生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

鈴木重秋の暗渠~日置川町(現白浜町)神宮寺~

 神宮寺から寺山、安居地区にかけた水田地帯に、いまも古い水路が流れている。「安居(あご)用水」とも呼ばれるそれは、安居の庄屋、鈴木七右衛門重秋の手づくりの暗渠という。

 

 日置地方は昔から水利に恵まれず、飢饉が相次いだ。とりわけ天明の大干ばつは、村の水稲を全滅させ、400人の村人は「水さえあれば」と嘆き悲しんだ。そこで重秋は、亡父が計画していた暗渠づくりを決心する。金比羅山に用水路を掘り抜いて、日置川の水を引き込むという大事業だった。

 

 「人の力ではとても無理だ」という村人の声を押し切り、私財を投げ出して着工した重秋は水垢離をしながらひたすら岩盤にノミをふるい、ついに文化2年(1805)、7年の歳月をかけて水路を開通させた。長さ273メートル、2メートル四方の暗渠は、こうして付近の水田をうるおしたという。

 

(メモ:神宮寺の日置川には、そのときつくられた、えん堤も残っている。国鉄紀勢線紀伊日置駅から12キロ。車で15分。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)


三須和神社の安居村暗渠碑(鳥居の奥に見える)

 

  • 暗渠(あんきょ)」とは、一般的に地下に埋設された水路通常の水路にコンクリートなどで蓋をしたものも含む)を指す。本文にある暗渠(安居の暗渠)は、寺山地区安居地区を灌漑するため、両地区より日置川の水位が高い向平地区から金比羅を貫いて寺山地区まで掘削された水路トンネルを指す。

 

  • 全国水土里ネット全国土地改良事業団体連合会が管理するWebサイト「疏水名鑑」では、安居地区の暗渠と水路について次のように解説している。

疏水の所在
和歌山県西牟婁郡日置川町安居

 

所在地域の概要
安居村暗渠の用水を利用する寺山安居集落は、日置川の中流に位置し、水稲、野菜や梅の栽培が行われている。

 

疏水の概要・特徴
 安居村暗渠と水路は、当時の庄屋であった鈴木七右衛門重秋が、日置川の豊かな流れを目の前にしながら水稲の栽培が出来なかった寺山安居集落の農地に、かんがいをするために日置川町向平と寺山の間の金比羅山を延長273m、高さ2.72m幅1.81~1.27mの水路トンネルを掘削し、水路総延長約1500mの工事を行ったものです。

  • 1799年(寛政11年)に安居村暗渠工事に着手、6年の長期間にわたる難工事の末、完成した。完成には、重秋が私財を投げうち借財をしながら村のために挺身した。
  • 紀州藩11代藩主により、鈴木七右衛門重秋の宏業が称えられ、仁井田好古撰文による暗渠碑が安居村に建てられた。(筆者注:詳細は後述)

疏水名鑑-安居地区

  

 

  • また、日置川町同推教員連絡協議会が昭和58年(1983)に発行した「ひきがわのむかしばなし」にも「安居用水」という題名で安居用水掘削に関する物語が掲載されているが、長文にわたるので本稿では引用を省略する。

 

  • 白浜町安居の三須和神社境内には、鈴木七右衛門重秋と村民の協力による暗渠掘削の業績を讃えるため、紀州藩第11代藩主徳川斉順仁井田好古(にいだ こうこ/よしふる 江戸時代後期の漢学者で「紀伊風土記(後述)」の編纂責任者)に命じて作らせた石碑「安居村暗渠碑(別称 鈴木七右衛門頌徳碑)」がある。大正元年(1912)に和歌山県西牟婁郡役所が発行した「碑文全集(和歌山縣西牟婁郡長楠見節編纂)」にその全文が掲載されているので、以下のとおり引用する。

安居村暗渠碑
安宅川逶迤。從東北而來。歷向平神宮寺寺山諸邨。而至于安居。安居地高水低。不可以漑田。邑常苦旱。土荒食貧。邑長鈴木重秋七右衛門。有智計。聚衆謂曰。余王父有遺策。今語諸衆。寺山與向平相距直徑計百三十歩。山岡迤邐。橫出其中間者。二十有餘町。形若橫長瓠。川繞之一里有半。而始達安居。水之低勢固然也。今向平寺山之間。穴于山腹。鑿暗渠。直徑通水。則可以漑寺山安居二邑。衆懽趨之。寺山人不肯曰。穴山腹而通水。豈人力之所能成哉。重秋請 官曰。鑿山腹通渠邑力爲之。續之至安居。其渠計二十餘町。願取費於 官。因陳其利害得失極詳明矣。終得 官許。於是募礦徒鑿之。向平爲首。寺山爲尾。首尾對鑿。其高下之度。向背之準。皆出重秋一人之指畫。三年而暗渠成者三分之一。而工費三倍於素定焉。衆心始沮。咸日用度不給。重秋請 官曰。官渠先成則勢可繼焉。乃促官急二年。而官渠乃鼓礦徒趣之。石堅不可鑿。寸進累日。礦徒咸曰。渠不可成。遂辭去。邑民搏手無策。重秋獨奮曰。前功不可廢。衆罷則罷矣。我獨成焉耳。又大集礦徒諭曰。高下之度不可變。左右曲折則可。避堅就輭豈有不達之理哉。用度不足乃傾竭財產。又稱貨繼之。歲晚債者盈門。百端處之不少屈其志。祈神求佛斷食七日。或坐穴中而焚頭香。或冬日入水而誦法華。其苦身焦思可謂備至矣。如此者二年。然後首尾貫徹。高下之度不差毫釐。水注如決防。邑民相賀歡聲震天。實文化紀元甲子五月也。其用貲 官之所賜三百有八十金。邑之所出與重秋用私財者各四百有餘金。總計千二百金。其他凡百之雜費不與焉。寺山在渠下。亦欲漑田。衆怒而阻之。重秋諭曰。此國家之利豈私吾一邑哉。遂許之。灌漑之利。勝於安居云。夫利民之道無他講水利爲上。然至乎地高水低不可如何而窮矣。如安居之地形可謂窮矣。微重秋之奇策而盡其心力如此之勤。安得變磽爲腴開萬世之長利受鼓腹之樂也哉。使世之欲利民者皆如重秋。則天下何地之不可爲。何民之不可濟哉。重秋既死七年於茲矣。今之司農咸偉其功。相謂曰。邑民之於重秋。心祠口碑千歲不泯減。然唯止於一鄉之間。非所以勸善矣。宜書其事以徧告諸世也。乃屬筆於好古。好古因具其事雕石其榜。
天保甲午之歲陽月
       仁井田好古摸一父撰并書
          鈴木 七右衛門

意訳
安居村暗渠碑
 安宅川(日置川)は曲折して東北より向平神宮寺を経て安居村に流れている。
 安居は川底が低く土地が高いために水利の便が悪く住民は常に日照りに苦しみ土は荒れて食は貧しかった。
 村庄屋鈴木重秋は七右衛門と呼び知徳のすぐれた人であった。
 村民を集めて
私の祖父が言い残していることは寺山と向平との直線の距離は百三十歩であるが、川は山腹を斜に出て二十余町さらに一里ばかりを経て安居に達している。向平と寺山の間の山腹に暗渠を穿ち水をとおすと寺山と安居の二村の田に水を引き入れることができる
といって村民の同意を求めたところ、多くの人が賛成をした。
 重秋は和歌山藩に対して、暗渠の距離工事の方法、水利の効果を述べ、資金の援けを得たいと申し出てその許可を得た。
 作業は向平と寺山との両方から掘り進められたが、三年間でやっと三分の一、計画より三倍の費用がかさむ難工事となった。石が堅くて一寸進むに数日を費し、人夫は作業の困難に耐えかねて職場を捨て去る者さえあったが、重秋は
高ささえ変えなければ石の堅いところを避けて掘れば必ず出来る
と人夫達を励まし続けた。
 また多くの借金をしたため年の暮れには大ぜいの人が借金の取りたてに来たが、自分の財産を売って工事費を払い、完成の志を少しも曲げようとしなかった
 食を断ち、香を焚き、寒中の水に禊し、経文を誦して神佛の加護を祈って不撓不屈の歳月をすごした。
 起工後七年、ついに暗渠は開通し若葉に映えた水は堰を切って流れた。文化二年(1805)五月のことである。村民の歓びの歓声は天を震わしたという。
 費用の総額は藩費三百八十両、村費と重秋私費各四百余両、計千二百両であった。
 重秋死して七年。安居寺山両村の千載の水利をもたらした偉業と一視同仁の徳を讃えて石に刻み万世に伝えんとするものである。
 天保五年(1834)陰十月 仁井田好古 撰並書
   意訳 昭和五十七年(1982)十月吉日  安居大圓寺現住 栴林祖忍

 

※筆者注
・上記の漢文は「碑文全集」を参考として碑の原文を筆者が入力したものである。転記誤り等の可能性があるので、原典は下記のリンクから国立国会デジタルコレクションを参照されたい。
碑文全集 - 国立国会図書館デジタルコレクション

・後段の「意訳」は、「鈴木七右衛門の碑(後述)」の裏面に記載されているものを転記した。転記に際しては、読みやすさを考慮して適宜改行及び句読点を加えたほか、漢字表記などに若干の修正を加えている。

 

  • 昭和57年(1982)、安居区、寺山区の住民により新たに神宮寺地内の県道日置川大塔線沿いに「鈴木七右衛門の碑」が建立された。現在、この碑がある区間は道路改修により廃道となっているが、ここには仁井田好古による「安居村暗渠碑」の複製とともに、その意訳(上記引用文参照)及び下記の由緒が掲げられている。

建碑について
 安居村暗渠は完成後百七十七年
 鈴木七右衛門重秋翁の顕彰碑も
 歳月の風雨に磨滅して判読困難となり
 偉大なる業蹟と恩沢の埋没することを
 恐れるとともに広く偉業を讃えるため
 口語訳を付してこの碑を建立した
  昭和五十七年十月
     日置川町 安居区 寺山区 建之

 

  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「安居村」の項には「安居村暗渠碑」の記述があり、次のような紹介文の後に碑文の全文が掲載されている(「紀伊風土記」も「安居村暗渠碑」も仁井田好古の手によるものであり、「続風土記」に碑の詳細が記載されているのはある意味当然と言える)。また、「地士」として鈴木七右衛門の家系に関する考察も記載されており、もともとは藤白浦(現在の海南市、鈴木姓の本家が代々神官を務めた藤白神社がある)の鈴木氏の庶流であるが、洪水により記録は全て失われてしまったという。

安居村暗渠碑
此村従来旱損の地なりしに
邑長鈴木七右衛門というもの
工夫を以て村の北寺山村と其北向平村との間に
岡山の指出たるありて川を隔たるを考えて
其中間の山を堀抜きて暗渠を作りしより
寺山安居の二箇村灌漑の利を得て田畑沃腴となれり
暗渠は村の北二十余町にあれども
碑を茲地に建て其事を書す
碑文を考うる者 其詳なるを知るべし
(以下碑文は省略)


O地士二人 鈴木七右衛門
家系 名草郡藤白浦 鈴木三郎の庶流にて
代々当村に住す
永享の頃村中洪水にて旧記の類習流失す
洪水の時家族山上に遁れしに文書の類家に取り遺せしを惜み
立帰り舟にて探し求めんとせしに
海上に押し流され 辛うじて命を全うする事を得たりという
今の七右衛門の父七右衛門重秋というもの
寛政十年安居の堰渠 堀拔の事を願いて
同十一未年より文化二丑年まで
七年にて堀抜成就す
これが為に家産を擲ち
身命を盡して成功を得たり
其事詳に安居暗渠碑文に載たり
官これを褒して
命して地士とす
其子七右衛門今又現に地士たり
(略)
※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字及びかなづかいを現代のものにあらためた。

 

  • 旧日置川町が編纂した「日置川町史」ではこの暗渠と用水路について一項を設けて考察を行っているが、現時点では上記に引用した碑文以外には鈴木七右衛門重秋の功績を直接示すような史料は発見されていないと記されている。しかしながら、暗渠掘削と水路の開削に伴う資金の工面についての史料はいくらか残されているようで、次のような解説が掲載されている。

掘抜き用水と井関の維持
 鈴木七右衛門の開削した掘抜き用水についての史料は、残念ながら存在を確かめることができなかった。山崎正『望郷』日置川町文化財シリーズの『鈴木七右衛門重秋』」にみられる評伝は、仁井田好古撰文の「安居村暗渠碑」を潤色し推定を加えたにすぎず、基本史料を提示されていない。
 安居村は灌漑用水が不足していたようで、寛政4年(1792)に安居村小森の新池が官制の工事で竣工した(『鈴木七右衛門重秋』)といわれるけれど、史料不明で確認はできない。
(略)
 寛政10年(1798)に安居村暗渠掘抜普請を出願し、同11年に着工、幾多の苦難に遭遇して竣成した経過も、史料による確認はできない。以下は史料で確かめられる範囲で説明する。
(水利22 筆者注:「日置川町史」の資料番号を指す。本項では省略、以下同様。)は安居村掘抜用水の普請を村中で相談して出願し、必要経費は村方より出銀(だしぎん)するということで着工した。(水利20)は暗渠掘削の途中で行われた「溝路普請」二十数町の「小入用」(諸雑費)を賄うため、「村中一等相談の上」で寛政12年11月、安居村頭立並木正哲ら6人と庄屋鈴木七右衛門が連名して、同村喜右衛門から銀730目を借り受け、渡場惣野山一か所を譲渡した。喜右衛門は同年12月に惣野山を田野井村安之右衛門へ質物に差し入れ、村方へ渡す山代銀の不足分を借用していることが添證文でわかる。
 溝路普請は寺山村領を通って造成された。このとき寺山村の田畑や山裾の一部が溝敷床となって、溝敷荒になったようである(水利28)。ところが、掘抜用水の工事は予想以上に入用銀が増大したので、村方より鈴木七右衛門へ工事の中止を申し入れた。しかし、藩費を支出した工事で止めることはできないと、七右衛門は私財を投じて普請を完成させた。用水は竣成したが立用銀(たてようぎん 立替銀)の払方(はらいかた 返済)ができないので、(水利21)のように文化5年10月、安居村庄屋利平、肝煎新蔵と頭立百姓11人連名で、他借立用銀払方に寺山村小森山の内こみ山の山林を借用して上ハ木(筆者注:詳細不明、樹種を指すものか)を育生し、銀主(ぎんしゅ)への返済に充てたいと相談があった。しかし、この山は寺山・久木・神宮寺・中嶋・向平五か村の入会山(いりあいやま)であったゆえに、四か村へも相談したが不承知であった。そこで大庄屋原徳左衛門と帳書和田理助が仲介に入った。支配両人の苦労と隣郷のことであり、寺山村は用水の利もうけるという理由で、文化5年より天保8年まで30年間の借用を承知して、(水利21)の借用一札を各村と取り替わした。それで、上ハ木が成木に生育するまで安居村惣山と小森山を鎌留(かまどめ 筆者注:伐採禁止のこと)にした。また鈴木七右衛門の山林11か所も鎌留とした。立用金を解消するために代官所が仲介して村方へ出銀を命じ、銀500目以下の立用者には村方からの出銀で支払った。500目以上の出銀者へは出銀額に応じて「銀主銘々」へ割賦して、成木の売却代銀を受け取るという(水利22)の證文を、文化7年7月に銀主銘々へ一通ずつ渡した。こうして銀主12人の代銀17貫862匁7分6厘が「一等承知致し給い候」と処理された。
(以下略)

 

1 記念物(史跡) 安居(あご)近世用水路 附 安居暗渠碑
 日置川から導水することにより白浜町向平から安居に至る約2kmにわたって整備された灌漑用水路。庄屋の鈴木七右衛門の主導で文化2年(1805)に竣工。和歌山県おける近世灌漑用水路の傑出した事例であり、近世の測量技術や土木技術の高さをものがたる貴重な遺跡である。 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。