぐ一線が是非とも必要であることはいうまでもないことである。
 また和歌山方面でも熱心にこれを希望して、岡崎邦輔氏を始め本庄一氏等の有力者が計画を樹て、大阪方面の実業家としては谷口房蔵喜多又蔵氏等がこれに応じて、政府に向って新線認可の運動を開始した。
 自分も従来の行掛りもあり京阪重役としての同僚村井貞之肋氏と共に発起人の中に加ったが、もともとこの新線は南紀方面の国鉄と連絡するということが主眼であるから、最初から政府の意に従って政府の方針通りの路線にした方が許可を受ける上にも好都合であると考えたので、内々鉄道省の指示を受けて政府の計画と同様の案に依って出願した。
 幸いに監督局長であった井出繁三郎氏等の努力に依ってこの新線は幾許もなく認可されたが、これが現在の阪和電鉄で大正15年4月創立の運びとなった。
太田光熈の京阪電車創業史

 

 阪和電鉄は、後に紀勢西線(当初は和歌山市紀伊田辺間、後に紀勢中線と接続して新宮駅紀伊木本駅(現・熊野市駅)まで延伸)に乗り入れることにより、大阪とこれらの地域との間で直通列車が運行されることになります。その後、南海鉄道への吸収合併(この時期は「南海山手線」と呼ばれた)、戦時買収による国有化国有鉄道阪和線日本国有鉄道設立国鉄阪和線を経て、現在は西日本旅客鉄道JR西日本阪和線となり、現在もなお大阪と和歌山県内各地とを結ぶ基幹路線として重要な役割を果たしていることは皆さんご承知のとおりです。

 

 現在では京阪電鉄といえば大阪~京都~滋賀を拠点とする鉄道事業者(ホテル・百貨店・遊園地・不動産など多角的な事業を含む)という印象が強いのですが、明治後期~昭和初期にかけての一時期は、和歌山県でも非常に重要な役割を担っていた事業者であったと言えましょう。後に世界大恐慌の余波を受けた昭和恐慌第二次世界大戦などによって和歌山県内の事業は他社に譲渡されたり、国有化されたりして京阪電鉄からは切り離されることとなるものの、こうした事業に強い影響力を及ぼした岡崎邦輔と彼が率いた京阪電鉄の業績はもっと多くの人に知られるべきであろうと考えます。

 

 余談となりますが、上記の太田光氏の自伝には、人から聞いた話として、原敬星亨逓信大臣の後任として初入閣した際のエピソードが次のように記されています。これも、岡崎が「策士」と呼ばれることになった出来事の一つだったのでしょう。

 それからこれは余談であるが、最近こんな話を或る人から聞いた。
 それは第4次伊藤博文内閣当時星亨氏は逓信大臣であったが、例の東京市疑獄事件※8に関係し、世間の氏に対する非難攻撃が烈しくなったので、流石の伊藤首相も持て余し、結局逓信大臣を罷めさせることにしたが、相手は何といっても剛腹一世を鳴らした氏であるから、誰も氏に向って引導を渡す人がなかった。
 そこで伊藤首相は、この難役を当時氏の下に官房長であった(筆者注:岡崎邦輔のこと)に授けたのであったが、は即座にこれを承諾すると共に、一つの条件を持ち出した。
 それは星には辞職をさせるが、その後任には星の指名する人物を挙げられたいということであった。
 実は伊藤首相の方では既に後任者も決っていたのでこれには頗る当惑したが、そんなことで話が壊れると一層事が面倒となるので、の申出を渋々乍ら承諾したのであった。
 この結果として原敬氏が星氏の後任とし、逓信大臣に抜擢されたので、後年政友会総裁として飛ぶ鳥を落した氏も、その最初に大臣の印綬を受けるまでにはのこうした隠れたる努力が潜んでいるのである。
 兎に角にもは現在各政党を通じて唯一の長老政治家であると共に、その人格といい教養といい、一種特別の存在であったといってよい。
太田光熈の京阪電車創業史

※8 明治33年(1900)、東京市議会において汚物処理業者の決定に関する贈収賄事件や、量水器・水道用鉛管購入に関する便宜供与などが問題となり、大規模な疑獄事件に発展した。このとき星亨は逓信相・衆院議員であるとともに東京市議会議員でもあり、この事件に「星派」と呼ばれる議員らが多数関与していたことから、一部のマスコミが連日にわたり糾弾記事を掲載し、星亨への攻撃を続けていた。

 

 ちなみに、和歌山市和歌浦中にある「純喫茶リエール」は、岡崎邦輔の別荘であった建物を古民家カフェとして改装したものとして良く知られています。
純喫茶リエール|和歌山市和歌浦にある古民家喫茶店

 

 また、「安倍元首相の外交・安全保障分野におけるブレーンの一人」と言われた外交評論家の故・岡崎久彦(おかざき ひさひこ 1930 - 2014)岡崎邦輔の孫にあたる人物です。邦輔の従兄弟である陸奥宗光に関する著書もあり、和歌山県が発行する総合情報誌「和-nagomi- 2008 Vol.5」には陸奥宗光岡崎邦輔をテーマにした仁坂吉伸和歌山県知事との対談が掲載されています。
【知事対談】明治を支えた歴史を語る。−紀州人のDNA−