生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

紀伊国分寺跡(紀の川市東国分)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

  前回は、奈良時代(710年~794年)に成立した律令制に基づき紀伊国を管理するために設けられた役所「紀伊国」の遺構と考えられる遺跡が、和歌山市府中の「府守神社(ふもりじんじゃ)」の近くで発見されたことを紹介しました。今回は、「国府」とともに全国に建立された施設である「国分寺」のひとつ、「紀伊国分寺(きい こくぶんじ)」を紹介します。

 

 神亀元年(724)、第45代天皇に即位した聖武天皇は、在位中に天然痘が大流行して多くの人々が亡くなったことをはじめ、地震の発生、相次ぐ飢饉などにより大きな社会不安に直面しました。さらに、長屋王の変※1藤原広嗣の乱※2などの政治的混乱も加わり、聖武天皇にとっては早急に国家の安定を取り戻すことが急務となりました。やがて聖武天皇は、「この難局を乗り切るには、仏教の力によって国家を護る事が必要である。仏教にはその力がある。」という「鎮護国家」の思想に傾倒していきます。こうして聖武天皇の命により行われることとなった事業が、「国分寺国分僧寺国分尼寺の建立」及び「東大寺大仏盧舎那仏像)の造立」でした。
※1 神亀6年(729)、天武天皇の孫・長屋王が謀反の疑いにより自害させられた事件
※2 天平12年(740)、藤原広嗣が兵1万を集めて九州で反乱を起したが、朝廷軍に鎮圧された。
鎮護国家とはどういう思想か?わかりやすく解説 | 奈良まちあるき風景紀行

 

 このうち、国分寺については、天平13年(741)に発布された「国分寺建立の詔(こくぶんじ こんりゅうの みことのり)」に基づいて事業が進められることとなりました。その具体的な内容は武蔵国分寺資料館(東京都国分寺市のWebサイト内の「武蔵国分寺跡資料館解説シート 国分寺建立の詔」で詳しく解説されています。

国分寺建立の詔
聖武天皇の願い
 度重なる飢饉疫病の流行内政の混乱に対して、聖武天皇仏教による鎮護国家を願って国分寺建立の詔を発布しました。詔の前半には、聖武天皇が自分の政治を反省し、人々の幸福を真に願い、諸国に国分寺を建立しようと思った経緯が述べられています。続いて、国毎に七重塔を一基造り、金光明最勝王経・法華経を書写することを命じ、天皇も自ら金字で金光明最勝王経を写すことなどが述べられています。後半では、僧寺金光明四天王護国之寺(こんこうみょう してんのう ごこくのてら)尼寺法華滅罪之寺(ほっけ めつざいの てら)という名称にすること、寺に置かれる僧尼の人数など、具体的な運営の方法や方針について述べており、『類聚三代格』という史料では条文の形式で記されています。

 

国分寺建立の詔(現代語訳)(『続日本紀天平13年3月乙已(24日)の条)
 「私は徳の薄い身であるのに、おそれ多くも天皇という重い任務を受けている。しかし、民を導く良い政治を広めることができず、寝ても目覚めても恥ずかしい気持ちでいっぱいだ。昔の賢い君主は、みな祖先の仕事をよく受け継ぎ、国家はおだやかで無事であり、人びとは楽しみ、災害はなく幸福に満ちていた。どうすれば、このような政治ができるのであろうか。この数年は、凶作がつづき伝染病が流行している。私は恥かしさとおそろしさで自分を責めている。
 そこで、万民のために大きな幸福を求めたい。以前天平9年11月)、各地の神社を修造させたり、諸国に丈六(一丈六尺=約4.8m)釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)一体を造らせるとともに、大般若経(だいはんにゃきょう)を写させたのもそのためである。おかげで、今年は春から秋の収穫の時期まで風雨が順調で五穀も豊かに稔った。これは、誠の心が伝わったためで、神霊のたまわりものである。その霊験はまったくおそろしいほどである。金光明最勝王経(こんこうみょう さいしょうおう きょう)には『もし広く世間でこの経を読み、敬い供養し、広めれば、われら四天王は常に来てその国を守り、一切の災いもみな取り除き、心中にいだくもの悲しい思いや疫病もまた消し去る。そしてすべての願いをかなえ、喜びに満ちた生活を約束しよう』とある。
 そこで、諸国にそれぞれ七重塔一基を敬って造り、併せて金光明最勝王経妙法蓮華経(みょうほう れんげ きょう)を各十部ずつ写経させることとする。私もまた、金文字で金光明最勝王経を写し、塔ごとに一部ずつ納めたいと思う。これにより、仏教の教えが大空・大地とともにいつも盛んに続き、仏のご加護が現世でも来世でも常に満ちることを願う。
 七重塔を持つ寺国分寺は「国の華」であり、必ず良い場所を選んでまことに長く久しく保つようにしなければならない。人家に近いときは悪臭が漂うような所ではよろしくないし、遠いときは集まる人を疲れさせてしまうようでは望ましくない。国司国分寺を荘厳に飾り、いつも清潔に保つように努めなさい。間近で仏教を擁護する神々を感嘆させて、神仏が進んでこの国を守護してくださるようになってほしいのだ。全国にあまねく布告を出して、私の思っていることを知らせなさい。」

 

<条文>
第一条
 国毎の僧寺国分僧寺には、寺の財源として封戸を五十戸、水田十町を施し、尼寺国分尼寺には水田十町を施しなさい。
第二条
 僧寺には必ず二十人の僧を住まわせ、その寺の名は金光明四天王護国之寺としなさい。また、尼寺には十人の尼を住まわせ、その寺の名は法華滅罪之寺としなさい。二つの寺は距離を置いて建て、僧尼は教戒を受けるようにしなさい。もし僧尼に欠員が出たときは、直ちに補充しなさい。毎月八日には、必ず最勝王経を読み、月の半ばには戒と羯磨(かつま 筆者注:授戒)を論えなさい
第三条
 毎月の六斎日(八・十四・十五・二十三・二十九・三十日)には、魚とりや狩りをして殺生をしてはならない。国司は、常に監査を行いなさい。

武蔵国分寺跡資料館|国分寺市

 

 紀伊国分寺は、この詔に基づいて紀伊国(現在の紀の川市東国分)に建立された僧寺国分僧寺です。これに対して尼寺国分尼寺は現在の岩出市西国分の「西国分塔跡」付近にあったのではないかとされていますが、現時点では詳細は不明となっているようです。
西国分塔跡 文化遺産オンライン

 

 現在、この紀伊国分寺跡紀の川市が管理する「史跡紀伊国分寺跡歴史公園」となっていますが、同市議会が発行する「議会だより  こんにちは 議会です No.16平成23年(2011)2月1日発行)」に掲載されている「特集 紀の川市の歴史を散歩 Part9」には、下記の公園全体図とともに次のような解説が記されています。
議会だより バックナンバー

 紀の川市の西部、岩出市と接する東国分に『史跡紀伊国分寺跡歴史公園』があります。
 天平13年(741)聖武天皇より、仏教による鎮護国家の考えのもと、地方政治の安定と文化の興隆を目指して建立の詔が全国68箇所に出されました。
 紀伊の国に唯一建立された国分寺は、国華として仰ぎ見るのによい南面した地形で、水害の憂いなく人家の雑踏から離れ、また人が参集するのに便利な交通路に近く、大和より紀伊を通り淡路・阿波への官道(現在の国道のようなもの)南海道に近いこの地に建立されました。
 創建期には2町四方(220m四方)の広さがあり、現在はそのほとんどが国の史跡に指定され保存されています。
 元慶3年(879)その全てを焼失し、その後すぐに一部の建物が復興され12世紀後半まで国分寺の機能を果たしてきました。しかし律令体制の崩壊や新興の真言密教等他の宗派に押され徐々に衰退していきます。その後の14世紀前半には小規模な本堂が、15世紀頃には一回り大きな本堂が再建されましたが、これも天正13年(1585)羽柴秀吉紀州攻めの際、焼き討ち(戦乱等)にあい焼失しました。
 現在の本堂は元禄13年(1700)に再建されたもので「八光山医王院国分寺新義真言宗蓮花院末寺)です。
 紀伊国分寺跡の特徴は1200年前の創建当時高さ約50mあったとされる七重の塔の礎石(17個)が旧状を保って残っていることです。また、その周りには一辺16.39m高さ1.2mの瓦積基壇があり、現在もその一部がそのまま見られます。
 整備された公園に立ち、伽藍建物跡を見て当時の存在感を体験してほしいと思います。
 筆者としては塔の礎石の一つだけが石英の様であるのが何故なのか不思議で仕方ないところです。

 

 上記引用文のとおり、現在紀伊国分寺跡歴史公園でひときわ大きく目立つ建物となっている本堂(八光山医王院国分寺は江戸時代に再建された建物であり、本来の「紀伊国分寺」は「国分寺建立の詔」に書かれているとおり「七重塔」を中核とする施設でした。この点で、紀伊国分寺跡七重塔を支えていた礎石17個が古の姿のままに残されていることが極めて貴重であると言えるでしょう。

本堂(写真の礎石は金堂跡のもの)


 また、七重塔や堂宇の礎石を支える基壇(きだん)と呼ばれる盛土部分は、土や砂を突き固めて重ねていく版築(はんちく)という技法に加えて周囲に平瓦を積み上げてより強固なものにする「瓦積基壇(かわらづみ きだん)」であることも大きな特徴の一つです。ここでは、ガラス越しではありますが、実際に当時の瓦積基壇の現物を目にすることができます。

瓦積基壇の一部

 紀伊国分寺跡歴史公園は、隣接する紀の川市歴史民俗資料館とともに奈良時代紀伊国の様子を体感できる県内では稀有な施設として整備されていますが、こうした整備事業の経緯について全国町村会のWebサイト内にある「町村長随想」というコーナー(2002年)で、当時打田町長(合併により現在は紀の川市であり和歌山県町村会長を務められていた根来公士氏は次のように記されています。

史跡紀伊国分寺跡のこと
      和歌山県町村会長 打田町長 根来公士
 わがまちは紀の川中流域に展開し、北は大阪府に接し、関西国際空港まで20キロメートルの位置にある何の変哲もない田園地帯でありますが、全国に誇りうるものと云えば「史跡紀伊国分寺跡」です。
 15年の歳月をかけて、その保存整備に取り組んできましたが、間もなく完成する広大な史跡公園の姿に道行く人々が目を留めています。
 史跡紀伊国分寺にかかる経緯をたどってみますと、昭和3年2月7日和歌山県那賀郡池田村東国分に位置する紀伊国分寺跡国の史跡として指定を受けた、と記録されていますが、昭和48年度から50年度にかけて現国分寺本堂周辺における発掘調査が教育委員会によってなされ、国分寺本堂周辺2二町(約200メートル)四方が紀伊国分寺跡国分僧寺跡)であることが判明しました。
 打田町紀伊の古代の交通路のひとつである南海道沿いにあったことや、肥沃な土地をもつ紀の川流域に展開し、大和河内和泉といった畿内先進地域に境を接していたため、これら地域の文化を享受する適地であったことなど、古くから拓けた地域でありました。
 天平13年(741年)聖武天皇は、仏教の功徳によって政界の不安を除き、相次ぐ天災地変から国家を守ろうとしました。この鎮護国家の思想に基づいて、諸国に国分寺国分尼寺建立の詔を下しました。紀伊国分寺に関する主な文献『続日本紀』には、756年当時、紀伊国分寺が寺院としての内容を整えていたことを示す記述があります。
 前述の発掘調査により、史跡紀伊国分寺跡は、2町4方の寺域内に、南北の中軸線上に南門中門金堂講堂軒廊僧房が並び、講堂の前庭左右に鐘楼経蔵が配され、は中門を入った東側にあり、四囲回廊をめぐらした独特の伽藍配置であることが分かりました。塔は心礎のほか、16個の礎石がほとんど旧状を保っています金堂は創建期の瓦積基壇の上に平安時代に再建されました。講堂の上に現本堂が元禄年間に建築されており、講堂は元慶3年の火災以来再建されずに終わったようであります。
 昭和62年に至り、打田町では、この貴重な遺跡を保存整備し、人々がふるさとの歴史や文化と触れ合い、これに慣れ親しむ場所として利用していくために、その保存整備事業を実施することとなりました。同年4月28日紀伊国分寺跡環境整備委員会を設け、その事業化にとりかかりました。昭和63年4月26日史跡追加指定をうけ、指定面積は43,321平方メートルとなりました。同年7月29日本堂を町文化財に指定、同年12月6日文化庁の補助事業として本堂修復事業に着手、平成3年3月30日創建時講堂跡基壇造成復元工事を含め、本堂修復工事が完成しました。倒壊寸前になっていた本堂は、見事に蘇り、欅の大柱の数々もそのまま復元に利用できたことは幸いでありました。
 また、史跡の公有地化については、遺構全体をカバーできる区域約3万平方メートルを平成元年度から文化庁の認可を得て史跡土地先行取得事業として実施しました。公有地化は途中地価の高騰がありましたが、平成11年度終わりました。各遺構の基壇造成復元工事等の保存整備事業についても、史跡公有地化と併行して進めてきましたが、このたび完成をみるに至ったものであります。
 今後、この史跡公園が、隣接地に建設されている歴史民俗資料館とともに、子どもから大人まで町民の学習と交流と憩いの場として大いに役立つことを期待しています。また今から1250年前に、この地にすばらしい文化が存在したことを誇りにし、これからの町づくりに励みたいと思います。全国の皆さんの御来訪を心からお待ちしています。
史跡紀伊国分寺跡のこと - 全国町村会

 

 ちなみに、上記引用文の中で、「続日本紀』には、756年当時、紀伊国分寺が寺院としての内容を整えていたことを示す記述があります」とあるのは、「続日本紀 巻第十九 天平勝宝8年12月20日」の項に記載されている「筑後肥前・肥後・豊前・豊後など26か国の国分寺に対して仏具類を配布した」旨の記述をさすものと思われます。

原文
越後。丹波。丹後。但馬。因幡伯耆。出雲。石見。美作。備前。備中。備後。安藝。周防。長門紀伊。阿波。讃岐。伊豫。土左。筑後肥前。肥後。豊前。豊後。日向等廿六國。々別頒下灌頂幡一具。道塲幡四十九首。緋綱二條。以充周忌御齋莊餝。用了収置金光明寺。永爲寺物。隨事出用之。
古典研究サイト 埋れ木 より引用(巻第十九)
続日本紀 上代古典集∥埋もれ木

 

読み下し (国名部分は省略)
灌頂幡(かんちょうのはた 仏教の儀式で用いる旗)一具、道場幡(どうじょうのはた)四十九首、緋綱(あけのつな 赤色の綱)二条を頒(わか)ち下して、以て周忌御斎(しゅうきおほみおがみ)の荘飾(かざり)に充(あ)てしむ。用(もち)い了(おわ)らば、金光明寺(こんこうみょうじ 国分寺のこと)に収(おさ)め置きて永(なが)く寺物(じもつ)とし、事に随(したが)いて出(いだ)し用(もち)いしむ
参考:みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」
ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム

 

 史跡紀伊国分寺跡歴史公園は上記でも紹介したとおり非常に広大な公園なのですが、国道や県道に面しておらず(前面を通る道路は「市道東国分赤尾線」)、あまり多くの人の目に触れる場所にないことが非常に残念です。この広大な敷地の中に、再建とはいえ巨大な本堂が建つ風景は歴史ロマンを感じさせるのに十分な貫禄を示していますので、もっと多くの人々にこの魅力を知っていただきたいものです。