生石高原の麓から

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手取城 ~川辺町(現日高川町)和佐~

 県内各地につくられた約700の城郭のうち、最もよく原型をとどめているのが、川辺町和佐にある手取城だといわれる。

 

 南北朝のころ、北朝方に味方した玉置一族は、龍神村鶴ケ城から日高川を下り、上和佐の山崎城を根城にしていた川上一族を攻めて別所谷に城を築いた。自らの手で領地を取ることができたので「手取城」と名付けたとか。


 手取城から北へ少し行くと「泣き児が峠」という小さな峠がある。玉置直和は義父の亀山城主、湯川直春と共に行動してきたが、のち北朝方についたため怒った直春に手取城を攻められ、落城した。直和の夫人らも、炎上する城を抜け出て落ちのびたが、そのとき連れていたこどもの泣き声がひとしお哀れをよんだところから、峠の名に残ったという。

 

(メモ:手取城は海抜170メートルの高台にあり、「風呂谷」と呼ばれるタメ池跡の上に、石垣づくりの台地もある。国鉄紀勢線和佐駅から徒歩30分。)

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

手取城址

 

  • 手取城(てどりじょう)は、現在の日高川町和佐に拠点を置き、南北朝時代から戦国時代にかけて大きな勢力を有していた玉置氏(和佐玉置氏)の本城である。玉置氏の出自は明確でないものの、家伝によれば、平清盛の孫にあたる平資盛(たいらの すけもり)の子で、後に玉置神社奈良県吉野郡十津川村の神官家に婿入りした蔦野(つたの)十郎資平がその祖であるとされる。(詳細は後述)

 

  • また、後述する「川辺町史」の「玉置氏の日高地域進出」によれば、公卿・近衛家の一門である左衛門尉直光という者が故あって熊野に逃れ、玉置神社の神官であった玉置盛高の養嗣子となったが、その三人の子がそれぞれ玉置山別当和佐玉置氏(和佐・手取城)山地玉置氏(山地(現在の田辺市龍神村)・鶴ヶ城になったとする。

 

  • 本文中に玉置一族が「南北朝のころ、北朝方に味方した」とあるのは、「太平記 巻第五 大塔宮熊野落事」の中で、後醍醐天皇の子である大塔宮護良親王(おおとうのみや/だいとうのみや もりよししんのう/もりながしんのう)が熊野へ落ち延びた際、玉置庄司がその行く手を阻んだというエピソードが描かれていることを指すものと思われる。
    太平記/巻第五 - Wikisource

 

 

  • 室町時代玉置氏畠山氏湯川(湯河)とともに幕府奉公衆となった。室町幕府統治機構は、文官官僚である奉行衆と武官官僚である奉公衆とで構成されており、奉公衆は平時には御所内に設置された番内などに出仕して地方の御料所(将軍直轄領)の管理を司るとともに、有事には将軍直属の軍事力として働いた。畠山氏紀伊国守護であり、湯川氏は「紀伊国最大の国人領主」と言われるほどの有力者であったことを考えると、これと同等の地位を獲得していた玉置氏もその勢力は非常に大きかったものと考えられる。

 

  • 玉置氏の居城である手取城湯川氏の居城である亀山城とは直線でわずか7キロメートル程度の距離にあり、両者は常に非常に密接な関係にあった。戦国時代末期、玉置直和は、湯川直春の娘を妻に迎えており、秀吉の紀州征伐の際には互いに共闘してこれを迎え撃つべき立場にあったが、彼我の戦力差を考慮して秀吉方につくべしと主張した玉置に対して徹底抗戦を主張した湯川とは最後まで折り合いがつかず、結果的に袂を分かち、湯川が玉置の城を攻め落とすこととなった。

 

  • 通説によれば、玉置直和は手取城落城後も生存しており、後に秀吉の弟・秀長に仕えたとされる。(詳細は後述)

 

  • 手取城を落とした後、湯川直春秀吉方に対して反攻に転じたが、秀吉軍が亀山城にまで迫ってきたことから、城を焼き払って熊野山中に退き抗戦を続けた。結果的に秀吉軍は湯川氏を討ち果たすことができなかったので、湯川氏の本領を安堵し、和議を結ぶこととなった。しかしながら、伝によれば、後に湯川直春豊臣秀長により謀殺されたと言われる。これについては、別項「湯川直春の亡霊」の項を参照のこと。
    湯川直春の亡霊 ~日高町志賀~ - 生石高原の麓から

 

手取城<川辺町>
 中世の山城。日高郡川辺町和佐に所在。
 日高川東岸約1.5kmの城山(標高170m)に築かれた玉置氏の本城と伝える。
 玉置氏は、南北朝期に北朝方に味方し,日高川上流に進出したという。龍神村(山地荘)7か村を領し,その同族が日高川を下って上和佐に進出し、山崎城川上氏を攻めて,別所谷に当城を築いたという。
 「南紀士姓旧事記」に「玉置氏居住ハ和佐村也。領地ハ野口村ヨリ川上福井村迄并有田郡沢木村 今検地壱万五六千石之領主ニ而,玉置大膳ト云 奥州岩城之判官之後胤也」とあり,領地の拡大がうかがえる。
 城跡の通称天守と呼ぶ本丸跡(高さ7.5m)には礎石が残る。二の丸跡からは、素焼きの巴瓦や布目瓦などが多数出土している。東の丸跡は城内最大の広い曲輪で、南北110mもあり,その北端には寺院跡も残る。
 西の丸跡は大きな空壕を挟んで存在し,2.5mの高さの五角形の台(のろし台)を中心に曲輪が西へ続く。南には風呂谷と呼ぶ溜池がある。その頭上の水の手櫓と思われる台に,石垣が確認できる。
 城郭はかなり長期間使用されたと推定できるが,初代城主大宜以降は名も伝わらない。
 10代城主直和天正13年,豊臣秀吉紀州攻めの際,隣接する湯河氏の命に従わず,同年3月25日湯河氏に攻められて落城したという。
 城山の西方,日高川の近くの生蓮寺は玉置氏菩提寺で,直和の木像が安置されている。そのすぐ西は土居という玉置氏の土居跡。山野の城山は、当城の支城跡。土塁,空濠6本が5段の曲輪とともに残る。
 県下で最も山城の原形を残す当城も,手取城址碑が建立されたものの,本格的な保存の手は遅れている。

 

  • 手取城は、紀州最大規模の山城とされ、ほぼ完全な形で遺構が保存されていることでも貴重な存在である。現在、地元では「手取城址保存会」が設立され、遺構の保存や公園化の取り組みなどの活動が行われている。リンク先のブログには、和歌山県立博物館が作成した復元模型や、旧川辺町が制作した「あヽ手取城」というビデオが掲載されている。
    手取城 : 手取城址保存会

 

  • 本文の書き方では玉置直和湯川直春の争いが起きたのは南北朝の頃と誤解しかねないが、ここに書かれた争いは通称「坂ノ瀬の合戦」と呼ばれ、天正13年(1585)の羽柴秀吉による紀州征伐に際して、秀吉方についた手取城主・玉置直和と、秀吉に抵抗した亀山城主・湯川(湯河)直春とが戦ったものである。この経緯について、Wikipediaの「紀州征伐」の項では次のように説明されている。

紀南の制圧
 雑賀衆残党太田城に籠城し、上方勢の本隊は太田城攻めに当たった。その一方で仙石秀久中村一氏小西行長らを別働隊として紀南へ派遣し、平定に当たらせた。
 上方勢の紀州攻めを前に、紀南の国人衆の対応は分かれた。日高郡を中心に大きな勢力を持っていた湯河直春抗戦を主張したが、有田郡では神保・白樫氏が、日高郡では直春の娘婿玉置直和(和佐玉置氏)が湯河氏と袂を分かって上方勢に帰順した。このため湯河直春はまず白樫氏と名島表(現広川町)で戦い、続いて玉置氏の手取城(現日高川町を攻囲した(坂ノ瀬合戦)

 

(注釈)
 『玉置覚書』によると玉置勢湯河氏の所領である小松原(現御坊市に放火したのを皮切りに、3月21日湯河勢8,000人と玉置勢1,600人が坂の瀬において対戦し、玉置勢は善戦したが83人が討死して敗退し、手取城に籠城した。三日三夜攻防が続いた所に仙石秀久小西行長が数百艘の兵船と大軍を率いて押し寄せたため、湯河勢は山中に退いた。それでも、直春は二百余名で手取城を攻めて焼き払い、玉置直和は落ち延びた(『高山公実録』pp.39-40)。一方『田辺市誌』では手取城は落城して玉置直和も殺されたとする(『戦国合戦大事典』p.320))。

 

  • 合併して日高川町となる前の川辺町が編纂した「川辺町史」の「第9編 民俗 第7章 民話」の項では、手取城及びその城主玉置氏に関する次のような伝承を収載している。

手取城の重臣
 手取城主玉置権守(権之守)には柏木津村西川の四重臣がいた。原要助は落城の際※1、天田の胡瓜坂御坊市塩屋町で討たれた(墓は旧河南中学校附近にあったが、後、その近くへ移した)要助三人の男子があり、それぞれ三百瀬・川中(中津村)・由良由良町へ落ちて住んだ。
 津村西川は和佐に住んだ。津村の邸内に祠があり、夜泣き、かん虫を治すと近郷から詣ったというが、主が大阪へ転出に際し持って行った。屋敷跡も七・一八水害※2で流れた。柏木については不明。
 なお神社合祀前に上和佐に鎮座していた丹生神社※3は玉置氏あるいはその一族ゆかりの社であったという。(話者 和佐 原実明・40)

 

注 原要助について「南紀温知録」に次のようにある。
 是ハ玉置家二ノ家老ニテ御座候。要助男子無之、娘二人エ玉置九左衛門同佐衛門二人ヲ聟(むこ)トス、後実男子出生、川上畑村エ里子ニ遣ス、要助子孫畑村有之候、要助木瓜坂ニテ殺サレ候由、埋シ所ニ印石有之由シカト不存候

  • ※1 合併して日高川町になる前の中津村教育委員会が発行した「中津村史余談(1998)」によれば、原要助が討たれたのは玉置氏が湯川氏と共闘して田辺・奥熊野勢と戦った通称「日高塩屋合戦(「温知録新書」によれば元亀2年(1571)のこととする)」であり、手取城落城とは無関係と考えられる。
  • ※2 昭和28年7月18日に発生した和歌山県史上最大の被害をもたらした水害。「紀州大水害」「28(ニッパチ)水害」とも言う。
  • ※3 神社合祀により和佐の丹生神社を含む複数の神社・小祠が旧川辺町(現日高川町)江川に所在する江川八幡神社へ合祀され、江川八幡神社の名称を「丹生神社」と改めた。詳細は「笑い祭り」の項を参照のこと。
    笑い祭り ~川辺町(現日高川町)江川~ - 生石高原の麓から

 

玉置直和の出家
 秀吉の南征が切迫した時、手取城主玉置直和亀山城湯川直春を訪れ、勝敗はすでに明白であるゆえ、住民の苦痛を考えれば道理ある降伏は家名を汚さないと説き、家名の断絶か、一時の降伏か、ご熟考願いたいと義父湯川直春に迫った。
 直春は戦国武士の典型的人物である。一方の直和は殺伐な武人肌というよりも慈悲忍辱(にんにく)の僧侶型の性格であった。二人の話し合いは結局不調に終わった
 その夜の帰りに、直和は供の重臣中村孫次郎に、わしは武人の性格ではない。わしは民百姓や一族を苦しめたくない、俗界をのがれたいと思う。手取城が何じゃ、一万五千石が何じゃ、と語ったと伝える。
 秀吉軍が疾風の如く去ったある秋の日、日高川に沿うて奥地に向かう二人の旅僧があった。いうまでもなく直和とその臣中村孫次郎であった。

 

泣き児ガ峠
 和佐字別所谷の手取城址は、玉置権守(ごんのかみ)が居たところである。この手取城址から北に泣き児(こ)ガ峠という小さな峠がある。昔、亀山城湯川直春は200人の家来をつれて、一年あまりも玉置権守の手取城を囲んだ。玉置方もよく戦ったが、やがて落城することになり、玉置の夫人城中の女達が、燃え上る城をふりかえり振りかえり避難した。その時殿様の幼い児が、あまりの恐ろしさに泣く声がひとしお哀れを催した泣き児ガ峠の名はこうしておこったという。(『紀伊日高氏話伝説集』)

 

泣越
 和佐山のふもとに洞穴が二つある。その一つの権次穴は鉱物を採るために掘った穴らしいが、もう一つの方は手取城主一族が昔、いざという時の隠れ場所だったらしい。手取落城の時、一族の女房達がここへ逃げ入ったが、道々ここまで泣き泣き来たので、その道を泣越(なきごえ)というのだそうだ。
(話者 和佐 松井幸吉 大・2)

 

白馬に乗った亡霊
 JR和佐駅から下和佐へ200メートルほどに栗原という所がある。子どものころのこと、夜、ここを白装束の人6人が6頭の白馬に乗ってまぼろしのように通るといって皆こわがった。昔、湯川氏と玉置氏が戦った時、玉置氏の家来6人がここで討たれたので、その亡霊だという話であった。
(話者 和佐 山本才蔵 明・34 松井幸吉 大・2)

 

  • また、中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」の「美山村」の項には、玉置氏が川上氏を滅ぼした際のことについて、次のような話が収載されている。

玉置氏と川上荘
 戦国の昔、川上村(筆者注:昭和31年(1956)に寒川村と合併して美山村となった)は川上荘(筆者注:旧川辺町・中津村・美山村にまたがる地域を指す)といった。領主が川上采女吉次であった時のこと、ある時、玉置左衛門直光という浪人が客分として滞在していた。この男は曲者で、この荘を奪取しようという野心を持っていた。
 そこである夕方、采女を鮎漁に誘い出し、川端の竹藪に家来数人を伏せておいて、ふいに采女を襲い、竹槍で突き殺した。そうして川上荘の領主になった。
 愛川の遍照寺采女供養のため直光が建てたといわれる。
 直光から三代続いて玉置孫左衛門直諦の時、織田信長秀吉か)の南紀征伐で十二社権現が焼き打ちに合ったのを六社権現として再建したのが下阿田木神社であるという。現在(昭和49年)社前に孫左衛門藤原直諦の献灯がある。
      『郷土の行事と伝説」 五味健次の文

 

  • 玉置氏について上述の「中津村史余談」では次のとおり解説されており、平清盛の孫にあたる平資盛(たいらの すけもり)の子で、玉置神社奈良県吉野郡十津川村の神官を務める玉置家の婿養子となった蔦野十郎資平がその祖であるとする。

玉置氏のこと
 伊勢国蔦野(つたの)という所に軟禁されていた資盛は、9年の間滞在中、土地の女性に一人(二人ともいう)の男子を生ませ、巴豆丸(はずまる)と名付けました。後に、玉置氏の祖とされる蔦野十郎資平です。
 治承3年(1179)7月29日に、父重盛が病死したので、資盛は祖父清盛に都へ呼び戻され、三位(さんみ)の中将に任ぜられました。
 程なく養和元年(1181)2月4日、祖父清盛も病死、源平の戦いが起こりました。寿永3年(1184)2月の一の谷の戦いで敗れた平家の主将宗盛は、安徳天皇を奉じて屋島に渡りました。一方、軍船を持たない源氏は追撃を見合わせる間、弁慶などの説得によって熊野水軍と伊予の河野水軍を味方につけ、屋島を陥れ、続いて文治元年(1185)3月壇の浦の戦いで勝利をおさめました。この戦いで宗盛は生け捕りにされますが、資盛は入水(じゅすい)して果てました。

 

 これより前、伯父の維盛屋島を逃れて熊野沖で入水したというニュースが伊勢に伝わり、蔦野十郎資平その霊を弔うため熊野に来て玉置庄司宅へ身を寄せました。この玉置庄司については、次のような伝説があります。

 

 玉置氏の遠い先祖は岩城判官と言い、奥州岩城の人だったが、ある年勅勘(ちょっかん 筆者注:天皇からとがめを受けて勘当されること)を蒙って熊野に流され、16代あるいは30代していました。何れの代か不明ですが、ある日、天から美しい玉が降り、木の根にかかり数年を経て地に落ちました。岩城氏は、これはめでたいと喜んで姓を玉城と替え、後に玉置と改め、この玉石をすはま(筆者注:漢字フォントに無い字体のためひらがなとした)形石(すはまがたいし)と言い、すはま(筆者注:現在では「洲浜」の字をあてる)を家紋にしたといわれます。この石、今も奈良県十津川村玉置山上の熊野権現神社にあり、玉置庄司はこの神社の社司でした。
 資平が身を寄せた時の庄司に、男の子がなかったので、聟(むこ)養子となり、一時平姓を名乗ったが、後に玉置姓に復し、諸書に玉置氏の祖として資平をあげています。

 

  • その後の玉置氏の系譜については前述の「川辺町史」において詳細な解説がなされているので、その主要部分を下記に引用する。

玉置氏の源流
(略)
 資平5世の孫に荘司盛高という者があり、鎌倉のために働き、高野山より十津川に至るまで砦を築き、柵を樹て、護良親王(筆者注:後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王を指す)の熊野落ちを妨害し、野長瀬(のながせ)一族と戦ったことが『太平記』に記されている。

 

玉置氏の日高地域進出
 南北朝の日高地域は、奥地には竜神(寒川荘・龍神寒川氏(寒川荘・寒川)があり、日高川下流域には川上氏(川上荘和佐・山崎城)源万寿丸(逸見万寿丸・矢田荘・土生城)源金毘羅丸(吉田金毘羅丸・矢田荘吉田・八幡山城が、いずれも南朝方に加担していた。
 延元年間(1336 - 39)に近衛右大臣家の後に左衛門尉直光という者があり、故あって熊野に逃れ、玉置氏を頼った。これは、玉置盛高の妻が近衛家の出であったためという。盛高には子がなかったため、直光が養嗣子となって玉置氏を継ぎ、姓を藤原と改め、近衛小太郎直高と称した。この直高に三子があり、一人は玉置山別当となり、二人は日高郡山地荘東(現・龍神村東)に来住した。当時、和佐に川上氏があり、その主であった采女(うねめ)が近郷を支配していたが、玉置氏の二人がこれを殺害して所領を奪い取った。その一人(一説に玉置大宜)和佐手取城を、他の一人(玉置下野守直虎)山地の鶴ヶ城を居城とした。これにより、玉置氏の日高地域進出の拠点が構築されることになった。

(略)

室町幕府と玉置氏
 玉置氏は、南北朝の内乱期紀伊国内における有力な武家方であったと推察される。殊に室町幕府奉公衆として番方四番に属し、畠山湯川両氏とともに幕府の「御番帳」に名を連ねている。たとえば、「永享以来御番帳」(『群書類従』)には、「四番」の項に、「湯川安房入道玉置民部少輔」の名が記され、同じく「文安年中御番帳」(『群書類従)にも、「四番」として「湯川安房玉置太郎」の名が記載されている。

(略)

河内教興寺の戦いと玉置氏
 水禄5年(1562)3月5日に和泉国久米田の戦いにおいて、三好実休を打破した玉置氏ら畠山軍は、その後三好長慶(ながよし)の立てこもる飯盛城を包囲した。同年4月5日、畠山軍は城攻めを行い、攻撃は5月19日まで続いた。
(略)
 久秀の謀計は功を奏し、畠山軍の多くは安見、遊佐の両名が寝返ったとの噂でわれ先に撤退し、畠山高政も夜中に烏帽子形(えぼしがた)(現・河内長野市へ引き上げた。この時、紀州衆の玉置湯川両氏をはじめ根来寺は後陣で、翌20日の夜明けに退いたが、そこを三好軍1万5000人に追撃された。この攻撃に、湯川直光らの紀州衆3000人が応戦し、教興寺付近・葉引野で激戦が展開された。この戦いの結果、1000人余が疵(きず)つき、8000人が討死したと伝えられるが、紀州家も湯川直光をはじめとして湯川民部少輔湯川神太夫(甚太夫方田伊豆守湊上野介紀伊(紀介)竜神刑部少輔富田牛之助貴志五郎白樫五郎兵衛飯沼九郎左衛門尉安宅神助目良兄弟山際兄弟神保右衛門尉ら都合800人余りと根来寺衆200人が戦死した。

(略)

織豊時代
 紀北をほぼ平定した秀吉は、太田城の水攻めと併行して兵をわかち、千石秀久中村一氏小西行長らを紀南方面の平定に差し向けた。
(略)
 右のように圧倒的に優勢な秀吉軍を迎えて、和佐手取城主玉置氏は、それまで亀山城湯川氏の旗下に入っていたが、秀吉軍に抵抗することを非とし、湯川氏の婿であったが徹底抗戦をとなえる湯川直春と袂を別つことになった。
(略)
 このころの戦況を「崎山氏由緒書」によってみると、同年(1585)3月20日玉置白樫神保の三氏が湯川氏に反旗を翻して秀吉に味方している。当時、有田郡広浦に湯川方として崎山氏ら30人ほどの武士が居住していたが、湯浅の白樫氏を討つため出陣し、広と湯浅の堺で戦った。この戦いは多勢の白樫氏が優勢であった。一方、手取城主玉置氏は、同月20日に湯川氏領の小熊、千手(土生)へ兵を向け、各所に火を放ったので、湯川勢もかけつけ、野口原で戦った(「玉置家系書」)。翌21日、湯川左太夫池田帯刀高家治部太夫ら300人余の湯川勢が手取城を攻撃したが、玉置氏はよく持ちこたえた直春亀山城に近い手取城を落すため、22日に広から撤退した400人と熊野勢300人の都合700人を池田帯刀に付けて再度手取城を攻撃させた。ところが、23日直春が広に留め置いていた崎山弥八郎片山(「崎山家記」では梶原)平次郎から直春のもとに急報があり、白樫片田(「崎山家記」では竹田)両氏が玉置氏加勢のため出馬し、秀吉軍仙石秀久中村一氏および宮崎・加茂の一党らの大軍が船にて押寄せて来たことを告げた直春亀山城から見ると、秀吉の水軍が数百艘の兵船で日高浜あるいは塩屋浦から上陸して来た。また、原谷に置いていた物見も急を知らせて来たので、直春は亀山城に火を付け、自害したように見せて雑人にまぎれて熊野へ落ちたという。

(略)

紀州攻め以後の玉置氏とその家臣
 玉置氏は、秀吉の紀州攻めに際し、いちはやく秀吉側に付いたため、本領を安堵された玉置氏の領地は、承久の乱の時に鎌倉幕府側に付き、軍功によって「紀伊国奥室郡ニ而八十五町を領」していたが、玉置盛高の代に日高郡に移った(「紀伊国地士由緒書抜」)。その後、次第に勢力を伸展させ、秀吉紀州に攻めて来たころには、玉置氏の領地日高郡野口村より川上福井村までと有田郡津木村などに1万5、6000石を領するまでになっていた(「紀伊国旧家地士覚書)。
 ところが、紀伊国が秀吉に平定され、秀吉の弟秀長の領国に編入された段階で、玉置氏秀長に付けられることになった。その時、玉置直和は自分の領地高を申請させられたが、領地高の少ない方が軍役(武士が主君に対して負う軍事上の負担)が軽くてすむと判断したためか、実際に領有していた石高の約三分の一に相当する3500石と申請した。この申請にもとづき、直和には3500石の領地が認められたが、元の領地とくらべて大幅に領地減となった。この間の状況を「紀伊国旧家地士覚書」の記述によってみると、直和はむかしの高3500石であると申したため、検地によって出された3500石分の領地を与えられたが、領内は昔の三分の一となったことにより、無念に思って高野山に入って出家し、仙光院上人と称したという。この史料によって、手取城主玉置直和が、領地の削減に不満を抱いて出家したことがわかる。その後秀吉より秀長へ、「玉置ハ忠功之者ニ而候間能々目を掛遣し候へと仰せられ候故、早々高野山へ使者を立」てて慰留したので、直和は下山して不満ながらも知行3500石の待遇を受容することになった

(以下略)

 

  • 茶道の一派である「瑞穂流(みずほりゅう)」を興した玉置一咄は手取城城主とされており、玉置直和を指すものと考えられている。
    茶道 - Wikipedia

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。