生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

最高級木炭「紀州備長炭」と備中屋長左衛門(田辺市・みなべ町・日高川町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、我が国における最高級の木炭として知られる「紀州備長炭(きしゅう びんちょうたん」を紹介します。店頭で焼鳥や鰻を焼いている店では必ずといってよいほど「紀州備長炭使用」という看板を見かけますが、この「備長炭」という名称は田辺の炭問屋・備中屋長左衛門(びっちゅうや ちょうざえもん)の名に由来するものであると伝えられています。

 田辺市秋津川の県道田辺龍神線沿いに「道の駅 紀州備長炭記念公園」があります。ここは平成9年(1997)にオープンした施設で、この地(秋津川地区)が発祥とされている紀州備長炭の製炭技術や文化の伝承及び秋津川地域の振興を目的として田辺市により開設されたものです。
紀州備長炭記念公園


 この施設について、日本造園タイムス社が発行する「月刊 公園緑地建設産業 1997年10月号」に田辺市農林水産部農政課が「紀州備長炭記念公園の概要」という記事を投稿しており、開設当時の同公園の様子が伺えますので、その一部を以下に引用します。

三世紀にわたって焼き継がれてきた備長炭の全貌
紀州備長炭記念公園の概要
   田辺市 農林水産部 農政課
(略)
特産品の一つである備長炭は、木炭の中でも最高級品として広く知られ、田辺市秋津川地区がその発祥の地としても有名である。
 備長炭ウバメガシ※1を原料とした非常に硬く火持ちのよい木炭であり、江戸時代の元禄年間に、田辺の炭問屋「備中屋長左衛門」が「備長炭」と名付けたことがその名の始まりであるといわれている。
 田辺市の秋津川地区はその主産地として、多くの人々が製炭に従事していたが、木炭への需要が減少したことによって、昭和40年代までに製炭をやめる人が多くなった。
 また、その独特の製炭技術は熟練を要することから後継者育成は非常に難しい。そのため現在、後継者不足、製炭者の高齢化などが問題となっている。
 そういった問題にも関わらず、備長炭はウナギの蒲焼、焼魚、せんべい、焼肉など主に焼物料理の燃料として現在も安定した需要に支えられ、また、消臭用、炊飯用、浄水用などの燃料以外の新用途商品としての利用などで、注目を集めている。さらに、アウトドアブームなどで木炭を消費する機会も増え、木炭がさまざまな角度から見直されるようになった。
 こういったことから、「紀州備長炭記念公園」は備長炭をテーマとして、備長炭製炭技術の保持、備長炭の紹介、地域活動の振興等を目的として平成6年度から事業に取りかかってきた。平成10年度まで、事業費6億7千万円の予定で整備を進めている。
 公園面積は約11ha(敷地面積は約2ha)。主な施設は次の通り。

 

製炭施設
 田辺市木炭生産者組合の協力を得て、備長窯4基、黒炭窯1基を作り、木炭生産者4人に実際の製炭作業に従事してもらっている。ここで製炭技術の伝承と後継者育成を進めている。

 

紀州備長炭発見館
 紀州備長炭を中心とした木炭の歴史、文化、科学等の資料を分野別で展示し、実物を通して木炭の全体像を見学できる。木炭の総合展示は、全国においても世界においても初めての試みである。

 

木炭浄化装置
 公園内に木炭をろ材とした水処理施設(三次槽)を作り、水の浄化を行なっている。これは木炭が多孔性でアルカリ性の物質であることから、バクテリアが吸着しやすく、汚水処理に適していることをモデル施設として紹介している。

 

物産店ほか
 木炭や梅干し、みかんなど地場産品を即売している。この運営は、地元秋津川地区で組織した秋津川振興会が担当し、加工場や会議室を併設している。

(以下略)

公園緑地建設産業 12(10)(280) - 国立国会図書館デジタルコレクション
(以下、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵書籍の閲覧には原則として利用者登録が必要なので注意されたい)

※1 ウバメガシ(姥目樫 ウマメガシ(馬目樫)とも 地元では「バベ」と呼ばれることもある)は、カシ類の一種で、分類学的にはブナ科コナラ属の常緑広葉樹。通常は5~6m程度の低木となり、その材は緻密で極めて硬く、水に入れると沈むとされる。ウバメガシ - Wikipedia

 

 少し古い話になりますが、平成19年(2007)にブランド総合研究所が発表した「産品ブランド調査2007」によると、紀州備長炭非食品分野で消費者の購入意欲度が全国第4位(1位 輪島塗、2位 琉球ガラス、3位 薩摩切子)に位置づけられており、極めて高い評価を受けていることがわかります。また、個別の評価項目の中では「環境」及び「品質」の両分野において1位の評価を受けていることも特筆すべき事柄であると言えるでしょう。
ブランド総合研究所、産品ブランドランキング結果発表


 このように全国に高品質で知られる紀州備長炭ですが、その特徴について上記「紀州備長炭記念公園」のWebサイトでは次のように解説されています。

紀州備長炭の定義
 備長炭は「白炭※2のうちウバメガシ(カシ類を含む)を炭化したもの」を言い、品質区分としては、「固定炭素90%以上、精錬度0~2度の木炭」とされています。(全国燃料協会)
 精錬度とは木炭の炭化の度合いを表すもので、木炭表面の電気抵抗を計測します。0~9度までの10段階で評価され、数字が低いほど堅く焼かれています。

(中略)

 

美味しさの秘密
 紀州備長炭の評価は、なんといってもその火力にあります。赤外線量が高く、表面を均一に素早く焼き上げるため、内部の旨味を逃さずに閉じ込めます。ジューシーな食感もそこから生まれます。
 遠赤外線が食材の中まで熱を通すので、おいしさを失わずに短時間で焼くことができます。それに炭の香りも美味しさの一つ。ぜひ紀州備長炭が生み出す味をご体感ください。

 

その硬さは鋼鉄ほど
 焼き上げられた備長炭は硬く締まっているため、その小口面(断面)はまるで磨かれたかのような光沢があります。また、鋼鉄ほどの硬度があり、ハンマーの代わりに釘を打つこともできます。そんな備長炭は当然鋸では切れず、鉈などで叩き割るようにして切断します。
 叩いてみると、キーンとクリアな音色が。その特性を生かして、風鈴や炭琴(たんきん)と呼ばれる楽器まで作られています。備長炭記念公園では風鈴づくりを楽しんでいただけます。

(以下略)
紀州備長炭記念公園 

※2 一般的な木炭は、炭窯の中でナラ、クヌギ、カシなどの木材を400~700℃前後で焼き上げ、その後に空気を絶って消火したもの。これを「黒炭(こくたん)」といい、着火が容易で早く大きな熱量を得られるため、家庭用の燃料等に広く用いられる。これに対して「白炭(はくたん)」は、ウバメガシなどのカシ類を800℃以上紀州備長炭では1,300℃といわれる)の高温で焼き上げた後、頃合いを見て窯の外に出して消し粉(灰と土を混ぜて水分を含ませたもの)をかぶせて一気に消火するという方法を用いる。炭質が硬く着火しにくいが、着火すれば炭質が均一で安定した火力を長時間にわたって得られることから、焼き鳥や鰻の蒲焼きなどに最適とされる。木炭の種類:林野庁

 

 このような高いブランド力を維持するため、和歌山県内の製炭者及び卸売事業者らの協力により平成18年(2006)に「紀州備長炭」が地域団体商標※3として登録されました。平成19年(2007)に農林水産省大臣官房企画評価課知的財産戦略チームが作成した「農林水産物・地域食品における地域ブランド化の先進的取組事例集 平成19年11月」には、当時の取り組みについて次のように紹介されています。
※3 従来、商標法では「『地名』プラス『商品やサービスの普通名称』で構成された名称(例:「和歌山」という地名+「ラーメン」という一般名詞)は一者の独占的な使用が許されるべきものではない」との理由から商標登録を行うことができなかったが、平成17年(2005)の商標法一部改正により一定の条件を満たせば商標登録が可能となった。この規定により登録された商標を「地域団体商標」と呼ぶ。

取組主体
和歌山県木炭協同組合

 

取組の概要
 従来、生産者や卸売業者などからなる「和歌山県木炭協会」が出荷規格等を定め、品質の管理を行っていた。地域団体商標制度が創設されたことを契機に、2006年3月、新たに法人組織である「和歌山県木炭協同組合」を設立し、一層のブランド化に向けた取組を強化した。

 

ブランド化のきっかけ
 平安時代から炭の産地として有名であり、製炭技術が確立したとされる江戸元禄時代以降は、紀州から九州や四国にその技術が伝えられた。このような歴史的背景の下、戦後も引き続き国内白炭の主要な生産地として国内での支持を維持、向上するため、1955年頃、和歌山県木炭協会(現協同組合の前身)が独自の選別規格を策定した。

 

品質及び名称の管理
和歌山県木炭協会が選別規格を策定。
 1955年頃、和歌山県木炭協会が独自の選別規格を策定。選別検査合格品に対して、協会名で「合格証票」を発行するとともに、「ほんまもん紀州備長炭」シールと、備長炭専用の出荷ダンボールを交付している。材料・太さ・長さにより27種類の選別規格がある。

 

●県が紀州備長炭指導製炭士の認定を実施し、技術を保持・伝承。
 炭焼きの技術を伝承していくため、県が1992年に指導製炭士の認定制度(17人認定)を開始。若手の育成に取り組んでいる。

 

●「和歌山県木炭協同組合」としての「紀州備長炭」の定義を策定
 2006年、「和歌山県木炭協同組合」の設立に当たって、「紀州備長炭」の定義を、以下の2つの要件のいずれか満たすものとする定款を策定。
① 2003年に、社団法人全国燃料協会日本木炭新用途協議会及び全国木炭協会が「木炭の規格」の1つとして共同で策定した、次の「備長炭」の規格を満たすものであること。
○白炭のうち、ウバメガシ(カシ類を含む)を炭化したものであること
○固定炭素が90%以上、精錬度(炭化の度合いのこと。値が低いほど炭素の純度が高い。)が0~2度(炭化温度が800~900度以上。)であること
県無形民俗文化財の指定を受けている製炭技術によって製造されたものであって、ウバメガシを主体とするカシ類の天然木を原料として県内で製炭される白炭であること。
(以下略)

農林水産物・地域食品における地域ブランド化の先進的取組事例集
(一般社団法人全国農業改良普及支援協会のWebサイトに掲載されているPDFファィルへのリンク)

 

 こうした紀州備長炭の歴史について、ニュース和歌山が昭和58年(1983)に発行した「和歌山年鑑 1984年版」の「特集編 紀州備長炭」の項では次のように解説されています。

弘法大師が技術伝授
 ウナギや牛肉の専門店で「備長炭使用」を看板にしているところが目につく。「紀州備長炭(きしゅうびんちょうたんで焼き上げた味は最高といわれる。古くから食通に愛用された備長炭だが、その歴史を知る人は意外に少ない。日高から東牟婁にかけて紀南地方一帯に広がる紀州備長炭の歩んできた道を、発祥の地と伝えられる田辺市秋津川地区に焦点をあててたどった。
 備長炭は紀南地方に多いウバメガシカシを焼きあげた白炭である。たたくと、キーンと澄んだ金属音を発する。ダイヤモンドに次ぐほどの純粋な炭素の塊で、鋼鉄並みの強さだ。永い伝統と技術が生みだした芸術品である。備長炭の歴史は古い。平安朝時代に弘法大師が、中国の技術を紀州に伝えたとされている。古くは熊野(ゆや)炭、田辺炭と呼ばれ、江戸や大阪ではミカンや材木をしのぐ紀州特産物として知られていた。江戸時代の元禄年間に技術の改良が進み、いまの備長炭が完成した。このころ田辺の炭問屋だった備中屋長左衛門が、屋号をとって「備長炭」と銘打ち、江戸に出荷したのが名前の起こり。田辺市元町の浄恩寺には、備中屋長左衛門の墓※4が残っている。
 元禄12年(1699)備長炭に目をつけた紀州藩が炭の専売制をしいた。元農協職員で、備長炭の普及と研究に力をいれてきた木下伊吉さん田辺市秋津川)は「領内に卸仕入方を設けて製炭を管理、藩有林で焼く者から貸地料をとったり製炭資金を貸し付けて現物を納めさせていたようだ」と話す。
(以下略)
和歌山年鑑 1984年版 - 国立国会図書館デジタルコレクション

※4 浄恩寺Webサイトに紹介がある 浄土宗 教主山 浄恩寺

 

 上記引用文では備長炭の発祥伝承として弘法大師空海が中国の技術を紀州に伝えたとの説を紹介していますが、このことについてみなべ川森林組合みなべ町のWebサイトにある「紀州備長炭豆知識」の項では次のように紹介しています。

紀州備長炭の歴史
白炭技術を日本に伝えた功労者
中国から最初に日本へ白炭技術を伝来させた人物をご存じですか。
その方は皆さんよくご存じ、平安時代の僧「弘法大師空海」様だったのです。
弘法大師は西暦804年、遣唐使の一行と共に中国に渡り長安に2年間留学されました。
その間、当時としては最先端技術や知識を学び取られる中で、白炭製炭技術も習得されました。
日本に帰られた弘法大師は仏教の布教と同時に、白炭技術やその他新しい技術や知識を行く先々でひろめられました。
和歌山ではやはり「高野山」を拠点に白炭技術がひろめられ、瞬く間に紀伊半島全域にその技術がひろまったと言われています。
日本の炭焼き窯は、一般に熱の周りが早く、効率よく、焼き上がった炭の品質にばらつきが少ないのが特徴とされていますが、その秘密として窯の奥にあけられている排煙口の位置にあるといわれています。
今でも炭焼き師たちの間では、この排煙口のことを「弘法の穴」などと呼んでいますが、これもかつて弘法大師がかつて指導されたなごりが続いているのでしょう。

 

熊野炭と田辺炭
紀伊半島全域に広がった白炭技術は、地元製炭者の努力と研究の積み重ねと、「うばめがし」などの白炭に適した原木が豊富に繁茂してあったことから、全国でも優秀な木炭生産地となっていきました。
紀伊風土記(筆者注:江戸時代後期に編纂された地誌)」には、炭は現在の伊都、有田、日高、牟婁各郡の里山から産出され、中でも田辺炭熊野炭は特に名高かったと記されています。
熊野炭は、紀南地方の山村で焼かれた炭であり、また田辺炭は、現在の田辺市周辺南部川村も含む)の山村で焼かれ、それらのほとんどは江戸に運ばれていました。
紀州で改良された白炭技術は、後に全国各生産地の模範とされるまでになり、ことに元禄年間(17世紀末)ごろの備長炭の発明は、日本の製炭業界に大きな刺激を与えることとなりました。
備長炭豆知識

 

 このように和歌山では古くから白炭の製造が行われていたと思われますが、その名声が一段と高まるのはやはり「備長炭」と呼ばれるようになってからであるとされます。しかしながら、冒頭で記したように備長炭の名が炭問屋・備中屋長左衛門に由来することは間違いないものの、はたして備中屋長左衛門がどのような人物で、具体的に何をしたのか、ということについては実はよくわかっていないようです。
 昭和5年(1930)に発行された「和歌山縣田邊町誌(田邊町誌編纂委員会編)」には次のような記述があり、ここでは備中屋長左衛門(本文中では備後屋長右衛門とされる)備長炭の発明者であるとしてその際のエピソードも紹介されています。

▽熊野木炭 即ち白炭は紀南地方の特産で、就中(なかんづく)わが田辺を中心とする付近地方に生産が多い。その製造の沿革は未だ詳(つまびら)かでないが、元禄中 紀州藩の殖産興業貧民救済政策として奨励保護せられ、この業起れりと言われている。しかし最初は黒炭であったらしい。
 白炭、通称備長炭というのは、黒炭とは別個の製法によるもので、田辺上長町(今の栄町)の木炭商 備後屋長右衛門(深見氏)が、ある年 新年の餅を製する時、竈(かまど)中の余燼(よじん 燃え残り)を出し灰を以て掩(おお)っておいたところ、図らず良炭を得たのに思いつき いわゆる備長竈を工夫して白炭を製造し、これを備長炭として江戸に送り、備長炭の名を都下に博し、ついに従来の黒炭は駆逐されて、白炭即ち熊野木炭たるに至ったという。
 長右衛門は何年頃の人か知り得ぬが、口碑によれば力士千田川※5を保護したというから、もしそれが真とすれば文化文政頃(1804~1830)の人である。
 日高郡津川村 大津屋市右衛門の創製であるとの説もあるが、これは信じ難い。
 何にしても旧藩時代から紀州重要物産の一だった。
※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字、かなづかい等を適宜現代のものにあらためた。文中黄字は筆者による注釈。

和歌山県田辺町誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(閲覧可能なものは昭和46年(1971)に田屋孫書店から発行された復刻版である)

※5 江戸時代に大坂相撲江戸相撲で活躍した力士・千田川吉藏(せんだがわ きちぞう)のこと。怪力の持ち主であったとの伝承があり、これについては別稿「怪力獺田 ~田辺市稲成町~ 」で詳述している。

 

 また、同じく「和歌山縣田邊町誌」の「二 人物誌」「名士、事業家、商賈※6」の項には「深見長左衛門」の名で次のような解説が記されており、上記引用文にも登場する力士・千田川が江戸での備長炭の宣伝に大きな役割を果たしたことが詳しく紹介されています。
※6 「商人」あるいは「商売」の意。読みは「しょうこ/しょうか」。

深見長左衛門
(中略)
 備長炭の名は備中屋長左衛門の略称たる備長より来れるは明白なるが、備中屋は代々長左衛門の名を世襲備長炭を案出したるは其何代なるか未だ明かならず、浄恩寺の銅仏は安政3年9月に開眼供養をなせると同寺の過去帳に見ゆ、これは備長炭の開祖なる長左衛門が没後に記念のため江戸商人より其郷里の檀寺に送り来れるものとすべく、浄恩寺過去帳に記載の誉賢巍光英道居士俗名深見長左衛門、文化元年九月死とあるが然らざるかと推せらるゝもなお研究考証を要す。
 口碑に備長は力士千田川を保護し世話したること甚だ多きが、千田川江戸大相撲の幕内三役の班に入るや江東大相撲の際一日備長を力士の大蒲団の上に乗せ千田川傍に侍して見物せしむ、当時天下の力士として声誉を擅にしたる千田川が田舎の一老爺に謹侍せるを見て忽ち備長の名江戸市中に騒ぐ、之れにより備長炭は宣伝せられ需用さるゝに至ったと。千田川は文政10年に38歳を以て没せり、されば備長炭の発見年代は兎に角、江戸に宣伝せられたるは文化末より文政の間なるが如し、それらを併せ考ふべきか。
※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字、かなづかい等を適宜現代のものにあらためた。

 

 また、前述の「熊野木炭」の項では、「これは信じ難い」としながらも日高郡の大津屋市右衛門が備長炭を創製したという説が紹介されていますが、これと類似の説として紀州北牟婁郡の炭焼きであった大津市右衛門が備長炭を改良したとも言われているようです。一般社団法人全国燃料協会のWebサイトでは紀州備長炭について岸本定吉※7の書籍を踏まえて次のように解説しています。
※7 木炭研究の第一人者として知られる人物で、日本木炭新用途開発協議会会長、日本炭焼きの会会長等を歴任した。平成15年(2003)没。岸本定吉先生を偲ぶ|大日本山林会

Q05 「備長炭」とはどんな炭ですか?
A 「紀州備長炭」は和歌山県だけでなく、現在の和歌山県全域と三重県南部が産地の「ウバメガシ」・「樫」を原料にした白炭を指します。
 「備長炭」の名は、通説では元禄年間(1688~1704年)備中屋長左衛門が発明したのが始まりとされていますが、万治年間(1658~60年)紀州北牟婁郡の炭焼きであった大津市右衛門が改良したという説もあり、定かではありません。
 備中屋長左衛門紀州田辺藩城下町の炭問屋で、享保15年(1730年)から嘉永7年1854年 年中に改元して安政元年)までの124年間に4人存在し、この炭問屋の取扱商品を備長炭と名付けたと言われ、現在の和歌山県田辺市の東、旧秋津川村付近の製炭者により改良されたものと考えられています。(『炭』岸本定吉 著 創森社刊)

FAQ | 一般社団法人全国燃料協会

 

 実際には田辺周辺の山間部では古くから白炭の製造が行われていたようで、備中屋長左衛門が白炭の製法を発明したという説は後年の創作である可能性が高いと思われますが、それ以前から同地で生産されていた高品質な木炭に「備長炭」という商標を付けて高価格で江戸に出荷し、現在でいう「ブランド化」に成功した偉大な実業家であったことは間違いないのでしょう。昭和27年(1952)に田辺市が発行した「田辺市」の「第九編 人物誌」の項には次のように記されています。

備中屋長左衛門
 鈴木融※8は「備長炭の開祖、家号を備後屋といゝ田辺上長町に住む。ある時竈中の余燼を掻き出し 灰を以て掩い置きたるに図らず良炭を得たのでその法によって製炭をこゝろみ、良炭を得たので備長炭と称し、江戸に売りひろめ、備長炭の名を都下に博し遂に備長は堅炭の異名となつた、後ち江戸の人々鋼仏を田辺の浄恩寺に寄せて記念とした」と記しているが、家号の備後屋というは備中屋を正しいとする。 
 それから備長炭というのは馬目材を以て製造した白炭のことであるが、白炭が始めて製造されたのはいつごろかハッキリせぬが、徳川中期以後のことでなく時代はまだまだ上るはずであるから、寛政、享和頃の人である。長佐衛門としては馬目材を原料としたこと、製造法に幾らかの改善を加え良質の白炭を得、これに自家の商号「備長」を冠して備長炭の名を以て江戸方面に販路を拡張し名声を博したのであつて「備長炭即ち白炭の開祖」という意味ではないと言わねばならぬ
 さて備中屋は代々長左衛門の名を世襲したが備長炭を売りひろめたのは何代であるか明白でなく、その生涯のことも知られていない。浄恩寺の鋼造の霊仏は安政3年9月開眼供養をしたことが同寺過去帳に見える。これは備長炭をはじめた長左衛門の没後に江戸の木炭商人から長左衛門の郷里の檀寺に送り来ったものであるが、露仏の背面に刻されている諦善誠心居士、若くは浄恩寺過去帳賢誉巍光英道居士、俗名深見長左衛門 文化元年十月死とあるのがそれに該当するのでないかと推せられるが、農林省嘱託鳥羽正雄※9浄恩寺過去帳宝誉随心惠三居士、享保15年8月11日歿、俗名長左衛門とあるが、備長の当人なるべしというた。(昭和五、五歴史地理五五ノ六)
 この二人のうちであるか、但しは他にその人があるか、それらはなお今後の研究にまたねばならぬ。

田辺市誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

※8 「田辺要史(編:鈴木融 1923)」の序文によれば旧田辺藩士で、田辺小学校、同中学校、同高等女学校で40年以上にわたって教員を努めたとされる。田辺要史 - 国立国会図書館デジタルコレクション 著書に「田辺要史」のほか「田辺学者名流小伝」「淡水遺芳」など。 和歌山縣田邊町誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

※9 林業史学者、城郭研究家。Wikipediaによれば当時の役職は「農林省林制沿革調査嘱託」であったと思われる。鳥羽正雄 - Wikipedia

 

 ちなみに、上記「田辺市」から約10年後に出版された樋口清之※10著「木炭の文化史(東出版 1962)」では備中屋長左衛門について次のように解説されており、ここでは備長炭の発明者は秋津川の無名の炭焼集団であり、その時期は江戸時代初期であろうと記されています。
※10 登呂遺跡(静岡県)の発掘などにかかわった考古学者。國學院大學名誉教授。歴史作家としても知られ、吉川英治の小説「宮本武蔵」には時代考証の面で協力した。日本の歴史に関する著書多数。樋口清之 - Wikipedia

 この備中屋長左衛門とはどんな人物であるか、ということについては、結局今日まで明らかになっていない。筆者は近年現地を調査し、現地の郷土史家についてもただしたが、備中屋長左衛門は、少なくとも享保15年以後、嘉永7年までの124年間に4人あること、そして長左衛門は田辺藩城下町(上長町、現在の田辺市下屋敷町)に代々居住する炭問屋であつて、決してビンチョウ製造者ではなく、取扱業者であること、また発明者は秋津川村(今は田辺市のおそらく無名の炭焼の一群であったらしいこと、発明の年代も元禄年間とは決定できず、当秋津川村付近の在来の窯にバベガシを主として使うようになって、ビンチョウになったのはおそらく江戸初期であるらしいこと、などが判明した。いま備中屋関係の史料は、田辺市西ノ谷の浄土宗浄恩寺に所在する過去帳、位牌、仏像、墓石以外には知ることができない。
木炭の文化史 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 こうして備長炭の販売で大成功を収めた備中屋長左衛門ですが、現在田辺市にはその係累に属する者はいないようです。鳥羽正雄(前記※9参照)氏はその著書「森林と文化(大日本出版社峯文荘 1943)」の中で次のように記し、その子孫は江戸に移ったものと思われるが現在は消息不明であるとしています。

備中屋長左衛門及びその子孫に関する遺物
(略)
著者は昭和5年その墓に詣で、寺にある過去帳、位牌、子孫寄進の仏像によって本篇に題した如く備中屋長左衛門であることを知った。
 墓は田辺市西ノ谷の浄恩寺という浄土宗の寺にある。このことを知ったのは田辺の林業多屋秀太郎氏の紹介によるもので、同氏の親戚玉置繁吉氏がその墓を世話して居られるのである。それは玉置氏の本家が数代前に備中屋と親戚であったからであるという。
(中略)
本堂前の阿弥陀には両肩背面に左の文字がほっている。
(右肩後)
嘉永七年
  甲寅七月
施主 
  江戸日本橋青物町
    加賀屋 正三郎
  当地上長町
    備中屋長左衛門

 

(中略)
即ち江戸で没した妙心大姉夫婦の法名が刻んでいる。 この夫婦は、夫は文化10年(1813)、妻は天保8年(1837)没しているから、この像は嘉永7年(1854)施主備中屋長左衛門が建立したとすると、この長左衛門深誉の子で、なお田辺に住していたことになる。過去帳長之助とあるのと同一人か否かは不明である。土地の人の話では、その後子孫は江戸へ出てしまって、田辺には居らず、明治初年までは寺へも時々音信があったが、爾後消息不明であるという。そこで著者は或は東京赤坂の浄土寺を調査したならば、子孫などもわかり、何か先祖の由緒その他の史料でも得られはしまいかと、帰京の翌日早速赤坂区一ツ木町の浄土寺を訪うた。所が同寺は一度火災にかかったことがあり、墓地は明治42年東京市荏原区戸越451に移転して不明であるが、同寺の過去帳に「深誉妙心信女、天保八年正月十六日、大阪屋長助母」とあることがわかった。即ちこれによって、天保頃は田辺では備中屋江戸では大阪屋と称したことがわかったのである。但し子孫は不明で今は無縁であるというのであった。
森林と文化 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 全国にその名を轟かせた備長炭ですが、その製法はやがて各地に伝わり、原料となるカシ類の入手が容易な日向(現在の宮崎県)土佐(現在の高知県に定着していくことになります。これについて、垂水亜紀(国立研究開発法人森林研究・整備機構 森林総合研究所四国支所 流域森林保全研究グループ長(当時))は「令和2年度 四国森林・林業研究発表要旨集(四国森林管理局)」において次のように報告しています。

備長炭生産の歴史と現況について


1.はじめに
我が国に備長炭という名称が広まったのは1688年(元禄元年)頃と言われています。その後1850年嘉永3年)には当時の大坂市場において「第一が紀州備長炭、第二が日向白炭、第三が土佐炭」(樋口1962)という位置づけが確立され、170年後の現在でも白炭生産ではこの3地域が主要産地であることは変わりません。
(中略)

2.産地の歴史的特徴

1)紀州
備長炭と呼ばれるようになったのは江戸時代ですが、すでに奈良時代には熊野木炭として和歌山県田辺一帯で堅炭※11として焼かれており、改良され、江戸で販売されるようになったことで全国にその名を知られるようになりました。
紀州備長炭の品質が高い評価を得られる理由について、燃料のウバメガシと窯の土の材質が挙げられています(岸本1984

 

2)日向
薩摩藩の移出する炭の主生産地と移出港が日向であったことから日向炭と呼ばれたようです。藩はウバメガシを紀州から取り寄せたり、技術者を派遣して学びに行かせた記録もありますが、ウバメガシが群生していないことなどから、ほかのカシを利用した備長炭となっています。

 

3)土佐
江戸時代より白炭の産地として大坂では名を馳せており、紀州の製炭技術を学んで品質が向上したようです。なお、「備長炭」の産地となったのは、植野蔵次氏が和歌山県から移住し、備長炭の製炭技術を伝えた明治末~大正以降です。紀州の備長窯とは異なる大窯が特徴で、天然林の大木が多い高知ならではの窯となっています。

令和2年度四国森林管理局森林・林業研究発表会の開催について:四国森林管理局

※11 カシ、ナラ、クリなどを原料とした火力の強い堅い木炭一般を指す。「白炭」と概ね同義と考えられる。

 

 古来白炭の生産量では他の追随を許さなかった紀州備長炭ですが、近年になって土佐備長炭が急激に生産量を増加させてきており、平成26年(2014)以降は高知県が生産量日本一の座に着くようになりました。
和歌山県の備長炭生産量 高知に抜かれ2位に - 日高新報


 この要因としては、上記記事にあるように紀州備長炭原木の確保に苦心しているのに対して近年になって生産量を増やしてきた土佐備長炭はまだ豊富な資源量を有していること、及び土佐備長炭はその製法故に生産規模の拡大が容易であったことが上げられます。
 上記垂水氏の報告にあるように、土佐備長炭紀州備長炭よりも大窯で焼くことが特徴とされていますが、これに加えて土佐では窯へ原木を投入する際に「横くべ(上部の穴から原木を窯に投げ入れて、原木を横に積み重ねていく)」という方法を取っており、「縦くべ(原木を人力で窯の内部に持って入り、奥から順に原木を縦に隙間なく並べていく)」という手法を取る紀州日向に比べて省力化が容易であることも特筆すべきでしょう。

参考
土佐の「横くべ」 

www.facebook.com

 

紀州の「縦くべ」 

画像は無印良品MUJIキャラバン 日本全国の良いくらしを探す旅」より

 

 このように製炭方法が分化した理由について、松岡勇介氏、三木敦朗氏は「土佐備長炭の生産拡大下における後発生産者の課題(「信州大学環境科学年報 39号」信州大学 2017)」において次のように記しています。

(略)
とくに、高知県産の白炭の生産量の増加は顕著で、政府統計(「特用林産基礎資料」)によれば2014年に1,225tを記録し、和歌山県産白炭の生産量をぬき全国一となった(51年ぶり)。
 一方で、木炭生産についての研究は、近年いちじるしく少ない。黒炭生産については鹿野(2008)が、白炭のうち紀州備長炭については篠原(2003)がある程度である。高知県の「土佐備長炭」については、宮川(1995 2006)、宮川谷田貝(2013)の生産発達史の研究がほぼ唯一のものであった。
 宮川によれば、「備長窯」による白炭製造技術は明治末期に高知県に伝播し、昭和恐慌期に低コスト大量生産が求められたことによって、高知県独自の技術体系へと発達した。すなわち、原木を窯の前方から縦向きに立ててくべる紀州から、横向きにくべる方式へと変化し、省力化を達成したのである。そのために窯口とは別に、ドーム型の窯の天井部に「バイ」とよばれる穴が設けられ、原木を上から投入する独自の窯形状となった。また、「ネタマキ」という窯天井の補強方法によって、窯の大型化を可能にした。この省力化・大型化によって、土佐備長炭大量生産・専業経営に適合的な生産体系となり、生産者が自ら原木を択伐していた紀州備長炭とは森林利用の面でも異なる産業形態となったのである。

環境科学年報 39号(2017)

 

 このような経緯から、現在の備長炭市場は「大量生産に向き、比較的リーズナブルな土佐備長炭」と「伝統的な製法を受け継ぎ、高品質高価格な紀州備長炭」とに二分されていると言って良い状況にあるのですが、紀州備長炭の側でも近年は新たな動きが始まっています。

 

 その一つが、資源を確保しつつ生産量を拡大していくための「択伐(たくばつ)」の普及、そしてもう一つが都市からの移住者の生業としての「炭焼き」の復権です。
 従来は備長炭の原木を伐る際には周囲に生えているウバメガシを全て一気に伐採する「皆伐(かいばつ)」という方法が主流でしたが、こうするとその地で次に伐採可能な原木が育つまで何十年もかかってしまうことから、株立ち(根本から複数の幹が出ている木)の場合には細い幹を何本か残して太い幹だけを選択的に伐採する「択伐」という手法が取り入れられるようになりました。これによって原木林の再生が促進されるので、資源の枯渇を防ぎつつ一定量の伐採を継続していくことが可能となりました。

www.maff.go.jp


 また、炭焼の仕事は体力的に厳しいものがあるため、高齢になると仕事を継続することができなくなってしまいます。地域によってはこれによって放棄されそうになった炭焼窯を新規就業者に貸与・譲渡する仕組みのあるところもあり、都市から山間部へ移住を希望する人たちがこれを受け継いで新たに製炭業に従事するケースが増えてきました。以下のリンク先記事は日高川町の事例ですが、ここでは2家族がほぼ同時に炭焼を始めた様子が紹介されています。

hidakagawa-iju.jp

 幸いにして厳格な品質管理が行われている紀州備長炭の市場における評価は依然として高く、新規就業者でも数年の経験があれば十分な収入を得られることから、近年はずいぶん製炭者の若返りが進んでいるようです。
 ぜひともこのブランドと伝統を次世代へと引き継いでいっていただきたいものです。

 


 ちなみに、前述のみなべ川森林組合では「びんちょうタン」というキャラクターをマスコットとして採用しています。

南部川村森林組合とびんちょうタン

 このキャラクターはデザイナー・漫画家の江草天仁(えくさ たかひと)氏がデザインしたもので、主人公「びんちょうタン」のほか「くぬぎタン」や「ちくタン」が登場する四コマ漫画びんちょうタン」が2003年から2008年までコミック誌に連載されました。この連載が人気を博したため、2006年にはTBS、MBS等でテレビアニメが放映されたほか、2007年にはプレイステーション向けのゲームになるなど、メディアミックス展開も行われました。
びんちょうタン - Wikipedia

 また、みなべ町ではテレビアニメ化を記念して「びんちょうタン』のふるさとを訪ねるバスツアー(主催:TBS)」も実施され、びんちょうタン役の声優・野中藍(のなか あい)さんが参加するなど地元では大きな盛り上がりを見せました。

「広報みなべ 平成18年(2006)4月号」 広報みなべ|バックナンバー【#1から#111】 | みなべ町


 一説には、この作品が現在も続く「萌え擬人化※12」の先駆けである※13とも言われており、後世に与えた影響は非常に大きいのですが、いわゆる「ゆるキャラブーム※14」の到来よりも少し前の時代であったために全国的に爆発的な人気を獲得するというところまでには至らなかったのがやや残念なところです。

※12 様々なモノや生物を擬人化した作品。近年では名刀をモチーフにした「刀剣乱舞」や競走馬をモチーフにした「ウマ娘 プリティーダービー」などが人気を博している。
※13 CS放送チャンネル「MONDO21(現在はMOND TV)」で放送された「日本オタク大賞2004」において「擬人化ブーム(びんちょうタン」が大賞を受賞しており、この頃から「擬人化」という言葉が定着したものと考えられる。日本オタク大賞 - Wikipedia
※14 「ゆるキャラ」という語が「新語・流行語大賞」を獲得したのは2008年、「ゆるキャラグランプリ」の初回は2010年の開催であった。ゆるキャラ - Wikipedia

 

 かつてみなべ町紀州備長炭振興館みなべ町清川)へ続く道路にはびんちょうタンを描いた案内看板が掲出されており、「聖地巡礼」としてここを訪れるファンも多かったのですが、googleマップによるとどうやらこの看板も現在は別のデザインのものに変更された模様です。(下記画像はgoogleマップによる2018年当時の画像) 

 まあ、もともとびんちょうタンは山の中の一軒家でひっそりと暮らしていた少女なのですから、一時のブームが去って静かな元の生活に戻ったと考えればそれはそれで幸せなことなのかもしれません。きっと彼女の日常はまだこの地で続いているのでしょう。