生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

お菊地蔵・窓誉寺(和歌山市吹上)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は「番町皿屋敷」で知られる「お菊さん」の皿が納められているという、和歌山市吹上にある「窓誉寺(そうようじ)」を紹介します。

 

 和歌山市内中心部にある日赤和歌山医療センターの近く、国道42号線の小松原4丁目交差点から東に向かい、屋形通りへ抜ける道を「寺町通」と呼びます。

 もともとは、紀州藩の初代藩主である浅野幸長公が現在の「CITY! WAKAYAMA」というショッピングセンター周辺の地域を「寺町」と定め、この周辺に寺院を多く立地させていたのですが、後に浅野家広島藩へ移り紀州徳川家初代の徳川頼宣公が新たな藩主になった頃に多くの寺院が和歌山城の南側に移転したことにより、現在の「寺町通」が形成されてきたとされます。
 ちなみに、かつて寺町であった地域は「もとの寺町」と呼ばれるようになり、これが現在の地名である「元寺町(もとでらまち)」の由来となりました。
広島城主であった福島正則が幕府に無断で城の改修を行ったとして改易の処分を受け、その後任として和歌山城主であった浅野長晟が広島に移ったもの。福島氏の入国と改易/浅野氏の治世 | 広島城

 

 こうして成立した新たな「寺町通」には現在もなお多くの寺院が建ち並んでおり、周辺地域にはかつての城下町のたたずまいを偲ばせる景観を残した場所がいくつも見受けられます。
 その寺町通りの中ほどに「窓誉寺(そうよじ)」という寺院があります。この寺院は、有名な怪談「番町皿屋敷(ばんちょう さらやしき)」にゆかりのある寺であることで知られています。


 番町皿屋敷とは、江戸時代、江戸五番町にあった青山主膳(あおやま しゅぜん)の屋敷に奉公していた「」という女が、主膳の大事にしていた皿10枚のうち1枚を割ってしまったことに始まります。主膳は罰としての中指を切り落とし、一室に監禁しますが、はこっそり部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げます。それ以降、毎夜毎夜、井戸の底から「いちまい、にまい、・・・」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、主膳らを恐怖に陥れる・・・というのが基本的な筋立てとなっています。

ja.wikipedia.org

 

 詳しくは上記のWikipediaで解説されていますが、「皿屋敷」と呼ばれる物語にはいくつかのバリエーションがあるものの、その原型は現在の姫路市周辺を舞台とした「播州皿屋敷」であろうと考えられているそうです。このうち、上記で紹介したような江戸を舞台とする「番町皿屋敷」については、宝暦8年(1758)に講釈師の馬場文耕が記した実録風物語「皿屋敷弁疑録」が初出であるとされており、以後、これをベースにした講談や芝居、歌舞伎などが多数作られていくことになります。
 ちなみに、歌舞伎では姫路を舞台とする「播州皿屋敷」の方が古くからの演目として演じられており、江戸を舞台とする「番町皿屋敷」は「新歌舞伎(明治後期から昭和の初期にかけて創作された新たな演目)」の一つとして岡本綺堂(おかもときどう 「半七捕物帳」の作者として知られる)原作により大正5年(1916)年に初演されたという比較的新しい作品になります。
番町皿屋敷 | 歌舞伎の演目 | ユネスコ無形文化遺産 歌舞伎への誘い

 

 こうした皿屋敷の物語は播州や番町ばかりでなく、全国各地に類話が伝えられており、伊藤篤著「日本の皿屋敷伝説海鳥社 2002)」によれば岩手から鹿児島まで、合わせて48ヶ所の伝承地があるとされています。

 

 こうした類話の一環として、和歌山では窓誉寺に「お菊地蔵」が祀られています。旅行情報サイト「トリップアドバイザー」に投稿された写真によれば、この「お菊地蔵」には、現在、次のような案内看板が掲げられているようです。

お菊地蔵様の由来
番町青山邸屋敷で、非業の死を遂げたお菊の亡霊に責め苛まされた青山主膳
青山主膳紀州に住む叔母 エイさんに青山家代々の家宝である皿を渡した。
叔母 エイさんは、窓誉寺(そうようじ)第三世鶻州良天(こうしゅうりょうてん)大和尚に供養を頼みました。
鶻州良天大和尚が供養したところ騒動が収まり 供養地蔵を建立しました。

お菊地蔵様 - 窓誉寺の口コミ - トリップアドバイザー

写真は2014年に撮影したものであり、上述の看板はまだ掲げられていない

 ちなみに、和歌山県内で墓石・石材の販売などを手広く行っている「メイスンキタニ」社のWebサイト内にある「和歌山西国三十三カ所」の紹介ページにある「窓誉寺」の項によれば、同寺はもともと「窓養寺」であったものが、大和尚の一喝で嵐がやんだという事績を聞いた徳川頼宣公から「誉」の字を賜り、「窓誉寺」と改めたとの逸話が伝えられており、江戸時代初期から有名な寺院であったようです。
和歌山西国三十三ヶ所

 

 下記リンク先に掲載されている和歌山社会経済研究所のリポートによれば、現在、窓誉寺にはお菊の皿が7枚保管されているとのことですが、残念ながらこの皿は非公開となっています。また、和歌山以外にも「皿屋敷の皿」が残る場所があるとされており、滋賀県彦根市長久寺には6枚、岩手県盛岡市大泉寺には4枚がそれぞれ伝わっているとのことです。
和歌山社会経済研究所 | レポート