「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
前回、前々回は縄文時代の遺跡である高山寺貝塚、鳴神貝塚を紹介し、それ以前は古墳時代の遺跡を順次紹介してきたところですが、今回は少し時代を下って奈良時代の遺跡である「紀伊国府跡(きい こくふ あと)」を紹介したいと思います。
「奈良時代」とは、概ね、元明天皇による平城京への遷都(和銅3年 710)から桓武天皇による平安京への遷都(延暦13年 794)までの84年間を指します。
奈良時代 - Wikipedia
この頃、平城京への遷都の直前にあたる大宝元年(701)には日本史上最初の本格的律令法典とされる大宝律令が制定されており、奈良時代はまさに我が国の律令制度が確立していく時代であったということができるでしょう。
大宝律令は、天皇を支える二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を定めるとともに、全国を国(こく)・郡(ぐん)・里(り)に分けた地方行政組織の仕組み(国郡里制)を定めました。そして、大和、山城、摂津、河内、和泉の五地域(五畿、畿内)を天皇の直轄地とし、それ以外の地域を七つに分割(七道 東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)して大まかな行政区分とする制度(五畿七道 ごきしちどう)を設けました。併せて、畿内から七道に至る道路を整備するとともに、一定の距離ごとに「駅」を置き、「国」ごとにこれを管理する「国府」を置くなどの体制整備が順次行われていきました。
五畿七道 - Wikipedia
この当時の和歌山は「南海道」に属しており、紀の川の北岸に沿っていくつかの「駅」が置かれたほか、現在の和歌山市府中のあたりに「紀伊国府」が置かれていたと考えられています。このことについて、和歌山県教育委員会が発行する「ふるさと教育副読本 わかやま発見」では次のように解説しています。
第2編 わかやまの歴史
第1章 紀州のあけぼのと古代人
律令制と紀伊国国府と南海道
奈良時代には、奈良に平城京という都がおかれ、天皇を中心にして、全国を支配するしくみ(律令制)ができあがりました。全国は60あまりの国に区分けされ、朝廷から派遣された国司という役人たちは、それぞれの国を数人でおさめることになりました。また国司は、国府という役所で仕事をしていました。都と全国の国府は、7本の大きな道で結ばれ、都と連絡をとったり、都へ税をおさめたりすることに使われていました。
現在の和歌山県は、紀伊国という国に含まれ、その中は伊都・那賀・名草・海部・安諦(在田 ありだ)・日高・牟婁という7つの郡に分けられていました。一部、これらの郡の名前は現在でも使われています。紀伊国の国府の建物の跡は見つかっていませんが、現在の和歌山市府中のあたりにあったのではないかと考えられています。また、7つの郡にはそれぞれ郡の役所がおかれ、その土地に住む豪族が郡司として支配していました。日高郡の役所のあとは、御坊市財部で発見され、調査が行われました。
都につながる南海道という大きな道は、道はばが10mもあり、紀ノ川の北にそって造られ、さらにその道すじは現在の和歌山市加太から船で淡路国(兵庫県の淡路島)にわたり、四国につながっていました。南海道の途中には、萩原駅(はぎわらのえき、かつらぎ町萩原)・名草駅(なぐさのえき、和歌山市山口)・賀太駅(かだのえき、和歌山市加太)がおかれ、役人が旅行するために使う食料や馬・船などを用意していました。
上記引用文では「紀伊国の国府の建物の跡は見つかっていません」と書かれていますが、令和元年(2019)、紀伊国府の推定地とされてきた府守神社(ふもり じんじゃ 和歌山市府中)の近くから奈良時代の大型建物の遺構が発見されており、紀伊国府に関連する建物の可能性があるとして関係者の大きな注目を集めています。これについて、令和元年12月19日付けの「わかやま新報」Webサイトでは次のように伝えています。
奈良時代の建物跡発見 和歌山市の府中遺跡
奈良時代から平安時代の役所「紀伊国府」の推定地とされる和歌山県和歌山市府中の「府中遺跡」の発掘調査で初めて、奈良時代(8世紀)の建物や塀の跡が発見された。従来は文献上の記載から10世紀以降の紀伊国府が置かれた場所とみられてきた。市文化スポーツ振興財団は、時代をさかのぼる遺構が見つかったことで、紀伊国府の場所を改めて検討できる重要な成果が上がったとしている。平安時代中期の承平年間(931~938)に書かれた辞書『和名抄』や、藤原為房の日記『大御記』の1081年の記述から、10世紀以降の紀伊国府は、現在の府守神社付近の府中遺跡にあったと推定されてきた。
1969年に県教育委員会が府中全域を対象に行った遺物分布調査では、7~9世紀の須恵器や陶硯(とうけん)、平瓦などが発見され、国府が奈良時代にさかのぼる可能性が指摘されていたが、市や関連団体による5次にわたる調査では、国府に関する遺構は見つかっていなかった。
新発見があった今回の第6次調査は、府守神社西側の東西6メートル、南北36メートルの216平方メートルを、11月25日から調べ、南側3分の1で、8世紀の掘立柱建物(地面に穴を掘り、礎石を用いず柱を立てた建物)3棟や塀の跡を発見した。
建物はいずれも調査地の外に遺構が続いており、全体の形は不明だが、大型の建物と推定される。三つのうち後に建てられたとみられる二つの柱穴からは、奈良時代の須恵器杯や土師器(はじき)の破片が出土した。
国府の中心施設である「政庁」の場合、他地域の遺跡では柱穴の大きさが1メートルを超えているが、今回は1メートル以内であることから、政庁の遺構ではないと思われるが、一般集落とも考えにくく、役人の実務の場所など国府に関連する建物と推測されている。
紀伊国府については、初期は岩出市の岡田遺跡にあり、平安時代に府中に移転したとの説もある。同財団埋蔵文化財センターの菊井佳弥学芸員は「今回の調査で紀伊国府の場所が分かったわけではないが、府中には少なくとも奈良時代の建物があった。移転の有無を含め、紀伊国府について考える上で重要な手掛かりであり、より慎重に調査する必要が出てきた」と、研究の進展へ期待を話した。
わかやま新報 » Blog Archive » 奈良時代の建物跡発見 和歌山市の府中遺跡
上記の記事の中に「10世紀以降の紀伊国府は、現在の府守神社付近の府中遺跡にあったと推定されてきた」と書かれているように、現在、府守神社には「紀伊国府跡」と記された標柱が建立されています。(上記写真参照)
この標柱は平成27年(2015)に和歌山市が建立したもので、その側面には次のような文面が刻まれています。
紀伊国府跡
ここは昔の名草郡直川荘のうちで府中の名は国府の所在地を語るものである。国庁の跡は、こんにちどこともわからなくなっているが、集落の北東に府守神社(府中神社)があり、付近の田井の北村には総社明神もあった関係で、この地が国府の所在地であったことを告げている。
この文章だけではこの府守神社を「紀伊国府跡」とする根拠が判りにくいのですが、和歌山県神社庁のWebサイトにある「府守神社」の項には次のような解説が記載されています。これによると、古くから「府守の神」「府中の神」という名が伝えられており、これが「国府を守護する神」の意であると考えられることから、この神社(祭神)が紀伊国府の鬼門の守護神としての役割を担ってきたものとみなされているようです。
府守神社
由来貞観17(875)年、此の地におかれた紀伊國國府の鬼門の守護神として鎮座、中古白鳥の宮とも聖天宮とも称した。
明治以後旧名の府守神社に復したが、拝殿正面には聖天宮と記されている。
明治10年6月22日村社に列す。
『紀伊続風土記』(巻之九・直川荘府中村)に依れば、
「村中平林といふ所の東にあり
按するに本國神名帳※1に從四位上府守の神あり
三代實録※2に
貞觀十七年奉授 紀伊ノ國從五位下府中ノ神ニ從五位上ヲ
とあり
府守ノ神 府中ノ神は一にして國府を守り給ふ神と聞ゆれは
當社若くは此神にやあらん
三代實録 石見ノ國に府中ノ神あり天慶七年筑後諸神記に郡主神といふあり
社地古く廣大にして處の氏神と崇むるは此故ならん
中古浮屠氏(筆者注:ふとし 仏教徒・僧侶のこと)盛にして聖天なといふ名を設けて佛に引入れたるなるへし
又觀喜天の祭禮といふ事を聞さるに
此神には祭禮ありて六月廿八日九月五日古より定り來りたる由なれは
決して府守ノ神にして聖天にはあらさるへし
當社の西に天王森といふ」とあり。
また大正15年5月海草郡役所発行による『海草郡誌』には、
「紀伊村大字府中字森脇に鎮座す
本國神名帳に從四位上府守神、
三代實録に紀伊國從五位下府中神等とありて、
府守神、府中神は同一で倭武命を祀る
國府の地であった為府守の神或は府中神と唱へ奉ってゐたのを、
中世佛徒の妄説に依って聖天宮と改稱した
それを維新後舊號に復して府守神社といふに至ったのである
明治十年村社となる」とある。
近年當地方の開発が急速に進み行く中、将来に向けますます紀伊國國府の所在地の解明が困難になるであろうが未知なる遺跡探究のため、和歌山市が當府守神社の境内に昭和63年に再建した「紀伊國府跡」と題する標柱※3に記した一文を終りに紹介しておく。
「ここは昔の名草郡直川荘のうちで府中の名は國府の所在地を語るものである 國庁の跡は、こんにちどこともわからなくなっているが、集落の東北に府守神社(府中神社)があり、付近の田井の北村には総社明神もあったよしで、この地が國府の所在地であったことを告げている」※1 ここでは「紀伊国神名帳」のこと。平安~鎌倉時代頃に編纂されたとされる紀伊国の神名帳(神社・神の名簿)
※2 平安時代に編纂された歴史書、「日本三代実録」。
※3 上記で紹介した標柱は平成27年建立のものであり、文章も一部異なっていることから、このサイトで紹介されている標柱を立て替えたものであろう。
和歌山県神社庁-府守神社 ふもりじんじゃ-
国府の代表的な例として知られる周防国衙跡(すおう こくが あと 山口県防府市)を参考にすると、国府の範囲は「方8町(約870m四方 75.69ヘクタール)」という広大なもので、周囲には高い土塁(羅城) をめぐらしていて、その中に役人の居宅と方2町(約220m四方)の国衙(こくが 政務を行う場所)があり、さらにその国衙の中には役人が事務を行う税所(さいしょ)や調所(ずしょ) などの建物があったと考えられています。現在で言えば、県庁とその職員の住宅が一体になったものということでしょうか。
周防国府 - 防府市公式ホームページ
古墳時代に比べると紀の川の川幅はやや狭くなっていたようですが、奈良時代においてもその河川敷はまだまだ広大であり、官道である南海道は氾濫の心配のない紀の川北岸の河岸段丘の上を通っていたと考えられています。そう考えると、この「府中」の地は、紀氏の本拠地であった岩橋地区(現在の「紀伊風土記の丘」付近)のちょうど対岸に位置しており、東西につながる南海道と紀の川南岸の紀氏の勢力圏とを結びつける非常に重要な位置にあったのではないでしょうか。