生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

秀衡桜 ~中辺路町(現田辺市中辺路町)野中~

  藤原秀衡が、赤ん坊を「滝尻王子社」裏の岩屋に預けたあと、その子の成長を願って突き刺した杖が根づいたという老桜が、野中の古道のわきにある。

 

 「我らが熊野詣でを終え、再びこの地に戻った時、この杖に根がはえ、花が咲いていたなら、わが子は無事なり。神よ、何とぞ子を守り給え」と念じて旅を急いだ秀衡。無事熊野へのお礼参りを終えて野中にたどりつくと、桜の杖はしっかりと根づき、みごとに花を咲かせていた…と。

 

 樹齢百余年という四代目の「秀衡桜」は、高さ約10メートル。幹回りは3メートルもあろうか。

 

 鶯や 御幸の輿もゆるめけん

 

かたわらに、虚子の句碑が建つ。

(メモ:「秀衡桜」は、中辺路町役場から国道311号線を約20キロ。国道から50メートル離れたところにある。近くに「野中の清水」と「野中の一方杉」などがある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

秀衡桜

 

 

 

 

  • 現時点では秀衡が熊野参詣を行ったという公式な記録はない。しかしながら、元禄2年(1689)年頃に記されたとみられる地誌「熊野獨参記(児玉荘左衛門による地誌「紀南郷導記」の別名とされる)」の「野中村」の項には次のような記述があり、少なくともこの時点では秀衡の伝承が一般化していたものと考えられる。
    Wikipedia - 継桜王子#継桜と秀衡伝説

野中村

在所はずれに王子の小社あり
この社の前に名木の接桜あり 
古木は枯れてなかりしを
前君(筆者注:徳川頼宣の厳命にて
かわりに山桜を植えたり
今大木となれり
接桜は昔秀衡夫婦参山の時
剣の山の窟にて出産をし
その子をそこに捨置参山す
此所に至て仮初に桜を手折りて戯に曰(いわく)
産所の子 死すべくは この桜も枯れるべし
神明仏陀の擁護これありて
もし命あらば桜も枯れまじ と言う
側の異木にさして往還す
下向道成を此所に来りしに
色香盛の如し
彼の窟に行きて見るに 
幼児は狐狼の為にも侵されず
還って服仕せられて肥太れり
夫婦喜びて奥州に倶して下りしと言い伝えたり
※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字、かなづかい、送りがな等を適宜現代のものにあらためた。
熊野獨参記

  • 上記引用文のうち「名木の接桜(つぎざくら 現在では「継桜」の文字をあてることが一般的である)」とあるのは、この桜が「(ひのき)に桜を接ぎ木したもの」と伝えられていることを示したものである。これについては、次項「野中の一方杉」においてあらためて詳述を予定している。
    野中の一方杉 ~中辺路町(現田辺市)野中~ - 生石高原の麓から
  • 上記引用文では、秀衡は「道端の桜の木を折り取り、異木に挿して」熊野へ往復したとしているが、これは、本文の「秀衡が奥州から突いてきた桜木の杖を地面に挿したものが根付いた」という記述とは異なっている。このことについては、上記と同様に次項「野中の一方杉」でも触れる予定としているが、おそらくは、秀衡以前から奇木として知られていた「継桜」が、後に秀衡の伝承と結びついて、「秀衡由来の継桜」という話が生まれたものなのであろう。

 

  • 熊野獨参記」より100年ほど後、泉州堺から古座に移住した医師・玉川玄龍が寛政6年(1794)に記した地誌「熊野巡覧記」には次のような記述があり、秀衡が藤原家に伝わる宝剣等を滝尻王子に奉納したと伝えている。

嶺村 瀧尻王子御座

是は奥州秀衡建立の地也 小社数多有
秀衡夫婦熊野に詣でし時
秀衡の室(妻) 此所にて平産ありしかば
悦の余り 藤原家代々の宝剣を同社に奉納せし
故に剣宮とも言伝うと也
※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字、かなづかいを適宜現代のものにあらためた。
熊野巡覧記

  • このとき奉納されたと伝えられる小太刀)は現在も滝尻王子宮十郷神社(たきじりおうじぐう とうごうじんじゃ)が所蔵しており、昭和47年(1972)に国の重要文化財に指定されている。「文化遺産データベース」によればその概要は次のとおり。また、和歌山県立博物館のブログによれば、この小太刀は全長わずか30.3センチメートルで、和歌山県で最小の刀であるとする。
    和歌山県立博物館 展示のみどころ

黒漆小太刀<中身銘有次>(くろうるし こだち <なかみ めい ありつぐ>)
 小形の太刀で、胄金・脚金物・責・鐺とも金銅製で、製作がきわめて優れている。鞘は韋包で黒漆を塗り、柄には俵鋲を打っている。刀身は錆身であるが姿よく、しかも備中国古青江有次の在銘である。このような小太刀は巖島神社の古神宝中にある以外には知られるもののない稀有な作例である。
文化遺産データベース

 

  • 文化3年(1806年)から天保10年(1839年)にかけて編纂された地誌「紀伊風土記」には滝尻王子について次のような記述があり、秀衡の伝承についても触れられている。ここでは、秀衡が感謝のために王子社に七堂伽藍を造営して経文や武具等を納めたが、天正の兵乱豊臣秀吉による紀州征伐と思われる)により堂舎は破壊され、記録も紛失してしまったとする。

瀧尻五体王子社  境内山周160間

村より12町(筆者注:約1.3キロメートル)栗栖川の東 
瀧尻にあり 御幸記に見えたり 全文下條に載す 
此地急灘にして川水石に触れて激流す
当社其側にあり 因りて瀧尻という
社辺に宝篋印塔ありて3 400年間の物と見ゆれども
石損して銘よみがたし
境内の山上を剣ツルギノ山と言う
半腹に岩穴あり深さ3間 横2間許(ばかり)
伝え言う
古 奥州の秀衡 を携えて熊野に参詣す
其妻臨月なり 此地に至り産の気あり
人家なきを以て 此岩崛の内に入りて三郎を産む
其時立願して安産を得たり
因りて七堂伽藍を造営して諸経並びに
武具等を其堂中に納めしという
因りて其堂を秀衡堂と号す
天正の兵乱に破壊し 旧記も紛失して
今は堂舎の跡なし
岩穴の少し上に胎内くぐりという巖崛あり
深さ4間(筆者注:約7.2メートル)
入口は4尺(筆者注:約1.2メートル)
出口は3尺(筆者注:約0.9メートル)許の崛なり
毎年2月彼岸の中日には
近隣より諸人王子に詣して穴を潜ると言う
神宝小太刀(長さ9寸(筆者注:約27センチメートル)
矢根  の三品あり
秀衡の奉納する所という
三種とも古色あり 今社司なきを以て村中歓喜寺に納む
熊野古道廃せしより当社は参詣の人も稀にして大に衰微せり
※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字、かなづかいを適宜現代のものにあらためた。

 

  • 秀衡が熊野地方を訪れたという公式な記録はないものの、平泉町にある熊野三社(くまのさんしゃ)藤原清衡熊野権現の分身を紀伊国本宮から分霊したものであるとされており、奥州藤原氏は熊野に対する篤い信仰心を有していたことが伺える。同社について、岩手県神道青年会のWebサイトでは次のように解説している。

熊野三社
 嘉保年中(筆者注:1094 - 1096)、奥州藤原三代藤原清衡将軍が平泉鎮護の神として五方鎮守総社を建立された際、當熊野社平泉北方鎮守の神として熊野社を建立し、五間四面の宮造りの社殿で紀伊国より熊野権現の分身を本宮より御分霊賜り守護神として木像を安置しました。

 末社に、子守社、勝手社を祀りしも元亀二年野火にて焼失し、後に末社を合祀し熊野三社と社名を改めました。焼失の際、蔵王権現木造(鎌倉時代の作)の一部(首)を以って面に改め残って居リ、當社の宝物として祀られて居ります。
熊野三社(平泉町平泉) : 岩手県内 神社検索(岩手県神道青年会作成)

 

東北の熊野信仰の受容と背景
 東北地方には、全国に3,135社ある熊野ゆかりの神社のうち、全体の4分の1に及ぶ736社の熊野神社があるとされています。
 熊野信仰が都だけでなく全国に広がる中、遠隔地である東北地方に関するものとしては、「熊野年代記」に渡海(筆者注:補陀落渡海(ふだらくとかい 「補陀落」と呼ばれる海上の浄土をめざして船で旅立つこと)と呼ばれる捨身行に延喜19年(919年)に陸奥国の13人が同行したことが書かれており、また、名取の熊野三社勧請に深く関わった陸奥国に住む老女に関する和歌が、平安時代末期頃に成立した「袋草子」に収められています。このように、東北地方の熊野信仰は、平安時代末期(12世紀)頃から本格的に受容されたとされ、熊野神社が各地に勧請(かんじょう)されていったと考えられています。
 中世になると、はるばる紀州熊野三山を詣でた東北地方の人々の記録や、熊野信仰の布教などに関わった宗教者たちの記録が多くなり、活発に活動していたことが知られています。
 現在、東北地方に熊野信仰に関わる文化財が数多く伝わっていることから、いたるところで熊野信仰が根付き、人々の暮らしに溶け込みながら今でも尊崇を集め続けていることが伺えます。

 

名取熊野三山の勧請と布教
(略)
 東北地方における名取熊野三社については、仙台湾熊野灘名取川熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模して、本宮、新宮、那智の三社が他の地域と異なり別々に勧請されています。名取熊野本宮社は家津御子神、新宮社は速玉神那智神社は夫須美神を主神として社も別々に建てられ、縮小版的で、まさに、紀州熊野三山の世界を再現するかのような勧請のされ方は、名取熊野三社は東北太平洋沿いにおける熊野信仰布教の一大拠点としてふさわしい姿であったと考えられます。
 名取熊野神社の縁起によれば、保安年間(1120~1124)に名取老女によって勧請されたと伝えられていますが、文献記などから既に平安時代の終わり頃には熊野三社は存在していたと考えられています。「吾妻鏡」文治5年(1189年)からは、名取熊野の金剛別当秀綱は奥州藤原泰衡の後見人として強大に勢力を誇っていたことが知られ、このことから、名取熊野別当は東北では軍事的に武士団の棟梁で、宗教的には熊野権現の名において修験教団の管長であったことがわかります。 
熊野三社関係 / 文化・スポーツ課 / 教育部 / 組織別インデックス / ホーム - 宮城県名取市の公式サイト

 

  • 本文にある高浜虚子の句碑について、熊野路編さん委員会編「くまの文庫3 熊野中辺路伝説(上)(熊野中辺路刊行会 1972)」には次のように記載されている。
    高浜虚子(たかはま きょし 1874 - 1959)愛媛県生まれの俳人・小説家。昭和8年(1933)に熊野を巡遊しており、この際に作られた俳句のうち7句が各地で石碑となっている。

秀衡桜
(略)
 また秀衡がさしたという桜は野中の秀衡桜、一名継桜といわれ、今のは二代目か三代目らしいが、かたわらに「奥州秀衡二代の桜」と刻まれた石柱がたっている。
 桜の下の句碑
鴬や御幸の輿もゆるめけん   虚子
は往年ホトトギス(筆者注:明治30年(1897)創刊の俳句雑誌 高浜虚子らが選者を努めた)の中堅作家で有名だった当時の紀伊新報社長、小山邦松氏が建てられたものである。
 この桜はどうしたものか、普通のものより数日遅れて咲き初めるが、毎春変わることなくその妍(けん)をほこり、道ゆく人々を楽しませている。
※筆者注:紀伊新報は明治44年(1911)創刊の地方新聞。昭和17年(1942)に国の新聞統制令により廃刊となるが、戦後、旬刊「紀伊民報」として復刊。昭和23年(1948)から日刊となり、現在も発行が続けられている。

 

  • 令和2年(2020)現在の秀衡桜は5代目とされるが、この桜は平成23年(2011)に幹内部の腐食で折れた4代目の根元から伸びた新たな幹であるという。

古道の秀衡桜が満開 田辺市中辺路町 (2020年04月08日)
 和歌山県田辺市中辺路町野中、継桜王子近くの熊野古道沿いにある「秀衡桜(ひでひらざくら)」がほぼ満開になった。
 秀衡桜は、平安末期の奥州の武将・藤原秀衡と熊野詣でをした際、生まれた子の無事を願って、つえにしていた桜の木を地に突き刺し、それが成長したものと伝えられている。
 4代目とされる木が2011年に幹内部の腐食で折れてしまったが、5代目の秀衡桜はその根元付近から伸びていたもので、熊野古道を覆うように枝を広げている。

www.agara.co.jp

 

  • 同名の「秀衡桜」が熊野那智大社にもあるが、こちらは秀衡が熊野詣をした際に持参した苗木を奉納したものと伝えられる。この桜について、熊野那智大社のWebサイトでは次のように紹介されている。

秀衡桜
 熊野詣の盛んな時代には広く人々の参詣がございました。奥州の藤原秀衡夫人と共に熊野詣をし、その時奥州から持ってきた山桜がこの秀衡桜であると伝えます。四月の二十日頃に雲か霞かと疑われる程に真白く美しく咲く珍しい花で県指定の文化財です。
社殿案内|熊野那智大社

 

  •  メモ欄中、「中辺路町役場」は、合併により現在「田辺市役所中辺路行政局」となっている。
  • 同、「野中の清水」は秀衡桜の近くにある湧水。環境省選定の「名水百選」にも選ばれている。
    熊野古道 | 和歌山県文化情報アーカイブ
  • 平成11年(1999)にバイパスができたため、メモ欄にある国道のルートは変更となっている。現在、秀衡桜へは(新)国道311号の「野中一方杉」バス停から北へ約1.5キロメートル。

 
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。