生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

大雲取小雲取 ~熊野川町(現新宮市熊野川町)上長井~

 「伊勢へ七度、熊野へ三度」。かつて「蟻の熊野詣で」と形容された熊野三山詣では、まさに「神のこもれる国」への、素朴な信仰心がもたらしたものに他ならない。

  だが、その道は余りにもけわしく、遠かった。京の都から淀川を下り、大阪から和歌山田辺を経て中辺路を抜け、ようやく本宮へ。さらに新宮川を下って速玉大社新宮市那智大社(郡智勝浦町を詣でる。そして帰路は、女人高野・妙法山から本宮へ出るのだが、その間35キロが、名にしおう難所「大雲取越え」「小雲取越え」だった。

 

 文字通り、雲を手づかみにできるほどの高所を抜けるこのコースは、昼なお暗く、物の怪(け)に取りつかれそうな、さみしい道。追いはぎも出たことだろうし、行き倒れる人も多かったのだろう。いまなおあちこちに、祠や墓石が残り、熊野詣でにまつわる話も多い。

 

(メモ:那智山青岸渡寺横から舟見峠~地蔵茶屋~地蔵堂を経て熊野川町小口までが「大雲取越え」。小口から上長井へ出、小和瀬~桜茶屋~松畑茶屋から本宮町請川へ出るのが「小雲取越え」。)
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

小口から大雲取越えへの入り口付近

 

 熊野古道・中辺路の終点本宮と那智山を結ぶ「大雲取越」への古道は、那智山青岸渡寺の裏手の石段から始まります。続く「小雲取越」と合わせ、このルートは死者の霊魂がたどったという「死出の山路」。幽妖な雰囲気が漂う「舟見峠」から下る八丁坂は「亡者との出会い」と呼ばれ、死に別れた親兄弟、知人が白装束で現れるといいます。熊野を知り尽くした南方熊楠が「ダル」(妖怪 筆者注:後段で詳述する)に憑かれたという逸話も頷けます。ここは中辺路随一の難所で、「雲をつかむような」と称されている峠道。舟見峠熊野灘の眺望を一望した後は石倉峠越前峠胴切坂へ。その途中には旅籠跡・茶屋跡を忍ばせる石積みなどが残り興味をそそります。「小雲取越」の道は比較的平坦ですが、道中には「賽の河原」(冥土の三途の川のほとり)もあり熊野が「隠国(こもりく)」、霊魂の籠もる地といわれる所以を感じられるでしょう。熊野古道を歩く難行苦行を通じて「黄泉の国」で生まれ変わり「甦る」こととなるのです。熊野本宮大社へとつながる「請川」に近づき、清流をたたえる熊野川に出会う。生あることに対する感謝の気持ちがあふれ、「死出の山路」は終わりを迎えます。
雲をつかみ百間を一望する、非日常の旅へ | わかやま歴史物語

 

おおくもとりごえ 大雲取越え熊野川町・那智勝浦町
 東牟婁郡熊野川町上長井の小口と那智勝浦町那智山の間にあり小雲取越えとともに熊野街道最大の険路。舟見峠石倉峠越前峠と標高800m前後の峠が続き、それぞれの峠付近と途中3か所に茶屋があった。那智山から舟見峠、小口から越前峠の間は急坂で、舟見峠と越前峠の間は大雲取山腹、標高700m付近で登り下りを繰り返す。かつて大雲取越え小雲取越えは、熊野三山那智~本宮間の参詣道として、また本宮地方の生活道として利用されてきた。建仁元年(1201)藤原定家那智から本宮に向かう際、雨の中を雲取越え紫金越え(筆者注:しこんごえ 小雲取越えの旧称で、「しこん」は「志古(現在の新宮市熊野川町日足にある地名)」を示すものと言われる)の道を通ったと「明月記」に記されていることから、鎌倉期にはすでにこの道が存在したと考えられる。また、寛政11年の「紀南遊嚢(筆者注:きなんゆうのう 江戸時代の砲術家坂本天山(さかもと てんざん 1745 - 1803)が記した漢詩集)」に「元禄三年ヨリ宝永二年迄ニ並べ終ヘタル由」と石畳道の改修を江戸期に行ったことが記されている。明治以降、熊野川沿いの道の整備や熊野川の定期船が発達するにつれて大雲取越えを利用するものは少なくなった。現在熊野古道のハイキングコースになり、案内の立札や休憩所がつくられている。また、各所に石畳道がよく保存された状態で残る。

 

こぐもとりごえ 小雲取越え熊野川町・本宮町>
 東牟婁郡熊野川町上長井の小和瀬と本宮町請川の間にある峠道。大雲取越えとともに熊野街道の険路といわれている。建仁元年、藤原定家那智から本宮に向かう際、雲取・紫金越えの道を通ったと「明月記」にある。ここでの雲取とは大雲取越えのことで、のち、本宮~那智間の山越えルートのうち、大雲取越えに対して紫金越えが小雲取越えといわれるようになった。鎌倉期にはすでに小雲取越えの道があったと考えられる。当越えは、小和瀬から尾根伝いに登り、如法山(609m)山腹、標高500m付近を通り、再び尾根伝いに請川へと下る。途中に桜茶屋石砥茶屋松畑茶屋などの茶屋跡がある。桜茶屋は「風土記」長井村の項に「村の乾(いぬい)小雲取往還の峠にあり・・・・・家一軒あり傍に桜の大木あり」と記されている。また、この道は本宮~那智間の参詣道として、あるいは地域間の交易路として利用されてきたが、明治以降、熊野川沿いの道が整備されるにつれて間道となった。

 

  • 上記引用文中にある藤原定家の「明月記」のうち、熊野参詣にかかわる部分は「熊野道之間愚記」、通称「後鳥羽院熊野御幸記」と呼ばれる。雲取越え建仁元年(1201)10月20日のことであったが、終日激しい風雨に見舞われ、定家一行は「今までこのような目にあったことが無い」ほどの難渋をしたようである。この内容について、個人サイト「百姓生活と素人の郷土史」及び「み熊野ネット」に原文、読み下し文及び現代語訳が掲載されているので、該当部分を下記に引用する。

読み下し文
二十日  自暁雨降
松明無く天明之間、雨忽ちに降る、
晴間を待と雖も、彌注ぐが如し、
仍って營を歩一里許行、天明風雨之間、
路窄く笠を取るに及ばず[甚雨蓑笠]、
蓑笠輿中海の如く、林淙(淙は野葬に同じ)の如し、
終日嶮岨を越す、心中は梦の如し、
末だかくの如きに事に遇わず、
雲トリ紫金峯は手を立つるが如し(紫金越事)、
山中只だ一宇の小家有り、
右衛門督これに宿す也、
予相替りて其所に入り、形の如く小食す、
了って又衣裳を出す、只水中に入るが如し、
此の邊りに於ひて、適雨止み了る、
前後不覺、戌時許り、
本宮に着す寝に付く。
此路の嶮難は大行路に過ぐ くまなく記すあたわず。
御幸記17

 

現代語訳
二十日 明け方より雨が降る
松明がなく、夜明けを待つ間、雨が急に降る。
晴れるのを待ったが、ますます雨は強くなる。
よって営を出て(雨が強いので蓑笠で)1里ばかり行くと夜が明ける。
風雨の間、路が狭く、笠を取ることができない。
蓑笠を着、輿の中は海のようで、林宗のようだ。
1日中かけて険しい道を越える。心中は夢のようだ。
いまだこのような事に遇ったことはない。
雲トリ紫金峯は手を立てたようだ。(紫金を越える事)
山中にただ一宇の小さな家がある。
右衛門督(※藤原隆清)がこれに宿していたのだ。
予は入れ替わってそこに入り、形のような軽い食事をする。
その後、また衣裳を出し着る。ただ水中に入るようだ。
この辺りで、雨が止んだ。
前後不覚。
戌の時(今の午後8時頃。また、午後7時から9時まで、または午後8時から10時まで)ころに、
本宮に着き、寝に付く。
この路の険難さは「大行路」以上だ。記すいとまがない。
藤原定家『熊野道之間愚記(後鳥羽院熊野御幸記)』(現代語訳4):熊野参詣記

 

  • 本文中にある「女人高野・妙法山」とは、那智勝浦町南平野にある真言宗の寺院・妙法山阿弥陀寺を指す。同寺は、大宝3年(702)開創と伝えられるほか、空海が開創したとの伝承もあり、「角川日本地名大辞典(上述)」には次のように記載されている。

あみだじ 阿弥陀寺 <那智勝浦町
 東牟婁郡那智勝浦町南平野にある寺。高野山真言宗山号は妙法山。本尊は阿弥陀如来。「風土記」に「那智山峰の第一なり」と記す。妙法山の中腹に位置する。
 妙法山は文武天皇大宝3年、唐僧蓮寂が法華三昧を修し、法華経を書写して山頂に埋め、その上に釈迦如来を安置したと伝え、那智奥の院といわれる(名所図会熊野篇・那智勝浦町史)
 その後平安初期の弘仁6年空海が妙法山を訪れ修法するとともに山の中腹に当寺を建立し阿弥陀如来を安置。寺伝では空海を開山とする那智勝浦町史)。しかし空海開創の伝承は妙法山が女人の登山を許し「女人高野」と呼ばれることからできたものと思われる。
 「日本霊異記古典大系に見える称徳天皇のころ紀伊国牟婁郡熊野村の永興禅師同行の禅師法華経を誦しながら捨身し髑髏となっても舌だけが残って法華経を誦していたという山は、妙法山であろうといわれる(続風土記、吉野・熊野信仰の研究/山岳宗教史研究叢書4)
 また「大日本法華験記(続群8上)に「奈智山応照法師」が法華経薬王品の薬王菩薩にならい身を焼いて諸仏に供養したことを記すが、妙法山には応照上人入滅場所(火定炉)があり、「奈智山」は妙法山に比定される(吉野・熊野信仰の研究/山岳宗教史研究叢書4)。このように妙法山は奈良期からの法華経修行者の集まる道場で、平安期には法華経系の山伏によって構成される熊野修験の本拠地に発展した(同前)
 その後鎌倉期弘安3年由良町興国寺開山の無本覚心法灯国師)が妙法山に登攀(円明国師行実年譜/続群9上、元亨 釈書)。覚心は臨済宗法灯派開祖である一方、高野聖のうちの萱堂聖開祖でもあり、この時妙法山を念仏と納骨の山として中興したと思われる(吉野・熊野信仰の研究/山岳宗教史研究叢書4)
 山門を入ると左側に「妙法山の一つ鐘」といわれる梵鐘があり、日本中の死者の霊魂は枕飯の炊かれる間に、樒(しきみ)の枝を持って妙法山に登りこの鐘を打つと伝える。また奥の院周辺に樒が多いのは死者が樒を奥の院に落としていくためであるといわれ、ここを樒山と称する。納骨は「亡者の熊野詣り」といわれる山中他界観の具現化であり、現在は納髪が行われている(同前・那智勝浦町史)

(以下略)

 

  • 妙法山阿弥陀寺を「女人高野」と称するのは、高野山が女人禁制であるのに対し、阿弥陀寺男女貴賤の別なく納骨を受け入れたからであるとされる。これについて、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」では次のように記述している。

妙法山阿弥陀寺
  上生院  境内 東西6町余、南北7町半許(ばかり) 禁殺生
 那智山
  十方浄土堂(本尊 釈迦)  弘法大師堂 骨堂
  阿弥陀堂  客殿  庫裏  長屋
  勧化所  鎮守社(一丈一寸余 一丈三尺余)  鳥居
那智山本社の南二十一町許(ばかり)
山上にあり
妙法山は那智山峯の第一なり
寺は真言宗にして弘法大師の開基のよし
大師堂の木像は自作なりといえり
阿弥陀堂四方浄土と号す
鎮守社三宝荒神を祀るとなり
寛文の寺記に
 当山不貴賤男女 
 納骸骨於我山
 建卒塔婆 立石塔 
 念仏修善 祈無上菩提

 既是諸仏救世之道場也 
 肆往昔先徳 爰居住多矣諺
 曰女人号高野
 故不僧尼 住持自往古例也。
とあり
其文によれば当山は弘法大師の開基にして
骨を収むる事などは高野山に準す
高野は女人結界の地なれ当も
当山は女子も登山をゆるすとの事なり
中世 法灯国師再興して当山に居住す事は
元亨釈書に見えたり
世俗に亡者の熊野参りということを伝えて
人死する時は幽魂必当山に参詣すというと
怪しき事など眼前に見し人もあり
こは何れの頃よりいい始めし古にや
古きものにも見えざけども
世の人古く言い伝えたり

 

  • 上記「わかやま歴史物語100」からの引用文にある妖怪「ダル」は、山で飢えて死んだ者が悪霊となったもので、ダルに憑かれると急に脱力感に襲われ、意識がもうろうとし、歩くことすらできなくなってしまうと伝えられる。米を一粒でも食べるとダルが逃げていくので、山で弁当を食べる時には飯粒を一粒でも残しておく慣わしがあったとされる。ダルについては、和歌山市を中心として配布されているコミュニテイ紙「ニュース和歌山」の連載「妖怪大図鑑」でも紹介されている。

    www.nwn.jp

 

  • 南方熊楠が妖怪「ダル」に憑かれたという話は、「ひだる神」という題名の文書にある南方熊楠著 中沢新一編「南方熊楠コレクション<第2巻>南方民俗学( 河出書房新社 2009)に収載)。ここでは、民俗学者柳田國男(やなぎた くにお 1875 - 1962)が自ら創刊にかかわった雑誌「民族(民族発行所)」の第1巻1号大正14年(1925))に寄稿した「ひだる神のこと」を踏まえ、大雲取・小雲取に現れるという「ひだる神」、「餓鬼」について論じており、その中で自らもひだる神に似た「ガキ」につかれたという体験を語っている。

ひだる神   柳田国男「ひだる神のこと」参照(「民族」1巻1号157頁)
 ここに(「民族」1巻1号157頁)『和歌山県』から、ある書にいわく、云々、と引いたは、菊岡沾涼(筆者注:きくおか せんりょう 1680 - 1747 江戸時代中期の俳人・作家)の『本朝俗諺志(ほんちょう ぞくげんし 1747)』で、本文は、「紀伊国熊野に大雲取小雲取という二つの大山あり。この辺に深き穴数ヵ所あり、手ごろなる石をこの穴へ投げ込めば鳴り渡りて落つるなり。二、三町があいだ行くうち石の転げる音聞こえ鳴る、限りなき穴なり。その穴に餓鬼穴というあり。ある旅僧、この所にてにわかにひだるくなりて、一足も引かれぬほどの難儀に及べり。折から里人の来かかるに出あい、この辺にて食求むべき所やある、ことのほか飢え労(つか)れたりといえば、跡の茶屋にて何か食せずや、という。団子を飽くまで食せり、という。しからば道傍の穴を覗きつらん、という。いかにも覗きたりといえば、さればこそその穴を覗けば必ず飢えを起こすなり、ここより七町ばかり行かば小寺あり、油断あらば餓死すべし木葉を口に含みて行くべし、と。教えのごとくして、辛うじてかの寺へ辿りつき命助かる、となり」とある。
 予、明治34年冬より2年半ばかり那智山麓におり、雲取をも歩いたが、いわゆるガキに付かれたことあり。寒き日など行き労れて急に脳貧血を起こすので、精神茫然として足進まず、一度は仰向けに仆(たお)れたが、幸いにも背に負うた大きな植物採集胴乱が枕となったので、岩で頭を砕くを免れた。それより後は里人の教えに随い、必ず握り飯と香の物を携え、その萌(きざ)しある時は少し食うてその防ぎとした
 『俗諺志』に述べたような穴が只今雲取にありとは聞かぬが、那智から雲取を越えて請川(うけがわ)に出で川湯という地に到ると、ホコの窟というて底のしれぬ深穴あり。ホコ島という大岩これを蓋(おお)う。ここで那智のことを咄(はな)せば、たちまち天気荒るるという。亡友栗山弾次郎氏方より、元日ごとに握り飯をこの穴の口に一つ供えて、周廻を三度歩むうちに必ず失せおわる。石を落とすに限りなく音して転がり行く。この穴、下湯川とどこかの二つの遠い地へ通りあり。むかしの抜け道だろうと聞いた。栗山家は土地の豪族で、その祖弾正という人天狗を切ったと伝うる地を、予も通ったことあり。いろいろと伝説もあっただろうが、先年死んだから尋ねるに由なし。この穴のことを『俗諺志』に餓鬼穴と言ったでなかろうか。

 

  • ひだる神」は、人間に空腹感をもたらす憑き物で、「行逢神(ゆきあいがみ/いきあいがみ 人や動物と行きあって災いを成すとされる神霊)」または「餓鬼憑き(がきつき 取り憑かれると激しい空腹感に襲われ、動けなくなる)」の一種とされる。北九州一帯ではダラシと呼ばれ、三重県宇治山田や和歌山県日高や高知県ではダリ徳島県那賀郡や奈良県十津川地方ではダルなどと呼ばれる。これについて、上記の引用文で熊楠が言及している柳田國男の「ひだる神について」では、現実に全国で類似の例が発生しているとして、その生理的現象を研究するため、全国の研究者に実例の収集を呼びかけた
    ヒダル神 - Wikipedia

 

  • 生理学的に見ると、この状態は、激しい運動を長時間にわたって行った際に、エネルギーの枯渇によって急に体が動かなくなったり意識低下をもたらしたりする現象(ハンガーノック)によく似ており、休息をとり、適切な糖質補給を行うことによって回復する点でも共通点がある。これについて、自治医科大学附属病院の救命救急センター長である間藤卓氏が「ひだる神とラムネのお菓子01」という題名で次のようなブログを書いているので参考に紹介する。

 このひだる神を世に出したのが、かの有名な柳田國男氏であり、興味のある方は『ひだる神のこと』(「民族」第一巻第1号・大正14年)に詳しいのでぜひ原文を読んでいただきたい。
 柳田國男の著書の常として文章そのものが趣深いのは勿論だが、内容も負けず劣らず興味深い。で、少しく引用させていただくと
大和十津川の山村などでは、このことをダルがつくというそうである。山路をあるいている者が、突然と烈しい疲労を感じて、一足も進めなくなってしまう。誰かが来合せて救助せぬと、そのまま倒れて死んでしまう者さえある。何かわずかな食物を口に人れると、初めて人心地がついて次第に元に復する。普通はその原因をダルという目に見えぬ悪い霊の所為と解らしい。どうしてこういう生理的の現象が、ある山路に限って起こるのかという問えてみるために、まずなるべく広く各地の実例を集めてみたいと思う。一旦印刷せられ出ている記事も、参考のため簡単に列記して、我々の共同の財産にしておこうと思う。
とある。お分かりいただけただろうか?
 ダルといってもダルビッシュではない。現在の“怠い”のダルのようである。
 勘の良い方ならすでにお分かりいただけたと思うが、「わずかな食物を口に入れると、初めて人心地が付いて次第に元に復する」などの記載を読めば、「あっ、これは今の時代で言う“ハンガーノック”みたいな、エネルギーが枯渇したような状況だな」と思われるだろう。医療関係者や経験者なら、「低血糖の症状にも似ているな」と思われるだろう。事実、ひだる神の症状?と低血糖症状の類似は、多くの方がすでに指摘している…
日々の狭間、医療の谷間

 

  • 上記の引用文中では川湯にあるという「ホコ島」という大岩についても触れられているが、これについては個人ブログ「み熊野ネット」で詳しく紹介されている。それによると、その大岩は、昭和東南海地震昭和19年(1944)12月7日)と昭和南地震(昭和21年(1946)12月21日)によって谷に滑り落ちて砕けてしまったが、跡地には祠が建てられていて今も祀られているとのことである。
    ホコジマ:熊野の観光名所


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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。