生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

牧野兵庫頭と由井正雪

(「紀州 民話の旅」番外編)
 前項「王丸谷の六地蔵」では、この地に伝わる六地蔵五輪塔紀州徳川家の家老・牧野兵庫頭(まきの ひょうごのかみ)ゆかりのものであることを紹介したが、紀州徳川家初代藩主徳川頼宜(よりのぶ)の時代に牧野兵庫頭が引き起こした事件は当時の紀州藩にとっては非常に重大な出来事であったようである。

 

 この事件について、旧美山村が編纂した「美山村史」では特別に一項を起こして詳述しているので、以下にこの内容を引用する。あわせて、後段ではこの事件と関係の深い「慶安事件(けいあんじけん 「由井正雪の乱」とも)」についても詳述する。

遍照寺(兵庫頭の子・千代丸が寄進したとされる双盤がある)

牧野兵庫頭事件をめぐって
一 美山に幽閉された人々
 近世では、戸数・人口とも最大で、高札場を持ち、美山の中心をなしていた(あたい)川村の枝郷(すもも)王丸谷(おまんだに)に、六地蔵と呼ばれる六つの地蔵石がわびしく並立している。これは、慶安年代に、この地に流刑・幽閉された牧野兵庫頭長虎(まきの ひょうごのかみ ながとら)の家族(夫人と子供たち)と関係者(特に夫人)の供養仏と伝承されている。

 

 王丸谷は三方山に囲まれ、西側に入口があるだけで幽閉地としては最適の場所であった。その山際に座敷牢があったようだが、その跡は不明で、あたりは畑地となっている(この節は『美山の歴史第二号』所載、中村弘明遍照寺"念仏鐘"の由来」、原一雄牧野一族幽閉夜話」を参考にしている)。
 愛川村の古刹・遍照寺には、牧野千代丸と李住辰右衛門孟包の銘がある双盤(そうばん 大型の伏鉦(ふせがね)、通称念仏鐘と言われている)が遺されており、今も不思議な良い音色を出している。
 美山村の歴史民俗資料館には、牧野氏の家紋入り(三ッ柏(がしわ))の食器や、牧野兄弟が所持したと思われる鈴が展示されている。いずれも李の人々が持ち伝えてきた牧野家ゆかりの品々である。

 

 慶安3年(1650)11月、紀州藩家老牧野兵庫頭は、次項で述べる事件によって追放、拘禁の処罰をうけ、家族の者たちも日高部の山間地に追放幽閉されたと三男(太郎 6,7歳)、四男(藤丸 3歳)、五男(千代丸 乳児)は愛川村のに、長男(新蔵)、二男(伝蔵)は三佐村の本川(ほんかわ)(中津村大字三佐)に幽閉された。三男太郎は三十木村井原家が預かって育てたともいわれる。

 

二 牧野兵庫頭一件
 牧野兵庫事件とはどういうことだったのだろう。
 『南紀徳川史 五』を参考にすると、牧野長虎越前の出、父は結城秀康に仕える三千石の武士であった。少年のころ友と争って斬り、逃れて新宮の社人のもとに身をよせていた。藩主頼宣が鷹狩りの折、社人の家に立ち寄って容色勝れたる彼を眼にとめ、召し出して仕えさせたという。
 才智勝れて怜悧であったので、頼宣の信望をうけて次々と出世し、18歳で大番頭、やがて年寄六千石の大身となって兵庫頭(守)を受領(ずりょう)した。
 前節では正保3年今高制の実施によって、藩士の禄高が大幅に削減されたことを述べたが、それより6年後の慶安3年(1650)10月ごろ、年寄格の兵庫が突然失踪した。堀部佐左衛門(五百石の御供番)という男の「軍場の論」が原因だと『南紀徳川史五』は述べている。佐左衛門が語る大坂の陣での手柄話を不快に思う兵庫が、根拠のない自慢話をする者は、「武辺の偽りを言う大盗人で、磔(はりつけ)にかけるべき」と、家老の三浦加納に話しかけるが、加納からは「武道のこと、片意地に論議するな」と反論される。藩主頼宣に直訴したが、取り上げられなかったので、不満に思って失踪したのだろうと論じている。

 

 藩庁では巧妙な探策で、兵庫の妻の生家である京都の公家屋敷(堀川殿)に潜伏していることをつきとめた。しかし、そのころ、幕府老中の松平伊豆守信綱から、内々の達しがあった。それは、兵庫から老中宛に「紀州藩主頼宣卿には陰謀のきざしがあるとの訴人が出ている旨」密書が来ており、それで出奔したようだが実否不詳なので、御心得のために連絡するということだった。
 頼宣は驚いて息子の光貞(みつさだ 後の二代藩主)に相談すると、召し捕えて切腹という意見だったが、助けておかないと後々の証人がなくなると考え、どのように言いすかしても、連れて帰るように指示した。こうして兵庫のいうがままに、出奔の原因ともなった佐左衛門に切腹を命じてその首を届け六千石から一万石に加増すると欺いて出迎えの捕手を遣わし、捕縛した。帰藩すると、兵庫堀川殿ひとしく洞の川という所へ押し込められたと述べている(南紀徳川史五)。洞の川は、日高の藤の川ではないかと思うが定かでない。

 

 『南紀徳川史 一』は、同年11月兵庫は、陰謀有るによって田辺に配されたと記す。それと同時に兵庫に加担した者たち(14人)が厳しく処罰された。3人が切腹で、その外は召し放ちであった。そして兵庫の家族6人とも、日高に永流刑に処せられたことは前述のとおりである。兵庫個人が出奔し直訴した事件であるのに、連座の多い厳しい処罰といわれている。『田辺市』は「その処分のきびしさ、族滅の方針に出ているのからみて、ナニか非常なことがあったらしい」と評している。ところで同書は、「長虎は慶安3年11月罪をえて捕えられ、翌4年新宮に送られ、承応元年5月田辺に移され同年10月10日病死」とし、慶安3年11月田辺領預かりにはふれていない。それは原史料である田辺組大庄屋の『万代記』の慶安3年に、牧野長虎が出ていないからであろう。同書では慶安4年「霜月(11月)牧野兵庫殿新宮へ御通(とおり)」とあり、翌承応元年「5月8日牧野兵庫殿田辺へ来(くる)」ついで「10月10日兵庫殿御死去、晦日(30日)法輪寺へ葬、戒名寂心、取扱ニ若山より」6名(御目付3名外)の役人が来ている。

 

 これが紀州藩の慶安事件(牧野兵庫事件)である。ところが、翌慶安4年7月、幕府転履を意図したと喧伝されて、処断された由井正雪らの有名な慶安事件が起こった。しかもその連判状に、頼宣の印形が利用されていたことから大騒動ともなった。かくて、「由井正雪一件で(領宣に)御疑かゝり、拠(よんどころ)なく御仕置仰付られた」のが牧野兵庫だと説く史書も出てくる(『南紀徳川史五』の「南陽語叢」)。正雪の慶安事件が起こる前年の11月に、牧野兵庫らは幽閉処分を受け、関係者も処罰されているのに、この事件が兵庫と関連づけられるのは、前年老中に「頼宣陰謀」の訴状を出していたからであろう。

 『和歌山県史 近世』は、老中への訴状を取り扱った幕閣の言動から、幕府内では、陰謀といっても、兵庫が同調できない藩主頼宣の政策のことで、紀州藩内の事件と認識していたと述べ、この時期の頼宣政治に反対した兵庫が、藩を出て幕府に直訴し、藩政の転換を謀ったのではないかとしている。家臣団への統制強化のためにとられた、与力の召し放ち、今高制による大幅な禄高削減など、家臣の権限縮少への不満が、この事件を引き起こしたとみたいと述べ、幕府の政策を批判し、浪人の救済を求めた正雪らの慶安事件と、同様の原因から発生したできごとだと結んでいる。それだけに連座処罰の多い事件となったのだろう。

 

三 牧野事件余話
 牧野兵庫守は前述のように、承応元年5月8日新宮から田辺に移り、10月10日同地で死亡した。彼が田辺に来ると、田辺領の与力衆が昼夜の番をし、和歌山からは御目付衆、的場源四郎ら3名が町屋に居て監視に当たったようである。死後葬られた田辺・法輪寺過去帳には「月霜院殿円空寂心大居士」とあり、病死といわれるが、「月霜院」の文字から死を賜うたのではないかと『田辺市』は述べている。
 『万代記』に、慶安3年田辺預けの記事が見られないので、牧野兵庫は、慶安3年11月以来洞の川(日高の藤の川か)に長く拘禁され、ついで彼の家族も日高の山中に幽閉されたのだった。翌年7月由井正雪らの慶安事件がおこり、藩主頼宜も疑惑を持たれたが、関係者は処断された。その年11月兵庫は新宮領に移され、更に翌承応元年5月田辺に移される。そこで藩政に逆らおうとした事件の責任と慶安事件における紀州藩の疑惑を背負って、死を賜ったのかもしれない。

 

 ここでは、幽閉された牧野兵庫の家族の余話を、前述した『美山の歴史 二』所載の中村、井原両氏の論考を参考に紹介しておきたい。

 三佐村本川(現中津村大字三佐)に幽閉された長男(新蔵)二男(伝蔵)については、不明な点が多い。三佐の小早川家(現在、「近世の農家」の例として紀伊風土記の丘に移築、展示)が彼らの住居という伝承もあるが、確証はない。三佐の安楽寺に「正徳癸巳(3年)(1713)牧野直能」の銘を刻んだ双盤が奉納されている。彼らの一人か、縁者であろう。牧野氏の家紋「三つ柏」から、その子孫は柏木姓を名のったともいわれるが、中津には他にも柏木姓の旧家があり、その系譜は明らかでない。

 三男太郎(すもも)に配流と書かれているが、既述のように三十木村の井原氏が引き取ったともいわれ、その子孫も柏木姓を名乗ったようである。李に幽閉されたのは、と四男(藤丸)五男(千代丸)の乳幼児であった。幽閉地王丸谷(おまんだに)の谷底の東北の隅に、高さ90センチの石碑があり、「延宝八年(1680)十一月二十四日賀宝輪慶信女霊位」と刻まれていた(昭和9年毎日新聞西瀬英一氏調査)。これが千代丸を育てた「乳母の墓」と伝承されていた。乳母は、三十木の井原家の女であったという(この石碑は昭和28年の七・一八水害で流失し現存しない)
 谷の北側には、高さ70センチメートルの「天和二年(1682)三月二十七日董覚寿生信女霊位」と刻まれた石碑がある。これは「兵庫の内室の墓」といわれている。この石碑と並んで、最初に述べた六体の地蔵尊がまつられ、現存している。

 藤丸について『南紀徳川史五』は「性剛強長大」と記し、性質逞しく大男であったようだ。牢獄生活50年後の元禄12年(1699)2月、牢番の無礼を怒って脱牢し、番人を殺して逃亡したが、大津で捕えられ、連れもどされ李の小串で斬首されたといわれる。54歳であった。言語動作はてきぱきとして、50年余の長期間獄中にいたとは思えなかったと記されている(前掲書)
 「中村善次兵衛覚書」(『川辺町史一』)では、藤丸がかけ落ちした後、郡奉行、代官が早速李谷に赴き、大庄屋衆も集まって、高野筋ということで夜通し捜し廻わり、結局、近江にいることを突きとめ、日高の大庄屋衆も行って連れ帰ったと記している。主立った郡役人総出の大騒動であった。
 藤丸が殺されたといわれる小串には、高さ80センチの石碑があり、「牧野藤丸之墓」側面に「講中」と刻まれている。李の人々が藤丸を哀れんで建てたのだろう。

 千代丸は長じて高野山にのぼり出家したといわれる。九度山町牧野実夫氏によると、先祖は牧野兵庫頭で、兵庫の子高野山金剛頂院の俗弟子となり、院主は家名の絶えることを惜しんで、慈尊院の地士平田家の養子にした。その後平田姓を廃して牧野姓に改め、代々高野山の地士をつとめ、今日に至ったということである。
 最初に述べた遍照寺双盤の銘は、「愛川村遍照寺 奉掛施主 牧野千代丸 建方李住辰右衛門孟包 享保十乙巳歳七月十七日 京六条住丹下播磨大掾貞的」であった。享保10年(1725)は、事件以後75年目に当たり、乳呑児といわれた千代丸もそれ位の年であったろう。京都で鋳た双盤を、李村の辰右衛門孟包(たつえもん たけかね)が作った枠台に掛け、二人の連名で奉納した。辰右衛門を乳母の子と想定し、乳兄弟の寄進だろうと往時を偲ぶこともできる。

 

 先にもふれたが、李の栗林家(栗林孝好家)が所蔵している、牧野家の「三つ柏」の家紋がついたお膳と椀の一揃は、同家が幽閉中の牧野一族を優しく世話したお礼の品といわれ、同地の井原家(井原芳信家)に所蔵される、松・竹・梅・鶴・亀などの彫刻のある直径5センチメートルくらいの鈴一個(藤丸のものとされ、ほかの兄弟も一つずつ持っていたといわれる)も、そうした数奇な運命をたどった物であろう。幽閉地・李では今も牧野一族の伝承が息づいている。

 

 上記の文中にある由井正雪(ゆい しょうせつ)が起こした「慶安事件」とは、三代将軍徳川家光が48歳で病死し、四代将軍となった家綱はまだ11歳であったという政治的空白を突いて、正雪が巷に溢れる浪人の支持を集めて幕府の転覆を図った事件である。当時は、徳川幕府のいわゆる「武断政治」という政策により大名の減封・改易が相次いだことから主を失った浪人が激増しており、これらの浪人の中には、幕府に批判的な考えを抱く者も多かった。また仕官(新しい主君に仕えること)がかなわずに生活苦から犯罪に走る者もいて、浪人の増加は社会不安を産み出すことにもつながった。こうした状況の中で、正雪は幕府に不満を持つ者たちを次々と味方に引き入れて行ったのである。しかしながら、この計画は関係者の密告により幕府の知るところとなり、正雪は駿府(すんぷ 現在の静岡市で捕り方に囲まれて自決した。


 この事件について、「日本大百科全書(ニッポニカ) 小学館」では次のように解説している。

慶安事件(けいあんじけん)
 1651年(慶安4)7月、軍学者由比正雪(ゆい しょうせつ)が企てた反乱が未然に鎮圧された事件慶安の変由比正雪の乱ともいう。幕府の記録が伝わっていないため全貌は謎に包まれているが、計画の骨子は、(1)首魁の正雪は駿河久能山くのうざん)の金蔵を襲ったのちに駿府城を奪取する、(2)一味の丸橋忠弥(まるばし ちゅうや)は江戸・小石川塩硝蔵(えんしょうぐら)など江戸各所に放火、また上水道を投入し、市中の混乱に乗じて紀州徳川家と偽って江戸城に潜入し、これを奪取する、(3)京都大坂でも一味の者が放火などで騒動を起こす、というものであったと伝えられる。正雪は7月22日に江戸をたって駿府に向かったが、その翌日には計画は露顕し、忠弥は江戸で召し捕られ、正雪の一行は駿府町奉行の捕り手に宿を包囲されて自害した。そのほかの一味も全国に張られた幕府の網に捕縛され、あるいは自害し、8月10日、一味とその親族35人の処刑で一件は落着した。

 正雪が計画に引き入れた浪人は2000人と伝えられるが、この程度の人数で城を乗っ取るのは現実性に欠けており、そこに紀州徳川頼宣と正雪との関係が後世に云々される素地があった。家康の子である頼宣は、この年の4月に11歳で将軍となった家綱に次いで将軍となる資格があり、また反幕的言動でとかくの風評があったからである。
(以下略)
慶安事件とは - コトバンク


 正雪が自決した際、その遺品の中から紀州藩主徳川頼宜の印のある書状(連判状)が発見されたことから、上記引用文にもあるように、この幕府転覆計画には紀州藩が大きく関与していたのではないかとの疑惑が生じることとなった。

 

 紀州徳川家の初代藩主となった徳川頼宜は、徳川幕府の中でも特に武功派(武力を背景に政治を行うことを重視する立場)として知られており、積極的に優秀な浪人を召し抱えたり、和歌山城の拡張工事を行うなどの活動を行っていた。このため、由井正雪紀州藩への仕官を志していたようで、「加納五郎左衛門行状記」という資料によれば、正雪が紀州藩家老の渡辺直綱を介して軍学者として紀州藩への仕官を求めたものの、家老の加納直恒が猛反対したため仕官が見送られたとする。
加納直恒 - Wikipedia

 

 仕官は断られたものの、正雪は積極的に浪人を集めていた紀州藩の動きを利用しようと考えて頼宣の印を偽造した書状(連判状)を作り、正雪に協力すれば後に紀州藩での仕官の道が開けると偽って浪人たちの支持を集めていたようである。
由比正雪の乱(慶安の変)と江戸時代前期の牢人問題 | Call of History ー歴史の呼び声ー

 

 PHP研究所が発行する雑誌「歴史街道」のWebサイトでは、幕府から慶安事件への関与を疑われた際、徳川頼宜は「外様大名の名を騙るならともかく、徳川家の血脈を引く私の名を騙るとは慶賀に耐えない」と答えて幕閣を煙に巻いたとする。

 そこで幕閣(幕府の閣僚)頼宣江戸城に召喚し、不審な点があれば身柄を拘禁することも考えた上で、証拠の文書を突きつけて問い質します。すると頼宣は文書を眺めて、「まことお家のために慶賀にたえぬ。もしこれが外様の諸大名の名を騙りしものであれば、よもや安心もできまいが、お家の血脈たるそれがしの名を騙るとは、これぞまさしくお家安泰の兆し」と平然と言ってのけ、幕閣を煙に巻きました。
 頼宣はこの一件があったため、10年も江戸に足止めされたといいますが、やがて疑い晴れて和歌山に戻ります。
徳川頼宣~豪胆無比、幕府転覆の嫌疑あり? | WEB歴史街道

 

 慶安事件と紀州藩との関わりについては必ずしも明確に否定されたものとは言い切れないため、いわゆる「紀州藩黒幕説」に立った物語が複数描かれている。前項「王丸谷の六地蔵」では牧野兵庫頭を主人公とした神坂次郎氏の小説「兵庫頭の叛乱毎日新聞社 1993)」を紹介したが、これ以外にも次のような作品に重要な役割で兵庫頭が登場している。
王丸谷の六地蔵 ~美山村(現日高川町)愛川李~ - 生石高原の麓から

おぼろ忍法帖講談社 1967) 山田風太郎
(後に「忍法魔界転生(角川文庫 1978)」「魔界転生(角川文庫 1981)」と改題して発売)
 由比正雪徳川頼宜魔界衆(秘術により復活した過去の剣豪)らによる幕府転覆の企てに対して柳生十兵衛らがこれに立ち向かうというストーリーの伝奇物語。牧野兵庫頭頼宜の腹心として根来忍法僧を率いる。
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紀州連判状(光文社 2003) 信原潤一郎
 紀州藩剣道指南氷室暉一郎を主人公とし、慶安事件を背景に据えた伝奇小説・剣豪小説。牧野兵庫頭は、徳川頼宣の署名が入った幕府転覆謀議の連判状由比正雪に届けるよう暉一郎に命じる。
紀州連判状 - 信原潤一郎 - Google ブックス