国鉄新宮駅前から、東へ約100メートル。大きな樟が生い茂る小公園の中に、自然石の碑が建つ。碑面の字は「秦徐福之墓」。入り口には、やはり「史蹟 秦徐福墓」と刻んだ、高さ1メートルばかりの石柱。
いつも香華の絶えることのないこの墓には、はるかな昔の、しかも海を距てた中国との、深い友情のきずなを語る話が伝わる。
中国は秦の時代。あの「万里の長城」を築いた始皇帝の廷臣に、徐福という男がいた。
わずか13歳で秦の王となり、23歳で親政となってから、わずか16年で列国を征服、みずから「第一世皇帝」を名乗ったほどの始皇帝。その独裁ぶりは、ことのほか目立ったものだ。
ところが、もうだれを恐れることもなくなったはずの始皇帝にとって、ただひとつ心配なことがあった。それは「死」だった。
「俺は、死ぬのはイヤだ」
そんなことを考えているうち、とうとう、とんでもないことを思いついた。
「いつまでも死なない薬が、どこかにないものか。いや、広いこの世のどこかには、きっと不老不死の薬があるはずだ。それさえ飲めば、俺はこの長城と、秦の世とともに、いつまでも生きられる」
結局、その霊薬探しの「特使」に選ばれたのが徐福。
「どんなことがあっても、その薬を求めて来い。それまでは帰ってくるな」
そんな厳命に、それこそ、死を覚悟して「不老不死の薬探索団」なるものをつくった徐福。数百隻の船を仕立てると、数千人の男女と大量の金銀財宝を積み込み、まだ見ぬ東の国をめざして船出した……。
徐福の渡来については、なおいくつかの伝承がある。始皇帝の暴政からのがれるため、日本へ亡命したのだ、という説もそのひとつだ。
とにかく、徐福は日本へやってきた。上陸地点は熊野だとか。
しかし、そんな便利な霊薬など、この世にあろうはずがない。徐福は探したのか、最初から探す気など、毛頭なかったのか。いずれにしても、本国へ帰ることをあきらめた徐福は、この地にとどまることに決め、連れてきた配下たちを説き伏せたのだろう。
「帝の求める不老不死の薬は、ここにはない。だが、このまま国へ帰るわけにはいかない。無事、国へたどりついたとしても、命が永らえるという保証は何もない。それよりもこの地にとどまり、新しい、われわれの国を築こうではないか」
こうして一行は、土地を開き、国づくりに乗りだした。はじめは、いぶかしげだった土地の人たちとも、しだいに打ちとけるようになった。彼らに、耕作や織物、紙づくり、はては鯨の捕り方までをも教え、いつの間にか熊野の人たちにとけ込んで行った……と。
徐福が熊野へ着いたのは、孝元天皇5年(前210)とも、孝霊天皇6年(前285)ともいう。いずれにしてもずい分と古いことだが、徐福については、中国の「史記秦始皇帝本記」にはじめて記され、その後「海内十州記」など、数冊の本にも書かれている。これらの本は、徐福が船出した百年ほど後に書かれたものといわれ、そうした点から、徐福そのものは実在の人であったという説が有力だ。
また、徐福が求めた霊薬は「天台烏薬」(てんだいうやく)だとされ、これは日向の高千穂と、熊野以外にはない。だからこれは、神武天皇東征の途上、この地に植えたのだとする説もあるほどだ。
ところで、数十年前までの新宮の町では、いたるところに樟の大木があった。しかし、人口が増えるにつれて田畑は宅地となり、樟の巨木に代わって人家が建ち並んだ。そして、純中国風の士塀をめぐらせた「徐福廟」も、昭和21年12月の南海大震災で、跡形もなく壊れてしまった。徐福が亡くなったとき、殉死したという7人の重臣の塚が、徐福の墓を中心に、北斗七星の形にあったが、いまは「七塚の碑」として徐福の墓のそばに移され、わずかにそのおもかげをとどめるだけ。
だが、市民の徐福に寄せる思いに変りはなく、いまも8月には、盛大な慰霊祭と花火大会が催されている。
- 徐福(じょふく)は、秦の始皇帝(紀元前221~紀元前210)に仕えたとされる方士(祭祀・祈祷・卜占・医術などを司る呪術者・学者)で、斉(さい)国の琅邪(ろうや)郡(現在の中国山東省臨沂市周辺)の出身とされる。
徐福 - Wikipedia
1 「史記」 秦始皇本紀
齊人徐市等上書言、海中有三神山、名曰蓬莱、方丈、瀛洲、僊人居之。 請得齋戒、與童男女求之。薺の人徐市(じょふつ)ら書を上って言う、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛洲(えいしゅう)と曰い、仙人これに居る。請う、斎戒して、童男女と之を求むることを得ん。
2 「史記」 秦始皇本紀
徐市等費以巨萬計、終不得藥。
徐市ら費すこと、巨万を以て計うるも、終(つい)に薬を得ず。
方士徐市等入海求神藥、數歳不得、費多、恐譴、乃詐曰: 「蓬莱藥可得、然常為大鮫魚所苦、故不得至、願請善射與倶、見則以連弩射之。」
方士徐市ら海に入りて神薬を求む、数年得ず、費え多し、譴(とが)められんことを恐れ、乃ち詐(いつわ)りて曰く: 「蓬莱の薬得べし、然れども常に大鮫魚の苦しむ所と為る。故に至ること得ぎりき。願わくは善く射るものを請いて与に倶せん。見われなば、則ち連弩を以て之を射ん。
3 「史記」 淮南衡山(わいなんこうざん)列伝
又使徐福入海求神異物。還為偽辭曰: 『臣見海中大神、言曰: 「汝西皇之使邪」 臣答曰: 「然」 「汝何求」 曰: 「願請延年益壽藥。」 神曰: 「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」 即從臣東南至蓬莱山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰: 「宜何資以獻」 海神曰: 「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」 』 秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。また徐福をして海に入り神に異物を求めしむ。還りて偽辞をなして曰く:
『臣海中に大神と見える。
言いて曰わく: 「汝は西皇の使か」と。
臣答えて曰く: 「然り」
「汝何を求むや」
曰く: 「願わくは延年益壽藥(不老不死薬)を請う。」
神曰く: 「汝秦王の礼薄し、観るを得るも取るを得ず。」
即ち從いて臣東南蓬莱山に至り、芝成宮闕(霊芝でできた宮殿)を見る、銅色にして龍形の使者あり、光上って天を照らす。
是において臣再拜して問いて曰く: 「宜く何を以って献に資すべきや」
海神曰く: 「令名(すぐれた)男子若しくは振(器量の良い)女と百工之事を以てせば、即ち之を得ん。」』秦の皇帝大に説び、振男女三千人を遣わし、之に五穀の種、種百工を資して行かしむ。
徐福平原広沢を得、止(とどま)りて王となりて来(きた)らず。
筆者注:本稿については、個人サイト「天山の史跡・自然」のうち「徐福伝説と史実について」から引用
- つまり、史記の記述に従えば、徐福(徐市)は始皇帝に「海中にある三神山には不老不死の薬がある」と進言して探索のために多額の費用を費やすものの薬は見つからず、いったんはこれを大鮫魚のせいにしたが、後に言い逃れはできないとみて「神様への贈り物が必要」と申し出た結果、男女三千人と穀物の種、多数の技術者(工)を連れて海に出た。しかし、その先で平原広沢(広大な領地)を得て王となり、ついに秦には帰らなかった。こうしたエピソードから、中国では「徐福は不死の薬を名目に始皇帝から金品をせしめた狡猾な人物」という印象を持たれていることもある。
- 永らく徐福は架空の人物ではないかと考えられていたが、1982年に「中華人民共和国地名辞典」編纂のための調査を行っていたところ、江蘇省連雲港市贛楡(かんゆ)県金山鎮にある徐阜という村が古くから「徐福村」と呼ばれていたことが判明し、徐福は実在の人物であった可能性が高まったとされる。
- 日本の文献では、「神皇正統記(北畠親房、南北朝時代)」、「林羅山文集(林羅山、江戸時代初期)」、「異称日本伝(松下見林、江戸時代初期)」、「同文通考(新井白石、江戸時代中期)」などの歴史研究書に徐福の記述がある。このうち「異称日本伝」には紀州の熊野山下に徐福の墓がある、との記述があり、「同文通考」には熊野の付近に徐福が住んでいた、との記述がある。
- 徐福が渡来した場所としては、新宮市のほか三重県熊野市、佐賀県佐賀市、京都府伊根町、長野県佐久市、鹿児島県出水市・いちき串木野市、宮崎県延岡市、広島県廿日市市、愛知県一宮市・豊川市、東京都八丈町、秋田県男鹿市、青森県中泊町など全国に伝承がある。
- 徐福文化の世界遺産登録を目指している「日本徐福協会」には、日本全国の徐福伝承地の研究団体として次のような団体が加入している。徐福研究 - 「徐福縁たより」2016年3月27日 逵 志保
特定非営利活動法人佐賀県徐福会(佐賀県)
八女徐福会(福岡県)
天山ふれあい会(福岡県)
いちき串木野市(鹿児島県)
徐福さん振興会(宮崎県)
丹後徐福研究会(京都府)
一般財団法人新宮徐福協会(和歌山県)
熊野市(三重県)
富士山徐福学会(山梨県)
(一社)神奈川県日中友好協会 神奈川徐福研究(神奈川県)
男鹿徐福顕彰会(秋田県)
- 徐福の墓周辺は平成6年(1994)に大々的な整備が行われ、中国風の楼門を備えた「徐福公園」となっている。
- 徐福が求めた不老不死の霊薬は「天台烏薬(てんだいうやく)」という名の樹木(クスノキ科の常緑灌木)であったとの説がある。テンダイウヤク(またはウヤク)の根は古くから生薬(漢方薬)の原料として用いられており、強壮・健胃・鎮痛・鎮痙・鎮静・縮尿などの効能があるとされる。これに着目して、和歌山県工業技術センターでは2012年頃に和歌山県内の製薬メーカーと共同で天台烏薬のエキスを用いた健胃清涼剤「熊野蓬萊健胃錠」を開発した。また、健康効能はうたわれていないが、天台烏薬を用いた「徐福茶」などの商品も徐福公園等で販売されている。
- 平成6年(1994)、歌手の鳥羽一郎が「徐福夢男 ~虹のかけ橋 (作詞:星野哲郎、作曲:中村典正)」というシングルCDを発売した。この歌には「那智の滝」「神倉(神社)」という熊野地方の地名が織り込まれており、熊野へ渡来したとの伝承に則ったものとなっている。
- 現在も毎年8月に「熊野徐福万燈祭 新宮花火大会」が開催されている。(令和2年の第57回大会は新型コロナウィルス対策のため中止となった)
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。