生石高原の麓から

かつて開設していた個人サイト「生石高原の麓から」の内容をブログ形式に移行しています

かいもんさんと変り者 ~熊野川町(現:新宮市熊野川町)日足~

 神丸の山手に、小さな祠がある。土地の人たちは、これを「かいもんさん」と呼ぶ。17世紀初頭、赤木からこのあたりまで、4キロにわたって赤木川の水を引き入れ、多くの新田をつくった太地嘉右衛門をまつるといい、毎年2月10日の例祭では、溝掃除をするのがならわしだ。

 

 嘉右衛門がこの水路掘削を提案したとき、村人はだれも乗ってこなかった。それをようやく説き伏せて工事にかかったものの、東西から掘り進んだ水路は、どうしてもうまくドッキングしない。ところがこれを手直しさせたのが、村人たちから「変り者」と呼ばれていた男。


 この男が用いたのは、洪水のあとに残された流木やゴミをたどって、線で結びつける方法だったとか。いわば、自然の求める「流れ」をみつけたわけで、いまも人々は、祠の前に立つと、この二人の話に花を咲かせる。

 

(メモ:神丸は国道168号線ぞい。ここから赤木川にそって西へ入ると赤木に着くが、途中の水路と水田が、そのときにつくられたものという。)
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

神丸(かんまる)地区 現在は水田の中を新たな道路が通っている

 

  • この物語は、和歌山県小学校教育研究会国語部会編著「和歌山の伝説(日本標準 1979)」に本文と同様の「かいもんさんと変わり者」という題名で掲載されている。

かいもんさんと変わり者 -東牟婁郡熊野川町-
 熊野川町・木橋(あかぎばし)からその下流相須(あいす)神丸(かんまる)まで、約4キロメートルにわたって、まんまんと水をたたえて流れる水路があります。
 そして、神丸の山手に小さな祠があり、「かいもんさん」とよんで、毎年2月10日に村人たちが集まってお祭りをしています。この祠は、大地嘉右衛門(たいじ かえもん)という人のお墓で、2月10日はこの地の溝さらえ(溝掃除)の日にあたります。村人たちがお祭りをするのは、この嘉右衛門さんの立派な仕事に対しての、お礼だといわれています。
 元和8年(1622)のことです。
 そのころ、この神丸平(かんまるだいら)は広いあれ地でした。村人たちは、山合いのわずかな田んぼを耕して、貧しい暮らしをしていました。嘉右衛門さんも、そんなひとりでした。
 けれども、
このあれ地が、広々した田んぼになれば、みんなの暮らしもどんなにか楽になることじゃろう。
と、しきりに考えていました。
 そうしたある日、はたと膝を打って、いい考えを思いつきました。
 それは、あれ地に赤木川の上流から水路を作って、水を引いてくることです。そうすれば、このあれ地もきっと、青々した水田に生まれ変わるに違いない。こう考えた、嘉右衛門さんは、さっそく村人たちに集まってもらい、自分の考えを話しました。
とんでもないことだ。なにしろ、赤木からここまで一里(約4キロメートル)もあるじゃないか。
いや、いや。勝手にやって、お役人に罰せられて、それでおしまいじゃ。
と、てんで相手にしてくれません。
まあ、まあ、ようく聞いてください。たしかに大変な仕事に違いありません。しかし、わしらの暮らしが楽になるためには、このやり方しかないのです。お役所へは私が責任をもって、みんなの田んぼにしてもらえるようにお願いいたしまする。
と、嘉右衛門さんは一人ひとりの顔をじっと見つめ、願うような気持ちで申しました。
 さすがの村人たちも、この熱心な嘉右衛門さんの言葉にうたれて、賛成をしました。
 嘉右衛門さんの心をこめた願いは、幕府のお役所にも通じ、思いのほか早くお許しがで出ました。

 溝づくりは、嘉右衛門さんの指図によって、神丸赤木の両方から掘り進められることになりました。村人たちは、水が引けたら、自分たちの田んぼができるのだ、と、仕事に張り合いができました。みんなは
よいしょ!
ほらしょ!
と、声を出し合い、鍬を振り、仕事を進めました。
 ところが、溝づくりは、嘉右衛門さんが考えていたより、ずっと大変な仕事でした。ところどころに固い岩があったり、谷があったりして、一日に半間(約1メートル)もすすまないこともありました。
 そんな仕事場に、相須(あいす)ひとりの変わり者がいて、毎日ぶらっとあらわれては、
あほ!
あほ!
と言って、立ち去るのです。
 みんなは疲れているうえ、馬鹿扱いされるので腹が立って、
自分こそ仕事もろくろくできないくせに、このあほう。
と、言い返しました。
 嘉右衛門さんは、そんなときいつも、
まあ、まあ、きばってやれや。
と、笑いながらみんなをなだめて回りました。
 こうして、さしもの長い溝づくりも、みんなの力で、やっと5年目に溝はつながりました。
やった。ばんざあい!
嘉右衛門さん、おめでとう。
ありがとう。みんなのおかげじゃ。
 村人たちは、抱き合って喜びました。そのうち、誰かが、
水を通すのだ。
と、叫びました。と、同時に、みんなはいっせいに赤木(あかぎ)の水の取り入れ口めがけて走って行き、板で作った堰を力いっぱい引き抜きました。
水が行くぞう。
水が流れるぞう。
 その声はどよめきとなって、谷間にこだましました。きれいな水がザアザアと音をたてて流れていきました。
 ところが、ちょうど中頃まで来たとき、あれほど音をたてて流れていた水が、急に流れなくなってしまいました
 みんなは慌てふためき、大騒ぎになりました。
 そして、今までの苦労はなんにもならなかったのかと、へなへなとその場に座り込んで、水ののらない(流れない)溝をただ眺めてばかりいました。
 そのとき、嘉右衛門さんははっと、あの変わり者を思い出しました。そして、立ち上がり、力なく座り込んでいる村人たちに言いました。
おい、わしらにあほ!といったのはこのことだったんじゃ。あの変わり者に聞いたら、なにか教えてくれるにちがいない。みんなで行ってみよう。
 このことばに、村人たちも力のない足をひきずり、そこの家へ行って、
おまえさんはわしらにあほ!あほ!と言ってきたのは、どういう訳なんじゃ。教えてくださらんか。
と、頼みました。が、変わり者は、ただにやにやと笑っているばかりでした。これには嘉右衛門さんも、村人たちもすっかり困ってしまいました。

 それから後のある日、大雨がふり、赤木川は大洪水となって、赤茶色の水は神丸平(かんまるだいら)まであふれました。
 よく朝、雨が小やみになったとき、変わり者はさっと家をとび出して、大水で岸へ流れついたごみを目じるしに、神丸から赤木までの溝に、せっせと印を付けていきました
 それは、普段の変わり者とは思えないほど、手際のよい早さでした。そして、家へ帰ってくると、嘉右衛門さんや村人たちをよび集めて、
今、俺は、溝に印を付けてきたぞ。それに沿って、溝の深さを考え、明日から掘り直しなされ。そうすれば、かならず神地平へ水がのる(通る)。
と、濡れた顔を拭こうとしないで、ひとことひとこと力をこめて話しました。
 嘉右衛門さんも村人たちも、なるほどそうであったかと、感心して、今まで変わり者と思っていたのが間違っていたことを、そのとき初めて知りました。

 そして、その時その印に沿って作り直されたのが、今の水路だといわれています。透き通った水は、こんなお話を忘れたかのように、年中絶えることなく水田を潤し、静かに流れています。
 れいの、印を付けてくれた男はどこの誰で、その後どうなったのか、わかりません。
 それから、「かいもんさん」というのは、嘉右衛門さんというのが長い間にいつのまにか、「かいもんさん」となったのだということです。
     文・須川時夫 

※読みやすさを考慮して、原文のひらがなを適宜漢字に改めた。

 

  • 水路を開いたとされる太地嘉右衛門(「和歌山の伝説」では姓を「大地」とする)についての詳細は不明。「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」の「日足村(ひたりむら)」の項に「神丸付近の水田は元和8年太地加右衛門によって開墾されたという(三津ノ村所蔵文書)」との記述があり、この物語はこの「三津ノ村所蔵文書」を典拠として書かれたものであろうと考えられる。

 

  • この水路の起点となる赤木地区には、もう一つの水路に関する伝承がある。江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記 第三輯」の「赤木村」の項には次のような記述があり、いつの頃か、新四郎という人物が斧72挺を用いて大岩を砕いたことにより、南側にある田長谷から赤木村への水路を開削することができたため、新四郎の死後に施餓鬼(せがき 先祖を供養する行事)を実施しているとする。

田長谷ノ溝
村の東にあり
村中の田地に懸る水なり
溝の長さ六町半(約700メートル)
其中に高さ一丈(約3メートル)
長九間(約16メートル)(ばかり)の間
大巖にて水通しかたく 村民なやみけるを
(いつ)の比にか
新四郎と云ふ者有りて
斧七十二挺にて大石を切割りて
溝路(みぞち)成る
村民大に悦ひて
新四郎死後 年々此か為に
施餓鬼を勤むといふ

 

  • 現在のような測量技術や工事用重機が無かったころ、新たな水路を開削することは大変な難事業であった。1642年、学文路村(かむろむら 現在の橋本市学文路)に生まれた大畑才蔵(おおはた さいぞう 1642 - 1720)は「小田井用水」「藤崎井用水」などの長大な用水路を開いて紀の川沿岸における新田開発の礎を築いた人物として知られるが、これは才蔵が独自に生み出した「水盛台」という一種の水準器によって精密な測量や設計が可能となったことに加えて、設計図をもとにして工事区間を複数工区に分割して同時に着工するなどの工夫がなされたことによるものであった。本文の物語の舞台となった元和8年(1622)は才蔵が生まれる20年も前で、この時点では本文にあるように洪水の機会を利用して水路の基準線を定める方法は極めて合理的であったと言うことができる。

 

*****
本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。