「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
7回にわたってNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の登場人物のうち、紀州・和歌山と関わりのある人物を順次紹介しています。今回は源行家と文覚についてです。
源行家
頼朝・義経の叔父。以仁王(もちひとおう)が発した平家追討の令旨を持って源頼朝、木曽義仲など諸国の源氏に挙兵を呼びかけていきました。
作中では疫病神的な描かれ方をしており、行家が平家軍と戦った墨俣川の戦いではこれに従軍した義円(頼朝の弟、義経の兄)が戦死しています。
【深読み「鎌倉殿の13人」】散々やらかした挙句、悲惨な最期を遂げた源行家(渡邊大門) - 個人 - Yahoo!ニュース
行家の母親は新宮の神官の娘とも、あるいは熊野別当の娘であったとも言われており、行家自身も新宮に住んでいたことがあるため「新宮十郎」と呼ばれることもあります。また、平家物語には後に木曽義仲の家臣・樋口次郎兼光に追われた際に紀伊国名草へ逃げこんだとの記述もあり、紀伊国には縁が深かったようです。
今井が兄、樋口次郎兼光は、十郎蔵人討たんとて、河内国長野の城へ越えたりけるが、そこにては討ち漏らしぬ。紀伊国名草にありと聞こえしかば、やがて続いて越えたりけるが、都にいくさありと聞いて馳せ上る。
平家物語 - 巻第九・樋口被討罰 『今井が兄、樋口次郎兼光は…』 (原文・現代語訳)
行家の姉は丹鶴姫(たんかくひめ)といい、後に第19代熊野別当・行範の妻となりますが、行範の死後は剃髪して鳥居禅尼と名乗りました。鳥居禅尼は尼僧でありながら熊野水軍の指導者でもあったようで、上記の以仁王挙兵の際には新宮別当家(源氏方)を率いて田辺別当家(平氏方)を撃退する働きを見せています。
こうした功績により、鳥居禅尼は鎌倉幕府の成立後に紀伊国佐野庄(新宮市佐野周辺)、紀伊国湯橋(和歌山市岩橋周辺)及び但馬国多々良岐庄(兵庫県朝来町多々良木周辺)などの地頭に任命されて、鎌倉幕府の御家人になりました。この当時、女性が地頭職に就くことはしばしば見受けられたようですが、鳥居禅尼はその代表的な例として研究者には良く知られています。
新宮のもののけ姫、丹鶴姫:熊野の説話
文覚
文覚は真言宗の僧で、高雄山神護寺をはじめ東寺・西寺・高野山大塔・東大寺など各地の寺院を修復・再興したことで知られています。神護寺復興にあたり後白河法王に寄進を強要したため伊豆に配流されますが、このとき同じく配流中の源頼朝と出会い、頼朝に打倒平氏の挙兵を勧めたと伝えられます。
作中では非常にうさん臭い怪僧として描かれ、頼朝に誰のものとも知れぬ髑髏を見せて「これぞ父上・義朝の頭である」と示す場面がありましたが、文覚が頼朝に義朝の髑髏を見せるというエピソードは実際に「平家物語 巻第五 福原院宣」の項に描かれているものです。
(略)
文覚重ねて申しけるは、
「天の与ふるを取らざれば、却ってその咎を受く。時至つて行なはざれば却ってその殃を受くといふ本文あり。かう申せば御辺の心を見んとて申すなんど思ひたまふか。御辺に志の深い色を見たまへかし」
とて、懐より白い布に包んだる髑髏を一つ取り出だす。兵衛佐(筆者注:頼朝のこと)、
「あれはいかに」
と宣へば、
「これこそ御辺の父故左馬頭殿の頭よ。平冶の後、獄舎の前なる苔の下に埋もれて、後世弔ふ人もなかりしを、文覚存ずる旨あつて、獄守に請うてこの十余年首に掛け、山々寺々拝み回り、弔ひ奉れば、今は一却も助かりたまひぬらん。されば、文覚は故頭殿の御ためにも奉公の者でこそ候へ」
と申しければ、兵衛佐殿、一定とはおぼえねども、父の頭と聞く懐かしさに、まづ涙をぞ流されける。その後は、打ち解けて物語したまふ。
(以下略)
平家物語 - 巻第五・福原院宣 『近藤四郎国高といふ者に預けられて…』 (原文・現代語訳)
同じく「平家物語 巻第五」には「文覚荒行」という項があり、文覚が那智で厳しい修行に励む様子が描かれていますが、これについては別項「海中の井戸」において詳述していますのでこちらをご参照ください。また、同項では文覚が出家することとなった袈裟御前の物語についても触れていますのでこちらも御覧ください。
oishikogennofumotokara.hatenablog.com
このほか、かつらぎ町には文覚が開削したという伝承のある全長約5㎞の水路があり、「文覚井(もんがくゆ)」と呼ばれています。
文覚井