生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

上野廃寺跡(和歌山市上野)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前回までは奈良時代に整備された南海道沿いの遺跡や史跡を順次紹介してきましたが、今回はそれらより少し前の白鳳時代(645~710※1)に建立されたと考えられている和歌山市上野の「上野廃寺跡(うえの はいじ あと)」を紹介します。
※1 歴史上の区分としては「飛鳥時代」に含まれるとするのが一般的であるものの、大陸文化の影響を受けて独自の文化が成立した時期であるため、美術史などの分野ではこの時期の文化を「白鳳文化」と呼び、その前の「飛鳥文化」、その後の「天平文化」と区分することが一般的となっている。このため、本来は美術史上の区分であった「白鳳文化」が花開いた時期を指して「白鳳時代」とする呼称もしばしば用いられている。
白鳳時代とは - コトバンク

 

 「上野廃寺跡」は、県道粉河加太線にある和歌山バスの「紀伊上野」停留所からJRの線路を越えて北に上ったところにあります。少しわかりにくい場所にありますが、近隣にある「薬師寺霊苑」の第二駐車場が目印になります。

 ちなみに、上野廃寺跡のすぐ上(北側)には松林寺 (しょうりんじ)という寺院がありますが、ここは8代将軍徳川吉宗公の母・浄円院が建立した寺として知られています。

和歌山市広報紙 「市報わかやま」 平成28年6月号

 和歌山市文化振興課のWebサイトによれば、この上野廃寺跡は「紀ノ川流域の古代寺院跡のなかでも代表的な寺院跡の一つ」であるとされ、建立は白鳳時代であるものの、寺院としては奈良時代平安時代を通じて存続していたと考えられているようです。

上野廃寺跡
 上野廃寺は、紀ノ川流域の古代寺院跡のなかでも代表的な寺院跡の一つとして、昭和26年(1951)に国の史跡に指定されました。昭和42年(1967)と昭和59年(1984)に行われた発掘調査の結果、寺院の創建は7世紀後半で、10世紀後半まで存続した薬師寺式の伽藍配置をもつ寺院であったことがわかりました。
 出土した蓮華文軒丸瓦唐草文軒平瓦は、奈良県法隆寺西院伽藍で用いられた瓦の影響を強く受けた秀麗な文様です。また、忍冬文をレリーフした隅木蓋瓦(建物の隅木の端を覆う瓦)は、他に類例がない特徴的なものです。
上野廃寺跡 | 和歌山市の文化財

 

 また、用語解説サービス「コトバンク」内の「上野廃寺跡」の項では、「国指定史跡ガイド講談社」の記述として次のような解説が掲載されています。

上野廃寺跡
 和歌山県和歌山市上野にある寺院跡。市街地の北東部に位置する薬師段と呼ばれる所に所在し、後ろに低い崖を負い南方に平地を望む景勝の地を占めている。薬師寺式伽藍(がらん)配置をもち、遺構の保存もよいことなどから、1951年(昭和26)に国の史跡に指定された。1968年(昭和43)の発掘調査の結果により、翌1969年(昭和44)に追加指定があった。金堂跡の土壇には円柱座を造り出した礎石が6個あり、付近に若干移動して散在する。金堂跡の南東と南西には東西両塔の土壇がある。西塔跡は四天柱礎1個を欠くだけで、心礎には円柱孔を彫り込み、その一隅に溝をうがち、中心に舎利安置孔を設けている。東塔には心礎と側柱礎2個が露出し、心礎は溝を欠くだけで西塔と同じ構造である。域内から白鳳(はくほう)時代の様式を示す古瓦類が出土し、軒瓦(のきがわら)法隆寺再建瓦の影響を強く受けた複弁八葉蓮華文均整忍冬唐草文の組み合わせで、特筆すべきは、他に類例のない忍冬文をレリーフにした隅木蓋瓦(すみきふたがわら)が出土したことである。創建は7世紀後半と考えられている。JR阪和線紀伊駅から徒歩約15分。
上野廃寺跡とは - コトバンク

 

 上野廃寺については、その礎石が良く残されていたことから伽藍配置(境内の建物の配置)を詳しく知ることができました。

上野廃寺跡の礎石

 それによると、紀の川に面した南側に中門があり、そこから入った正面に金堂、その手前の左右に西塔東塔を配置して周囲を回廊で取り囲んでいました。これは、白鳳時代天武天皇9年(680年)に天武天皇の発願で藤原京に造営された薬師寺(本薬師寺と同じ配置であり、上野廃寺が都と強い繋がりがあったことを伺わせます。

(公社)和歌山県観光連盟 街道マップ  南海道を歩く
「4. 白鳳寺院跡を訪ねる」より抜粋

わかやま観光情報|街道マップ | 和歌山県公式観光サイト

 

 また、上野廃寺跡から出土した「蓮華文軒丸瓦(れんげもん のき まるがわら 下記の写真左)」は、下記リンク先にある法隆寺式軒丸瓦(現在の法隆寺は当時「斑鳩寺」と呼ばれていたが、670年に火災で焼失した後「西院伽藍(さいいんがらん)」として再建されたもの。その再建の際に用いられた瓦の代表的なものが「蓮華文軒丸瓦」である。)と非常に良く似ており、ここでも都との強い関係が示唆されています。
法隆寺式軒丸瓦 | 参考館セレクション

 下記の写真右にある「忍冬文隅木蓋瓦すいかずらもん すみき ふた がわら)」は他に類例を見ない独特の遺物であるとされます。「忍冬文」とは、唐草模様の一種で、植物の忍冬すいかずらのようなつる草を図案化したものとされますが、近年の研究では古代エジプト、あるいはメソポタミアを起源とする文様が世界各地に伝わったものと考えられており、「パルメット(Palemtte  「椰子」という意味のラテン語「palma」に由来する)」と呼ばれるのが一般的になってきており、この瓦も学術的には「パルメット文隅木蓋瓦」と呼ばれているようです。
パルメット文隅木蓋瓦(伝和歌山県上野廃寺出土) 文化遺産オンライン

和歌山市文化財 上野廃寺跡」より
上野廃寺跡 | 和歌山市の文化財

 上野廃寺跡を特徴づける伽藍配置や各種の出土物は、いずれもこの寺院が白鳳文化の強い影響を受けていたことを表します。こうした白鳳文化の特徴について、奈良国立博物館平成27年(2015)に開催した開館120年記念特別展 「白鳳 -花ひらく仏教美術」の際に作成されたイラスト版リーフレットでは次のように解説されています。

白鳳文化ってどんな文化?

・仏教が基礎になっている!
・唐や朝鮮半島からもたらされた大陸の文化の影響を受けている!
・若々しく明るい雰囲気にあふれている!

 

全国に仏教の教えが浸透した白鳳時代
 乙巳の変を受けて即位した孝徳天皇は、 蘇我氏に代わり、これからは天皇仏教を盛んにするという宣言をしました。天皇仏教を軸とする国造りを目指し、都での寺院の整備を進めるとともに地方の豪族の寺院造営を援助しました。これにより推古32年(624)には全国で46だった寺院の数が持統6年(692)には545に増えます。その多くは天智天皇天武天皇の時代に創建されました。
 天武天皇の時代の飛鳥の都大官大寺、川原寺、飛鳥寺の3か寺を中心に「京内二 十四寺(きょうない にじゅうしじ)」と称される24の寺があり、400~500人もの僧尼を抱える仏教の中心地、「仏都」でした。天武天皇は仁王経と金光明経の2つの経典を護国経典と定め、都の僧尼らを全国に派遣し、経典の講説をさせ、仏教の教えを全国に広めようとしました。また、地方寺院の建立にも都の僧尼らが技術的な面でサポートしたと考えられています。

 

朝鮮半島との深い関係
 7世紀後半、朝鮮半島を巡る情勢は不安定でした。660年には百済が、668年には高句麗新羅の連合軍により滅亡し、多くの人々が日本に逃れてきました。また、676年に新羅朝鮮半島を統一して以降、日本新羅は緊密な関係を築き、新羅からの使いがさまざまな文物や情報を日本に伝えました。天武天皇持統天皇の治世による約30年の間、遣唐使の派遣は断絶しましたが、日本は新羅経由での文化を取り入れていま した。初の本格的な都城藤原京の建設や律令の制定には唐の影響がよく表れています。

 

仏教美術が開花!
 飛鳥時代にうぶ声を上げた仏教美術が白鳳期に至って青春を迎えたかのように、白鳳文化は若々しさ、瑞々しさにあふれています。その傾向がよく現れているのが仏像です。白鳳時代には寺院の建設に伴い、多くの仏像が造られました。大陸からもたらされた新しい技術を取り入れ、より立体感を増した表現が定着していきました。

 

万葉集』の歌が多く詠まれた時代
 約4500首もの和歌からなる日本最古の歌集『万葉集』に収められた歌の多くが白鳳時代に詠まれたものです。額田王(ぬかたの おおきみ)柿本人麻呂(かきのもとの ひとまろ)が宮廷歌人として活躍するなど、白鳳時代芸術に対する評価が確立した時代といえそうです。『万葉集』には持統天皇の有名な歌も収められ ています。
   春過ぎて 夏来るらし 白たへの
      衣干したり 天の香具山
白鳳 | 奈良国立博物館

 

 上記のリーフレットにあるように、白鳳時代には全国で寺院の建立が相次いで進められました。1996年に発行された「北山廃寺発掘調査報告書(編集:和歌山県文化財センター 発行:貴志川町(現紀の川市教育委員会)」によると、和歌山県内では概ねこの時期に建立された寺院として次の14か寺が挙げられていますが、このうち現存するのは道成寺のみであるようです。
 神野々廃寺橋本市
 名古曽廃寺橋本市高野口町
 佐野廃寺かつらぎ町
 最上廃寺紀の川市桃山町)
 北山廃寺紀の川市貴志川町
 西国分廃寺岩出市
 山口廃寺和歌山市
 上野廃寺和歌山市
 直川廃寺和歌山市
 太田黒田遺跡和歌山市
 薬勝寺廃寺和歌山市
 田殿廃寺有田川町
 道成寺日高川町
 三栖廃寺田辺市

飛鳥・奈良時代
 「日本書記」の大化元年(645)によれば、「天皇より伴造にいたるまで、造るところの寺、造ること能はずは朕皆助け作らん」と大和の有力氏族や地方の郡司級氏族に氏寺造営の奨励と援助が約束された。この詔によって7世紀後半以降8世紀にかけて盛んに氏寺が建立されるようになり、とりわけ先進地域では郡以下の郷単位にまで造寺活動が盛んに行なわれる。伽藍配置においても中央と同じ形態を示すものが存在し、造寺活動における高い企画性が看取される。都に近い紀伊もこの動きに敏感に反応を示し7世紀後半から8世紀初頭にかけて栄んに寺院が建立される。紀伊の寺院は概ね南海道に沿って建立されたものが大多数で、地方の伽藍配置に多いといわれる法起寺の配置を備えたものが多いことがこれまでの調査で明らかとなっている。 
 紀伊の寺院は出土する軒瓦の文様構成によって川原寺系坂田寺系薬師寺法隆寺西院系巨勢寺系にグルーピングがなされることはこれまでの研究によって明らかにされている。
坂田寺系 (西国分廃寺、最上廃寺、北山廃寺)
川原寺系 (神野々廃寺、名古曽廃寺、佐野廃寺、薬勝寺廃寺、田殿廃寺、道成寺、三栖廃寺)
薬師寺系 (神野々廃寺、名古曽廃寺、佐野廃寺、西国分廃寺)
法隆寺西院系 (上野廃寺、山口廃寺、直川廃寺、西国分廃寺、太田黒山遺跡)
巨勢寺系 (佐野廃寺、道成寺、三栖廃寺)

 さらにこれら白鳳寺院の分布を「和名抄」にみえる郷名と割り合いを比較すれば
伊都郡 郷4 寺院4 (1:1)
那賀郡 郷6 寺院3 (2:1)
名草郡 郷11 寺院4 (2.75:1)
海部郡 郷2 寺院0
在田郡 郷4 寺院1 (4:1)
日高郡 郷5 寺院1 (5:1)
牟婁郡 郷4 寺院1 (4:1)
 上記のことから南海道沿いの伊都・那賀・名草の各郡は寺院の分布が高く、いわゆる畿内に近い郡程1郷1寺院の形態に近いことが看取される。在田、日高、牟婁郡については一郡に1寺院の形態であることも合せて読み取れる。おそらく中央に深い繋がり、あるいは精通した有力氏族は南海道沿いに蟠踞していたことを如実に示しているのであろう。

発掘調査報告書|公益財団法人 和歌山県文化財センター

 

 天皇の号令により全国で競うように寺院の建立が進められたようですから、この当時の最先端の技術と芸術をできるだけ盛り込んでいかに荘厳な寺院を建立するかということが、その地域の豪族の勢力を対外的に示すための重要なシンボルであったのかもしれませんね。
 そう考えると、この上野廃寺を建立した豪族は、都との間に太いパイプを有し、懐も相当豊かな有力豪族であったと考えられるのでしょう。

 

 ちなみに、資料によっては上野廃寺から出土した瓦の中に新羅様式のものが含まれていることから、「日本霊異記」に登場する観規(かんき)という僧が同寺の建立に関わったと記しているものがあります。
上野廃寺跡|南海道を歩く

 これに関する典拠等は実はよくわからないのですが、山崎信二氏の「七世紀後半の瓦からみた朝鮮三国と日本の関係(日韓文化財論集(「奈良文化財研究所学報 第77冊」奈良文化財研究所 2008))にあるように、「日本霊異記」に登場する老僧・観規名草郡の「能応」に住み、俗姓を「三間名干岐(みまなの かんき)」というとされていることから、「能応」は「」にあたり現在の和歌山市の上野・北野周辺を指し、俗姓は「朝鮮半島任那(みまな)」の「干岐(かんき)という役職の者」を意味すると解釈して、上野廃寺に新羅系の瓦をもたらしたのは任那出身の観規(干岐)であるとする考察に基づいているもののようです。

E 上野廃寺・斎尾廃寺式軒平瓦と新羅
 「日本霊異記」の下巻第三十に、「老僧観規は、俗姓を三間名干岐といひき。紀伊国名草郡の人なりき。」「先祖の造れる寺、名草郡の能応の村に有り。名をば弥勒寺と曰ひ、字を能応寺と曰ふ」とあり、名草郡能応郷について、「和歌山県の地名」は、「名義は野にて応は添声にすぎない」を引用し、「郷名のもととなった現和歌山市上野・北野を含む地域に拡大比定すべき」であるとする。即ち、能応は紀伊上野廃寺の所在地である
 「新撰姓氏録」未定雑姓、右京に「三間名公。弥麻奈国王、牟留知王の後なり」「意富加羅国の王子、名は都努我阿羅斯等」とある。都努我新羅金官加羅の最高官位号角干」をツヌカ(ン)と訓んだものかとする。則ち紀伊上野廃寺は新羅金官加羅系の寺院であると考えてよいだろう。
Nara National Research Institute for Cultural Properties Repository: 007 七世紀後半の瓦からみた朝鮮三国と日本との関係

 

 それほど知名度が高いとは言えない小規模な寺院跡ですが、そこから広がる白鳳文化の世界は意外なほど大きな広がりを感じさせるものであると言えましょう。