生石高原の麓から

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髪長姫 ~川辺町(現日高川町)鐘巻~

 「川辺」の名は知らなくても「道成寺」だけは知っている……。安珍清姫で語られる道成寺は、いまも昔も、日本の代表的な民話の舞台。だがその創建にまつわる話を知っているだろうか。

 

 大宝というから、もう1300年も昔のこと。この地に頭髪が一本もないという娘がいた。ところが、あるとき海底から親指ほどの金の十一面観音を拾い上げ、庵に安置すると、とたんに娘にみごとな黒髪が~。娘は、それを伝え聞いた右大臣藤原不比等の養女に迎えられ、やがて文武天皇の后となった。そして自分の悲願をかなえてくれた観音像をまつるため、天皇に願って建てたのが道成寺だ……という。


 いまも33年目ごとに開扉される秘仏千手観音」の胎内に安置されている。

 

(メモ:道成寺国鉄紀勢線道成寺駅の北400メートル、国道42号線から約3キロ。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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紀伊国名所図会 後編五之巻 道成寺全図
国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 天音山道成寺(てんのんざん どうじょうじ)は、日高川町鐘巻にある天台宗の寺院。大宝元年(701)の創建と伝えられ、和歌山県最古の寺とされる。能、歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い「安珍清姫伝説(後述)」で全国的に知られている。
  • 髪長姫の物語について、和歌山市出身の作家・神坂次郎氏はその著作「紀州歴史散歩 古熊野の道を往く創元社 1985)」において次のように紹介している。

 道成寺説話といえば、この安珍清姫の原色的な愛欲の物語だけが色濃く伝えられていて、かんじんの道成寺開創にまつわる、“髪長姫”の日本版シンデレラ物語を知るひとは意外にすくない。
 その、シンデレラ譚(ばなし)というのは、こうである。安珍清姫の説話よりも250年前の、いまから1270年の昔(筆者注:文武天皇の御代(697 - 707)のこととされる)、この九海士(筆者注:くあま 現在の御坊市の浦に漁師海女(あま)の夫婦がいた。子に恵まれなかったので氏神八幡宮に祈り、やがて玉のような女の子を得る。八幡宮からの授かり子というので“宮子”と名づけた。宮子は、やがてかがやくばかりの美少女になるのだが、奇妙なことにその頭には一筋の髪の毛もなかった。それが漁師一家の悩みであった。
 ところがある日、海底で光りを放っている一寸八分の純金の観音像を母が見つけ、宮子はそれをまつり、ひたすら祈念した。と、ふしぎなことに、にわかに髪毛が生えだしたのである。髪はずんずんのびて、やがては里の人びとが、“髪長姫”と噂するほどの長い、七尺あまり(2メートル以上)のみごとな黒髪にめぐまれたのである。
 にんげんの運などというのは、わからないものだ。この黒髪をすいている宮子の傍に飛んできたが、その抜け毛を一本くわえて飛び去り、その髪の毛がやがて権勢並びない右大臣、藤原不比等(ふひと)の目にとまる。不比等から見せられた一すじの髪毛に目をかがやかせた持統天皇は、諸国に命令してその“美しい黒髪をもつ娘”を探し求めた。
 こうして勅使、粟原真人につれられ都にのぼった宮子は、右大臣の養女となり藤原宮子姫として皇太子の妻に迎えられる。

 もちろん、これは寺の縁起にある話なのだが、天音山千手院道成寺は、この長い黒髪の美女、宮子姫の望郷の思いをなぐさめるため、夫の文武天皇紀伊国国司紀ノ道成に命じて建てさせた寺とされている。

 この寺には本尊が二体ある。本堂正面の南向きの一丈二尺(3.6メートル)本尊千手観音。そしてその観音と背中合わせに高僧、義淵(ぎえん)僧上が勅命をうけてつくった秘仏本尊一丈二尺の千手観音である。義淵僧上はその胎内に、宮子姫の守護仏である海中出現の一寸八分の観音仏を封じこめ、宮子姫のいる奈良の都に向け“北向き”にまつった。
 一つの寺に本尊を二体すえ、その一つを北に向けさせたのは、宮子姫への天皇の“愛”である。この日本版シンデレラ、宮子姫は、のち奈良の大仏を造った聖武天皇を産み、国母となった。

  • 道成寺の伝承において「宮子姫」と称される藤原宮子(ふじわらの みやこ ? - 754)は、文武天皇夫人(「皇后」ではなく、「夫人(ぶにん)」と称されたで、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)の生母。
    聖武天皇が即位直後に母・藤原宮子に「大夫人(だいぶにん)」の尊称を与えたが、長屋王らの反発によりこれを撤回し、文章上は「太夫」、口頭では「大御祖(おおみおや)」とする詔を出すという事件(辛巳事件 しんしじけん)が発生した。
  • 藤原宮子は、大宝元年(701)に首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を出産した後に心的障害に陥って長く療養を続けたが、天平9年(737)、僧・玄昉(げんぼう)の治療によって快復し、生後36年後にしてはじめてわが子・聖武天皇(724年に即位)と対面したと伝えられる。当時の状況について、鈴木英鷹氏は「天平時代の精神医学 ―藤原宮子の病状とその治療―(大阪河﨑リハビリテーション大学紀要 4巻 2010)」において次のように解説するとともに、宮子の病状回復に際して玄昉が寒食散(紫石英、白石英、赤石脂、鍾乳石、石硫黄、という五種類の鉱物を磨り潰したもの 五石散とも)という強壮薬・向精神薬を用いた可能性を示唆している。

藤原不比等の娘である藤原宮子は、本来藤原氏出身で初めて天皇の母となったこと一点をとっても、奈良時代史のなかでもっと注目が集まってもよい人物であるが、聖武天皇の母光明子(筆者注:光明皇后の姉であり姑であることはあまり省みられていない。宮子は聖武天皇を出産してから「幽憂」の状態にあって調子が悪く、わが子の聖武天皇すら、生んで以来36年も会わなかったという。そこへ吉備真備らと入唐し、天平7年(735)に帰国した玄肪が宮子を看護して、たちまち快癒させ、実に36年ぶりに宮子と聖武天皇の母子対面となったことを、「続日本紀天平9年(737)12月の記事は伝える。
大阪河﨑リハビリテーション大学リポジトリ

  • 藤原宮子が九海士の里の宮子姫であるという物語はあくまでも伝承であり、通説では、藤原宮子は藤原不比等の娘であり、光明子(後に宮子の子である聖武天皇の后となり光明皇后と呼ばれる)の姉であるとされている。しかし、国際日本文化研究センター初代所長を務めた哲学者・梅原猛氏は、その著作「海人と天皇朝日新聞社 1991)」において髪長姫の伝承が事実であったのではないかとの観点に基づいた考察を行っている。

梅原猛は、『海人と天皇新潮文庫(9503)で、宮子は不比等の養女であり、紀州の海女であったとする説を考証している
文武天皇紀州御坊へ療養の旅をしていたとき、美しい海女を見初めたが、いくら美女でも海女の娘では后にはなれないので、権力者・不比等が一旦養女とし、藤原の貴種として嫁入りすることとなった」というのである。
藤原宮子 - Wikipedia

 

  • 道成寺では中世以前の記録は失われているとされており、創建にまつわる同時代の資料は存在しない。髪長姫の物語は、古来口伝により伝承されてきたものが文政4年(1821)に絵巻物「道成寺宮子姫傅記(上・下)」としてまとめられており、以後、これが原典とされている。梅山秀幸氏の紀要論文「日本における「トリスタンとイズー」伝承群(一) : 髪長姫、絵姿女房、イズー、そして玉鬘桃山学院大学人間科学 37号 2009)」においてこの伝記が翻刻されているので、ここではこれを引用する(当該論文ではその内容について詳細な注釈が付されているが、これについては引用文の後に記載するリンクに基づき原著論文を参照されたい)。この伝記においては、宮子姫の父母は登場せず、宮子姫に髪が無かったという記述も無い点に注意が必要である。
    ※大橋直義「道成寺文書概観 -特に「縁起」をめぐる資料について
    国文学研究資料館国文研ニューズ」 No.49 2017)
    国文学研究資料館学術情報リポジトリ

爰(ここ)に人王四十二代の皇文武の帝と申奉るは、
草壁の皇子の御子、幼き御名はかるの王
諱は天の真宗豊の尊と申奉り、
大和国藤原の宮に入らせ給ふ。
此帝の御宇に、紀伊の国日高の郡に、
八幡山のにしの麓のかたほとりに
兄弟九人の海士有けり。
苫屋の柴戸、明るに賤のけぶりのたちかねて、
侘しきいとなみに 汐濡衣ほす間もなく、
春は色めで桜苔、花なき秋はもみぢ、
かい・鮑・さざゐを拾ひつゝ、千尋のそこに日を送りけり。
そが中に一人の乙女あり。名をといふ。
爰に不思議なる哉、
時々 海底より霓(にじ)の如くなる光り有り。
人びとあやしみ をそれけり。
をと女、兄にいふ様、
我も共にうみの底に業をいとなみけれども、
 光に恐れ、かの所へ水入せず、邂逅ならず。
 ひかり有はいぶかし。こころみにそこを探り見ん
と談りければ、人々とゞめけれども、
深くおもひ立し事なれば、
浪静成日、人に忍びて海に入。
(爰に天童現出て、告給、
 「この海底に光明の赫曜たるは観音の在す也。
  拾ひ上て得させよ
 と見し共いふ。)
玉藻・鹿角・菜藻かき分て、岩の端ざまを探りしに、
かたじけなくも、黄金をもて作りし千手観音の御像あり。
斯も尊き御仏を 滓となし奉るこそ恐しけれと、
自ら髻につゝみ籠め、我屋にかへり、
このよしを告語ければ、みなみなよろこび尊び奉り、
苫屋のひがしなる山路のいはのうへに草の庵をむすびつゝ、
則移し奉り、兄弟をこたりなく事りける。

ある時、みやこにて朝臣藤原の不比等参内のをりから、
南門の前に至りけるに、おふそらより翔来り、
南門に群り、軒にを作りありければ、
雀を追ひはらひ、巣を取よせ見れば、
ことごとく一丈余りの黒髪なるゆへ、
珍しき事におもひ、このよしに奏し奉りければ、
世にかみ長き人の有けるにやと、衆議まちまち成ぬ。
其後、時の有司をめし給ひ、
世に髪ながき人あるべし。尋ねきたるべきよし
勅定有ければ、叡慮のおもむきを申下し、
人を使して四方の国々へ発しけると南。

其後、乙女は怠りなく、朝夕み仏に仕えける。
粟田の真人、勅を承り、かみながき人を尋ね来りて、
みちのほとりに乙女の髪のながきを見給ひ、
是こそ尋需むる人ならめと、人をして尋させけるに、
妾は此郷に住賤の女也。
 この比、尊き御仏をひろひ、斯も仕り侍也
と言葉優美に唯へける。
是只人にあらずと、真人、帝の勅のよしをかたりて、
洛陽へともなひ参らん
と告ければ、乙女いふよう、
妾は八人の兄あり。
 何事もこのかみのこヽろに任すべし」と
唯へければ、夫より乙女に随ひ、苫屋にいたりける。

ほどなく賤の苫屋に至り、あらこもの褥をもふけヽれば、
其まヽ席に着給ひ、海士の兄弟を呼集め、
粟田の真人せんじのおもむきを申聞ければ、
よきにはからひ給はれ
といらへければ、夫より洛陽へともなひかへりける。

粟田の真人、海士の乙女をともなひ、
皇都にかへりて、帝へ奏し奉りける。
勅有て、藤原の不比等のやしなひ子となし、
宮子媛と号し、終に后妃になしけるとぞ。
(或云、粟田の真人は文武帝大宝元年正月遣唐使
 を承り、漢土に渡り、同じく慶雲元年の七月に帰朝す。
 又藤原の不比等元明帝の養老四年に薨ず。
 淡海公と諡すといふ)

(あま)の身のきのふと成て、雲のうへ、
今は花闕(かけつ 天皇の御殿)の奥ふかくいませども、
絶ず忘られぬは庵に残せし御仏のあめのやどりをもふけ度、
不比等にひたすらたのみけるに、
いなみがたく、此よし奏し奉れば、叡慮ましまして、
一宇建立いたすべきよし、紀の道成卿を召して勅せられける。

道成卿山にいりて、
材をきらしめ、筏に綴りて、川にながし、
自らも乗りて、是を左右し下りけり。
高津尾村九留世の流にちかづきける。
扨この瀬に乗かヽりて、あさましや、
いかだの端いはほ(巖)にはたとあたりければ、
さかまく水の勢ひにたたみかけて、ことごとく切れ、
兎や角とするうち、道成卿はげしき渦に沈けり
楫師も溺死するもの多かりしとなむ。

ほどなく伽藍も落成しければ、勅有て、
仏師をめしよせ、一丈二尺の千手観音を彫刻させ、
其躰に海底より拾ひ上し一寸八分の閻浮檀金(えんぶだいごん 良質の金のこと)の観音をこめ、堂の裏に納め奉る。
衆僧を集め、供養をいとなみ、
道成うけ給りて草創なしける由縁にて、
天音山道成寺と号しけり
其後、帝の勅して、海士の兄弟をめし給へども、
堅く辞して、此寺の傍に住みて、観音を信じ奉ると南。
往昔、この所は入江にて
西の山より三丁程の間に長き橋をかけ、往来せしといふ。
実や、桑田変じて蒼海と成理りにて、今は陸地と成ぬ。
又、八幡山南の麓成道に、神さびて小サキ社有。
宮子媛を祀り、海士明神と崇めけり。
髪の短くすくなき人は、苧を黒く染て、此神に供えて祈けると南。
是より一丁程西に九海士といふ所有。
宮子媛の産郷也。今は巫女の住けると也

筆者注:読みやすくするため、レイアウトを変更した。

桃山学院大学学術機関リポジトリ

  • 上記の引用文中にもあるが、道成寺造営の勅命を受けた紀道成紀大臣藤原道成とも)は、建築材料とする木材を筏で運ぶ際に岩に当たって落水し、命を落としたと伝えられる。文武天皇はこれを悼んで紀道大明神の神号を贈り、その霊を祀って建立されたのが現在の紀道神社(きどうじんじゃ 日高川町三百瀬)である。同社には、道成寺の三世盛海が江戸時代の享保年間(1716 - 1736)に寄贈したとされる「紀道大明神縁起絵巻」が伝えられており、ここにも髪長姫の物語が記述されているため、これについても上記で引用した梅山秀幸氏の紀要論文を引用する。この縁起の詳細についても上記と同様にリンク先の紀要論文を参照されたいが、ここでは通説として語られているように宮子姫には髪が無く、黄金の観音像を発見したのは宮子姫の母親とされている。ただし、宮子姫のは漁師ではなく、荒海氏重勝という流落の者と伝えられているとする。
    和歌山県神社庁-紀道神社 きどうじんじゃ-
    ※上記の神社庁のサイトでは「紀道大明神縁起絵巻」を寄贈した盛海を「道成寺一世」としているが、上述の大橋直義「道成寺文書概観」に基づけば盛海は「道成寺三世」とみるのが適当であると思われる。

紀伊国日高郡三百瀬の神社は、
人皇四十二代文武天皇の御宇、
藤原道成卿神霊跡を垂給地也。
卿は大織冠三世の孫也。
当初道成卿、勅を奉て、同郡矢田荘に寺を営給。
濫觴(らんしょう 物事のはじまり)相伝曰、
昔寺の西吉田邑、其間百歩余り、水ながれ潮通ひ、
長橋有て 人往来す。今皆田苑となる。
吉田の辺に蜑(あま)戸あり。
潜のいとまなく、日毎に海の深に入。
一時水底光有て、海を照す。蜑人是をおそる。
時にひとりの蜑、光を認て推尋、
観音薩埵の尊像を見奉り、
感じ得て家に還り、蜑家の不浄なるを厭ひ、
里の隣に樹陰の便を求め、
茅をむすびて尊像を安置し、数の歩を運ぬ
(一説、閻浮檀金一寸八分金像の観世音
 蜑のにとりつき、海底よりあがらせ給ふ)

蜑にひとりの女子あり。
容貌すぐれ、
襁褓(筆者注:むつき おしめ・おむつのこと)の中より髪不生。
母常に是を憂とす。
或夜の夢に、彼観世音枕のほとりに立給ひ、
我は是衆生済度の為にこゝに来れり。
 汝宿世の善縁有、所願を適給ん
となり。
母夢中にわが子の髪生、ゆくえ長からんことをねがふ。
さめて後、髪をのづからはえ、漸く長に余り、淑姿世に類ひなし
此利生を被り、母子ひとへに彼観音を念じ奉る。
髪を薩埵のたまものとし、梳り落れば、
母其髪をとり、木の枝にかけ、人をして踏しめず。
伝曰、荒海氏重勝といふ者流落し、
此所に来り、蜑乙女を妻とし、此子をまうけヽるとなり。

野鳥此髪を含み、自然に禁裏に伝へ、
御園の桜に巣くふ。髪垂て、偶 叡覧に入。
巣をおろし見せしめ給ふに、此髪あり。
頓て王畿の内外に命じて、このながき髪の人を求しめ給
遂、紀伊国日高 吉田の辺に到り、
蜑の子の髪を見て かへり奏す。
帝此蜑の子をめして、いつくしみ有。
妾、心さへやさしく、後は后妃の数に入けるとなり。
相伝曰、此時の勅使、称号大広橋。
(一説、蜑の子観世音の利生により、
 一夜醜容変して美婦となる。
 此事達叡聞、禁裏にめし給ふ。勅使道成卿)

妾、雨にむかふごとにおもひの色有。
いかにかくあるぞ
との勅問なり。
妾、事のあるかたを以てまうし、
且は尊像雨露の便なきことをなげく
帝、叡感有。これが為に寺を創給
道成卿 勅を奉て、興行有。
大宝年中伽藍成就し、
此卿の諱に因て道成寺と号し、
永代の勅願寺となり、
海底の尊像をして新造の仏胎に蔵しめ給
今寺の本尊、丈余の千手これなり。
土人、妾を蜑王子と称し、吉田の辺に叢社在。
醍醐帝の御代、延長年中、
真名子庄司の娘変じて蛇体となりて此寺に入しより、
由来猶世に伝へ、貴賎の男女こゝにつどふ。
皆これ観世音済度の方便なるべし。

道成卿、寺の東三百瀬の里に薨御有。
因て此地にかくしまつる。
帝 神号を道成卿に賜る。
当社 紀道大明神、是也。
蓋、此卿君子の徳盛にして、道を修め、
皇家を補佐し、民を専一給けるものか。
人わづかにも道の心を以て神の佑を祈り奉れば、
感応影響よりも捷なり。
願望成就せずといふことなし。
神徳日々に章れ、如在の礼奠懈らず。
凡仏徳・帝徳・臣の徳、冥合して、
彼寺さかりさかえ、吾朝の霊場となるといへども、
特には道成卿の遺徳、当社の神功ならんかし。
かれは此地に鎮座在、国家擁護の神と現し、
万世跡を垂給ふ。

中比野火の殃にかヽり神宝古記等今なし
土人のことをとめて斯に記し将来に伝畢
筆者注:読みやすくするため、レイアウトを変更した。

桃山学院大学学術機関リポジトリ

  • 上述の神坂次郎氏の著作にみられるような、現在伝えられている「髪長姫の物語」の形が確立したのは昭和4年(1929)に道成寺から発行された「道成寺絵とき本小野宏海述 藤原成憲画 出版社:道成寺護持会)」によるものと考えられる。上述の梅山秀幸氏の紀要論文にその概要が紹介されているため、その内容は当該論文において確認願いたいが、「宮子姫」の名の由来八幡宮の申し子とする)、宮子の両親の名(早鷹と渚)、「髪長姫」という呼び名など、この物語の詳細なエピソードはこの「絵とき本」において固定化されたものであろう。

  

  • 道成寺創建の由来となった金の観音像については、上記の神坂次郎氏の著作にもあるように、本尊と背中合わせに配置された秘仏・千手観音像北向観音後立本尊とも)の胎内に収められていると伝えられてきた。和歌山県教育委員会が作成した「道成寺調査報告書(2012)」によれば、天保12年(1841)に和歌浦雲蓋院(現在の和歌山市)が道成寺について作成した文書「御調ニ付書上」には次のように記載されており、この時点では金の観音像を胎内に収めていると考えられていたことが伺える。

一 本尊前立千手観世音立像 御長壱丈弐尺 行基
一 脇士日光 月光 立像 御長八尺 同作
一 後立千手観世音 立像 御長壱丈弐尺 龍門寺義淵僧正作
     此尊像之御腹内ニ海中より出現之候千手観世音
     御長壱寸八歩之閻浮金之尊像を作り籠奉リ御座候

文化財各種報告書 | 和歌山県教育委員会

  • 北向観音秘仏であり、33年に一度、33日間しか公開されない。しかし、その中間期にあたる昭和62年(1987)、本堂の解体修理のために北向観音を一時的に移動した際、その胎内に仏像が収められていることが発見された。体内から取り出された仏像は損傷が甚だしく、全身の背面部が表皮のように薄く残っているだけで中心部材と顔面部及び胸・腹部の部材は殆ど残っていなかったが、残存部分をもとに全体を復元したところ、奈良時代後半から平安時代初期の一時期に流行した技法、乾漆併用の一木彫成像であったことが明らかになった。下記の個人サイトにあるように、発見当時は日本最大の胎内仏として全国から注目を集めた。現在、復元された胎内仏は国の重要文化財に指定され、「根本本尊」として道成寺本堂に祀られている。しかしながら、道成寺の創建縁起にある「一尺八寸の金の観音像」は確認されていない模様である。
    文化財各種報告書 | 和歌山県教育委員会
    第12話・道成寺 根本本尊・千手観音像 発見物語

 

  • 安珍清姫伝説とは、熊野詣の僧・安珍に一夜の宿を提供した家の娘・清姫が、約束を破った安珍大蛇となって追いかけて、最後には道成寺の鐘の中に逃げこんだ安珍を焔で焼き殺すという物語。能、歌舞伎、浄瑠璃など様々な芸能のテーマとして取り上げられているが、道成寺では住職による「絵とき説法」が有名である。同寺のWebサイトでは、この物語を次のように紹介している。

延長6年(929)、奥州から熊野詣に来た修行僧・安珍は、真砂庄司の娘・清姫に一目惚れされた。清姫の情熱を断りきれない安珍は、熊野からの帰りに再び立ち寄ることを約束した。

約束の日に安珍は来ない。清姫は旅人の目もかまわず安珍を追い求める。
そこなる女房の気しき御覧候へ
誠にもあなあな恐ろしの気色や

やっと安珍に追いついたものの、人違いと言われて清姫は激怒。
おのれはどこどこ迄やるまじきものを
安珍は「南無金剛童子、助け給え」と祈る。

祈りで目がくらんだ清姫安珍を見失い更に逆上。
清姫の怒りと悲哀
先世にいかなる悪業を作て今生にかかる縁に報らん。南無観世音、此世も後の世もたすけ給へ

日高川に到った安珍は船で渡るが、船頭は清姫を渡そうとしない。
遂に一念の毒蛇となって川を渡る
この場面から文楽の「日高川入相花王」ができた。
舞台もいよいよ道成寺へ。

道成寺に逃げ込んだ安珍をかくまう僧。
その鐘を御堂の内に入れよ、戸を立つべし
女難の珍客に同情しない僧も。
ひきかづきて過ちすな」「ただ置け、これほどのものを

この蛇、跡を尋ねて当寺に追い到り・・・
鐘を巻いて龍頭をくわえ尾をもて叩く。
さて三時余り火炎燃え上がり、人近付くべき様なし。」
クライマックス「鐘巻」の場面。

安珍が焼死清姫が入水自殺した後、
住持は二人が蛇道に転生した夢を見た。
法華経供養を営むと、二人が天人の姿で現れ、
熊野権現観音菩薩の化身だった事を明かす。

道成寺 - 安珍と清姫の物語

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。