生石高原の麓から

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野長瀬一族 ~中辺路町(現田辺市中辺路町)近露~

 国道311号線を近露に入ると、間もなく道の北側に小さな丘陵が見えてくる。その明るい共同墓地の地続きに、野長瀬一族の墓がある。南朝を守った強者たちをまつるその墓には、五輪塔が54基と、宝篋印塔が6基。県文化財

 

 野長瀬家は、もともと清和源氏の流れをくみ、盛経の子、経忠が野長瀬姓を名乗り吉野に住んだ。寛喜元年(1229年)、その子の頼忠庄司六郎と称し近露へ。元弘2年(1332)頼忠の孫・盛忠が、奈良を追われて熊野へ落ちのびる大塔宮護良親王を足利軍から救出、その功で横矢姓を賜わった。さらに後醍醐天皇に加勢し、河内・千早城に孤立した楠木正成に、はるばる山を越えて兵糧を運んだという。


 現当主の盛孝氏(大正2年生)は28代目。町は、一族と正成の友情にちなみ、千早赤坂村と姉妹縁組みし、歴史の町の友好を結ぶ。

 

 盛忠の流れをくむ野長瀬家と横矢家は近露に多い。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

野長瀬氏・横矢氏一族の墓所

 

  • 野長瀬(のながせ)一族の墓地は、昭和43年に史跡として和歌山県文化財に指定されたが、平成17年に名称変更され、現在は「野長瀬氏・横矢氏一族の墓所」となっている。この墓所について、現地の説明板では次のように解説されている。

和歌山県指定文化財
野長瀬(のながせ)氏・横矢(よこや)氏一族の墓所
 野長瀬氏は大和十津川郷野長瀬組の出、生業を通じて機内各地と交易し、13世紀初頭近露(ちかつゆ)下司(げし 筆者注:荘園の現地管理者)職となり当地と往来、河内楠木氏らとも交流したと考えられる。元弘の変以後楠木正成(くすのき まさしげ)を助け、また南都から吉野に向かった護良(もりよし/もりなが)親王の危急を救ったことは「太平記に見え、その功により横矢姓を賜ると伝えられる。以後一族はそれぞれ野長瀬横矢を称し、南朝後南朝を助けたが、利あらず近露に帰住、勢力を張った。
 豊臣氏紀州征伐に抗し一族離散、数十年後再び近露に戻り、家運の再興を図り現在に至っている。これらの墓碑は後南朝以後、紀州征伐の頃までの一族のものと思われるが付近山中に長く埋もれていたのを1960年初頭発掘、ここに祀った。五輪54基、宝篋印塔6基。

 

  • 上記引用文中にあるように、ここに祀られている五輪塔宝篋印塔は山中に埋もれていたところを1960年代に発掘したものである。発掘を行ったのは、本文に登場する野長瀬盛孝氏(2001年没)で、氏は自らの著書「野長瀬氏の事績(熊野出版 1994 非売品)」の「あとがき」で次のように述べている。

(略)
 昭和36年和歌山県聖蹟(筆者注:紀元2600年奉祝会和歌山県支部編 1942)』を手本にして、『野長瀬の流れ(筆者注:野長瀬盛孝著 私刊 1961)』を出して、野長瀬先祖の紹介をさせていただいたが、その後昭和24年の強制開墾に依って、旧墓地だったと思われる樫林より沢山の五輪塔及び宝篋印塔が掘り出され、長い間放置されていたのを整理し、昭和42年の旧盆に供養しお祭をした。
 その後、白浜町の故浦政吉の大変な御努力で43年には「野長瀬一族の墓地」として、県史蹟に指定された。その後、瀧川政次郎先生の御紹介で京都の川勝政次郎博士の現地の鑑定により、室町時代以後のものであると判明した。
 五輪塔の数は系図の人数と一致したので、『太平記』の大塔宮熊野落ちに出て、宮をおたすけした野長瀬六郎七郎なる人物は架空の人物でなく、当時実在し、死後600年程観音寺の森に眠って居られたことがはっきりしたのである。又、大塔宮をおたすけしたことに続いて、千早城楠正成に兵糧を贈ってこれを救った話を冒頭の野長瀬氏の事蹟で説明させてもらった。私はこの兵糧の路を探ってみたく、昭和45年同志2人(木下幸文君・川端種秀君)と、果無山脈を越えて歩いたり車に乗ったりして、2泊3日の旅をし、千早城跡にたどりついたのであった。
 この時書いた『南朝の跡を尋ねて』が読売新聞に大きく取り上げられ、それが縁となって、千早赤阪村中辺路町(筆者注:当時。現在は田辺市と合併して田辺市中辺路町。)の友好提携が出来あがり、今年平成6年8月には楠公(筆者注:なんこう 楠木正成のこと)生誕700年を記念して3泊4日の旅で、千早から近露まで600年前の兵糧のお礼に来て下さる由、歴史は甦ると申しますが、本当に夢のような有難い話で御先祖も感涙にむせぶことと思います。
 私も祖先の事績を顕彰してきた甲斐があったと、千早赤阪村の方々に心より感謝しお礼を申し上げて、30年余の私の祖先顕彰の稿を一先ず終りにしたいと思います。ありがとうございました。(註 8月21日 千早の方々200人来て下さった)
 平成6年7月吉日
   野長瀨盛孝

 

 

  • 元弘元年(1331)、後醍醐天皇山城国(現在の京都府笠置山において倒幕の兵を挙げたが、幕府軍足利高氏(後の尊氏)新田義貞らの大軍を差し向けて笠置を落とし、後醍醐天皇を囚えた。しかし、その後も大塔宮楠木正成とともに河内赤坂城に籠ってなおも戦いを続けた。楠木軍は城壁に近づいてきた幕府方兵士の頭の上から大木を落とし、あるいは熱湯や糞尿を浴びせかけるなどの奇策をもって奮戦するものの、幕府軍の大軍勢には抗しきれず、遂に赤坂城に自ら火を放って正成を含む城兵はみな焼死したと思わせる計略をもって一旦退却した。

 

  • 室町時代に成立したとされる戦記物語「太平記」のうち「巻第五」の「大塔宮熊野落事(おおとうのみや くまのおち のこと)」という項によれば、赤坂城を脱出した大塔宮の一行は熊野衆の支援を受けようと紀伊国に入ったが、切目王子(現在の印南町で託宣を受け、進路を十津川へ変更することとなった。この経緯については、別項「軍道の腰神さん」で詳述したところである。
    軍道の腰神さん ~印南町崎の原~ - 生石高原の麓から
  • 十津川にたどり着いた大塔宮一行は、同地の竹原八郎戸野兵衛といった人物のもとでしばらく滞在していたが、幕府方についた熊野別当熊野三山の統括者)定遍が「大塔宮を討った者には恩賞を与える」との高札を掲げたことを知り、十津川を離れて高野山へ赴くことにした。その途上、大塔宮一行が玉置庄司※1の軍勢に包囲されて絶体絶命の危機に陥った時、「紀伊国の住人野長瀬六郎・七郎」が三千余騎の部下を率いて駆けつけて危難を救ったとされる。野長瀬氏の軍勢は、赤坂城落城以来はじめて大塔宮が配下に収めた戦力で、これを機に十津川・宇智・葛城の郷士や玉置山の宗徒らが合流し、後の吉野挙兵への体制が整えられることとなった。この前後の状況について、太平記では次のように記している。
    ※1 玉置氏については別項「手取城」を参照のこと。
    手取城 ~川辺町(現日高川町)和佐~ - 生石高原の麓から

原文
 既に中津河の峠を越んとし給ける所に、向の山の両の峯に玉置が勢と覚て、五六百人が程混冑に鎧て、楯を前に進め射手を左右へ分て、時の声をぞ揚たりける。
 是を御覧じて、玉顔殊に儼に打笑ませ給て、御手の者共に向て、
矢種の在んずる程は防矢を射よ、心静に自害して名を万代に可貽。但各相構て、吾より先に腹切事不可有。吾已に自害せば、面の皮を剥耳鼻を切て、誰が首とも見へぬ様にし成て捨べし。其故は我首を若獄門に懸て被曝なば、天下に御方の志を存ぜん者は力を失ひ、武家は弥所恐なかるべし。「死せる孔明生る仲達を走らしむ」と云事あり。されば死して後までも、威を天下に残すを以て良将とせり。今はとても遁れぬ所ぞ、相構て人々きたなびれて、敵に笑はるな。
と被仰ければ、御供の兵共
何故か、きたなびれ候べき。
と申て、御前に立て、敵の大勢にて責上りける坂中の辺まで下向ふ。
 其勢僅三十二人、是皆一騎当千の兵とはいへ共、敵五百余騎に打合て、可戦様は無りけり。寄手は楯を雌羽につきしとうてかづき襄り、防ぐ兵は打物の鞘をはづして相懸りに近付所に、北の峯より赤旗三流、松の嵐に翻して、其勢六七百騎が程懸出たり。其勢次第に近付侭、三手に分て時の声を揚て、玉置庄司に相向ふ。
 真前に進だる武者大音声を揚て、
紀伊国の住人野長瀬六郎・同七郎、其勢三千余騎にて大塔宮の御迎に参る所に、忝も此君に対ひ進せて、弓を控楯を列ぬる人は誰ぞや。玉置庄司殿と見るは僻目か、只今可滅武家の逆命に随て、即時に運を開かせ可給親王に敵対申ては、一天下の間何の処にか身を置んと思ふ。天罰不遠から、是を鎮ん事我等が一戦の内にあり。余すな漏すな。
と、をめき叫でぞ懸りける。是を見て玉置が勢五百余騎、叶はじとや思けん、楯を捨旗を巻て、忽に四角八方へ逃散ず
(略)
其より宮は、槙野上野房聖賢が拵たる、槙野の城へ御入ありけるが、此も尚分内狭くて可悪ると御思案ありて、吉野の大衆を語はせ給て、安善宝塔を城郭に構へ、岩切通す吉野河を前に当て、三千余騎を随へて楯篭らせ給けるとぞ聞へし。
太平記/巻第五 - Wikisource

 

現代文
 既に中津河の峠を越えようかという時、向かいの山の両の峰に玉置の軍勢が現れた。5・600人ほどの軍勢は、鎧兜に身を包み、盾を前列に、弓の射手を左右へ分けて、しきりに鬨(とき)の声を上げている。
 大塔宮はこれを見ると、厳かな笑みを浮かべて伴のものに向かって命令を発した。
矢がある限りは反撃せよ。
矢が尽きれば、心静かに自害してその名を後世に残すべし。
但し、吾より先に腹を切ることは許さぬゆえ、互いにしっかりと見守ること。
吾が自害した後は、吾の顔の皮をはぎ、耳鼻を切り落として、誰の首か判らぬようにしてうち捨てよ。
もし吾が首が獄門にかかり世間に晒されれば、我らに味方しようとする者は力を失い、幕府の武士共はいよいよ意気軒昂となるであろう。
死せる孔明生る仲達を走らしむ(筆者注:死者が生者に大きな影響を与えること 原文は三国志の「死諸葛走生仲達」)
との故事がある。
ならば私も、死して後もなおその権威を天下に残すことによって、良き将となろう。
今はとても逃れる術はなし。ぶざまな真似をして敵に笑われるな。


 これを聞いた伴の兵ども
ぶざまな真似などできるわけもなし
と言いながら宮の前に立ちはだかり、敵が大勢で攻め上ってくる坂道に向かって駆け下っていった。
 宮の軍勢はわずかに32人。これみな一騎当千の兵とは言えども、敵の500余騎と打ち合って勝てる術などあろうはずもない。攻め手は鶏の羽のように盾を寄せ重ね合わせて攻め上り、防ぐ兵は打物(太刀、槍など)の鞘をはずして、いよいよ戦闘がはじまろうとしたその時、北の峰の松林の間から三本の赤旗をなびかせて6・700騎の軍勢が駆け寄ってきた。徐々に近づいてくると、やがて軍勢は三手に分かれ、鬨の声を上げて玉置庄司の向かいに位置した。
 先頭に現れた武者が大音声をあげた。
紀伊国の住人 野長瀬六郎、おなじく七郎
3000余騎の軍勢を引き連れて
大塔宮のお迎えに参った。
宮に向かって弓を引き、盾を連ねるのは誰か。
玉置庄司と見えるが、見間違いであろうか。
幕府に従う武家を滅ぼすべしとの命に従い、即座に道を開けよ。
親王に敵対するような者には、この天下に身を置く場所など無いものと思え。
今まさに天罰が降ろうとしている。
我らが一戦のもとに討ち取ってこれを鎮めてみせようぞ。
ものども、敵を余すな、漏らすな。

と大声で叫びたてるのを見て、玉置の軍勢500余騎は、盾を捨て、旗を巻いて、たちまちに四方八方へ散り散りに逃げ去ってしまった
(略)
 それから宮は、槙野上野房聖賢(まきの こうづけぼう しょうげん)が築城した槙野城(筆者注:現在の五條市にあったとされるが詳細は不明)に入ったが、ここも手狭であったことから、吉野山の宗徒と話し合い、愛染宝塔を城郭として構え、前面に流れる吉野川を堀として、3000余騎を従えて立て籠もることとした。
※現代文は筆者

 

  • 上記「太平記」に登場する野長瀬六郎七郎は、それぞれ野長瀬六郎盛忠野長瀬七郎盛衡のことを指す。また、上記の現地説明板の解説にあるように、野長瀬氏は、窮地に陥った大塔宮横合いから矢を放って救出したことから「横矢」の姓を賜ったとされ、これ以降、野長瀬家に縁のある家系の中には横矢姓を名乗る者も現れる。この時代の野長瀬氏の家系については、「武家家伝」という個人のWebサイトで詳しく紹介されており、系図も掲載されているので参考にされたい。
    武家家伝_野長瀬氏

 

 

尊雅王
 後南朝の王子尊雅王については、『続紀風土記』の北山郷神山村の条に、前記『残楼記(筆者注:若狭国小浜出身の国学者伴信友の著作)』に色川左衛門尉盛氏について記した後、「忠義王尊雅王の両宮は皆、盛氏の女の生み奉れる所なれば、盛氏の家の重宝を宮に進め奉り、宮も身に添へ持せ給へる。」と見えて尊雅王の御生母は、色川の女の産み奉るところという。
 ところが尊雅王の生母説についてこれも代々南朝近露の「野長瀬系図」にも、尊雅王の御生母に関する記述がある。
 野長瀬は熊野における南朝方武将の一人であるが、前記のとおり両朝合併の時も抗戦派として併合をよろこばず、色川と共に南朝の王子を擁して譲らず、したがってこの両家共に後南朝小倉宮とは、特別に深い関係であったことは世に知られている。
 近露野長瀬家系図には尊雅王の御生母は、野長瀬淡路守盛矩の女・横矢姫と見える。父淡路守は、南軍の総師で伊勢の国司家であった左近衛中将北畠満雅に随って、南朝の皇子小倉宮を護立て再度兵を挙げたが、永享元年(1429)津の岩田川合戦に破れて、満雅は討死したというが、盛矩も共に討死したという。(「野長瀬系図」)
伊勢国司家略系図 略)
 盛矩には三子あり、長子が尊雅王の父・尊義王の女房となる横矢姫でほか二人は男子である。
(野長瀬略系図 略)
 以上によって熊野で生まれまた熊野で薨(こう)ぜられた後南朝の王子尊雅王には、その生母が二人あったということになり、いずれか一人が実母となるわけであるけれど、それを定める資料はおそらく永遠に出て来ないと思われる。
 前記「野長瀬系図」は尊雅王の生母横矢姫の弟について、六郎盛高は長禄元年(1457)赤松等が尊秀王等を襲撃した時(筆者注:「長禄の変」)吉野城を守っていたが攻め落され、遁れて近露に帰ると見えて六郎もまた父盛矩と同様に、南朝の王子に奉仕していたことを伝えている。やがて京の都では応仁の乱が始まり、天下は東西に分かれて戦乱に突入する。
 南朝の復興を願う遺臣たちにとってはまたとない絶好の機会として、小倉宮を奉じて、文明2年(1470)紀伊国で挙兵した。
 足利管領畠山義就がこれを援けて、応仁の乱西軍の盟主として宮を迎えた。宮たちは大和を経て文明3年(1471)京都に入られるが、世に「西陣南帝(にしじんの なんてい)」と称されるのは、小倉宮尊雅王の御子で「熊野宮信雅王」と称された方ではなかろうかという。
 右のほか後南朝の王子後胤については、紀州特に熊野では古座川筋に伝えられるものとして、山田宮融仁王(やまだのみや みちひとおう)※2後南朝王子の一人であろうといわれている。
 南北朝合一後の室町時代に入っても、後南朝の王子を奉じての争乱は縷々繰返されている。
 しかしこれら後南朝の王子をかついだ武士たちは、あまりにも非力で、あたらその跡を断せることになったのは哀れであると共に、惜まれてならない。太平洋戦争の後、熊沢天皇※3を称して世間を驚ろかせた、南朝の後胤云々も、その源を辿れば遠く南北朝合一のその時に既に、今日のこの事が潜んでいたと思料される。
※2 山田宮融仁王の遺構については、個人ブログ「ぼんくら放浪記」にレポートが掲載されている。後南朝遺跡 Ⅱ - ぼんくら放浪記
※3 「熊沢天皇」とは、名古屋市の雑貨商・熊沢寛道(くまざわ ひろみち 1889 - 1966)のこと。昭和21年(1946)、GHQ連合国最高司令官総司令部は熊沢氏が南朝の正統な後継者であると名乗り出たと発表した。これをアメリカの雑誌「ライフ」や通信社などが大きく取り上げたことから日本の新聞社等も彼を「熊沢天皇」と呼んでもてはやしたが、やがて人々の関心は薄れ、昭和41年(1966)に膵癌のため死去した。熊沢氏の主張によれば、熊沢家の祖は後亀山天皇の孫にあたる熊野宮信雅王で、この人物は応仁の乱の際に西軍によって一時的に「新主」として擁立された西陣南帝と同一であるとする。しかしながら、信雅王の実在については否定的な見方が多く、現在では、熊沢寛道は当時数多く名乗り出ていた「自称天皇(偽天皇)」の一人にすぎないとみなされている。熊沢寛道 - Wikipedia

 

  • 野長瀬氏の系譜に属する著名人には次のような人物がいる。

野長瀬忠男(のながせ ただお 1878 - 1959 経営者)
大正4年(1915)に自動車・鉄道用のスプリングを製造する「帝国発条製作所」を創業。同社は後に他社との合併を経て、自動車用ホイールではトップシェアを有する鉄鋼メーカー「トピー工業」となる。また、昭和29年(1954)にはスプリング・ホイール等の部材納入部門を担う商社として「野長瀬商事株式会社」を創業。同社は、現在「株式会社ノナガセ」と改称し、免・制震デバイスのトータルプロデュース商社として活動中。
ホーム | トピー工業株式会社
株式会社ノナガセ

 

野長瀬晩花(のながせ ばんか 1889 - 1964 日本画家)
忠男の弟(本名は弘男)。日本画に洋画的手法を取り入れた斬新な作品を発表して京都の公募展で受賞したが、国が主催する公募展(官展)では洋画的画風が受け入れられなかったため、「反官展」を掲げ、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学の同窓生らと「西洋美術と東洋美術の融合と、新しい日本画の創造」を目指し「国画創作協会」を創設した。
野長瀬 晩花 | 和歌山県文化情報アーカイブ

 

野長瀬三摩地(のながせ さまじ 1923 - 1996 テレビ監督、脚本家)
晩花の子東宝に入社し、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」「どん底」「隠し砦の三悪人」のチーフ助監督を務める。その後円谷プロダクションの「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「マイティジャック」等で多数の作品を監督。「南川竜)」名義で脚本も執筆した。
野長瀬三摩地 - Wikipedia

 

  • 本文冒頭にある「国道311号線」は、現在はバイパスによりルートが変わっている。野長瀬一族の墓は近露郵便局近くの龍神バス「観音寺前」停留所から北に約100メートル。


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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。