生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

海中の井戸 ~那智勝浦町~

 紀の松島で知られる勝浦湾に「モグラ水道」と呼ばれる水脈が走り、海底から真水がわきでている。全国でも珍しい海中井戸だ。
 これは、文覚上人(1120~?)にまつわる、動物報恩の話。

 

 上人が那智の滝での荒行に行く途中のこと。一頭のが巨大なシャチに追われているのを見た上人、手にした金剛杖を投げて鯨を救った。そして那智の山にさしかかると、こどもたちにいじめられているモグラを助け、こどもからはアメをもらった。やがて行をはじめた上人、邪魔をしにきた天狗アメを与え、深い滝ツボはモグラの協力で水を抜いてもらった。さらに滝でおぼれかけたモグラを助けたのは、あのときのだった……と。
 鯨がいまも水を噴き上げるのは、その時、水を吸ったためだからといい、上人に、モグラクジラ那智アメがからんだ愉快な民話として、語り伝えられている。

 

(メモ:上人が行をしたという文覚の滝は、日本一の滝として知られる那智の滝下流にある。国道42号線から約8キロ。近くには熊野三山のひとつ熊野那智大社、西国一番札所・青岸渡寺があり、海岸近くには補陀洛山寺も。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

文覚上人が荒行を行った 那智の滝

 

  • 海中の井戸」とは、かつて勝浦湾の海中から真水が湧き出ていた場所をいう。現在は埋め立てにより消滅しているが、那智勝浦町が編纂した「那智勝浦町」では「第八章 民俗」の項に「海中の井戸」と題する次のような記述があり、井戸の詳細とともに文覚上人の伝承についても紹介されている。

海中の井戸
 町史研究紀要の第一輯で勝浦の古老古角俊一翁は、港の思い出の稿で『海中の井戸』を取りあげている。

 

 塩浜の前方三十間(筆者注:約55メートル)程の所(現漁業協同組合事務所の裏のあたり)に、海中の井戸があった。寸分塩分を含まない清水が湧き出していた。元々この海中からは清水が渦をなして湧いていたものだが、明治三十年代に勝浦の岸庄次郎という船大工の棟梁が、之を飲料に供するため私費で木の枠を入れて井戸とした。後年更に周囲を石垣で補強したものである。由来勝浦は飲料水の乏しい土地とて、之を大いに徳として、伝馬船で汲みに行った。勿論漁船も出入りの貨物船も恩恵に浴した。大正の頃には、特殊な水船を造って水を売る新しい商売も現れた。勝浦節に“海の中から真水がわいて、之が出船の命水”というのがある。この井戸は『海中の奇井』として相当有名になり、以前から那智の滝の水が地下をくぐってここに出ているといった伝説や寓話もあって、杉村楚人冠(すぎむら そじんかん 1872 - 1945 和歌山市出身のジャーナリスト、随筆家、俳人大阪朝日新聞の紙上で紹介したこともあった。

 

と。近くは読売のレジャー民話の里で、動物の報恩譚として、次のようにまとめて発表している。

 

 昔、文覚上人が、那智の滝で荒行を思い立って、船で熊野灘にさしかかると、
一頭のシャチに追われていた。
かわいそうに
と上人は、念仏を唱えながら、手の杖を投げると、シャチは沖の方へ逃げて行った。

 上陸してしばらく行くと、こんどは一匹のモグラを子供達が捕えていじめていた。上人は子供に金を与えてモグラを逃してやった。
 さて上人が那智の滝に来てみると、すさまじい水量で滝つぼも深く、とても中へ入れそうもなかった。それで困っていると、足もとの土がむくむくと動いてモグラが顔を出して上人に言った。
ご恩返しはこの時でございます。滝から海まで二里(8キロ)ばかりです。穴を掘って滝つぼの水を減らしましょう
 やがて何千何万のモグラが集まって、トンネルを掘り出しました。すると海の鯨の大群がやって来て、トンネルに流れ込む水を吸い込んでは背中から噴き上げ、モグラ達がおぼれないように手助けをしてやりました。
 それで見る見る滝つぼが浅くなって、上人は喜んでその中で荒行を致しまし た。モグラの掘ったトンネルは、勝浦の海の底に出ていて、今でもそこから真水が湧いているそうな。

 

  • 文覚上人は、俗名を遠藤盛遠(えんどう もりとお)と言い、北面武士上皇の身辺を警衛したり、御幸に供奉した武士)として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19歳で出家した。出家の理由としては、盛遠が同僚の妻である袈裟御前(けさごぜん)に恋慕し、御前の母親を人質に逢瀬を強要したため、御前が「夫を殺せば逢瀬に応じる」と嘘を教えたうえで夫の身代わりとなって自らを盛遠に殺害させたという事件があり、これにより己の愚かさを悔いたことによるものとされている。
    ※この事件については、別項「おしんの首」の後段で「袈裟御前の物語」として紹介している。
    おしんの首 ~日置川町(現白浜町)安宅~ - 生石高原の麓から

 

  • 出家した盛遠は名を文覚と改め、那智の滝での荒行に続いて那智に千日籠った後、大峰三度、葛城二度、高野、粉河金峰山、白山、立山、富士山、伊豆、信濃の戸隠、出羽の羽黒など国中を修行してまわった。都へ上ったときには飛ぶ鳥も祈り落とすほどの刃の験者(刀の刃のように鋭い験力を持つ修験者)とまで呼ばれた。

 

  • 文覚は、後白河法皇に京都高雄山神護寺の再興を強訴したことを理由に伊豆国に配流されるが、そこで源頼朝と知り合い、頼朝に平家打倒の挙兵を促したと伝えられる。鎌倉幕府が成立した後は、頼朝の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を支援して所領を回復したり建物を修復した。ことに神護寺では文覚を中興の祖と讃えている。しかしながら頼朝の死後はさまざまな政争に巻き込まれて佐渡国へ配流され、一旦は許されて京に戻るものの、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられて対馬国流罪となる途中で客死した。

 

  • 平家物語」巻第五に「文覚荒行」の項がある。その内容は概ね次のとおり。

文覚は熊野に参詣し、那智の滝の滝壺に入った。
12月10日頃のことで、雪が積もり、つららが下がって、滝の水も凍っている中、文覚は滝壺に首までつかり、経文を唱えた。4、5日もたつと文覚はこらえきれずに浮かび上がり、文覚の体は激しく落ちる滝の水に押し流され、厳しい岩角のなかを5、6町も流された。

そのとき、美しげなる童子が一人現れて文覚の両手を取って引き上げた。
不思議に思った周囲の人が火を焚き、体を温めると文覚は息を吹き返したが、ひとごこちつくと人々を大きな眼でにらみつけ、
私はこの滝に21日間打たれて不動明王真言を三十万遍唱えるという大願を持っているのに、今日はまだ5日目だ。誰がここへ連れてきたのだ。
と怒ったため、人々は身の毛がよだって何も言えなかった。
文覚は再び滝壺に入り、滝に打たれ続けた。

それから2日目に8人の童子が来て文覚を滝壺から引き上げようとするが、文覚は出ようとしない。
3日目に文覚は遂に息絶えた。

すると滝の上から童子が2人現れ、暖かく香しい手で文覚の体をなでると、文覚は息を吹き返した。

 いかなる方がこのような憐れみを与えてくれたのものか
と文覚が尋ねると、
我は不動明王の御使の矜羯羅(こんがら)制多迦(せいたか)という2童子なり。文覚が無上の願を起こして勇猛な修行をしているので、行って力を貸すようにと明王の命によってきた
と答えた。
明王はどこにおられる
文覚が聞くと、童子
都率天(とそつてん、仏教の世界観における天界の一つ)
と答えて天に昇った。

わが行は不動明王までもがご存じである
と頼もしく思い、滝に打たれた。

まことに吉兆があったので、吹く風も身にしまず、落ちてくる水も湯のごとしであった。
こうして21日の大願を遂にとげた。 

※本稿は下記サイトを参考に筆者が要約したものである
平家物語 - 巻第五・文覚荒行 『そもそも、かの頼朝と申すは…』 (原文・現代語訳)

 

  • 紀の松島(きのまつしま)とは、勝浦湾の湾口周囲に点在する大小130余りの島々の総称で、その海岸美は日本三景松島宮城県松島町)に勝るとも劣らないところから「紀の松島」と称されたとされる。

 

 

  • ここでいう那智アメとはおそらく「黒あめ那智」のこと。那智黒は、株式会社那智黒総本舗明治10年創業)が製造販売する黒飴で、和歌山県を代表する土産品の一つ。名称は、碁石の材料として知られる熊野特産の「那智黒石」にちなんだもの。
  • 和歌山市出身の作家・神坂次郎氏は、その著書「紀州歴史散歩 古熊野の道を往く創元社 1985)」の中でこの物語について次のように書いている。

モグラ水道と那智黒あめ
(略)
 向井さんの工場は、碁石によく似た黒糖の飴、熊野那智の名物「那智」を製造している。この那智みやげの飴に、ひとつの伝承があるのだ。
むかし、えらい坊ンさんが日本一の那智の滝で修行しようと思うて、熊野へ来たンやとい・・・
と古老たちはいう。その坊さまこと文覚上人は、途中の浜辺でシャチに追われているをみて、手にした金剛杖を投げて救けてやる。しばらく行くと、子どもたちが土の中から迷いでたモグラをいじめているのをみて、これも助けてやる。それからずんずん歩いて、やがて那智の滝の見えるところまできた。那智の山は深くて道はけわしい。文覚は老杉に囲まれたほの暗い山道を、汗を流しながら登っていった。すると、どこからか可愛い子どもがあらわれ、
お坊さま、どこへ行きなさる
修行のため、那智のお滝まで参りますのじゃ
あの滝の近くには恐ろしい天狗が棲んでいて、いじわるをする・・・でも、その時はこれを舐めさせてやればよい
 そういうと子どもは、飴の入った壺を文覚にわたして何処かに消えてしまった。壺を持ったまま文覚が滝のそばまでくると、突然、気味の悪い風が吹いてきて、その風のむこうから燃えるような赤い髪を逆だてた天狗が現れ、
やい、此処から先へ行けば摑み殺してしまうぞ
と睨みつける。そのおそろしさに、さすがの文覚も思わず二、三歩後ずさったくらいであったが、気をとり直して、
この飴は、お天狗さまへのみやげでござる。どうぞ召し上ってくだされ
 天狗が飴に気をとられている隙に文覚は、滝壺のほうへ通りぬけた。だが、なんといっても日本一の大滝である。風を巻いて落ちてくる滝水は、ごうごうと岩場にひびき、滝壺のあたりに青い淵をつくっている。とても滝までは近寄れそうもない。せっかく此処まできたものの、あと一歩で・・・と、文覚はがっくりした。と、その目の前の土がにわかにもくもくとふくれあがり、一匹のモグラが顔をだした。
お坊さま、ご心配ご無用でンさ
というとモグラは、日本国中から集まってきた仲間たちと一緒に、滝壺の水を海に流しこむための穴を掘りはじめた。それを聞いたも、穴掘りをしているモグラが、流れてくる水で溺れ死なぬように仲間の鯨を呼んで水を吸いこんでやった。鯨の潮吹きはその名残だという。こうしてモグラとクジラのおかげで、滝壺の水はみるみる減り、文覚上人は無事に修行することができた。
那智の山中で坊ンさんに飴をくれた子ォは、じつは那智の観音さんの化身で、その飴ちゅうのは、那智のことじゃと・・・
 その時、モグラたちが掘ったという二里のトンネルは、「モグラ水道」とよばれ、実際に勝浦の海まで通じていて、海中からこんこんと真水をふきだしていた。が、舟びとたちから飲料水として重宝されていたそれも、いまは埋めたてられ、魚市場の一部になっている。

 

 

 

 

  • 文覚が荒行を行ったとされる「文覚の滝」は、那智の滝下流にあったが、平成23年(2011)の紀伊半島豪雨により崩落し、消失した(下記リンクの後段に記述があり、現在は形を変えて復元されているとのこと)
    那智の滝

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。