生石高原の麓から

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赤い谷と蛇杉 ~美山村(現日高川町)初湯川~

  もう何百年も、日高川の流れを静かに見守ってきた美山の山里。そのひなびた山村が、いま大きく表情を変えようとしている。日高の流れをせき止める「椿山ダム」。だが、こうしたあわただしさをよそに、いまもなお、ひとり静けさを秘めているのが、初湯川の上阿田木神社。この境内に高さ十数メートル、樹齢300年以上といわれる大杉がある。「蛇杉」という。

 

 ある年の例祭でのこと。若者が笛を吹きながらこの杉の前にさしかかると、そこにすみついていた大蛇が怒り、村人を襲った。そこで勇敢な氏子が斧を投げつけると、あたりは一面、血の海。以来、このあたりを「赤い谷」と呼ぶようになったという。

 

(メモ:上阿田木神社の例祭は4月14日。美山村へは、御坊市で国道42号線を東へ折れ、日高川ぞいに約30キロ、南海白浜急行バスも入っている。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

蛇杉 「あかやの谷と蛇杉」という説明板が建てられている
  • この物語は、中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」の「美山村」の項で、同名の「赤い谷と蛇杉」という題名で紹介されている。

赤い谷と蛇杉
 昔、上阿田木神社の近くに杉の大木が一本あった。この杉に一匹の大蛇が住んでいた。
 この神社の祭は笛を吹きながら「お渡り」をするが、この大杉の前にさしかかると笛の音色に大蛇が怒り、村人を襲った
 怒った村人たちは大蛇を退治することになった。そこで勇敢な氏子の一人が大蛇の住む大杉を伐りに出かけた。ところが、その男が大杉に斧を入れようとすると、大蛇が怒り狂って襲いかかろうとするので、男は必死になって、斧を大蛇目がけて投げつけた。斧は見事に命中し、あたりは血の海になった。傷ついた大蛇は森の奥深く逃げ込み、再び姿を現さなかった。
 大蛇の流した血は谷となって流れたのでその谷は今も「赤い谷」と呼ばれ、大蛇の住んでいた杉は「蛇杉(じゃすぎ)」といい、祭の時はこの杉から先は笛を吹かずに通るようになった。また、蛇杉を伐ると血が出ると伝えられて、今でも伐らない。
 「郷土の民話と伝説」

  • 本文でいう「赤い谷」は、旧愛徳中学校北側にある蛇杉付近の地名で、一般的には「あかやの谷」と呼ばれている。これについて、中津芳太郎著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」の「美山村」の項に次のような記述がある。

あかやノ谷
 上阿田木神社の祭にお渡りするが、途中、今の愛徳中学校のそばのあかやの谷を通る時祭の鳴物を止めるという。ここには大蛇が住むからと言い、側の杉を蛇杉(じゃすぎ)と言っている。
   美浜町 中島泉 大・14

 

  • 上阿田木(かみあたぎ)神社日高川町大字初湯川に所在し、現地の案内板によれば、延長6年(928)の創建と伝えられる郡内屈指の歴史を有する神社である。

上阿田木神社(美山村初湯川212番地)
 当社は「愛徳山熊野権現縁起(あたぎやま くまのごんげん えんぎ)」によりますと、延長6年(928)の創建と伝えられ、郡内指おりの古い神社であります。
 祭神は、伊邪奈美神(いざなみのかみ)を本殿にお祀りしています。昔は上愛徳(かみあたぎ)六所権現(ごんげん)と称え、別当阿弥陀(あみだ)を持つ壮麗な神社でしたが、永禄5年(1562)の兵火に焼け、元亀2年(1571)に再建しました。そのとき植林した杉檜が成長し、県内でも有名な社叢(しゃそう)となりました。
 4月29日の例祭県の無形文化財に指定され、古い祭の形式が今に伝えられています。雅やかな神歌太鼓にあわせて、ヤツハチ稚子(ちご 獅子)の舞いが神前に奉納され、(のぼり)の先端を飾る美しい造花が有名で、一名花祭りと言われています。
 平成4年3月
  美山村教育委員会
  和歌山県教育委員会

  • 和歌山県神社庁のWebサイトにある「上阿田木神社」の項では、同社の社叢及び例祭について次のように記述しており、社叢の中でも特筆すべき老杉として蛇杉重右ェ門杉の名が挙げられている。また例祭については昔から「京より南にない祭」と言われるほど荘厳・優美であったと記されている。

(社叢)
境内林は樹齢450余年以上の杉檜の大木が生い茂り、昼尚暗い誠に神域にふさわしい県下に於いても有名な林相である。
老杉、檜の下に生い茂る植物も学術上貴重な存在であると言われている。
中でも特筆すべき老杉は、通称蛇杉重右ェ門杉である。
胸高周囲6m余り、樹高40m、材積は50~80m3で、当社のまさに巨木であり名木である、日高地方に於いても最も古い杉檜の林である。

(例祭)
上阿田木の祭は、日高地方唯一の春祭で一名花祭とも言われている。
祭は例年4月8日役指(祭礼の役を決める)、4月11日花切、13日宵宮、14日本祭の日程で執行なわれていたが、現在は4月28日宵宮、29日本祭となっている
昔から「京より南にない祭」と言われる程、荘厳・優美な祭であった。
祭礼の役指は、社人3家、役屋敷34家、計37人が集って当年の役割を決めていたが、現在では役屋敷も10軒程となり社人と祭保存会とで決める。
神楽の奉納は「ヤツハチ」と「稚子の舞」である。
渡御は、宮幟を先頭に各字の幟がつづき、塩打ちが道筋を清め、先祓の甲冑武者が先導し、御幣につづいて各役が供奉する。
お旅所で天神式を行い還御となる。
和歌山県神社庁-上阿田木神社 かみあたぎじんじゃ-

  • 蛇杉について、環境省の「巨樹・巨木林データベース」によれば、1996年10月30日時点で、幹周565センチメートル、樹高44メートル、一部枯損状態であるとの情報が登録されている。(下記サイトにおいて「蛇杉」で検索)
    巨樹を調べる:環境省
  • 蛇杉と同様に和歌山県神社庁のWebサイトで紹介されている重右ェ門杉は、「巨樹・巨木林データベース」では幹周650センチメートル、樹高43メートル、健全度は良好であると登録されている。この杉の名称は元禄時代の庄屋の名に由来するとされており、同杉には旧美山村の教育委員会が作成した説明板が設置されている。また、下記の個人サイトでも詳しく紹介されている。
    重右衛門杉(上阿田木神社のスギ)

 丹後重右衛門は元禄年間(1688)の頃愛徳(あたぎ)山下で庄屋をつとめ、その先見性と指導力は地区民敬慕の的となっていた。
 神社への貢献度は高く、その功績を記念するため神社林を代表する杉の木に名前が冠せられました
 美山村教育委員会

 

  • 日高川町として合併する前の美山村が編纂した「美山村史」の「史蹟名所天然記念物」の項では「上阿田木神社重右衛門杉」として次のような記述がある。この項では、重右衛門杉のみならず本文にある「蛇杉」、ジェーン台風により倒木した「矢之助杉」等についても解説されている。(各数値は、美山村史編纂時点(1997)のものである)

上阿田木神社重右衛門杉  所在 大字初湯川字平212番地
 胸高直径2.07メートル 樹高42.5メートル 樹囲6.2メートル、推定樹齢425年
 伝承によれば丹後重右ェ門上阿田木神社社人(筆者注:しゃにん 神社に仕えて社務に従事する神職で、後述の井原矢之助が社木を伐木したことを代官所に訴人して争った人物である。矢之助が伐木した杉の旁(かたわら)に杉を植えたのが成長したといわれている。重右衛門杉の東に「矢之助杉」があった。昭和3年県指定の天然記念物で、当時の県史蹟名勝天然記念物調査報告書第八輯に、委員勝田良太郎は次のとおり記している。

  • 現状等、上阿田木神社より提出の指定申請書によれば、幹の周目通り29尺(約8.8メートル)、樹高25間(約45メートル)ありて地上50尺(約15メートル)の処より三本に分立し樹令約500年と称す 今より250年前 本郡船着村三十木に住せし侠士 井原正次 通称 井原矢之助なるもの土地開拓に当り土木費に窮したるを以て 当神社境内にある樹木を伐採し 終にこの杉樹に斧を入れんとせしに 不思議にも伐木破樹は幹より離れざりしかば神威を恐れて伐採を中止し 矢之助は之れが為処罰せらる 矢之助杉の名はこれより起ると云い伝う
               (以上、指定申請書に依る)
    ※筆者注:読みやすさを考慮してカタカナをひらがなに改め、適宜分かち書きとした。

 当地の伝説では若干異なっている。矢之助は翌日より木に斧を入れ木の木片を焼却して伐木してしまった。この神木を川口へ流木売却して、串本大滝工事の工費にあてた。日高代官片山又兵衛は平素から矢之助を快く思っていなかったので、早速矢之助を天田河原で処刑した。(詳細は美山村史上巻428ページ参照) ところが、矢之助の伐った杉の伐株から三本芽が出てそれがぐんぐん成長して前記の大樹となっていたが、昭和25年ジェーン台風の被害を受け倒木したが、その切株が重右ェ門杉の東に現存している。

 上阿田木神社には、現在愛徳中学校の運動場端に「蛇杉」とよばれる巨木がある。樹高38.5メートル、樹囲5.65メートル、胸高直径2.7メートル、樹齢425年で重右ェ門杉と同じころ植林したものと思われる。この杉にも伝説がある。昔ある年の祭りに、渡御の列がこの杉の側にきたところ、笛や太鼓の音に誘われ大蛇が出てきて人を食べたという。そのころはこの付近はうっそうと巨木がそびえ昼なお暗い谷端であったそうである。その後、渡御の際、笛太鼓を止め、現在も静かに行列が通行している。

 同社叢にはコノテガシワの巨木が社殿の下に植えられている。高さ16メートル、地上2.5メートルで12本の幹に分かれ、枝張りは11メートルある。当地では「お宮の千本桧(ひのき)とよんでいる。また境内に高さ46メートルの楠があり、現在村林業課の調査では美山村で最も高い木とされている。

  • 上阿田木神社の例祭については、和歌山リビング新聞のWebサイトにおいて次のように紹介されており、ここでも渡御(お渡り)の際に蛇杉のそばを通る時には笛・太鼓を止めて静かに進むとしている。

 日高地方で唯一残る春祭りが同神社で行われる「上阿田木神社の春祭り」。約7メートルあるのぼりの先端に、5色の紙で作った飾り花と、細かく切った色紙を入れたかごが付けられます。そののぼりで勢いよく地面を突くことで、色紙が花吹雪のように舞い散ることから、「花祭り」とも呼ばれています。
 阿田木祭保存会・会長の今枝(いまし)善生さんは「子ども神楽の"八ツ八(ヤツハチ)"と"獅子舞"、渡御のときに山道を清める"塩打ち"など、平安時代の古い形式が残っています。また、それぞれの役割も、決められた家の男性が代々行うという習わしが今も守られています」と説明します。
 祭り当日、境内には神社と氏子地区ののぼりを準備。地区の代表が力を振り絞り、空に向かって弧を描きながらのぼりを立てると、見学客から拍手が沸き起こります。
 一方、神楽殿には神が宿るものとして、5色の扇子などを吊るした三角形の御幣(ごへい)を設置。その前で子ども神楽が奉納されます。お囃子(はやし)に合わせ、箸(はし)を持ちながら舞ったり(八ツ八)、獅子役の稚児が赤い布を頭から垂らし、頭や着物の袖を振りながら前後に動いたり(獅子舞)、ゆったりとした時間が流れていきます。
 今枝さんは「他にも拝食の儀式があり、お酒、ご飯、大根の漬物、それに"坊主汁"という、だしも具も入っていない、みそ汁をみんなでいただきます」と話します。
 その後、近くの天神社への渡御が始まります。行列は、大蛇が出たと言い伝えのある"蛇杉(じゃすぎ)"と呼ばれる木のそばを通る時、笛・太鼓を止め、静かに進みます
第7回 阿田木祭り 〜八ツ八と飾り花〜 - LIVING和歌山LIVING和歌山

  • 和歌山県教育委員会(当時)蘇理剛志氏は、「「御幡/布鉾/衣幣」考-紀州の祭りにみる古祭具のかたち-近畿大学民俗学研究所「民俗文化 No.29」 2017)」において、特に「御幣(ごへい 主に紙でつくられた神への供物の一種)」に注目して上阿田木神社の春祭の詳細を記録しているので、このうち儀礼に関する部分を引用する。

 上阿田木神社の春祭では、宵宮には小袖御幣、本宮には扇御幣が、それぞれ世襲の三家の社人によって作られる習わしが伝わる。
 宵宮の小袖御幣は、社人によって早朝に山から伐り出された高さ4メートルほどの榊の若木が準備され、根元から高さ約1.5メートルまでの枝を払った後、残した上部の一枝に紙垂を付ける。その後、榊は神楽殿(拝殿)の座敷で一段高くなった上座に立てる。次に、榊の1.5メートルほどの高さに幹と垂直になるよう竹竿を紐で括り付け、横竿に白絹の小袖を懸ける。また、元から1メートルほどの高さに榊の小枝と紙垂を水引で括り付けて完成する。その形状は、あたかも榊の若木が小袖を着て袖を広げ、神の座に立ったような姿に見える。
 午前中に神事の支度を済ませた後、昼過ぎから宵宮の「神酒供え式」が神楽殿の広間で行われる。その儀礼は独特の作法であり、神楽殿裏手の台所に控える給仕の役人から長柄の銚子を受けた三人の社人が、御幣に対して横並びに立ち、一揖したのち銚子を額の高さまで捧げ持って、恭しくその場でゆるやかにそれぞれ左右回りに三回回転して舞う。それが終わると、三人のうち中央に立つ社人が持つ銚子へ左右の社人から神酒が少量注がれ、中央の社人が代表して御幣の前に進み出て、幹に結わえた榊の小枝に神酒を注ぐ(または注ぐ仕草をする)。注ぎ終えると三人は、台所の間に戻って給仕役から新しい神酒を注いでもらい、再び一連の儀礼をおこなう。宵宮の式にはこれを五回繰り返す。それが済むと社人は座して拝礼し、社人の代表が御幣に対し祝詞を奏す。
 社人の拝礼が済むと、古風な八つ八の舞獅子の舞が奉納され、続いて座礼による三献式の盃事食事がある。その後、小袖御幣と稚児舞車を中心にして行列をなし、御旅所である天神社へ宵宮の渡御を行う。御旅所祭でも、宮司祝詞奏上の後に八つ八の舞稚児獅子の舞の奉納があり、還御の際にも本社の本殿前で稚児舞の奉納がある。
 翌日の本宮は、午前中に小袖御幣の榊の木を用いて扇御幣が仕立てられる。扇御幣作りは、前日同様に三家の社人のみで行われ、小袖御幣の榊の木の元から一間ほどの長さが切り取られる。この榊は、宵宮の座において社人らが神木として祭り、懇ろに神酒を注して拝したものである。
 本宮の朝、近くの山から一丈二尺五寸(約4メートル)の青竹を切り出し、笹を払って一本の竹竿にしたものを調達し、竿の元からの高さ四尺(1.3メートル)の位置に、先述の榊垂直に括り付ける。次に、白と青の二反の晒布を互いに捉じり合わせつつ竿頭から榊の横木の両端を結び、さらに横木の全体を包むように巻き付けて、二等辺三角形の布枠を形作る。
 次に、竿頭と横木を結ぶ布綱の部分に五色の扇と紙垂を取り付ける。扇と紙垂の配色は、上部から五行(木・火・土・金・水)を示す青・黄・赤・白・黒の順で、左右の紐に各一本ずつが紐に結び付けられる。さらに、竿の上端に白扇を上開きにして表裏二本取り付けられ、合計十二本の扇が飾られる。そして、竿頭に木製の三又鉾形が飾られる。最後に、竿元からの高さ1メートルの位置に榊の小枝と紙垂を水引で取り付けて完成する。
 本宮の神事は、昼過ぎから神楽殿の広間で行われるが、「神酒供え式」の儀礼は前日の宵宮の作法と同じで、御幣の竹に結わえた榊の小枝に神酒を注ぐ献酒の拝礼を七回繰り返す。続く稚児舞の奉納直会も、宵宮と同様である。その後、宮幟を先頭に各字の幟がつづき、塩打ちが道筋を清め、各大字から出す花幟を先頭に華やかに神社を出発し、先祓の甲冑武者が先導して、扇御幣稚児舞車神輿を中心に神幸行列をなして御旅所の天神社へ渡御を行い、御旅所祭稚児舞を行うほか、神社本殿前においても稚児舞が奉納される。
近畿大学学術情報リポジトリ

 

  • 本文にある「椿山ダム」は、和歌山県史上最悪の気象災害となった昭和28年(1953)7月の水害(紀州大水害)で甚大な被害を被った日高川流域の治水対策のために計画された多目的ダムである。昭和41年(1966)に事業着手され、昭和55年(1980)本体工事着工、昭和63年(1988)竣工というスケジュールであったため、本文が執筆された昭和57年(1982)当時は本体工事が急ピッチで進められていた時期にあたる。旧美山村の村史編纂委員会が平成9年(1997)に作成した「美山村史」では特別に「椿山ダム建設の軌跡」という項を設けて同ダム建設事業の経緯を詳細に記録しているが、参考のために竣工式に関する部分を下記のとおり引用する。
    椿山ダム[和歌山県] - ダム便覧

 ダム建設後をにらんでの村活性化事業が進むなかで、郡市民待望の椿山ダム竣工式を迎えることになった。建設計画が浮上して21年 着工して8年総工費630億円を投じたダムは流域安泰の要としてその勇姿を現したのであった。昭和63年3月5日、粉雪舞う厳しい寒気のなか午前10時15分よりダムサイト左岸の公園での碑(水没者全世帯名刻記)除幕、10時30分ダム本体での神事と続き、正午より場所を山村広場に移し、仮設テント十数棟に水没移転者はじめ関係者800人余が集い竣工を盛大に祝ったのであった。席上仮谷知事は「総額630億、二十有余年の歳月をかけ、様々な困難にもかかわらず、水没移転者はじめ、美山、龍神両村など多くの方々の御協力のおかげで今日竣工式を迎えられたことを感謝いたします。こうした人の力、人の和、人の絆が今後村の観光開発や産業振興に活かされると共に、椿山ダムが流域の災害防止に大きな威力を発揮し、中紀の発展につながることを期待します」と感慨もひとしおの面持ちで挨拶された。これを受けて池本村長は、「こ椿山ダムは昭和28年の大水害を契機として計画されたものです。実現でき幾多の曲折がありましたが、仮谷知事の御英断、水没移転者はじめ関係者の言いしれぬ御苦労により本日を迎えることができました。立場の違いとは申せ、二十有余年の間には無理を申し上げ、失礼な振舞もあったかとは思いますが、これも有史以来の変革に対する驚きがなさしめたものと御了承ください。本日御出席の移転者の方々の懐しいお顔を拝見し、さみしさと惜別の情ひとしおでございます。こよなく愛した故郷に後髪を引かれる思いで別離された皆様に深い感謝の念を捧げると共に新天地でのご繁栄を心から祈念いたします。私たちは皆様の崇高な精神を無にすることなく、ふるさと美山村の発展に力を合せ精進することを誓います」と述べ満場を感動の渦に巻きこんだのであった。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。