生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

鶏合わせ ~田辺市湊~

  国鉄紀伊田辺駅前の商店街の近くに、大きな鳥居の社がある。熊野三山のひとつである本宮大社の分神で、保安(1120年代)のころ、本宮を治めた別当湛快が、熊野権現(いまくまのごんげん)としてまつったといい、人はこの社を闘鶏神社と呼ぶ。

 

 源平合戦たけなわのころ、湛快の子・湛増が、源平いずれに加勢するかを紅白の鶏を闘わせて占ったという話があり、この名称がついた。明治以前の神仏混淆時代には「鶏合わせの宮」とも呼ばれた。

 

 湛快は、もともと京都・聖護院に任ずる修験僧の棟領。帝の命を受け、本宮の熊野本山を支配することになった。その後、湛増が田那部(田辺)まで山を越えて進出。周辺の南部、白浜、椿など浦々の水軍を従え、勢カを誇った。

 水軍といっても、ふだんは漁業を営み、時には兵士や海賊になって郷土を守った。荒波を舞台にする海の男たちだけに豪勇の者が多く、隣りの湯川一族も侵攻できなかった。

 

 湛快の家は、栄耀栄華をほしいままにしていた平家と親交があり、平家は当然のことに、源氏との合戦には、湛増熊野水軍を率いて駈けつけてくれるものと信じていた。
 しかし、湛増は、平家からのたびたびの援軍要請にも腰を上げようとはせず、支配下の修験僧を戦地に放って、赤か白か戦況を冷静に見守っていた。


 やがて平家は、京都を追われ、福原の戦いにも破れて四国に落ちのびた。そして屋島壇の浦に最後の陣を構えた時、湛増は「もはや平家の命運尽きたり」と判断。勝者の源氏に味方することが、一族の繁栄につながると確信した。


 そのころ、連勝の源氏も、はじめての海戦にとまどっていた。得意の騎馬戦術で平家を追いつめたものの、海戦では平家に分があった。水軍を持たない源氏は、陸路山陽道を進んで、敵の補給基地、九州を攻めたが、土地不案内がわざわいして苦戦の連続。ついに周防山口県では、敵の軍勢に囲まれて立ち往生。さすがの東国武者たちの間にも動揺の色が見え、ひそかに故郷へ引き揚げる兵士も出はじめた。


 それだけに、屋島の平家の本陣急襲が急務となり、京都警備の任にあたっていた義経が四国攻めを決意、水軍の調達に全力を上げていた。幸運にも、主だった郎党の一人、武蔵坊弁慶湛増の子。弁慶義経の命を受け、父に熊野水軍屋島出動を懇願した。
 湛増は「時節到来」と平家追討を決意したが、平家との友好関係を断ち切ってまで源氏に味方する大義名分に困った。


 「いかにして部下を納得させ、士気を高めようか」。
 文治元年正月のある日、湛増は部下と共に新熊野社に参拝。神楽を奉じたあと、新しい年への神の教えを巫女に伺わせた。

 

 「源氏の氏神八幡官の神の使いは、白鳩である。疑うことなく白旗につけ巫女は、とりつかれたように神のお告げを絶叫した。
 予想せぬ神の声に郎党は驚き、ざわめきが起こった。翌朝、湛増は従者に「昨夜の夢に、熊野の大神が現われ、神前で蹴り含う鶏を指さされた」と語り、戦い上手な軍鶏を調達させた。それから数日後、湛増は田辺の宮に武装させた配下を集めた。


 「このたびの源平の合戦で、我々はどちらに加勢すべきか。神のお告げにより、紅白の鶏を戦わせて決めたいと思う湛増の声とともに、紅白七羽ずつの軍鶏が放たれた。ところが白鶏は闘志満々、胸毛を逆立て、鋭い蹴爪で赤鶏を襲う。赤鶏は、その激しい闘志に呑まれて早ばやと戦意を失い、社殿の裏の森へ逃げてしまった。


 こうして湛増は、文治元年(1185)2月、百隻の軍船を仕立てて田辺浦を出陣。屋島を追われ、壇の浦に落ちのびた平家を葬り、熊野水軍の武勇を天下にみせつけた。

 

 ところで、鶏合わせの神事は、湛増が源氏に味方するために仕組んだものとするならば、当然そこにはトリックがあったはず。
 安部弁雄(あべやすお)田辺市文化財審議委員は「例えば、強い白鶏と弱い赤鶏を用意させるなど方法はあった。もっとも平家物語は、琵琶法師が史実を脚色して世に広めたもので、鶏合わせそのものにも確たる証拠はないのだが…」といっている。

 

(メモ:闘鶏神社は、国鉄紀勢線紀伊田辺駅から徒歩10分。田辺市きっての大きな神社で、結婚式や七五三など参拝客は多い。7月24、5日の例祭は、県下三大祭のひとつとされ、八基の笠鉾(かさほこ)が巡行する。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

闘鶏神社(湛増と弁慶の像)

 

  • 鶏合(とりあわせ)」として知られるこのエピソードは、鎌倉時代に成立したとされる軍記物語「平家物語」の巻第十一にある。物語は、「一の谷の合戦」「屋島の戦い」「志度合戦」を経て平氏一門の敗色が濃厚となり、長門国引島彦島 現在の山口県下関市で最後の決戦に臨もうとしているところである。

(原文)
さるほどに判官八島の軍にうち勝つて
周防の地へ押し渡り 兄の三河と一つになる
平家長門国引島にぞ着くと聞えしかば 
源氏は同国の内 追津に着くこそ不思議なれ

また紀伊国の住人熊野別当湛増は平家重恩の身なりしが
忽ちに心変はりして
平家へや参らん源氏へや参らん と思ひけるが
田辺新熊野に七日参籠し
御神楽を奏して権現に祈誓を致す
ただ白旗につけ と御託宣ありしかども 
なほ疑ひをなし参らせて
白き鶏七つ 赤き鶏七つ 
これを以て権現の御前にて勝負をせさせけるに
赤き鶏一つも勝たず 皆負けてぞ逃げにける
さてこそ源氏へ参らんと思ひ定めけれ

さるほどに一門の者共相催し 
都合その勢二千余人二百余艘の兵船に乗り継ぎて漕ぎ来たり
若王子の御正体を舟に乗せ参らせ
旗の横紙には金剛童子を書き奉つて壇浦へ寄するを見て
源氏も平家も共に拝し奉る
されどもこの舟源氏に付きければ
平家興醒めてぞ見えられける

(現代語訳)
こうして義経屋島の軍に打ち勝って
周防(現在の山口県東部)の地に渡り
兄の三河源範頼 義経の異母兄)と合流した
平家長門国引島彦島 現在の山口県下関市を拠点にしたと聞けば
源氏が同じ長門国追津(奥津 同じく下関市内にある)に着いたというのが不思議である
(筆者注:「引島-追津」が「引く-追う」の関係を暗示しているとの意)

紀伊国の住人、熊野別当湛増は平家から重恩を受けている身であるものの
たちまち心変わりをして「平家方につくか、源氏方につくか」と思っていたが
田辺の新熊野権現(いまくまのごんげん 現在の闘鶏神社)に七日間こもって
御神楽を奏でて熊野権現に祈誓したところ
ただ白旗(源氏の旗印)につけ」とのお告げがあった
しかし、なお疑念があったので
白い鶏七羽と赤い鶏七羽熊野権現の御前で勝負させたところ
赤い鶏は一羽も勝たず、すべて負けて逃げてしまった
それならば源氏方につこうと心を決めた

やがて一門の者どもを集め
合計二千余人が二百余艘の兵船に乗りあわせて漕ぎ寄せた
若王子(にゃくおうじ 熊野権現を象徴する神)御神体を舟に乗せ
旗の横紙には金剛童子(忿怒の形相で童子の姿をした仏教の守護神)を描いて
壇の浦へ寄せていくのを見ると
源氏も平家も共にこれを拝み奉った
しかしこの船団が源氏方についたので
平家が大いに落胆した様子が見てとれた

※原文は「日本古典文学摘集」による。現代語訳は筆者。
日本古典文学摘集 平家物語 巻第十一の七 鶏合 原文

 

熊野別当とは

 聖地霊場としての熊野三山は、元来、各々別々の歴史の下で発展してきたが、10世紀までに、まず熊野山が本宮と新宮の連結によって一つになった。ついで那智山がその独自性を維持しつつ11世紀後期に熊野三山(「三所権現」)の一つとしてほぼ一体化され、以後たくさんの人々の信仰を集めるようになった。
 そして、この熊野三山において、古代末期から中世前期にかけて権力をふるったのが、熊野別当(くまのべっとう)であった。熊野別当は、仏教興隆のために神仏習合化された熊野各神社の神宮寺に奉仕する社僧や神官たちの実務上の最高管掌者であり、祈祷師熊野三山へ参詣する人々が宿泊するための宿坊の経営者、さらには聖地の案内者の三役をつとめた熊野御師(おし)の総帥でもあった。さらにその上に、熊野三山最盛期における熊野水軍を始めとする熊野地方の武士団の棟梁でもあった。しかし、熊野別当は、僧侶であっても清僧ではなく、妻帯世襲を原則としており、それゆえ14世紀中頃に至るまで子々孫々、別当職が一つの家によって連綿と引き継がれてきたわけで、その家を熊野別当家という。

地方史研究の最前線 和歌山地方史研究会(編集) - 清文堂出版 | 版元ドットコム

 

  • 上記の書籍によれば、熊野速玉大社所蔵「熊野別当代々次第」、熊野那智大社所蔵「熊野山略記」所収の「熊野山別当次第」に熊野別当代々の来歴が記されており、初代別当である快慶(かいけい)以降、13世紀後期の第29代別当定湛(じょうたん)もしくは第31第別当正湛(しょうたん)までの履歴が記載されているものの、これらすべてを事実として信じることはできないものとされる。

 

  • 第18代熊野別当湛快(たんかい 1099 - 1174)は、保安年間(1120 - 1124)に田辺地方へ進出し、そこに熊野三山の別宮として新熊野(いまくまの)十二所権現神社田辺市 現在の闘鶏神社)を設けるとともに、熊野別当家の庶家(分家)として田辺別当を創設したとされる。湛快について、京都学園大学人間文化学部が作成した「人間文化学部学生論文集 2012」に掲載された下田奈津美氏の「熊野別当熊野水軍 -湛増期における熊野水軍の動向-」には次のように記述されている。

湛快による田辺別当家の成立
 別当家の中でも特に有名な別当湛増を輩出したのが田辺別当である。田辺別当家は湛増の父である18代別当湛快熊野別当家から独立させ成立させたものであり、この田辺別当家成立以後、新宮家田辺家別当職をめぐって競うことになる。湛快熊野別当家から田辺家を独立させ、変革の時代の中で熊野別当として熊野三山と中央政権院政平氏政権)との繋がりをより密接にさせ熊野別当家を紀北を代表する武士団の湯浅党と並ぶ紀伊国を代表する武装勢力、さらには地方の権門のひとつへと発展させるきっかけを作った人物なのである。熊野三山に君臨した熊野別当家は長快以降新宮別当(長範家)田辺家(湛快家)二系統に分立し、新宮を中心とした奥熊野地方と田辺を中心とした口熊野地方において各々の在地支配を展開しつつ、在地領主としての権力を拡大していった。
2012年度 :: 人間文化学会

 

  • 本文中、「湛快は、もともと京都・聖護院に任ずる修験僧の棟領」とあるのは、やや正確性に欠ける表現ではあるものの、組織上、「熊野別当」の上に立ち、京都において熊野三山の統轄にあたる役職として「熊野三山検校(くまのさんざん けんぎょう)」が置かれていたことを指すものと思われる。寛治4年(1090)、熊野に参詣した白河上皇熊野三山を組織的に管理する必要を感じて、先達(せんだつ 道案内人)を務めた増誉(ぞうよ 1032 - 1116 園城寺長吏 後に聖護院を建立)を「熊野三山検校」に任命し、在地の支配者である熊野別当の上に置いた。同時に当時の熊野別当長快を「法橋」に任じて、熊野三山を中央の組織体制の一部として組み入れた。初期の熊野三山検校は熊野で修行を積んだ修験者であるとともに園城寺(おんじょうじ 滋賀県大津市 三井寺とも)の長吏(寺院の統括者)を兼務しており、園城寺との関連が深かったが、室町時代以降は聖護院(しょうごいん 京都市左京区にある修験道・本山派の中心寺院)門跡(住職)の重代職(代々伝えていく職)となった。
    熊野三山検校 - Wikipedia

 

  • Wikipediaによれば、湛快は保延4年(1138)に「法橋」に叙せられ、本宮在庁修理別当別当などをへて久安2年(1146)第18代熊野別当に任じられた後、26年間の別当在職中に鳥羽後白河上皇熊野御幸を20回先導しているとする。
    湛快 - Wikipedia

 

  • 鎌倉時代初期の史論書「愚管抄」では、平治元年(1159)に源義朝藤原信頼平清盛打倒を志して起こした反乱平治の乱に際し、熊野参詣の途中でフタガワの宿(タノベ(田辺)の宿)に滞在していた平清盛が、熊野別当湛快から鎧7揃と弓矢の提供を受け、有田の豪族・湯浅宗重の兵37騎に守られていち早く京都に戻ったと記す。この素早い動きにより清盛は義朝・信頼を討ち果たし、平氏の権勢を確立するに至ったため、熊野・湯浅の一統はそれぞれ平氏政権から手厚い庇護を受けることとなった(同様のエピソードは鎌倉時代前半に成立した「平治物語」にも記載があるが、当時の別当湛増とするなど誤りが多いため、歴史資料としては信憑性に欠けるものとされている)

愚管抄 第五巻

此間に清盛太宰大弐(だざいのだいに 大宰府のナンバー2の役職)にて有けるが 
熊野詣をしたりける間に この事どもをば し出して有けるに
清盛はいまだ参りつかで ふたがはの宿と云はたのべ(田辺)の宿なり
それにつきたりけるに かくりき はしりて
かかる事 京に出きたり と告ければ
こはいかがせんずる と思ひ煩ひてありけり
子どもには越前守基盛(もともり)と 
十三になる淡路守宗盛(むねもり)
侍十五人とをぞ具したりける

是よりただつくしざまへや落て 勢つくべきなんど云へども
湯浅の権守と云て 宗重(むねしげ)と云 紀伊國に武者あり
たしかに三十七騎ぞ有ける
その時はよき勢にて
ただをはしませ 京へは入れ参らせなん と云けり
熊野の湛快はさぶらいの数にはえなくて 
鎧七領をぞ弓矢まで皆具たのもしくとり出(いだし)
さうなくとらせたりけり
又宗重が子の十三なるが 紫革の小腹巻の有けるをぞ
宗盛には きせたりける

※本テキストは、下記の個人ブログを参考にした
愚管抄 総目次

 

 

  • 鳥居禅尼源為義源義朝の父、源頼朝源義経らの祖父)の娘で、源行家(後述)の姉にあたる人物である。女性であるが、治承・寿永の乱(源平の合戦)の際の功績により甥に当たる将軍源頼朝から紀伊国佐野庄および湯橋、但馬国多々良岐庄などの地頭に任命され、鎌倉幕府御家人になったという異色の人物である。別名、「たつたはら(立田原)の女房」、「丹鶴姫(たんかくひめ)」とも呼ばれる。なお、元和4年(1618)に浅野忠吉が現在の新宮市に築いた城を丹鶴城と呼ぶが、これはこの城が丹鶴姫の居宅跡とされる山(丹鶴山)に建設されたことによるものである。また、佐藤春夫の著作には、丹鶴城趾には黒い兎を使いとし、子供に死をもたらす妖怪「丹鶴姫」がいるとの記述があるが、下記の個人ブログを参考とすれば、これは上述の鳥居禅尼とは無関係の伝承と解すべきであろう。
    新宮のもののけ姫、丹鶴姫:熊野の説話

 

  • 平氏政権が全盛期を迎えた治承4年(1180)、これを快く思わない以仁王(もちひとおう 後白河天皇の第三皇子)源頼政打倒平氏を掲げて諸国の源氏や大社寺に蜂起を促す令旨を発した以仁王の挙兵)。この令旨は新宮に滞在していた源行家(みなもとの ゆきいえ 新宮十郎義盛とも)にも届いたが、湛増はいち早くこれを知って平氏方に報告するとともに、源氏方に味方する反乱勢力を攻めたとされる(新宮熊野合戦)。しかしながら、これについては資料によって記載内容に大きな隔たりがあるため事実関係は不詳である。参考のため、上述の下田奈津美氏の「熊野別当熊野水軍 -湛増期における熊野水軍の動向-」から関係部分を引用する。

湛増の軍事行動と挫折

 治承4年(1180)4月9日に発せられた以仁王平家追討の令旨は、平治の乱後、新宮に亡命していた源為義の子十郎行家の手でいち早く熊野にもたらされた。この令旨への対応をめぐって三山の意志は割れ、内紛が起ったのである。その状況については、『平家物語』に記述があるのみであるが、その内容は諸本により大きく食い違っている。たとえば、覚一本『平家物語では平家に恩義を感じていた湛増は、那智・新宮が源氏に与力することを見越して新宮湊に軍を進め、新宮の鳥居法眼・高坊法眼・宇井・鈴木・水屋・亀の甲、那智の執行法眼と戦い、三日間の激闘の末湛増の方が敗れたとされている。また、延慶本では那智執行・権寺主・正寺主・覚悟法橋・羅喉羅法橋・鳥居法橋・高坊法橋等は、田辺法橋を大将軍として、行家に同調する動きを見せていた新宮方を襲撃して敗れたとされている。ところが『源平盛衰記』では、源氏に同調する動きを見せたのは那智・新宮方の那智執行・正寺主・権寺主・羅喉羅法橋・高坊法眼等であり、平家への恩義からこれを攻めたのは大江法眼となっている。
2012年度 :: 人間文化学会

 

  • 上記のように、湛増は少なくとも治承・寿永の乱(源平の合戦)の初期には平氏についていたと考えられるが、やがて全国的に反平氏の動きが活発化するにつれて、源氏方へ接近していくことになる。本文にある「鶏合わせ」の伝承はこの時期における湛増の転向を正当化するために創作されたものとの見解もあるが、これについて上述の「地方史研究の最前線 紀州・和歌山」では次のように解説しており、熊野三山に関わる人々の意識を一本化する上で必要な儀式として実際に行われた可能性があることを示唆している。

 この逸話について、湛増は、以仁王頼政挙兵後、次第に反平家の立場を鮮明にして独自の軍事活動を開始しているのでこの時期の鶏合わせはありえず、海上での一大決戦を前にした湛増の決断と湛増を含む多くの水軍領主を決戦の前の土壇場で一挙に傘下に収めた義経の手腕に、当時の人々は神の意志を感じ、このような鶏合わせの逸話が生まれたと主張する日本史研究者もいるが、長期に渡る戦乱の中で、雰囲気的に見て湛増の側に源氏加担を正当づける最後の詰めがこういう形で行われる必要があったことも確かであろう。となると、『平家物語』に書かれた新熊野(いまくまの)十二所権現社(闘雞神社)での鶏合わせの逸話は、あながちフィクションとはいえず、むしろ湛増本人の気持ちはもとより、長い間平氏に味方していた田辺や本宮の人々の気持ちを、熊野権現の強い神意に動かされて源氏に味方するようになったという形で最終的に一本化し、戦いに赴こうとしたと見なすこともできよう。
地方史研究の最前線 和歌山地方史研究会(編集) - 清文堂出版 | 版元ドットコム

 

 

  • 熊野水軍とは、紀伊半島南部の熊野地方の沿岸域を拠点とした軍事勢力で、熊野海賊とも呼ばれる。もともとは比較的小規模な海域を支配下に置く在地の「海の領主」が多数存在していたが、湛増熊野別当に就任した後にこれを組織化し、一体として活動する「熊野水軍」の基盤が築かれたものと考えられている。これについて、上述の下田奈津美氏の「熊野別当熊野水軍 -湛増期における熊野水軍の動向-」では次のように解説している。

 熊野は、太平洋と瀬戸内の航路が出会う列島における海上交通の要地であり、その沿海部には、当然、海民や海を基盤とする領主たちが、古来より数多く存在していた。『中右記』永久2年(1114)8月16日条には「南海道海賊、近日乱発、盗取諸国運上物也、而熊野別当俗別当等、給宣旨可尋進由、申之旨風聞如何」とあり、この地の「海賊」と呼ばれた海の領主層の存在形態の一端を見ることができる。彼らは緩やかに三山の傘下に属し、比較的自由な活動を展開してきたのである。瀬戸内などにおける平家支配の難民的海民も、この地に流入していただろう。
 ところが平清盛が政権を獲得すると、こうした状況に変化が生じてきた。院と平家との相対的な力関係が変化し、紀伊国が平家の知行国化すると、熊野に対する支配も当然強化の方向に向かったのである。
(略)
 湛増に従ったのは、熊野地方に対する平家の支配強化の動きに反発する、この地の海上勢力であったに違いない。内乱に乗じて三山における政治的主導権を一挙に奪取せんと目論む湛増は、こうした階層の与望を繋ぐことによって、それを水軍として組織し、伊勢・志摩地方での軍事作戦で成果を収めることができたのである。そしてそれを契機として、ついに年来の宿願を果たしたのであった。
2012年度 :: 人間文化学会

 

  • 本文では、保安年間(1120 - 1124)に湛快が田辺に熊野権現(いまくまのごんげん 現在の闘鶏神社)を勧請したと書いているが、これは江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」を踏まえたものと考えられる。和歌山県神社庁のWebサイトにある「闘鶏神社」の項には下記のような記述があり、同社の創建は、「允恭天皇8年(424)」、「白河法皇(「法皇」としての在位期間は1096 - 1129)の頃」、「湛快熊野別当としての在職期間は1146 - 1174)のとき」の3通りの説があるとする。

 社伝によると允恭天皇8(424)年9月、熊野坐神社(筆者注:くまのにます じんじゃ 熊野本宮大社を指す)より勧請したという。
 又、白河法皇の頃、熊野路に強盗多く行幸を悩ますため、熊野三所権現をこの地に勧請し、三山参詣に替えたという伝承がある。
 紀伊風土記には「熊野別当湛快のとき、熊野三所権現を勧請し、新熊野と称す」とある。
 平家物語源平盛衰記によると、元暦元(1184)年源平合戦の時、熊野水軍が紅白の鶏合せにより源氏に味方をした故事により、合権現(筆者注:鶏合権現(とりあわせごんげん)の誤りか)の呼称が生れ、明治維新まで新熊野合権現(筆者注:新熊野鷄合権現(いまくまの とりあわせ ごんげん)の誤りか)と称し、後、鬪鶏神社と改称された。
明治4年郷社(田辺県)、同6年村社(和歌山県)、同14年県社に昇格。
昭和46年7月、別表神社となる。
和歌山県神社庁-鬪鶏神社 とうけいじんじゃ- 

 

 

  • 平成28年(2016)10月、第40回世界遺産委員会継続会議において、闘鶏神社を含む「熊野参詣道大辺路(富田坂、タオの峠、新田平見道、富山平見道、飛渡谷道、清水峠、二河峠、駿田峠、闘鶏神社)」及び「熊野参詣道中辺路(北郡越、長尾坂、潮見峠越、赤木越、小狗子峠、かけぬけ道、八上王子跡、稲葉根王子跡、阿須賀王子跡」、「高野参詣道(三谷坂、京大坂道不動坂、女人道、黒河道)」が世界文化遺産紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録された。


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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。