生石高原の麓から

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狼の乳岩 ~中辺路町(現田辺市)滝尻~

  かつて、きらびやかな王朝貴族が行きかい、おびただしい庶民が「蟻の熊野詣で」の形容そのままに、ただひたすら熊野へと歩を急がせた「熊野古道」。いまや、そのおもかげをとどめるコースは少なくなったが、石船川が富田川に合流するあたりに、小さな社がある。

 

 熊野九十九王子の中でも、藤白王子海南市)や切目王子印南町)などとともに「五体王子」のひとつとしてあがめられた「滝尻王子」、そして、その背後の急傾斜の古道を300メートルほど登ったところにある岩が「乳岩」、すぐ近くに「胎内くぐり」の洞穴がある。


 奥州平泉の棟領、藤原秀衡(1187)は40歳になっても子宝に恵まれなかった。そこで、熊野権現へ17日間の願をかけ、一心不乱に祈ったところ、不思議や妻が身ごもった。
 「これぞ神のおぼしめしなり
 喜んだ秀衡は、懐妊7か月のを連れて、熊野へお礼参りに出発した。長い旅路を重ねて滝尻の里にたどりつき、王子社に詣でたところ、五大王子が現われ「里の山頂に洞穴がある。そこで子を産み、岩屋に預けて熊野へ詣でよ」と告げた。すると、妻が急に産気づき、玉のような男児を出産した。


 元気な産声をあげる赤ん坊を、そのまま岩穴に寝かせて熊野へ急いだ秀衡は、無事、参詣を終え、岩壁に駈け登ってみると、赤ん坊は一匹の大きなに守られながら、岩の問からしたたり落ちる乳を飲んで、丸々と太っていた。


 これこそ神のご加護。神は、身重の妻の長旅をふびんに思われ、子どもを預かってくれたに相違ない。深く感動した秀衡は、そのお礼として、王子社に立派な伽藍を建て、小太刀やヨロイ、カブトを献上した。また、伽藍が未永く残るよう、後々の修築費として、黄金をツボに入れて近くへ埋めたという。そしてその赤ん坊は、のち泉三郎忠衡という豪勇の武者に成長した…と。

 

 滝尻王子と乳岩は、そんな古い時代の話を伝える。
 岩は、4メートル四方もあろうか。その下の岩場が、秀衡夫妻が赤ん坊を預けた場所だといい、洞くつは、奥行き約6メートル。入り口は広いが、その向こうは、やっと身体が抜け出るほどの広さ。そばに小さな祠がある。
 地元では、ここへ女の乳首に似た物を供え、乳岩と胎内くぐりの岩屋に参ると、乳の出がよくなるという話も残り、参拝者たちは、息をはずませながら、この急斜面を登って行く。


 「山河の たぎりて落ちる滝の尻 わたせる橋もたのもしき」(宴曲抄)

 

 「滝尻」の名は、石船川の急流が富田川に注ぐ滝のような、強い水音からきたといい、古くから、熊野の霊域への入口とされてきた。
 天仁2年(1109)、熊野詣での藤原宗忠は、ここで「初めて御山の内に入る」と記した。「源平盛衰記」にも「滝尻王子に着きたまひ王子の御前に通夜し給ひ(中略)明ぬれば峻しき岩間をよじ登り、下品下生の鳥居の銘御覧ずるこそ嬉しけれ」と、霊域への到達の模様が残されている。


 人々はここで垢離(こり)をし、神楽や歌会を催した。室町時代に入っても、上級の武家は、こぞって華麗な神事を奉納した。
 周辺にあったと思われる「御所」についての文献は少ない。ただ建仁元年(1201)、御所での歌会に出席した定家が「読上了り、退出し、此王子に参り宿舎に帰る」と、御幸記に残している。御所が、宿所や王子付近にあったことを思わせる。

 

 いま「古道」の名で呼ばれる熊野への参詣道は、国道とは反対の、富田川の左岸をしばらくさかのぼり、山を越えて、滝尻の社の裏の林に通じた。だが、この道をたずねる人は少ない。木もれ陽が輝やく落葉の小径は、やがてコケむした石積みに変わり、平谷山の頂上に続く。急傾斜の道をあえぎあえぎ、300メートルほど登ると目の前が開け、峠に出る。峰の空高く、野鳥の群れが飛ぶ。

 

 今し我が 越え行く峰の空遠く 真鶸(まいわ)の群の光一つ飛ぶ(喜蔵)

 

(メモ:滝尻王子社は、清姫の墓から311号線を東へ約3キロ。中辺路町内には、このほか不寝大門十丈大阪本近露比曽原継桜各王子や「牛馬童子」(箸折峠)、また近露には国民宿舎や「野長瀬一族の墓」などもある。)
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

乳岩

 

  • 滝尻王子は、古来の熊野古道において、岩田川での禊を経ていよいよ熊野の聖域に入る中継地として極めて重要な位置にあった。このため、天皇上皇らが熊野詣を行った際には、ようやくこの地にたどり着いたことを喜び、歌会や奉幣などの儀式を営んだという記録が残されている。これについて、和歌山県が管理するWebサイト「わかやま歴史物語100」のうち「熊野三山の神域の始まり、滝尻王子を越えて」の項では次のような解説が掲載されている。

熊野三山の神域の始まり、滝尻王子を越え
 山あいの道を進み、中辺路へ向かう古道の旅は、三栖王子から八上王子を経て、岩田川(現・富田川)上流の滝尻王子を目指します。『平家物語』『義経記』にもその名が見られる岩田川は、熊野詣における重要な垢離(こり)の川として知られ、この川を渡ることこそが禊でした。平安時代末期の公卿・藤原宗忠は、19回もの渡河を重ね、滝尻まで到着した道行きについて「誠に身力が尽きた」と感想を残しています。承元4年(1210)には後鳥羽上皇の室、修明門院が前夜からの悪天候をおして渡河するも9人が溺死する悲劇に見舞われ、岩田川での渡河がいかに過酷な行いであったかを物語っています。この渡河を避けるため、中世後期からは一般庶民が「潮見峠越」と呼ばれる道を歩きました。近世には、熊野の湯や三山へのお参りを楽しんだといわれています。熊野三山における神域の始まり、滝尻王子からは厳しい上り坂に。「胎内くぐり」「乳岩」といった藤原秀衡ゆかりのスポットから箸折峠牛馬童子にたどり着きます。坂を下り、日置川を渡って近露王子に到着。ここからさらに野中の一方杉がある継桜王子女坂男坂、せせらぎの音が美しい道湯川の集落跡を経て三越を目指します。
熊野三山の神域の始まり、滝尻王子を越えて | わかやま歴史物語

 

  • 田辺市出身の教育者・那須晴次氏は、昭和5年(1930)に発行された自身の著作「伝説の熊野(郷土研究会)」に、「乳岩の伝説」と題した文章を掲載している。ここで、那須氏は滝尻神社滝尻王子)の神主・櫟田(くぬぎだ?)から聞いた話を中心に、乳岩の伝承と栗栖川地区の歴史について次のように書いている。

乳岩の伝説(栗栖川)
 田邊から六里(筆者注:約24キロメートル) 岩田川に沿うて瀧尻神社に神主櫟田さんを訪う。ここは九十九王子の一つ後鳥羽院熊野御幸の時 瀧尻宿所にて御歌の会のあったところだ。

 そめし秋を くれぬとたれか いわ田川
         また浪こゆる 山姫の袖
 瀧川の ひびきはいそぐ 旅の庵を
         しづかにすぐる 冬の月影

という御会の御歌がのこされている、やがて櫟田神官藤原秀衡が奉納の小太刀矢根とを見せられた。往昔 秀衝を携え熊野本宮に参詣の砌(みぎり)、其の妻臨月にて此の地に至り産の気あり 人家なきを以て社辺の岩窟にて和泉三郎を生む、其時三郎を岩窟に舎(お)きしまま本宮へ参詣した
 途中野中にて手折り桜の枝を地にさし参詣の帰途まで此花咲き居るならば三郎は無事なりと立願せしにやがて本宮の帰るさ之を見れば果して桜花そのままであった。急ぎ岩窟に至ればあら不思議や三郎はに抱かれていて、岩より白く滴る乳を飲んでいる。そしてまるまると肥えて居るのを見た。依って七堂伽藍を造営し其修繕維持費として黄金を壺にして近辺に埋めた その文句には。
   朝日さし夕日かがやく榊のもとに
と、これは黄金の壷の所在である。なるほど山嶺に夜な夜なく光るものがある。そこは朝日さし夕日かがやく榊のもとであった。或時村の若者がそれを掘って見ると壺の中から梵字の巻物と黄金のような塊がいくつも出たという。

 櫟田さんはを出してこれだという。大きな茶壺のような形であって淡いチャンが流してある。それから櫟田さんの案?ですぐ神社の上の乳岩を探る。中々嶮岨で山上に岩窟がある。布で作った乳の形が岩窟の入口に幾つも吊されているのは乳の出ぬ婦人が詣るのだと言う。試みに岩窟中を匍匐って見ると向うに明りが見えて、小さい出口だが子を負った婦人でも、私どもでも頭がすれすれに通れるという。
 櫟田神司はいろいろこの地の伝説について話されるので中々興味が盡きない。清姫の生地はこの地真砂であるが庄司という姓は此地方が五番の庄とかいわれた其庄屋であったからだ。今でも栗栖川三番の庄という。それで清姫の本名真砂キヨというそうだ。先年日高道成寺に於て清姫千五百年祭が行われたのに本家本元の清姫の生地には其家が今でも伝わっているのに何にも招待をよこさぬとて憤慨していた。但し系図は北海道へ此家の人が持っていったという。さて此真砂には今でも非常な美人が時折に出る。それは素的な美人が出る。但し滅多に出ない。又此地の女は髪の毛の端が二つに分れているという噂だという、こんな話があとヘあとへと櫟田氏の口から物語られた。
 往昔、此の熊野往来は三栖村より岡へ越した岡の王子社それから岩田の王子瀧尻の王子九十九王子が数えられる、それは皆山阪を越えて丁度宿所や安息所にあてられる場所を適当に選ばれている。昔の人の旅は永い道中に変化あらしめんが為め必ず山坂を越せば川に出で、川に沿いては山に入るといった工合に、それは嶮岨でもいとわず景色のよい所を選んだのは全く情趣に基いた旅であった。現に乳岩の嶮を見ればよくそれが証明せられる。今の人の自動車や自転車やブロペラ船や汽車で楽な道を早く旅しようというのとは大分趣が異うと思った。

  • 上記引用文中にある桜の枝の話は、別項「秀衡桜」で詳述する。
  • 上記引用文中にある「朝日さし夕日かがやく榊のもとに」の文言や黄金の壷にまつわる話は、いわゆる「朝日長者」と呼ばれる伝承で、日本各地に同様の話が伝えられている。
    朝日長者とは - コトバンク

 

  • 藤原秀衡(ふじわら の ひでひら 1122? - 1187)平安時代末期の武将で奥州藤原氏第3代当主中尊寺金色堂に代表される華麗な「平泉文化」が最盛期を誇った時期の当主であり、源義経を庇護したことでも知られる。詳細については別項「秀衡桜」を参照されたい。
    秀衡桜 ~中辺路町(現田辺市)野中~ - 生石高原の麓から
  • 秀衡桜」の項で詳述するが、藤原秀衡が熊野参詣を行ったという公式な記録はない。しかしながら、江戸時代に作成された地誌「熊野巡覧記」や「紀伊風土記」には秀衡夫妻が熊野詣の際に滝尻王子で出産し、これに感謝して宝剣等を寄進したとの伝承が記載されており、少なくともこの頃には秀衡の伝承が確立していたことが伺える。
  • 和歌山市出身の博物学者・南方熊楠(みなかた くまぐす 1867 - 1941)は、その著作「十二支考(1914年から10年間にわたり雑誌「太陽(博文館)」に連載された著作群)」のうち、「虎に関する史話と伝説民俗 (付)狼が人の子を育つること」において次のように書いており、熊楠の義妹剣山(滝尻王子の背後の山を指す)の神官の子婦であったことから、この話を毎度耳にしていたという。
    ※熊楠の妻・松枝闘鶏神社田辺市宮司を務めていた田村家の出身であり、妻の妹の広恵はその田村家を継いでいる。松枝にはもうひとり菊重という妹がいたため、この妹が滝尻王子社の神官に嫁いだものか?)

 また日本の狼が人の子を助け育てた実例はないとは尤もな言い分だが、そんな話は確かに伝わりおる。『紀南郷導記』に、西牟婁郡滝尻五体王子剣山権現ともいふ由なり、往昔秀衡の室(筆者注:秀衡の妻)、社後の岩窟にて臨産の節、祈願して母子安全たり、また王子に祈誓し、この子をすなはち巌窟に捨て置き、三山に詣して帰路にこれをみるに、狐狼等守護していさゝかも恙なき故に、七重伽藍を建立」したと見ゆ。拙妻の妹が剣山の神官の子婦だから、この話は毎度耳にしおり、乳岩という岩ありて乳を滴り出し、狐狼がそれで以て秀衡の幼児(後に泉三郎忠衡を育てたそうだ。

  • 上記の南方熊楠の文中にもあるように、この時生まれた子供は藤原忠衡(ふじわら の ただひら 1167 - 1189 秀衡の三男で、泉が城(岩手県西磐井郡平泉町)を居館としていたため「泉三郎」とも呼ばれる)であるとされている。記録では、秀衡には五人の男子がいたとされ、長男・国衡(くにひら 出生年不詳)庶子(側室の子)であったため家督嫡子正室の子)である次男・泰衡(やすひら 1155? - 1189)が相続した。このため、秀衡には忠衡誕生より前に嫡子がいたことになり、この点で本文の伝承(子宝に恵まれなかった熊野権現に願をかけた)にはいささか矛盾があると言わざるを得ない。
  • 上述したように、藤原秀衡源頼朝と対立した源義経を庇護したことで知られる(詳細は別項「武蔵坊弁慶」の後段を参照のこと)。文治3年(1187)2月、義経は正妻の郷御前4歳の女子及び武蔵坊弁慶らわずかな家臣を伴って秀衡のもとを訪れ、衣川館(ころもがわのたち 現在の平泉町に隠れ住んだが、その9か月後に秀衡は病没した。家督を継いだ泰衡であったが、頼朝からの圧力に抗しきれず、「源義経を主君として推戴し、兄弟心を一つにして鎌倉の源頼朝に対抗せよ」との父の遺言に反して文治5年(1189)、義経主従を急襲してこれを討ち果たし、義経は自害した(衣川の戦い)。
  • 熊野で出生したと伝えられる泉三郎忠衡は、兄である当主・泰衡に対して父の遺言を守り、義経を主君として頼朝に対抗すべしと主張したが、泰衡はこれを受け入れなかった。泰衡は自害した義経の首を鎌倉へ送って頼朝に恭順の意を示したが、奥州藤原氏の勢力を恐れた頼朝がなおも強硬姿勢を崩さなかったため、泰衡義経に加担した者を処分するとの名目で忠衡を謀殺したとされる。これについて、鎌倉時代に成立した歴史書吾妻鏡」文治5年(1189)6月26日の項には次のような記述がある。

文治五年六月大廿六日甲寅
奥州有兵革
泰衡誅弟泉三郎忠衡[年廿三]
是同意与州之間
依有 宣下旨也云々

 

文治5年(1189)6月大26日甲寅
奥州に兵革有り
泰衡、弟の泉三郎忠衡[年23]を誅す
是れ与州(よしゅう 義経のこと)に同意之間(味方しているので)
宣下(追討の命令)の旨 有るに依て也と云々

吾妻鏡9巻文治5年6月

 

  • 能作者・宮増(みやます)が作ったとされる能「錦戸」は、秀衡の三人の子を主人公とした作品で、家を守るために頼朝に臣従しようとする長男・錦戸太郎国衡)、二男・泰衡と、父の遺言を守り義経への忠節を尽くそうとする泉三郎忠衡との相克を描いた物語である。この作品について、週刊長野新聞社長野市)のWebサイトの「謡跡めぐり」の項で紹介されているので、その一部を引用する。

錦戸(にしきど)~義経終焉の曲
〈あらすじ〉 義経頼朝の追討から逃れて、奥州の藤原秀衡の保護を受けていた。が、秀衡が死んだ後、その長男・錦戸太郎は2男・泰衡とともに、頼朝の脅しと誘いに乗って義経を討とうと企て、3男・泉三郎を説得するため館を訪れる。ところが、三郎は父の遺言を固く守って反対し、口論の末、錦戸は兄弟の縁を切って帰る。三郎がこのことを妻に語っていると、錦戸と泰衡が早くも攻め寄せてきた。これを知った妻は夫が潔く戦えるようにと腰刀で自害する三郎は奮戦し、力尽きて持佛堂に入って妻の後を追って腹を切った。三郎の武士としての忠節と、けなげな妻とをたたえた謡曲

 「義経記」などによると、兄の源頼朝に追われた義経は、奥州の藤原秀衡を頼って平泉に入った。この間の逃避行の経緯は謡曲でも「船弁慶」「吉野静」「忠信」「安宅」「摂待」などに謡われている。今回の「錦戸」は、義経弁慶は登場しないが、それらを締めくくる「義経の終焉の曲」ともいえる。
 秀衡には3人の息子がいた。長男・国衡は側室の子で、西木戸に居宅を構えていたことから西木戸錦戸太郎と呼ばれた。2男・泰衡正室の子のため、藤原4代目として跡を継いだ。3男・忠衡は、泰衡と同腹の弟で、泉ケ城に住んでいたことから泉三郎と呼ばれた。父の秀衡泰衡を一応、後継者にしたものの、人物的に劣り、兄弟の不和も心配して、義経を当主とし、3兄弟が協力して支えていくことを誓約させていた。ところが秀衡が死ぬと、兄2人は父を裏切って頼朝に加担し、最後まで反対する三郎を抹殺した。謡曲「錦戸」はここで終わっている。
(略)

東北5県04 錦戸(にしきど)〜義経終焉の曲 - 週刊長野記事アーカイブ

 

 

 

  • メモ欄中、野長瀬一族は大和十津川郷を発祥の地とし、13世紀初頭に近露荘下司(荘園管理者)に任ぜられた野長瀬氏の一統である。鎌倉時代の末期、大塔宮護良親王の熊野落ちの際に、十津川で玉置庄司の軍勢に取り囲まれて窮地に陥った大塔宮野長瀬六郎・七郎が3000人の軍勢を率いて救出したというエピソードで良く知られている。(詳細は別項「野長瀬一族 」参照のこと)。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。