生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

軍道の腰神さん ~印南町崎の原~

  ギックリ腰に悩む人や、お年寄りに人気があるという、風変わりな神さまがいる。崎の原の「腰神さん」だ。

 

 建武中輿(1334年)で活躍した護良親王が、崎の原の軍道まできたとき、乗っていた馬が腰をいためてしまった。やむなく愛馬を葬ったが、あとでそれが親王だったと気づいた里人たちが「せめて、お馬の霊をなぐさめたい」と、馬に似た岩をご神体にして祠をつくったのがはじまりとか。その後いつのころからか、細い青竹で作った竹馬を持ってお参りすると、腰痛がなおるといわれるようになったとも。


 一説には、親王を幕うあまり馬がそのまま化石となり、その霊が、同じ苦しみの人を救ってくれるのだともいう。 

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

 

  • 軍道(ぐんどう)」は、印南町の崎ノ原地区にある小字の名称。現地にある説明板には下記のような解説があり、「軍道」の名は護良親王の軍勢が通過したことに由来するものであると考えられているようである。

腰神さんの由来
 1333年(元弘3年) 護良親王一行は切目川谷を上って山路(筆者注:山地荘、現在の田辺市龍神村に越えんとする時この地で乗馬が腰をいためて倒れ葬った。
 村人はこの馬に似た岩はその馬の霊が宿ると伝え祠を建て腰神さんとして祀った。
 氏名と願いを記入した石竹馬を供えて願掛けをする風習が今に伝わっており腰痛が治るという。  
 祭日は旧2月7日・尚通路は軍道と呼ばれる
     平成15年10月吉日建之

 

 

  • 和歌山県内には、上述の「大塔宮熊野落(おおとうのみや くまのおち)」にまつわるエピソードが各地に伝えられている。これについて、和歌山県が管理するWebサイト「わかやま歴史物語100」のうち「建武中興の立役者! 護良親王の足跡をたどる」の項では次のような解説がなされている。

 護良(もりよし/もりなが)親王は、大塔宮(おおとうのみや)とも呼ばれた後醍醐天皇の皇子。鎌倉幕府の倒幕運動に早くから参加し、室町幕府成立後は足利尊氏と対立して暗殺される、悲劇の人物です。元弘元年(1331)の「元弘の変」で後醍醐天皇隠岐に流された頃、護良親王は幕府の追及を逃れるため印南町各地を通り、山を越えて北山村へ逃れたと伝えられています。熊野衆徒を味方につけ、熊野詣を装って山伏姿で移動、しかし切目王子に泊まった際、夢で「熊野では大義が成し難い。これより十津川に向かい、時が至るのを待つがよい」というお告げを受け、切目川沿いに十津川を目指したといいます。やがて現地の土豪を味方につけて吉野を占拠し、全国の武士に討幕を呼びかけました。一方、熊野衆徒は護良親王が発した軍勢催促状を受け取っていましたが、当時の熊野別当幕府方であったため、すぐに京の六波羅探題に伝えられてしまいます。そのため熊野三山との連携は不発に終わりましたが、紀伊方面において親王が固めた反幕府勢力は天皇方の巻き返しの原動力になりました。鎌倉幕府滅亡の影の立役者、護良親王の足跡をたどってみてはいかがでしょう。
建武中興の立役者! 護良親王の足跡をたどる | わかやま歴史物語

 

  • 上述の引用文のうち、切目王子で護良親王が「十津川へ向かえ」というお告げを受けたというエピソードについて、「太平記 巻第五」の「大塔宮熊野落事」では次のように記している。

原文
由良湊を見渡せば、澳漕舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重とも、しらぬ浪路に鳴千鳥、紀伊の路の遠山眇々と、藤代の松に掛れる磯の浪、和歌吹上を外に見て、月に瑩ける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村の樹、夕を送る遠寺の鐘、哀を催す時しもあれ、切目の王子に着給ふ。
其夜は叢祠の露に御袖を片敷て、通夜祈申させ給けるは、南無帰命頂礼三所権現満山護法十万の眷属八万の金剛童子垂迹和光の月明かに分段同居の闇を照さば、逆臣忽に亡びて朝廷再耀く事を令得給へ。伝承る、両所権現伊弉諾伊弉冉の応作也。我君其苗裔として朝日忽に浮雲の為に被隠て冥闇たり。豈不傷哉。玄鑒今似空。神若神たらば、君盍為君と、五体を地に投て一心に誠を致てぞ祈申させ給ける。
 丹誠無二の御勤、感応などかあらざらんと、神慮も暗に被計たり。終夜の礼拝に御窮屈有ければ、御肱を曲て枕として暫御目睡在ける御夢に、鬟結たる童子一人来て、「熊野三山の間は尚も人の心不和にして大儀成難し。是より十津川の方へ御渡候て時の至んを御待候へかし。両所権現より案内者に被付進て候へば御道指南可仕候。」と申すと被御覧御夢は則覚にけり。是権現の御告也。けりと憑敷被思召ければ、未明に御悦の奉弊を捧げ、頓て十津河を尋てぞ分入らせ給ける。
太平記/巻第五 - Wikisource

 

現代文(意訳)
 由良の湊を見渡せば、沖を漕ぐ舟が梶を失い、入り江にはハマユウが幾重ともしれぬほど咲き、波の上では千鳥が鳴いている、紀伊路の山々は果てしなく遠く、藤代の松にかかる磯の波、和歌山吹上の浜を遠くに見て、月に輝く玉津島、光も今はそれほど強くなく、長い汀・曲折する浦々に心が砕ける、雨に濡れた寒村の樹、夜を迎える遠い寺の鐘、哀れを感じていたまさにその頃に切目の王子へと到着した。
 その夜は切目王子の祠が露に濡れていたので、着物を床に敷いて、夜通し祈りを捧げた。
南無帰命頂礼三所権現・満山護法・十万の眷属・八万の金剛童子垂迹和光の月が明るくこの世の闇を照らせば、逆臣はたちまちに亡びて、朝廷が再び輝かんことを得さしめ給え。伝え承れば、(熊野の)両所権現はイザナギイザナミの化身であると。我が君後醍醐天皇はその末裔であるのに、浮雲天皇に敵対する勢力)がこれを覆い隠して、この世は闇となりたり。なんと痛ましいことか。神仏の戒めも今は空(くう)のごとし。もし神が神ならば、なんぞ君が君ならざるべし。
と、五体を地に投げて一心に誠を尽くして祈った。

 丹精をこめた勤行が神に通じないはずもなく、神慮も暗に計られた。夜を徹した礼拝に疲れて、肱を枕にしばらく眼を閉じてうとうとしていると、夢に(みずら 古代の男性の髪型)を結った童子が一人あらわれ、
熊野三山は人の心が不和にして大義はなり難し。これより十津川の方へ行き、時が至るのを待つべし。両所権現より案内者を命じられたれば、道案内を仕り候。
と告げられた途端に目が覚めた。
 これは熊野権現のお告げなり。頼もしく思い、未明にもかかわらず悦びの供物を捧げ、やがて十津川に向けて山道を分け入った。
※現代文は筆者

 

  • 本文にある「腰神さん」のエピソードについて、印南町が作成したパンフレット「紀州日高路 印南 ふるさとお詣りコース」では、次のように紹介されている。

腰神さん

 護良親王が切目川沿いの険しい道を、軍道までおこしになった時、乗っていた馬が腰をいためて動かなくなり、ついにこの地でたおれた。一行はやむなく近くに葬り、徒歩で三里峯越えをなさった。その時、村人たちは宮様であることを知らなかったが、後にそのことを知ってせめて御乗馬の霊を慰めたいと、ちょうど近くにあった馬に似た岩を御神体として祠をつくりおまつりした。その後いつごろからかわからぬが、細い青竹を曲げて作った竹馬をもってお詣りすると腰痛がなおるという風習があったが、現在は腰の病気に悩む人が小石に願いごとを書き、お詣りすることが多い。旧2月7日が腰神さんのお祭で、地元講中で餅投げをする。
ふるさとお詣りコース | 印南町

 

  • また、印南町が編纂した「印南町」の「民俗信仰と講」の項にも下記のとおり「腰神さん」の記述があり、少なくとも江戸時代後期の天保8年(1837)には一定の信仰を集めていたものとされる。

腰神さん(崎ノ原)
 大塔宮護良親王切目王子で宿を取られた際、夢のお告げで切目川をさかのぼって十津川へ向かわれた。途中、真妻の崎ノ原軍道まで来られたとき、親王の御乗馬が腰を痛めてこの地で斃(たお)れ、路傍に葬られた。後に村人はその御一行が宮様であられたことを知り、せめて葬られた御乗馬の霊を慰めねばと、近くの馬に似た岩をその御神体として小祠を建ててお祀りした。
 その後、いつのころから腰痛を治してくれる神として崇められたかはつまびらかではないが、傍(そば)の灯籠に、天保八酉年(1837)の紀年銘(きねんめい)のあることから、既にそれ以前から信仰されていたと思われる。

 

  • 和歌山県が管理するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」の「和歌山の祭り・年中行事」にも「腰神」の項がある。ここでは、祭りの日には腰神の祠の前で小石を「馬の谷」と呼ばれる場所に塚のように積むという風習があることを紹介している。

腰神 印南町(切目)
 地元で、「腰神さん」と呼ばれる。
 腰の病に悩む人達の願い、祈り、供養。大塔宮、馬の供養の意味をこめて、旧暦の2月7日に行う行事。
 腰神(小祠)の前で、小石を馬が倒れたと言われている「馬の谷」と呼ばれる場所に塚のように積む。
 年間に腰痛で悩む人達が小石(平たい10㎝前後)に願いを書いて供えた小石を供養する。餅投げをする。
 護良親王が切目川沿いの嶮しい道を、崎の原付近までおこしになった時、お乗りになっていた馬が腰を痛めて動かなくなり、ついにこの地で倒れた。
 一行はやむなく道の傍らに葬り(現在の馬の谷の腰神さんから400m位奥)、徒歩で三里の峰越えをなさった。 その時、村人たちは宮様であることを知らなかったが、後に やんごとなき方であったことを知って、せめて御乗馬でもおまつりして、その霊を慰めたいと、ちょうど近くにあった馬に似た岩を御神体として祠をつくりおまつりした。
 その後、何時ごろからか分からないが、細い青竹を曲げて作った竹馬を持っておまいりすると腰痛が治ると言われる様になった。

 現在は小石に願いを書いて供えるが、20年以上前は青竹を曲げて竹馬にして願いを書いて供えた(青竹馬を作れる人が居なくなった)。
腰神 | 和歌山県文化情報アーカイブ

 
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。