生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

紀州藩の海防政策と勝海舟(和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、江戸時代末期に幕府代表として江戸城無血開城を決断し、明治維新後は新政府の要職を歴任したことで知られる勝海舟(かつ かいしゅう)の和歌山での足跡を紹介します。

勝海舟寓居地の碑  Google マップ

 和歌山市舟大工町にある「ファミリーショップ クイノセ」というリサイクルショップの入口脇に勝海舟寓居地(かつ かいしゅう ぐうきょち)」と記された石碑が建立されています。この碑の側面には次のような文章が刻まれており、これは文久3年(1863)に勝海舟がこの地に滞在していたことを記念して建立されたものであることがわかります。

文久三年 軍艦奉行 安房 紀州藩海岸防衛工事監督のため幕府より和歌山に派遣せられし時 此処に寓居す 時に門下 坂本龍馬 も亦来りて事に従ふ
分かち書きは筆者による

 この石碑について、地元のコミュニティ紙「ニュース和歌山」の「和歌山謎解き代行社」というコーナーに「舟大工町勝海舟の石碑?」というタイトルで次のような記事が掲載されています。これによれば、この碑は昭和15年(1940)に現在地から数十m西側にある市堀川近くへ建立されたもののようで、戦災で打ち捨てられていたところを発見され、現在地に移転して大切に保存されているとのことです。

舟大工町勝海舟の石碑?
 各所に様々な偉人の石碑が建っていますが、どういったゆかりがあるかご存知ですか? 今回は和歌山市のK・Yさんから届いた「舟大工町勝海舟の石碑があるのはなぜ?」を調べます。
 江戸生まれのは、幕末から明治にかけて名をはせた一人です。1860年、咸臨丸の艦長として太平洋を横断し、その後、海軍創設に尽力しました。
 早速、足を運ぶと、和歌山市駅近くの質店敷地にありました。「勝海舟寓居地」と書かれています。寓居とは「仮住まい」の意味。ここへ身を寄せていた時期があるのでしょう。でも、何のために?

 

海防視察で滞在した地
 「和歌山市舟大工町勝海舟の石碑があるのはなぜ?」。まず、紀州のつながりについて、の写真を展示している市立博物館佐藤顕学芸員に聞きました。幕末、開国を迫る外国に対し、天皇のいる京都を守るため、幕府は大阪湾の海防体制強化を指示。そこでは1863年、紀淡海峡に面する加太友ヶ島に配備した台場(砲台)の確認に度々、訪れました。「このうち、4月2日~13日、橋丁の商家、福島屋へ滞在したと、勝の日記に残っています
 石碑は1940年10月、橋丁に建てられ、現在は数十メートル東、舟大工町くいのせ質舗敷地にあります。店主の杭ノ瀬雅文さんは「戦後、土地を購入した祖父が、戦火で道の横に捨て置かれた碑を見つけ、この場所へ移設しました」と教えてくれました。福島屋の敷地はとても広く、市堀川沿いの道路に面した橋丁から、質店が建つ隣町の舟大工町まであったそうです。
 こうして、場所は移りましたが、市民の善意で、同じ福島屋があった敷地の一画で大切に保存されてきました。碑の存在は、土地の歴史を受け継ぐ印。未来へ残したいですね。
ニュース和歌山/2022年10月29日更新)

舟大工町に勝海舟の石碑? | ニュース和歌山

 

 冒頭でも記したように海舟徳川幕府及び明治新政府において要職を歴任したほか、上記引用文のとおり咸臨丸の艦長として太平洋を横断したエピソードでもよく知られています。国立国会図書館国際子ども図書館というWebサイトには「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」というコーナーがあり、ここに海舟の経歴が簡単にまとめられていますので、これを引用します。

勝海舟(かつ かいしゅう)
   1823年3月12日~1899年1月19日
   (文政6年1月30日~明治32年1月19日)

貧乏な暮らし
 江戸本所墨田区両国)で旗本の子として生まれます。父は旗本でも役職がなかったので、貧乏な生活を送ります。少年時代には剣術に打ち込み、寝る間も惜しんで稽古をしました。
 結婚してからも貧乏な生活が続きます。
 正月に親戚にもらった餅を持って帰る途中、両国橋で風呂敷が破れてしまいます。暗い夜道を、餅を探すものの、大人になっても自立できていない惨めさを感じて、結局、拾った餅を川に投げ込んでしまいます。

 

咸臨丸(かんりんまる)アメリカへ
 1850年、27歳で蘭学を開いたは、ペリー来航を目の当たりにして、身分を問わない有用な人材の登用や軍艦の建造などを書いた「海防意見書」を幕府に提出しました。
 それが幕府の目に留まり、31歳で目付海防掛に取り立てられます。 翌年には、長崎の海軍伝習所の生徒として勉強を始めます。
 1860年、37歳のときに、初の太平洋横断となる咸臨丸の艦長として、サンフランシスコに向かいます。

 

坂本竜馬入門
 帰国後は軍艦奉行などを務めるとともに、坂本竜馬などを門下生に迎え、神戸海軍操練所の建設を進めます。
 坂本に入門して、世界の情勢などを教わり、その知識の広さに驚き、家族にのことを「日本第一の人物」と手紙で紹介しています。

 

西郷との信頼関係
 1868年(45歳のとき)戊辰戦争の際には、軍事総裁として旧幕府を代表し、新政府軍のリーダー西郷隆盛と相談して江戸城無血開城を決めます。
 維新後も明治政府の要職に就き、元老院議官枢密顧問官を歴任します。
 西郷への信頼は厚く、西南戦争西郷が亡くなった後、西郷の名誉回復に努めました。そのかいあって、西郷の名誉は回復され、上野公園の銅像設置に至るのです。

 は「外交の極意は誠心誠意にある」をモットーにしていました。
 外交でごまかしは通用しない、真心で相手にぶつかるべきである、という姿勢です。

勝 海舟(かつ かいしゅう) | 人物編 | 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典

 

 上記引用文にもあるように、嘉永6年(1853)に浦賀(現在の神奈川県横須賀市沖に現れたペリー率いる4隻の艦隊は江戸幕府を大混乱の渦に巻き込みました。ペリーは、浦賀奉行アメリカ大統領フィルモアの親書を手交し開国を要求しましたが、幕府側は1年間の猶予を求めたため、ペリーは1年後の再訪を予告して一旦は退去したのです。※1
※1 ペリーは予告どおり翌年の嘉永7年/安政元年(1854)1月に再び来航し、結果的に幕府は開国を承諾して日米和親条約を締結することとなる。

 このとき老中筆頭の座にあった阿部正弘は、この危機を乗り切るためには幕府の抜本的な改革が必要であると考え、手始めにアメリカ大統領親書を日本語に翻訳して広く一般に周知する※2とともに、これに対する意見を身分の別なく募集したのです。このことについて、歴史作家の童門冬二氏は農業協同組合新聞のWebサイトで次のように記しており、結果として阿部の取り組みは成功に至りませんでしたが、その過程で勝海舟(当時の名前は勝麟太郎が見出されることとなりました。
※2 原文、幕府による翻訳文及び現代語訳はガウス氏の個人ブログ「ガウスの歴史を巡るブログ」で紹介されている。ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

国難を機に連合政権を構想 阿部正弘
    【童門 冬二(歴史作家)】
◆ペリーに対する阿部の対応
(略)
 そして何よりも阿部が、
その前提として、この国難を日本国民全部に周知しよう
と考えたのが、ペリーが持って来たフィルモア大統領の国書だった。阿部はこれを日本語に訳させた。そして譜代・外様・直参・陪臣の別なく、全武士に配った。さらに、一般にもこれを撒いて、
意見を述べてほしい
と告知した。今でいえば、
情報公開と国政への国民の参加を求めた
ということである。

◆惜しかった阿部の急死
 しかしその反応は鈍かった。特に二百五十年の泰平に慣れた大名たちはそれどころではなかった。泰平ではあったが、足元の領地で農民が長年の負担に耐えかねて一揆を盛んに起していたからである。したがって阿部への返書はほとんどが投げやりだった。身に染みたものは少なかった。大名は譜代・外様を問わず、
返答を延ばして、時間稼ぎをすべきだ。そのうちにアメリカが諦めるだろう
といういい加減なものばかりだった。中でわずかに、幕臣勝麟太郎あたりが、真剣に国防論や人材登用を具申して来た。勝はこの意見書によって海防掛に登用される
真っ向から阿部のやり方に反対する者もいた。江戸城溜間詰めの譜代大名たちである。先頭に立っていたのが彦根藩井伊直弼だった。
(以下略)

国難を機に連合政権を構想 阿部正弘|小説 決断の時―歴史に学ぶ―|コラム|JAcom 農業協同組合新聞

 

 このとき海舟(麟太郎)が提出したとされるものが、いわゆる「海防意見書」と呼ばれる書面※3です。その内容について、松浦玲氏は「弘化・嘉永期の勝海舟 : 自筆文書・自筆記録の信憑性(「桃山学院大学人文科学研究 25巻」桃山学院大学総合研究所 1989)」で次のように解説しています。
※3 和田勤氏の「ペリー来航後における幕臣勝海舟の上書をめぐって(「東洋大学大学院紀要 57巻」東洋大学大学院 2021)」によれば、「海防意見書」と呼ばれる文書は次のとおり3種類あるとされ、老中阿部正弘に提出されたものはここで「二上」と呼称されているものと考えられる。「三種類の上書の一通は、嘉永六年七月に徳川斉昭宛に提出されており、この上書を第一上書と呼称する。もう一通は第一上書と内容がほぼ同種の上書であり、「存寄申上候書付」の名称で存在する。残りの一通は第一上書の提出後、幕閣からの要請に応じ、海舟は同月の嘉永六年七月に再度上書を提出した。この上書を第二上書と呼称する。東洋大学学術情報リポジトリ

 来航直後の海舟の建白書は二段構えになっている。「愚衷奉申上候書付」と始る比較的短いものと、あれは当面の急務のみを申上げたので、それに対して「猶又愚存有之候哉、可申上旨被仰達」があったので考えていることを書きだしたという二倍半ほどの長文のものとである。どちらも自筆本は見当たらず複数の写本が流布し、日付は共に七月で日を欠くのだが、前者に一本だけ六月二十九日とするものがある。前後関係からは前者が六月ということは有り得ないことではない。
 前者は正月の未定稿『蠏行私言※4』と殆ど同趣旨である。幕府が諸藩に依頼して固めていた折角の房総警備体制だけれども、ペリーの艦隊を目前にして軍事力のレベルの違いで役に立たないことが立証されてしまったと、強い言葉で指摘し、江戸湾を守るための十字射台場(筆者注:進入する敵艦船に対して正面と側面の2方向から砲撃を行うことができる立地を有する砲台)を新設しなければならないと提案する。そのためには、銃砲の水準や兵卒の調練法が藩ごとに違い担当者ごとに違ういまの体制を制度的に克服することが先決で、人を選んで兵制を改革しなければならないのである。
 当方も軍艦を持つ必要があるという問題が提起されているところが、半年前の『蠏行私言』とは異なっている。海から攻められるのを防禦するには軍艦は不可欠である。ただ急に軍艦を用意しても動かせはしないので、軍制改革と砲台を先行させ、改革の結果として軍艦も運用できるというのが順序として妥当だとの判断である。
 後から提出した長文のものは箇条書になっている。第一は人材抜擢と自由討論アイデア尊重、これは『蠏行私言』でも、前の上書でも強調されていた。次に軍艦の順位が繰り上がって第二に来ている。『蠏行私言』では欠落し、前の上書では、すぐには無理だからと留保されていた問題だが、究極的には軍艦を造らなくては海防を果せないのである。そこで、この問題を表に出し、そのための莫大な費用は外国貿易で賄えという。外国との関係で必要になった費用だから、国内に求めるのは基本的には無理で万民に苛酷な負担をかけることになるのを避けられない。だから交易の利潤を充てるしかないというのである。
(中略)
 海防の費用を国内に求めては苛斂誅求になるとは面白い発想で、この後の海舟の根幹となる思想として明治期まで維持される。交易の相手としては清国、ロシアの辺境即ちシベリア、朝鮮などが取敢えず挙げられているが、こちらから船を出して商売に行くことと海軍・軍艦の航海訓練とが重ね合わされており、これも海舟の中で維持され、坂本龍馬海援隊に受継がれる思想である。
 箇条書の三番目は江戸湾の砲台で、これは前に述べてあるからと簡単にすまされており、今回の力点が二番目の軍艦と交易にあることに、改めて気付かされる。続いて四番目に旗本の兵制改革と訓練の学校で、これは講武所や軍艦操練所、更に文久の軍制改正として実現されるものである。最後に五番目として軍艦以外の武器類について、火薬のための人工硝石製造などがあるが、下級幕臣に仕事と収入を与えるという観点が出ているのが注目される。
 軍艦購入費を交易でという主張まではともかく、軍艦の必要性は幕府にも理解できた。この年の九月に長崎奉行は出島のオランダ商館長を相手に軍艦に関する問答を繰返し、そのあげく幕府は、オランダに対して軍艦を注文した。これが曲折の末、翌々安政二年からの長崎海軍伝習に結実し、海舟に関わってくる※5。軍艦、海軍がポイントなのである。
桃山学院大学学術機関リポジトリ
※4 ペリー来航前にあたる嘉永6年正月に海舟が書いたものとみられる原稿の呼称
※5 このとき幕府がオランダに発注した蒸気船(スクリュー式)が「咸臨丸(ヤーパ ン)」及び「朝陽丸エド」であった。また、これに先立って1855年安政2年)にはオランダから江戸幕府へ「スームビング号(スンビン、スーンビンとも表記される)」という外輪式蒸気船が寄贈されており、これが「観光丸」と改名されて長崎海軍伝習所練習艦として用いられ、海舟らはこれにより操船方法などの伝習を受けた。
長崎海軍伝習所 - Wikipedia

※海防意見書の原文は個人サイト「大船庵へようこそ」に掲載されているので、こちらも参照されたい。 勝上書嘉永雑記

 

 この「海防意見書」が老中・阿部正弘の目にとまり、海舟異国応接掛手附蘭書翻訳御用(いこく おうせつがかり てつけ(付属) らんしょ ほんやく ごよう)という職に抜擢されて、海外事情の調査研究や翻訳・通訳の人材育成などに携わることとなりました。
 これ以後、海舟長崎海軍伝習所に入門し、咸臨丸の艦長(正式な職名は「軍艦操練所教授方頭取」であり、艦の最上位の役職者は軍艦奉行・木村喜毅であった)として太平洋を往復した後、蕃書調所頭取助講武所砲術師範役軍艦操練所頭取などの役職を経て文久2年(1862)には軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう なみ)※6に就任しました。
※6 軍艦奉行を補佐する役職の名称。元治元年(1864)には軍艦奉行へ昇格(一旦罷免されるが慶応2年(1866)に再任)した。

 

 海舟が和歌山を訪れたのはちょうどこの頃であったようです。この時期の紀州藩の状況について川本治森田泰充両氏は「考える「日本史」学習(「和歌山大学教育学部教育実践総合センター紀要 No.23」和歌山大学教育学部附属教育実践総合センター 2013)」において次のように記しています。

(2)黒船来航と紀州
(略)
 つまり、幕末の動乱は「外圧」、即ち黒船の来航によって本格的に開始されたのである。
(中略)
 しかし、朝廷をはじめ、紀州畿内の人々に黒船の脅威をまざまざと見せつけたのは、ペリーではなく、プチャーチンの率いるロシアのディアナ号であった。
 プチャーチンは、嘉永6年7月長崎へ来航したものの、幕府の対応に業を煮やし、翌年9月15日、口熊野市江崎(筆者注:いちえざき 現在の白浜町日置)沖に突如姿を現した。それは、大阪湾に侵入し、朝廷や幕府を威嚇し、交渉を促進しようと意図していたのである。
 紀州藩では、ペリー来航にともない安政元年(1854)正月に海防政策を策定していたが、ディアナ号が現れると、これをただちに実施した。およそ6000の藩士と4000の村人を加太・友ヶ島から下津の大﨑にかけて配備し、にわか作りの台場をめぐらし、また、紀ノ川と和歌川の河口を船や筏で閉鎖している。一方、黒船ディアナ号は嘲笑するかの如く、また付近を調査するように、複雑な動きをしつつ、9月17日昼頃大川と地の島の間を抜けて大坂湾へ侵入した。しかし、幕府は交渉に応じず、下田で交渉する旨を告げ、プチャーチンも了承し、10月4日加太浦へ碇泊し、下田奉行宛の通行証書を受け取ると、5日夕方頃下田へ向けて出向した。プチャーチンは下田で無事日露和親条約の締結にこぎ着けたが、その間安政の大地震による大津波で、ディアナ号が大破するなど、数奇な運命をたどることになる。
 以後、たびたびの紀州海防」の勅命や幕命が下される。また、文久3年(1863)4月には、幕府の軍艦奉行(筆者注:この時点では上述したように「海軍奉行並」である)勝海舟紀州藩の海防視察のために派遣されている。しかし、紀州藩が本格的に海防に取り組み始めたのは、ペリーが来航してからのことであり、この時に築造された台場は「位置所を失ひ居、其上置所多とて大クハ児戯ニ類」する状態であった。安政2年(1855)に、ようやく本格的な台場の築造にとりかかったが、他の台場は財政難で実現できず、海舟は日記に「此国も疲弊、国財不足皆これよりして行なわず」とも書かれている。
(以下略)

考える「日本史」学習 - 和歌山大学教育学部教育実践総合センター紀要 23 - 掲載雑誌・書名一覧 - 和歌山大学学術リポジトリ

 

 上記引用文にあるように嘉永7年/安政元年(1854)のロシア軍艦ディアナ号来訪紀州藩にとっての一大事件でした。この件の詳細については「和歌山県警察史 第1巻和歌山県警察本部 1983)」に「第一節 幕末維新期の動揺  1 異国船の来航と海防 ロシア軍艦の来訪」として一項が設けられているので、興味をお持ちの方はぜひこちらを参照ください。
和歌山県警察史 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
国立国会図書館デジタルコレクションの閲覧には無料の利用者登録が必要。以下同様。)

 

 上記「和歌山県警察」にはまたディアナ号来訪を教訓とした紀淡海峡の海防体制強化の取り組みについても記載されており、その一環として海舟が和歌山を訪れたことも記されています。

安政文久期の海防強化
 ロシア軍艦ディアナ号の大坂湾への進入事件は、同湾の入口に当たる紀淡海峡防衛の重要性紀州藩ばかりでなく、朝廷、幕府にも強く認識させるに至った。
 紀州藩では、この事件を契機に同艦が去った約一か月後の安政元年11月10日初めて友ヶ島奉行を置いた。すなわち、京都今出川の藩邸を友ヶ島に移して奉行の役宅とし、同奉行配下の同心100人を常駐させ、異国船の来航に備えて海上の監視と銃の射撃訓練に従事させた。同年12月28日、幕府は摂海防備の重要性からして、紀州藩に対して友ヶ島台場(砲台)の築造を命じ、藩では、翌安政2年5月鉄炮奉行佐々木浦右衛門台場の築造を命じた。さらに朝廷から紀淡海峡の防備体制について同年12月18日御下問があり、また、翌3年5月には同地の海防強化の命が紀州藩に下された。このため、藩では、友ヶ島以外の和歌浦出島・水軒・青岸・松江・田倉崎・加太城ヶ崎にも台場を構築することとした
 当時、幕府軍艦奉行の勝麟太郎(海舟)が、文久3年(1863)4月3日から同13日まで、友ヶ島の台場構築現場や、他の砲台設置予定地の検分のため和歌山を訪れた。「海舟日記」の同年4月6日の条に、「(昨)日加田(太)へ到り泊す、但し紀ノ川より鯨舟にて同所へ到る、かかり(係)の役々出張、砲台の位置は紀家の定むる所に因る、此国もまた費(疲)弊、国財不足、皆これよりして行われず(後略)」と書かれているように前記の台場構築計画は、友ヶ島の台場を除き、他はすべて藩の財政難によって実現できなかったのである。なお、友ヶ島の台場には、当時最新のオランダ式80ポンド砲が備えられた。

和歌山県警察史 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 上記引用文に登場する「海舟日記」には、海舟が和歌山を訪れた際のことが次のように記されています。これによれば和歌山を訪れた海舟伝法之別館紀州藩伝法御殿)という施設で久野丹波という人物らと友ケ島の海防施設について議論を交わしたほか、紀州藩14代藩主徳川茂承紀州徳川家は代々中納言の格式を得ていたため、しばしば「中納言」と呼称された)にも拝謁していたことがわかります。

二十七日(筆者注:三月)
御書付    勝 麟太郎
紀伊殿御領分海岸砲台之儀に付
其方へ御談被成度旨
被仰立之趣も有之候間
紀州へ罷越
久野丹波申談候様
可被致候

(中略)

四月四日
若山伝法之別館へ到る
久野海防掛数人出席
友ケ島警衛之事を議す
予云 海国之兵備必らず海軍にあるべし
区々として砲台を守るは我が意にあらず
然れども此島たるまた銃備欠くべからず
我が兼て建議せし草稿あり
これ其大意なり
今此意を説解せば
武臣 武を忘れ 専ら一家の経営を先ずるに過ぎず
故に万弊生ず
これを撓むるにあらざれば 一事も実践に至らざるべし
猶許多云々
且 明後日友ケ島に砲台之地勢を見んことを約す

五日
若山城へ到る
中納言殿へ拝謁

六日
跡日 加田(筆者注:加太)へ到り泊す
紀の川より鯨舟にて同所へ到る
掛りの役々出張
砲台之位置は紀家(筆者注:紀州藩の定むる処に因る
此国もまた費弊 国財不足
皆これよりして行われず
六日若山へ帰る
陸路を馬上 道程三里
若山の市前 紀の川あり 
舟渡

十四日
帰阪

出典:海舟日記抄 一 海舟日記抄 一 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参照:解難録・建言書類 (明治百年史叢書) 解難録・建言書類 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 大阪龍馬会osayan氏の個人ブログに掲載されている「大阪南部・和歌山市の史跡探訪 その5」という項にはこのときの海舟の行動について次のように記されており、文久3年4月3日付けの海舟日記に「福島屋平左衛門方旅宿」との記述があることがわかります。国立国会図書館デジタルコレクションでは海舟日記の当該部分が公開されていないため筆者は未確認ですが、冒頭の石碑にある「勝海舟福島屋に滞在した」という趣旨の碑文はこの記述を根拠としているものと思われます。

勝海舟寓居跡
   福島屋(清水平右衛門邸)跡  和歌山市舟大工町28

 

文久3年(1863)3月、4月の勝海舟の動向~
 軍艦奉行 勝海舟は、文久3年(1863)3月1日以降、大坂の北溜屋町(現在の大阪市中央区淡路町にある専稱寺を寓居先として定め、摂海(大阪湾)の海岸防衛に関し砲台の設置などをすすめるため、大坂を中心に仕事を行っていました。
 紀州藩家老 久野丹波は、同藩の浜口儀兵衛に指示し、勝海舟に砲台と海岸警備の検分を依頼しました。
(中略)
 3月30日紀州へ向かうため出立し、その日は岸和田で1泊しています。4月1日は泉州田川(現在の岬町多奈川谷川)へ1泊。4月2日は加太で1泊。4月3日に和歌山へ到着しています。
 和歌山では加太を行き来しながら4月13日まで滞在します。
 その間は、紀州藩第14代藩主徳川茂承(もちつぐ)への拝謁をはじめとして、藩の重役と海防、砲台、海軍の必要性などについて議論を交わしました。

 勝海舟は4月3日から13日まで紀州藩領内に滞在し、和歌山城下では福島屋という清水平右衛門の屋敷を寓居先として滞在しました。
 南海和歌山市駅から東南に行った所にある「ファミリーショップ・クイノセ」の前に石碑があります。和歌山歴史博物館の学芸員の方にお伺いすると、石碑の場所が福島屋跡にあたるのはどうも疑わしいとの事でした。
 現在は舟大工町に石碑が建っていますが、橋丁のあたりが正しいとの事です。
 この福島屋には、前述の南方熊楠※7の父南方弥兵衛が番頭を務めていたことがあり、熊楠は父から勝海舟が滞在していた話を聞いていたそうです。

 勝海舟日記に次のような記載があります。

 

文久三年四月三日
若山(和歌山)表へ着、片原町福島屋平左衛門方旅宿。田中庄蔵、諸事周旋。夜に入り、御用人・向笠三之助、書物方・津田楠左衛門来る。友ケ島防禦、砲台の事を云う。且、明日、伝法と唱う別館にて、重役・久野丹波岡野平太夫佐野出羽守出会い、海峡、防禦の策を問う趣を申す。
大阪南部・和歌山市の史跡探訪 その5: osayanのブログ
(上記内容は「「20071075.pdf」をダウンロード」としてリンクされている資料参照)

※7 和歌山市出身の博物学者、民俗学者。在野の研究者であったにもかかわらず、昭和天皇が田辺へ行幸された際に粘菌や海洋生物等に関して進講したエピソードがよく知られている。南方熊楠紹介 – 南方熊楠記念館

 

 上記引用文中に、紀州藩家老久野丹波浜口儀兵衛※8に指示して海舟に砲台と海岸警備の検分を依頼した旨の記述がありますが、これについてosayan氏のブログの別項によれば4月2日付けの海舟日記儀兵衛への言及があるようです。海舟儀兵衛はともに佐久間象山の門下で学んだことをきっかけに親交を深め、海舟咸臨丸で渡米する際には儀兵衛も同行するよう強く勧誘した※9と伝えられているほか、儀兵衛の没後に建立された頌徳碑(濱口梧陵碑)※10海舟が撰文を提供するなど生涯にわたって深い交流があったようですから、海舟の和歌山訪問にあたって儀兵衛が重要な役割を果たした可能性は非常に高いと言えるでしょう。
※8 「稲むらの火」のエピソードで知られる事業家・政治家。詳細は別項「稲むらの火 ~広川町天州」参照
※9 和歌山県議会 特集 和歌山県議会初代議長 濱口 梧陵
※10 濱口梧陵碑 | 百世の安堵 - 和歌山広川町の日本遺産

勝海舟宿泊の地加太
(中略)
 勝海舟日記に次のような記載があります

 

文久三年四月二日
紀州加田へ泊す。紀家の書物方高木儀右衛門、迎えとして途中に逢う。友ケ島奉行酒井伊織来る。
浜口義兵衛を若山(和歌山)へ遣わす。聞く。明後日、紀伊殿、此地の海浜、巡見の事ありと。
(以下略)

勝 海舟訪問の地 和歌山 2: osayanのブログ
(上記内容は「「kaisyuu_wakayama2.pdf」をダウンロード」としてリンクされている資料参照)

 

 上記引用文が記載されている資料には、海舟がこれ以前にも加太を訪れていた旨が次のとおり記載されています。

勝海舟は加太を何度も訪れていますが、淡嶋神社にも訪れています。
勝海舟日記に次のような記載があります。

 

文久二年正月七日(筆者注:文久三年の誤りと思われる。詳細は後述)
因州候、乗船、紀(州)の加田(港)に到る。友ケ島へ鯨船にて到り上陸、砲台一見。
夕刻、同船にて加田の朝陽船※11に帰る。これはかねて御船、此島近傍へ迎えとして来るべき約の処、延刻。
中途にて乗船の積りなりしに、海路表裏し、中途にて出逢わず、終に夜に入り暗黒如何とも為すべからず。
加田港に到り、五ッ時過ぎに上陸、淡島の社中に入り、飢えを凌ぐ。夜九ッ時、朝陽船、友ケ島を一周し、再び加田港前に帰る。直ちに乗船。
※11 咸臨丸の姉妹艦として建造された江戸幕府の軍艦・朝陽丸のこと。(※5参照) 朝陽丸 - Wikipedia

 上記引用文中の日付について、この資料では「文久2年(1862)正月」となっていますが、どうやらこれは「文久3年(1863)正月」が正しいようです。保谷氏が「古写真研究プロジェクト報告 和歌山県湯浅町町民歴史講座「菊池海荘と菊池(垣内)家史料」(「東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信 No.96」東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター 2022)」において報告しているように「風雲雑記※12という資料の中には次のような記述があり、これが上記の海舟日記の記述に該当するものと思われます。
※12 有田郡栖原村出身の豪商・菊池海荘(きくち かいそう)が記した風説留(ふうせつどめ 国内外の様々な情報を書き記したもので、自身の備忘録であるとともに、グループ内での情報共有のための資料としても用いられた)。 菊池海荘 - Wikipedia

文久三年(一八六三)正月七日、海防のため幕府老中紀淡海峡の巡見にやってきた。軍艦奉行勝海舟も同行し、海荘梧陵は召し出されて意見を述べている。加太浦に乗りつけた蒸気艦の上から海舟千葉重太郎が「手招き申され、直に参り候よう」声をかけるが、紀州藩の役人舟が邪魔になって近づけない、さらに「苦しからず候、右役人乗組みの小船をつたい参り候よう」にと命じられ、役人を尻目に蒸気艦へ乗り込んだという。このとき小笠原老中から「多年承り及び候海防事情に付き憂慮の段神妙のよし」と声を掛けられた様子を記している。海荘らは紀淡海峡の形勢につき意見を述べている。
東京大学学術機関リポジトリ

 

 海舟はまた、これより8年前の安政2年(1855)にも勘定奉行石河土佐守率いる海防巡検一行の一員として加太を訪れています。これについては和歌山市が発行した「和歌山市史 第二巻(近世)(1989)」に次のとおり記されており、このとき海舟紀州藩の海防学者・仁井田源一郎※13と意見を交わしたことが記録に残されているといいます。
※13 海士郡(あまぐん)代官で、ペリーの来航を受け嘉永6年(1853)9月に紀州藩へ「海防議」を提出し、砲台の建設など海防の重要性を訴えた。地誌「紀伊風土記」編纂の総裁を務めた仁井田好古(にいだ よしふる/こうこ)源一郎の父。

勝海舟の加太浦・友ヶ島検分
 幕府の御勘定奉行石河士佐守大目付久保右近将監らの一行が、大坂湾から伊勢湾の海岸を検分するため、安政2年(1855)1月23日に江戸を出発した。一行約150人が大坂から紀州に向かったのは2月21日で、晦日には大坂に戻っている。幕府は、前年の12月29日に、紀淡海峡は大坂を防衛するうえで重要な地点であるから、対岸の淡路島の由良浜とともに、台場の新設を命じている(『続徳川実記』第三巻)紀州藩は、この年5月25日、大砲家佐々木浦右衛門友ヶ島砲台築造を命じたが、彼も台場築造の専門的な知識をもっておらず、台場が竣工するのは文久3年(1863)のことであった。
 石河土佐守らによる海防巡見の一行が加太浦を訪れたのは、こうした事情によるもので、加太浦へは一行201人が入っている。彼らは、加太浦の柳屋善助網干屋吉三郎北川屋佐兵衛正木屋喜多右衛門久屋弥右衛門新屋清三郎小嶋屋太平次笹屋七兵衛イナ屋太次兵衛大坂屋平次郎利光平兵衛ふじ屋八郎兵衛魚屋彦太郎らの宿所に分宿した。
 一行のなかに勝麟太郎(のち海舟)がいて、仁井田源一郎と会っている。二人は多くを語りあう機会に恵まれなかったが、仁井田を「いかにも好人物、くせ者と存じ候(『勝海舟全集』第14集)と述べ、紀伊藩きっての海防学者の才能を見抜いていた。
 は「此度御見分之大略」を上申したが、それには嘉永6年(1853)に築造された加太浦海岸の台場を、「その位置を失い、多くは児戯に類して歎息に堪えず」と、厳しい評価をくだしている。それは、外国船が紀伊水道から大坂湾に侵入するのを防ぐのに、友ヶ島以外にないと考えるからで、それにしては余りにも貧弱な防備であることを心配したからであろう。彼は、大坂に対する加太浦を、江戸における浦賀に準ずると位置付け、さらに加太浦を軍艦の建造地の候補にも挙げ、もしこの上申が採用されたならば、浦賀奉行に準ずる「加太奉行」を設置すると主張している。明らかに、加太浦が、幕府の直轄領になることを意味した。それは海防問題のみでなく、平素の出入りする廻船の御改めを厳重にし、あわせて奸商密買の取締りも行ない、巡視船も数艘備えつける広大な計画であった。幕末期、海防問題とかかわって、加太浦は紀州の加太浦というよりも日本の加太浦としての重要性が認められつつあった
和歌山市史 第2巻 (近世) - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 この時期に築かれた台場で現在もその遺構をよくとどめているものとしては和歌山市雑賀崎にある「雑賀崎台場(通称:カゴバ台場)」がありますが、この遺跡周辺の環境保全に携わっている民間団体「トンガの鼻自然クラブ」のWebサイトには、幕末期の和歌山周辺の台場の状況を記した図が掲載されています。これによれば相当数の台場が築かれていたと思われますが、海舟の目から見ればいずれも「児戯に類」するような貧弱なものであったということなのでしょう。
Googleマップ 「トンガの鼻」

和歌山県史跡「雑賀崎台場」とその関連遺構 - tonganohana ページ!

 これ以後、海舟らが訴えたとおり大阪湾の入り口に位置する紀淡海峡の軍事上の重要性はますます高まることとなり、明治時代後半には本州側の友ヶ島・加太・深山地区と海峡の対岸にある淡路島の由良地区とを一体化して要塞とする「由良要塞」構想が具体化しました。

 

 結果的に日本本土が攻撃を受けた第二次世界大戦では航空機による爆撃が主体となったため由良要塞が本土防衛に活躍することはなく、終戦とともにこれらの軍事施設の多くが棄却されましたが、現在「ラピュタの島」として多くのファンが訪れる友ヶ島の砲台跡はこの「由良要塞」の一部が今も残存しているものなのです。

ja.wikipedia.org

 相当に強引な解釈をするとすれば、現在加太・友ヶ島が「ラピュタの島」として多くの観光客を魅きつける場所となったた背景には勝海舟の献策があったと考えることもできるわけで、和歌山にとっても勝海舟は重要な人物であったと考えることができるかもしれません。

 

 ところで、和歌山に滞在中であった海舟のもとを訪れた一人の人物がいます。それが冒頭で紹介した石碑の碑文にも登場している坂本龍馬なのですが、これについては項を改めて紹介することにします。