生石高原の麓から

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弁慶の建てたお堂 ~中津村(現日高川町)高津尾~

  ゆったりと流れる日高川。その静かな水音が、水ぎわまで立ち並んだヒノキ林に吸い込まれて行く。

 

 武蔵坊弁慶が、源平合戦を前に、長子(中津村)長子八幡で戦勝祈願したが、その途中、高津尾西原のこの観音堂で一泊した。その夜、弁慶の夢枕に立った観音さまが「戦には勝たせてやるから、このお堂を立派なものに建て替えよ」という。壇の浦でみごと平家を滅ぼした弁慶は、ひろく浄財を募り、お堂を再建したといい、そのときに弁慶が植えたといわれるナギの大木が、いまもどっしりと根を張っている。


 ところでこの堂は、その後、一時火事にあったが、本尊の観音像だけは難を免れた、とか。

 

(メモ:南海白浜急行バス川原河行きで西原下車、歩いて1分。ナギの木は、高さ約15メートル、幹の直径約1メートル)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

弁慶堂(高津尾観音堂

 

  • この話は、中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」の「中津村」の項に次のとおり収載されている。

弁慶堂
 西原に観音を祀ったお堂がある。観音像は昔、尼僧が近江ノ国から持参したという。一度、火事にあってお堂が焼けた時、観音像は裏の柿の木にのがれていたので、今におき(いたるまで)、祀られていると。
 昔、弁慶源平合戦の時、戦勝祈願のため長子八幡神社へ詣る道中、このお堂で泊った。するとその夜の夢に観音菩薩が出てきて「この度の戦は勝たしてやる。そのかわり、勝った後は、この堂を再興せよ」と言われた。
 それで弁慶は平家を亡ぼした後、喜捨を広く募ってお堂を建てたという。それ故このお堂を弁慶堂とも言っている。
     高津尾 井原由蔵 明・31(御坊文化財研) 

 

  • 合併して日高川町になる前に中津村教育委員会が発行した「中津村史余談(1998)」では、以下のように旧中津村に伝わる弁慶伝説を紹介している。これによれば、本文の話の出典は「高津尾観音堂略縁起」であるとされており、当時ここにあった草庵はあまりにも粗末で雨露をしのぐことすら困難であったため、夢枕に立った僧の啓示を受けた弁慶が、都に戻った後に新たな堂を建立するための寄進を行い、堂が完成してまもなく平氏を滅ぼすことができたとする。

中津村の弁慶伝説
 中津村には、弁慶伝説があります。
 『中津村史』通史編の裏見返し図に、高津尾観音堂略縁起を載せてあります。その中に、
其昔(そのむかし)源平の乱頼朝義経願書を蔵(おさめる)武蔵坊使(つかい)たりし節、
 高津尾(たかつおの庄において暮(ひぐれ)に及び一宿致しけるに、
 武蔵坊 枕元へ佐(さ)尊き僧立給ひ、

 今汝主命を受(うけ)八幡へ趣く、然るに此所の観音雨露を凌ぎ兼(かね)る、
 近江尼丘(おうみ びく)是を歎くといえども力に及ばず、
 汝此尼へ力を添え一宇建立有らば、
 今度(こたび)西海の戦い無難を守るべしと、

 右去るともなく姿は消えぬ、
 仍之(これにより)弁慶不思議の霊夢を蒙り、
 則(すなわち)庵りへ詣(まいり) 
 かの尼へも右の次第を咄(はな)し、

 程なく都に上り宝金寄進有りしより、
 早速結構の一宇成就致し、間もなく平家を亡しぬ、
 然るに義経右大将頼朝と不和に成り
 終に奥州衣川にて武蔵坊も討死に及ぶ、
 思はざりき其月日にあたり 
 建立有りし観音堂火災焼亡に及びけり・・・

と記されており、弁慶が主命を帯びて長子八幡宮へ行く途中、日が暮れて観音堂(当時近江堂と呼ばれた草庵)に一泊し、霊夢を見て後日京都から観音堂建立資金を寄進したというわけです。

 

  • 弁慶が戦勝祈願を行ったとされる長子(ちょうし)八幡神社は、日高川町大字小釜本字長子にある神社である。その由来等について、和歌山県神社庁のWebサイトでは次のように記載されている。

 『龍田家旧記』によれば、草創由来は明らかでないが和佐村(現川辺町)より上越(現美山村)まですべて氏子で、天正(1573 - 1592)頃までは当地方第一の大社で、源平合戦の折、弁慶勝利を祈る願書を自ら書写した般若心経を当社に捧げたという。
 また室町時代末期まで小釜本・老星両村の社領があり、両村は御湯を捧げる地であったとの伝えを記す。
 近世には小釜本・田尻・三佐・老星・大又・佐井・坂野川・高津尾・西原の9ヶ村の産土神で、摂社2、末社3ほか仮宮、拝殿、神楽所、鐘楼があり、東西4町、南北7町に及ぶ境内があった。
 別当として高野山大徳院末医王山般若寺があったといわれる。
 明治10年、西原の天神社を合祀し、また同41年から43年にかけて近隣の諸社を合祀した。
和歌山県神社庁-長子八幡神社 ちょうしはちまんじんじゃ-

 

  • 上述の「中津村史余談(1998)」によれば、弁慶が長子八幡神社に奉納したとされる願書は、天正時代(1573 - 1593)末期に盗賊によって盗まれ、一時期八幡宮(有田郡広川町)にあったとされるものの、現在では行方不明になっているという。

 

  • 弁慶が長子八幡宮を勝利祈願のために訪れたのは、武神として源氏一統の崇拝を集めていた八幡神八幡大菩薩)への祈願が第一の目的であったであろうと考えられるが、これに加えて「中津村史余談(1998)」では、当時、源氏は有力な海上戦力を保有していなかったことから、屋島に逃れた平氏を追撃するために熊野水軍の支援を得ようと弁慶が熊野地方を訪れた際に、あわせて戦勝祈願を行ったのではないかとの見解を述べている。

 

  • いわゆる「源平合戦」とは、平安時代末期、当時政権を掌握していた平氏に対して、源氏を中心とした反政権勢力が反乱を起こしたもので、治承4年(1180)から元暦2年(1185)までの約6年間にわたって争乱が続いたことから、「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」とも呼ばれる。
  • 寿永3年/治承8年(1184)2月、摂津国福原・須磨(現在の神戸市)で行われた「一ノ谷の戦い」において源氏方が平氏方に対して勝利を収めた(いわゆる「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」はこの戦いの中のエピソードである)平氏はこの戦いで一門の有力な武士を多数失ったが、依然として讃岐国屋島(現在の高松市に拠点を置き、強力な水軍を擁して瀬戸内海の支配権を維持していた。これに対して源氏方は有力な水軍を持たなかったことから、しばらく休戦状態が続くことになった。(上述の「中津村史余談」の説に従えば、弁慶が当地を訪れたのはこの時期のことになる)
    一ノ谷の戦い - Wikipedia
  • 一ノ谷の戦いから一年後の元暦2年/寿永4年(1185)2月、源義経は、摂津国の水軍渡辺党熊野別当湛増熊野水軍河野通信伊予水軍を味方につけて、屋島を急襲した那須与一による「扇の的」の物語はこの戦いの中のエピソードである)平氏はこの戦いにも敗れ、長門国彦島(現在の山口県下関市へと退いた。
    屋島の戦い - Wikipedia
  • 同年3月、義経率いる軍船840艘彦島をめがけて攻め寄せ、これを迎え撃つ平氏方の軍船500艘関門海峡壇ノ浦で戦闘に入った。当初は関門海峡の潮の流れを熟知した平氏軍が優勢であったが、やがて潮の流れが反転すると義経軍が優勢となり、平氏軍は総崩れとなった義経の「八艘飛び」はその戦いの中のエピソードである)。この敗戦により栄華を極めた平氏一門は滅亡することとなった。
    壇ノ浦の戦い - Wikipedia
  • これら一連の戦いにより、平氏伊勢平氏平清盛一族)は25年にわたる平氏政権の幕を閉じた。勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、後に鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させることとなる。

 

 

 

  • 八幡神が源氏の守護神となった経緯について、一般的には源義家(1038 - 1106)が石清水八幡宮元服し「八幡太郎義家(はちまんたろう よしいえ)」と名乗ったことがきっかけとなったとされるが、これについて国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している「レファレンス協同データベース」では次のように解説している。

石清水八幡宮は、伊勢大神宮と並ぶ皇帝の祖神とされていて、本来は皇族の氏神であったものが、皇親賜姓氏族(筆者注:皇族が姓を与えられ臣下となったもの、その一族)」全体の氏神になり、その代表者たる源氏(筆者注:源氏の場合、嵯峨源氏清和源氏から正親町源氏に至るまで21の系統(二十一流)があるとされる)氏神となっていったと推測されているようです。(『源氏と日本国王』P72)

代表的な説をいくつかご紹介します。
源頼義(よりよし)石清水八幡宮に参籠した時、霊剣を賜った夢を見て、その後に義家が生まれた。
 義家は石清水八幡宮の前で元服八幡太郎と名乗った。
 そのような経過の後、義家の祖父の頼信が河内守に任じられ、管内に応神天皇八幡神)の御陵があることに触発された頼信が、「石清水八幡宮は源氏の氏神」と告文を納めた。

②京都の石清水八幡宮清和天皇の時代に創立されたため、清和天皇の子孫から臣籍降下した諸源氏が石清水を氏神に選んだ

③祭神が応神天皇神宮皇后という「三韓征伐」に関与したと信じられた神々であったところから、武神としての信仰が武人の間に高まった

◆源氏と鎌倉のつながり
 鎌倉の豪族平直方源頼義の器量を称賛して娘婿に迎え、鎌倉の地を譲られた(『陸奥話記』・『尊卑文脈』)。
 頼義は源氏の氏神である石清水八幡宮に、戦の勝利を感謝して、鎌倉の地にこれを勧請した。

鎌倉と源氏、八幡宮と源氏がどうしてつながったのか。最初のつながりが分かる本が見たい。 | レファレンス協同データベース 

 

  • 八幡信仰が源氏の思想に与えた影響について、大山眞一氏は「武門源氏の思想と信仰 -忠義の思想と八幡信仰をめぐって-日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.13 2012)」で以下のように考察している。ここでは、武家の棟梁には武門のヒエラルキーを維持するための絶対的な命令系統を確立することが求められており、その背景として絶対的な思想や信仰統制の必要があったと述べている。この著作によれば、その思想・信仰こそが、「忠義」と「八幡信仰」であり、「忠義を果たし、身命を賭して全力を尽くせば、必ずや武運(八幡大菩薩の加護)が得られる」とする考え方が一般的になっていったのであろうとする。

 次に、『平家物語』から八幡信仰が記されている箇所を引いてみたい。その件は『平家物語』巻第七 願書にある。源義仲は、倶利迦羅峠の戦いの前に偶然ある神社を目にし、それが八幡様であると知って、たいそう喜び、戦勝を祈願して以下の願書を認(したた)めた場面である。
(略)
 源頼信を初めとする、頼義義家河内源氏三代の武門に属する源義仲が、下線部のように、「曾祖父である前陸奥守義家朝臣が身を八幡大菩薩の氏子となって、その名を八幡太郎と号して以来、その一門で八幡大菩薩に帰依しない者はいない」といい放っている。このことから、源氏の八幡信仰がおしなべて武門の末葉にまで浸透していたと推測できる。
(略)
 八幡信仰と忠義の思想の密接な関係が認められるのである。武門における忠義の思想が最も示現するのは、おそらく戦における死であろう。本稿では、武門の思想を「忠義→服従→死」の図式で表したが、潔い死はむしろ誉である。しかし、この図式は死イコール忠義を意味しない。死は武士にとって最悪のシナリオであり、戦いを目前とした武士は、「忠義→服従→武運→生(死)」という図式を考えた筈である。戦に勝利し、生き残ってこその忠義であろう。そのために武運が求められたのである。その武運に結びつく信仰が八幡信仰だったのである。武士とて命は惜しい筈である。戦いの前に八幡大菩薩に武運を祈念し、朝廷・武門の棟梁に忠義を尽くすというのが武門の思想と信仰の相関関係ということができよう。その関係を如実に物語っているのが、5.『軍記物語』における八幡信仰で例にあげた、清原則武が京の皇城を遥拝して、誓いの言葉「八幡三所、臣が中丹を照したまへ。若し身命を惜しみて死力を致さずば、必ず神鏑に中りて先ず死せん(筆者注:「もし身命を惜しんで死力を尽くさなければ、神の放った矢にあたってすぐに死んでしまうだろう」との意。ちなみに、かつて自ら「新皇(しんのう)」と名乗って朝廷に反乱を起こした平将門は「神鏑」によって討たれたと伝えられている。)」を述べる場面である。則武は死を前提にしているが、実際は身命を惜しまず戦って生き残ることが本音だったのではないだろうか。
電子紀要 第13号 | 日本大学大学院総合社会情報研究科

 

  • 武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)は、平安時代末期、源義経に仕えた怪力の荒法師として知られるが、その生涯には不明なことが多い。「朝日日本歴史人物事典朝日新聞社 1994)」では、次のように解説されている。

弁慶
没年:文治5.4.29?(1189.5.16)
生年:生年不詳
 平安末期・鎌倉初期の僧。武蔵坊源義経の腹心の郎従。
 その存在は『吾妻鏡』『平家物語』に散見されて確認されるが,詳細は不明。
 主に室町時代になってからの諸作品(『義経記』『弁慶物語』ほかの室町物語,幸若,謡曲など)に,豪傑として英雄的に描かれる。従って,その生涯は実在を離れ,異常誕生,鬼子,捨子童子,熊野信仰,天神信仰,観音信仰,兵法,鍛冶屋集団,巨人伝説,怪力伝説など,様々な伝承の型,民間信仰,伝説に彩られ,民衆の願望を籠めた,善悪両面を兼備し,諧謔味も交えた人物として成長していく。幼名鬼若
 熊野別当の子として熊野に生まれる。出生時にすでに髪,歯が生え揃っていた。
 幼時に比叡山西塔桜本僧正に預けられるが,乱行を働き,放逐される。そのとき,自ら剃髪して弁慶と名乗る。
 その後,播磨書写山に籠るが,やはり乱行故に放逐され,京都に出て1000本の太刀を奪う悲願を立てる。最後の1本の持ち主義経五条天神で出会い,翌日水観境内で闘い,主従の契りをなす。以後,義経の平家討伐に尽力し,義経都落ちのときにも常に従う。大物浦では平家の怨霊を鎮め,各地の関所では危険をくぐり抜け,平泉まで同行し,文治5年の衣川の合戦では立ったまま死ぬ。近世の諸演劇にも取り入れられるが,忠臣としての側面が強調されていく。
弁慶とは - コトバンク

 

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください