生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

竹原八郎入道 ~北山村竹原~

 元弘元年(1331)、討幕派の一人だった大塔宮護良親王は、難を逃れて吉野、熊野方面に落ちのびて来た。当時、竹原に住んで、一帯に勢力を張っていた十津川奈良県の豪族、竹原八郎入道宗規、甥の戸野兵衛良忠らは、親王を館へかくまった。

 

 機会を待つこと半年。翌年6月、親王は倒幕の令旨を奉じ、八郎らは軍勢を率いて伊勢方面にまで進出して、六波羅探題を脅かした。やがて諸国の豪族たちもつぎつぎに蜂起し、遂に元弘3年5月、鎌倉幕府は開府以来150年で滅亡した。

 

 現在、竹原には八郎が住んでいたという「上の坊屋敷」跡や、戸野兵衛にまつわる「戸野瀬」、八郎の娘と親王の間にできた若宮を祀る「骨置神社」など、多くの遺跡が残されている。竹原の東光寺は八郎の建立という。
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

北山村竹原地区
北山川をはさんで南側が花知(はなじり 三重県熊野市神川町)地区
上部中央付近に骨置神社 下部中央付近に花知神社(竹原八郎館跡)がある

 

  • この物語については、和歌山県が管理するWebサイト「わかやま歴史物語100」のうち「北山の地から捲土重来を目指した 護良親王」の項で詳しく紹介されている。以下にその概要部分を引用する。

北山の地から捲土重来を目指した 護良親王
 護良(もりよし/もりなが)親王後醍醐天皇の皇子で、早くから鎌倉幕府の討幕運動に加わり、元弘3年(1333)の建武の新政では征夷大将軍に任ぜられました。室町幕府成立後は足利尊氏と反目しその座を追われ、尊氏の弟の直義の命で殺害された悲運の人物です。後醍醐天皇隠岐に流された頃、護良親王鎌倉幕府の追及を逃れて紀伊山地をめぐり、熊野衆徒を味方につけて再起しようと熊野を目指しました。山伏姿で熊野詣を装って熊野へ向かった護良親王は、切目王子印南町で「熊野では大義が成し難い。これより十津川に向かい時が至るのを待つがよい」というお告げを受け十津川に向かい、元弘元年(1331)に南朝の忠臣、竹原八郎に迎えられ北山へとやって来ました。やがて現地の土豪を味方につけて吉野を占拠、そこから全国の武士に討幕を呼びかけたといいます。熊野別当は幕府方だったため、熊野三山の連携は不発に終わったものの、護良親王の活動により反幕府勢力が結束、天皇方巻き返しの原動力となり鎌倉幕府の滅亡に果たした役割は大きいといえます。北山の地には今なお、捲土重来(けんどちょうらい)を期した護良親王が刻んだ歴史の痕跡が残っています。
北山の地から捲土重来を目指した 護良親王 | わかやま歴史物語

 

 

 

  • 前述の「太平記 大塔宮熊野落事」では、竹原八郎(たけはら はちろう)戸野兵衛(とのの ひょうえ)について次のように記述している。

 数日の間斯る嶮難を経させ給へば、御身も草臥はてゝ流るゝ汗如水。御足は欠損じて草鞋皆血に染れり。御伴の人々も皆其身鉄石にあらざれば、皆飢疲れてはかばか敷も歩得ざりけれ共、御腰を推御手を挽て、路の程十三日に十津河へぞ着せ給ひける。
 をばとある辻堂の内に奉置て、御供の人々は在家に行て、熊野参詣の山伏共道に迷て来れる由を云ければ、在家の者共哀を垂て、粟の飯橡の粥など取出して其飢を相助く。宮にも此等を進せて二三日は過けり。角ては始終如何可在とも覚へざりければ、光林房玄尊、とある在家の是ぞさもある人の家なるらんと覚しき所に行て、童部の出たるに家主の名を問へば、「是は竹原八郎入道殿の甥に、戸野兵衛殿と申人の許にて候。」と云ければ、さては是こそ、弓矢取てさる者と聞及ぶ者なれ、如何にもして是を憑まばやと思ければ、門の内へ入て事の様を見聞処に、内に病者有と覚て、「哀れ貴からん山伏の出来れかし、祈らせ進らせん。」と云声しけり。
(略)
 病者の伏たる所へ御入在て御加持あり。千手陀羅尼を二三反高らかに被遊て、御念珠を押揉ませ給ければ、病者自口走て、様々の事を云ける、誠に明王の縛に被掛たる体にて、足手を縮て戦き、五体に汗を流して、物怪則立去ぬれば、病者忽に平瘉す
(略)
 角て十余日を過させ給けるに、或夜家主の兵衛尉、客殿に出て薪などせさせ、四方山の物語共しける次に申けるは、「旁は定て聞及ばせ給たる事も候覧。誠やらん、大塔宮、京都を落させ給て、熊野の方へ趣せ給候けんなる。三山の別当定遍僧都は無二武家方にて候へば、熊野辺に御忍あらん事は難成覚候。哀此里へ御入候へかし。所こそ分内は狭く候へ共、四方皆嶮岨にて十里二十里が中へは鳥も翔り難き所にて候。其上人の心不偽、弓矢を取事世に超たり。されば平家の嫡孫惟盛と申ける人も、我等が先祖を憑て此所に隠れ、遂に源氏の世に無恙候けるとこそ承候へ。」と語ければ、誠に嬉しげに思食たる御気色顕れて、「大塔宮なんどの、此所へ御憑あて入せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問せ給へば、戸野兵衛、「申にや及び候。身不肖に候へ共、某一人だに斯る事ぞと申さば、鹿瀬・蕪坂・湯浅・阿瀬川・小原・芋瀬・中津川・吉野十八郷の者迄も、手刺者候まじきにて候。」とぞ申ける。其時宮、木寺相摸にきと御目合有ければ、相摸此兵衛が側に居寄て、「今は何をか隠し可申、あの先達の御房こそ、大塔宮にて御坐あれ。」と云ければ、此兵衛尚も不審気にて、彼此の顔をつくづくと守りけるに、片岡八郎矢田彦七、「あら熱や。」とて、頭巾を脱で側に指置く。実の山伏ならねば、さかやきの迹隠なし。兵衛是を見て、「げにも山伏にては御座せざりけり。賢ぞ此事申出たりける。あな浅猿、此程の振舞さこそ尾篭に思召候つらん。」と以外に驚て、首を地に着手を束ね、畳より下に蹲踞せり。
 俄に黒木の御所を作てを守護し奉り、四方の山々に関を居、路を切塞で、用心密しくぞ見へたりける。是も猶大儀の計畧難叶とて、叔父竹原八郎入道に此由を語ければ、入道頓て戸野が語に随て、我館へ宮を入進らせ、無二の気色に見へければ、御心安く思召て、此に半年許御座有ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度に、御還俗の体に成せ給ければ、竹原八郎入道が息女を、夜るのをとゞへ被召て御覚異他なり。
太平記/巻第五 - Wikisource


現代文※1
 数日にわたる険難を経て、体も疲れ果てて流れる汗は水の如し。足は傷つき、草鞋は血に染まった。供の者も皆疲れ果て、まともに歩くことすらできないものの、腰を押し、手を引いて、ようやく13日目に十津川に着いた。
 大塔宮をとある辻堂に置き、供の者が民家を訪ねて熊野参詣の山伏が道に迷っているのだと伝えると、哀れんで粟飯や栃の実の粥などを出してくれたのでようやく飢えをしのいだ。大塔宮にもこれをすすめてなんとか二、三日を過ごした。このままではどうにもならないと考えた光林坊玄尊が、土地の名家であろうと思われる家に行き、出てきた童に家の主の名を尋ねると、
ここは竹原八郎入道殿の甥で、戸野兵衛殿と申す人の家です。
と言った。これこそ武名を知られた者であり、何とかして助力を得たいと思ったので、門の中に入って様子を伺っていると、家の中に病人がいたと思われ、
貴い山伏が来てくれた。祈祷してもらおう。
という声がした。
(略)
 大塔宮は、病人の寝ているところに入り、加持祈祷を行った。千住陀羅尼を二、三度高らかに唱え、数珠を押し揉んだところ、病人は自ら口走り、様々なことを言いだした。不動明王の呪縛にかかっていたようで、手足を縮めて震え、全身に汗をかいていたが、たちまち物の怪は立ち去ったので病人はすぐに平癒した
(略)
 こうして十余日を過ごしたが、ある夜、家主の兵衛尉が客殿で薪を焚きながらよもやま話をしていると、
既に聞き及びかもしれんが、大塔宮が京都を出て熊野に向かったという。熊野三山別当定遍僧都は無二の武家鎌倉幕府方)なので、熊野へ潜行するのは難しい。この里に入っていただければのう。場所こそ狭いものの、四方は皆険阻にして十里二十里(40~80キロメートル)四方は鳥も近寄りがたい所だ。その上、人の心は偽りなく、弓矢を取っては他にひけを取らぬ。されば、平家の嫡孫惟盛平清盛の嫡孫・平維盛のこと。平家物語では高野山で出家して熊野で入水自殺したとされるが、その後も生き延びたとする伝承が各地にある。)という人も、我等が先祖を頼ってここに隠れ、ついに源氏の世につつがなく過ごしたと聞く。
と語ったので、大塔宮には誠に嬉しげに思う様子がありありと現れて、
もし大塔宮などがここへ助けを求めてやってくれば、協力するつもりはあろうか。
と訊ねると、戸野兵衛
申すに及ばず。この身は不肖とはいえ、私一人でも大塔宮に助力すると声を上げれば、鹿瀬・蕪坂・湯浅・阿瀬川・小原・芋瀬・中津川・吉野十八郷の者までも、手出しをしようとする者は一人もおるまい。」
と答えた。
 その時、大塔宮は小寺相模にすっと目配せをしたので、相模は兵衛のそばに寄り、
今は何も隠すことはない。あの先達のお方こそ、大塔宮である。
と言ったところ、兵衛はなおも不審そうに周りの人々の顔をつくづくと見ていたので、片岡八郎矢田彦七が、
ああ、暑い
と言って頭巾を脱いで脇に置いた。本当の山伏ではないので、月代(さかやき 髷を結うために髪を剃った部分)の跡が明らかになった。
 兵衛はこれを見て、
確かに山伏ではございませんな。よく教えて下さいました。あさましきかな。この度の振る舞いはさぞ無礼と思われたでしょう。
と、大変驚いて、頭を床に付け、手をあわせて、畳から下に降りて平伏した。
 急いで黒木の御所※2を作って宮を守護し、四方の山々に関所を設け、道を塞いで、厳しく警戒するようになった。それでもなお大義の計略は叶い難しと思い、叔父の竹原八郎入道にこの由を話すと、入道はすぐに戸野の意見に同意して我が館へ大塔宮を招き入れ、手厚くもてなしたので、大塔宮は心を安らげてここに半年ほど滞在することになった。その間に人に顔を見られても大丈夫なように還俗の体(髪をのばすこと)になり※3竹原八郎入道の娘を夜の床に召して殊の外寵愛した。
※1 現代文は筆者。
※2 「黒木の御所」とは、黒木(皮を削っていない木材)を用いて建てられた天皇の御所を指す一般名で、戦や政変などの際に天皇が滞在する臨時の行宮(あんぐう 仮の宮殿)を指す。ここでいう「黒木の御所」は、奈良県十津川村谷瀬(「谷瀬の吊り橋」の北詰付近)にあったとされる。

※3 ここで還俗したことにより「大塔宮」から「護良親王」へと呼び名が変わることになる。このため、正式には十津川以前が「大塔宮」、以後が「護良親王」と呼ばれるべきである。

 

  • 大塔宮竹原八郎、戸野兵衛のもとで約半年を過ごしたが、やがて幕府方の熊野別当による十津川への分断工作が激しくなったため、十津川を去り、高野へ向かうこととなった。この時、熊野方の玉置庄司に行く手を阻まれ絶対絶命の危機に陥るが、「紀伊国の住人野長瀬六郎・七郎」が駆けつけたことにより窮地を脱することができた。この経緯については別項「野長瀬一族(上述)」を参照されたい。

 

  • 三重県熊野市のWebサイトによれば、光厳天皇の日記である「光厳院宸記」に、元弘2年(1332)6月、竹原八郎大塔宮の令旨を持って伊勢に攻め込んだことが記録されているという。この時期は、いわゆる「大塔宮熊野落(元弘元年(1331)10月頃)」と吉野山での挙兵(元弘3年(1333)1月頃)との中間にあたり、大塔宮が十津川に滞在していたと思われる時期のことであるため、大塔宮がこの時期に竹原八郎と密接な関係があったことは間違いないであろう。
竹原八郎(たけはらはちろう)
 元弘元年(1331)後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒すため挙兵しました。天皇の皇子である護良親王も駆けつけたが失敗に終わり、天皇隠岐島に流され、親王は熊野に逃れました。そのとき親王を自分の館に迎えたと伝えられるのが、竹原八郎です。
 親王令旨(手紙)を全国に発して倒幕に奔走しました。その結果鎌倉募府は滅亡し、建武の中興が始まりました。
 竹原八郎もその殊勲者の一人で、伊勢方面に進出し幕府方の守護代や地頭を襲撃するなどのめざましい働きをしたと言われています。
 光厳天皇の日記である「光厳院宸記」の元弘2年(1332)6月29日の記事に「地頭両三人討チ取ラレ、守護代宿所焼キオハラル。コレ熊野山ヨリ、大塔宮護良親王のこと)ノ令旨ヲ帯ビ、竹原八郎入道、大将軍トナリ襲来」とあり、八郎の活躍ぶりが記されています。
 竹原八郎のその後の消息は明らかではありませんが、この働きで大正6年(1916)に正四位の位階を与えられています。
 市内神川町花知にある屋敷跡は、東西40m、南北44m、幅8mの土塁と深さ6mの空堀があります。この地方唯一の南北朝時代の遺構で貴重なものです。
歴史を体感|観光|熊野市オフィシャルサイト

 

  • 太平記」の記述にあるように、竹原八郎入道戸野兵衛は十津川に拠点を有する豪族であったとされている。しかしながら、この両者については、「十津川村の人」とする説のほかに「北山村竹原の人」とする説もあり、どちらかに断定する明確な史料は存在していないようである。これについて、北山村が編纂した「北山村史」では次のように解説している。

竹原八郎と戸野兵衛
竹原八郎と東光寺
 歴史に全然興味がなく、地方史などに無関心な人でも、北山村の竹原やその周辺に住んでいる人なら、昔竹原八郎という武士がいて、護良(もりなが)親王が熊野に落ちて来たとき、その館に招聘し、護持した人であることぐらいは知っていよう。それほど北山の人々にとっては馴染み深く、尊敬されてきた人物である。又、この八郎と共に宮に仕え、献身した人に戸野兵衛という義臣もいた。彼は、八郎の叔父(筆者注:正しくは「甥」か)に当り小松の下、東野に館があったとか、あるいは相須か、または花知にも屋敷があったとも伝えられている。今も竹原の東光寺の前の川原附近を殿野瀬と言っているから、殿野と称する人物がいて竹原八郎と何らかの関係があったのだろうと、村のお年寄りから一度ならず耳にされたであろう。
 この二人についての資料はきわめて乏しい竹原八郎十津川村大塔村(筆者注:現在の奈良県五條市大塔地区)の人とする説と、北山村竹原の人とする説の諸説があり、現在に至っている。「紀伊風土記」は、竹原東光寺について次のように述べて いる。

 

吉祥山東光寺
村中にあり、竹原、花知、七色三村持合なり。
竹原入道の建立といひ伝えで、入道の位牌と云うあり、
銘に、当寺開基東光寺殿梅翁道薫大居士と書して年号はなし。
果して然りや否やを知らず

 

 「風土記」の著者も、この位牌が果して竹原八郎のものであるかどうか確証しかねているが、東光寺の開基は竹原八郎であると寺伝は記載している。「風土記」は鎌倉時代に、そのような戒名のつけ方をしたものとも実証しておらず、歿年も氏名もないことから、この位牌がただちに八郎の位牌であるか否かについては、疑問視しているようである。しかし、八郎に関する他の事柄については、これを疑う表現は用いていない。
(以下略)

竹原八郎は十津川人か熊野人か
 このようなことから、本文の主人公である竹原八郎戸野兵衛は、十津川人説と、紀州北山村竹原人説の両説があり、古来論争の的になっている。特別歴史に精通されている人は別として一般的には、十津川郷に関係のある人は十津川人説をとり、紀州に関係のある者は熊野人であると考える。十津川説の場合、彼の出生地は吉野郡大塔村、或は十津川村谷瀬とし熊野人であるとする者はもっぱら北山村の竹原が出生地であると力説する。
 その説がまちまちである原因は、なんと言っても八郎に関する記録が稀少であることと、第二の争点は、明治維新後に於ける国家的思想がその底流に作用していた(筆者注:尊王思想の高まりにより、南朝遺臣等に対する評価が急激に高まったことを指す)ことは否定できない。
 さりながら南朝方の義臣として竹原八郎をとりわけ崇敬してきた北山村住民の純朴な人情こそが北山説を支持してきた唯一の柱であった。

 

小野氏の「北山村竹原説」の根拠と賛同者
 小野芳彦(筆者注:おの よしひこ 和歌山県出身の教育者・郷土史家 1860 - 1932)は、竹原家の由緒については、殊に異説を述べていないが、出生地は、北山村の竹原説をとり、竹原から護良親王を守護し吉野に赴く過程に於て、大塔村にその居を移したと説明されている。
 したがって元弘2年(1332)伊勢に出陣したという光厳天皇北朝天皇の出兵は、その「宸記」にいう如く熊野からの出陣であるから、この頃八郎の居住地は熊野であることを裏付するものであるとしている。この説については、大西源一氏、「南牟婁郡」の著者田原慶吉氏もこの説を採択している。「大塔村」に竹原氏は十津川郷から熊野にかけての大豪族であった、とあるように、辻堂と竹原とは八郎に関係のある地域には相違ない。
 大塔村十津川村の上流にあたり、十津川村天川村にはさまれた一村であるが、昔は十津川郷に含まれていた。
 竹原八郎の館は十津川の川岸辻堂にあったが、明治22年の水害で跡形なく流失してしまったらしい。その館跡はどのような遺構であったか、今は知るよしもない。ただ八郎の墓というのが辻堂に残っている。
(略)


八郎の出生地「十津川村谷瀬」説
 次に竹原八郎の出生地として伝承されている所は、十津川村の谷瀬である。
 その場所は辻堂から約30キロ下流の上野地の対岸にある。上野地は十津川村の最北部に位置するが、この上野地から日本で一番長いと言う谷瀬の吊橋を渡った北側に三角形の山があるが、この山の裾の川岸に、黒木御所址がある。ここが竹原八郎が護良親王を迎えた所であるとしている。
 ここについて、小野芳彦氏の「熊野史」では谷瀬に竹原を名乗る家があり、そこに伝わる「竹原家由緒」「竹原家秘書」は正平18年(1363)に書かれたものである。また、文中2年(1373)に書かれたとも伝えられる。
 なお、上野地の「河津国王神社由緒」の中にも竹原八郎の記事があると指摘している。
 同じく「熊野史」によれば、竹原氏はもと藤井姓を名乗っていたが、明治年間、前記の正平18年、文中2年の資料が藤井家から発見されたことにより、藤井姓を改めて竹原氏と称した、と書かれている。その資料を要約すると次のようになる。
(略)
 右のことについて、この資料は「大和誌」「十津川記」「吉野旧事記」「南朝遺史」の説に盲従せるものであって、後人の偽作であると「熊野史」は断言している。要旨の中の「逆賊足利尊氏の乱」云々とあるが、それは北条氏が滅亡し、建武の中興が実現した後のことであり、護良親王が熊野落ちしたのは、北条氏と抗争の最中であったから足利氏を当面の敵とすることもなかった。それにもかかわらず足利尊氏云々とあることや、末尾に、「南朝の忠臣竹原八郎云々」とあることなど、林水月氏や、小野芳彦氏の指摘されるまでもなく、この資料を後世の作であるとする所以ではなかろうか。
 ただ不思議なことは、この谷瀬の竹原氏の八郎の戒名は、竹原の東光寺の八郎の位牌銘と全く同じ、「東光院梅翁道薫大居士」であることだろう。東光寺に伝わる竹原八郎の伝承は徳川中期、すなわち元禄年間から既に伝えられていたらしいから相当古いものである。
 ただ、この同名の戒名が竹原にも十津川にもあることは、史実の有無は別として十津川と北山には竹原八郎に関して、もともと地縁のようなものがあったのかも知れない


 この他、大塔の宮竹原八郎に関係する伝承の地として、下北山村の寺垣内東牟婁郡請川の静川や、大塔峰があるが、その根拠は極めて薄く、これを論ずることが至難である。ただこれらの土地は八郎の出生地というよりは熊野落ちのさいの通過地点のように、いくらかの係りあるものが、後世の「南朝正統論」などにより刺戟された感が深い。
 もっとも、大塔峰にしても、清水孝教氏、木村鷹太郎氏が主張される親王の通過地にあたるし、寺垣内の伝承にしても、竹原から不動峠を越えて、吉野に赴く地点である。特に寺垣内の正法寺にまつわる伝承は、竹原を八郎の本拠地として考える時、吉野に通ずる拠点としての説明になる。

 

  • 本文にある「骨置(こうず)神社」は北山村竹原にある神社。祭神は大塔宮護良親王小大塔宮(こおうとうのみや 護良親王と竹原八郎の娘との間に生まれた子とされる)である。この神社について、現地の案内板には次のような説明が記されている。

骨置神社
 祭神は、護良親王・小大塔ノ宮。杉林に囲まれた社は神明造で、神社の右奥には竹原区の稲荷神社がまつられている。また、本殿脇には北山村竹原区、七色区それぞれの山の神様をまつった丸石が置かれている。

 

縁起
 元弘元年(1331年)、南朝の本拠地であった笠置から難を逃れて熊野に渡った後醍醐天皇の皇子、護良親王をお守りしたのが、北山村竹原の豪族、竹原八郎だった。
 護良親王を迎えて竹原の地で策を練り武力を固めた竹原八郎は伊勢方面に出陣して六波羅を驚かし、これを機に諸国の武将が蜂起してついに北条氏は滅びたのである。
 護良親王は竹原八郎の娘を召されて若君が出生されたが、幼くして亡くなってしまった。
 土地の人々が若君の御霊を尊びおまつりしたのが、骨置神社である。

 

  • 骨置神社以外にも竹原地区周辺には大塔宮護良親王ゆかりの土地が数多く点在している。これらについて、「北山村史」では次のように紹介している。

竹原谷(たからだに)
 宮の谷ともいう。和州・紀州境の尾根から宇土(こうとう)あたりに向かって流れ、竹原村落の東端で北山川に注ぐ3キロメートルばかりの谷川である。絶壁が多くて水源をきわむることなしという。この渓流に滝が多くて、長島滝(18メートル)四王滝(50メートル)淵滝(50メートル)の三滝はもっとも優れている。
 護良親王とのゆかりから「宮の谷」とも呼ばれて親しまれている。竹原村落の西端を流れる谷を、地図では竹原谷とも記している。

 

宇土宇宮跡(こうとうのみやあと)
 宮の谷と北山川の会するあたりにある。骨置神社として、竹原・七色・花知の三村の産土神とされている。
 「紀伊風土記」の西山郷竹原村の条に、「昔、大塔宮 竹原八郎入道の館に半年余り忍びて御座しける時、入道の娘八重子を召されけるに、その腹に若宮を身ごもり、大塔宮程なく吉野に入らせ給ひ、其の後御薄命なりしかば、山生の御子はそのまま当所に薨じ給ひしを(あるいは朝敵に討たれしか)土人尊びて宮を建てて祀れり」とある。小大塔の宮(こおうとう の みや)と申し奉ったという。ここから「コウトウ」の宮(古宇土宇宮)となり、また、公頭神社とも呼ばれている。

 

大塔宮御座所跡
 竹原の中山根にあって今は畑になっている。民家を建てても不吉続きで廃家したという。ここは竹原八郎入道の上邸で大塔の宮の坐しける所といわれている。俗に、仮家(かりや)ともいわ れている。

 

上の坊(うえのぼう)
 大塔宮を迎え奉りし時、坊を建てて守護し奉ったところといわれている。今は、竹原八郎入道顕彰碑が建てられ、その後方に洞穴があって祖先の霊を祀っている。

 

古宮
 竹原区の小字相須にありて、今は石垣だけがその名残を見せている。戸野兵衛竹原八郎入道の甥)の仮宅にして、竹原入道の邸に坐しける大塔宮が度々用件にてここに来り、仮泊もせられし所といわれている。あるいは、竹原谷口にある宇土宇宮の前身だともいわれている。近くに馬駈場がある。戸野氏が兵士を調練した所という言伝えがある。

 
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。