生石高原の麓から

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蛇の川原 ~大塔村熊野(現田辺市面川)~~

  熊野(ゆや)をさかのぼると「蛇の川原」という、気味の悪い沢がある。

 

 昔、付近の岩穴に大蛇がすみつき、里に出ては、人や家畜を丸飲みにした。村人は恐れおののいたが、何しろ相手は胴回り三尺を越す化物とあって、だれも手出しができない。そんなとき、ここを通りかかった一人の武者が、強弓で蛇の頭を射抜き、みごとに退治した、と。

 

 大蛇が住んでいたという岩穴は、数百年を経た杉の古木に囲まれ、昼なお暗く、陰湿なムード。入り口は石でふさがれ、そばに十一面観音をまつった古いお堂が建っている。棟札には「宝永六己丑七月(1709年7月)」とある。そこから約100メートルけわしい斜面を登ると大きな岩があり、その端が長さ3メートル、幅2メートル、深さ1メートルのくぼみになっている。地元の人は、これを矢櫃と呼び、大蛇を退治した矢を納めた場所と伝えられている。

 

 蛇の川原は、いまでも多くの蛇が住みつき、地元の人でさえ、めったに近づかないという。

 

(メモ:熊野地区は、名勝「百間渓谷」の近くにあり、村役場から南へ22キロ。)

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

蛇の川原付近の熊野川

 

  • この物語について、熊野路編さん委員会編「くまの文庫3 熊野中辺路伝説(下)(熊野中辺路刊行会 1972)」には次のように記載されている。

(じゃ)の川原
 大塔村面川の熊野(ゆや)に、蛇の川原という所がある。昔、ここに大蛇がすみ、時々里に出てきて、人畜に害を与えることがあった。しかし、村人は恐れおののくばかりで、どうすることもできない。何とかならぬものかと祈っていたところ、ある一人の落武者があり、この大蛇を熊野川の川原で強弓をもって退治したという。その落武者の名前や出自、あるいは退治したときの詳しい様子などは、今は伝えられていない。
 大蛇がすんでいたというところは大きな岩穴で、現在、慈悲と平和の仏十一面観音が祀られている。その小堂の棟札には、宝永六己丑七月とある。岩穴の奥は石を積み立てて穴を塞いでいる。入口は岩の上部が突出していて自然の覆いとなり、地上12平方メートル程は雨が降っても濡れる心配はない。岩の上の方は木がおい茂り、その付近には数百年を経た老杉などあって、昼なお暗く、陰惨の気が漂うている。
 ここから100メートル程登ると大きな岩壁があり その一端に長さ三メートル、幅二メートル、深さ一メートルばかりの長方形をした凹所がある。これを矢櫃と呼び大蛇を退治するときに用いた矢を納めたといい伝えられている。今もこの付近一帯を蛇の川原というのである。

 

  • 紀南文化財研究会会員の宮本恵司氏は、平成3年(1991)に刊行した「和歌山県南部 大蛇伝説をたずねて(熊野民話研究会)」の中で、この物語について次のように解説している。

蛇の川原の大蛇伝説
        *大塔村面川地区の伝承
 大塔村合川より熊野(ゆや)にそって遡る。
 左手に川を隔てて見える三豊神社付近から上手、旧豊原小学校(現在は廃校となり百年碑と校歌碑が残る)までの間を流れる川をさして「蛇の川原(ジャノカワラ)」と呼び、地区名(字名)蛇の川原という。
 道は川に沿って右岸を走り、左岸より上方は美しい杉林となっている。
 この地区の人々の生活用水は、民家が河川より常に上方にあるため、その杉林の中の清水の流れる谷より引用しているという。
 くまの文庫「伝説(下)」p.34に示された「矢櫃(やびつ)」は丁度この谷にある。また、その左手には「ナタトギ」と呼ばれる岩があり、昔、刀を磨いだのだといわれている。
 十一面観音は、その矢櫃の下方に祀られ、昔は、二抱えほどもある杉の大木が五本生えていたという。現在、この観音さんは、人々の参詣が絶えないほどの信仰を集めている。

 

[1] 私の採集伝説
 その昔、この奥の大熊という所(とこ)でない(ですね)、今の観音さんの辺り・・・ ほれ、あそこに竹薮見えたあろう(見えてるでしょう)。丁度、あの辺に観音さんを祀ったるんやけど・・・ を見下ろいた時、大っきな蛇がのたりやんの見えてんとう(蛇が這っている姿が見えたのだそうです)。昔のことやさかい、こがに(これほど)杉も植られてないしのぅ。よう見えたんやろかい(よく見えたのでしょう)
 ほんで、そっから弓で狙ろてんけど、矢ぁが届かんわなあ・・・遠過てよぅ。ほんでに、ここ・・・ サガノっていうんやけどない(言うのですけどね)・・・ ここまで来て、弓で打ち殺いてんら。
 ほんで、打った矢を納めたんが、その矢櫃なんやら(矢櫃なのです)
    [話者:佐賀野正夫氏 大正十年生 大塔村面川住]

 

 「こいは(これは)、おやじから聞いた話やけど・・・ 」と前おきをして、佐賀野氏が以上のようなことを話してくれた。
 また、この少し下に住まわれる橋本氏が「今は、川がそこを流れぇやるけど、昔は、この辺(民家のすぐ下の方)を流れぇやった(流れていた)て聞いたよぅ。」と話てくれたので、過去の水害の程度を尋ねてみた。
 そうすると、ほとんどの人が「わしらが覚えたぁるんでは、昭和33年(1958)の大雨の時と去年の台風(筆者注:平成2年(1990)台風第19号)の時やなあ。この下のお宮さんの辺りまで、 どえらかったでぇ・・・ 」ということである。
 このことは、後に伝説を考える上において、大変役にたつ資料となるはずである。
 しかし、私が収集した伝説のみでは、あまりにも貧弱過るので、以下に「郷土誌和歌山県西牟婁郡三川村役場 昭和五年)」29項に記された「蛇の川原の伝説」を紹介しておきたいと思う。

 

[2] 「郷土誌」・・・ 蛇の川原の伝説
 大字面川字蛇の川原にあり、往昔此の地に大蛇棲み、時々出て人畜に害を及す事ありければ、村人恐れて如何にもして、之れを退治したしと思いいたりしに、或時一人の落武者ありて、此の大蛇を熊野川の川原にて強弓を以て退治したりと云う。大蛇の棲みしと云う所は大なる岩穴にして今は此所に十一面観世音菩薩を祀れり、其小祠の棟札には宝永六年(筆者注:1709)己丑年七月とあり岩穴の奥は石を以て積立て穴を塞ぎあり、其口は岩の上部突出して自然の掩蓋をなし、地上四坪程は雨の漏るる事なし。岩の最上部五十坪程は老樹生茂り其付近には数百年を経たる老杉ありて昼尚暗く陰惨の気人に迫るを覚ゆ、此所より五十間(筆者注:約90メートル)程登れば一大岩壁あり其の一端に長さ一丈(筆者注:約3メートル)巾六尺(筆者注:約1.8メートル)(ばかり)長方形をなす凹所あり これを矢櫃と称へて大蛇を退治するに用いたる矢を此所に納めたるなりと伝う。今も此付近一帯を蛇の川原と称す。

 

  • 本文が執筆された当時、地名の「熊野」、河川名称の「熊野川」はいずれも「ゆや」・「ゆやがわ」という読みがあてられていた。これに対して、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「熊野村」の項には次のような記述があり、もともとは地形から「いや」と呼ばれており、これに「熊野」の文字があてられたものではないかと考察している。これを反映したものであるかどうかは不明であるが、平成17年の市町村合併前を契機として「大塔村熊野(おおとうむら ゆや」という地名は「田辺市熊野(たなべし いや」となり、字名について、表記は同じだが読み方が変更された。

熊野村
面川村の北一里九町にあり
慶長検地帳に伊屋村とあり
今猶 彌(イヤ)谷という
彌谷は 四面山嶺重畳せる谷の義なり
伊也 転じて 由也 となり
遂に熊野の字を用う
本義を去る事遠うし

 

  • メモ欄中、百間渓谷(百間山渓谷)とあるのは、百間山(標高999メートル)の南西斜面に全長約3キロメートルにわたって広がる渓谷で、日置川県立自然公園の一部となっている。原生林の中に大小さまざまな滝や数多くの巨岩奇岩が連なり、人気のトレッキングコースとなっている。平成23年(2011)の紀伊半島大水害で周辺地区が甚大な被害を受けたため全面閉鎖されたが、現在トレッキングコースは解放されている。報道によれば、早ければ令和4年(2022)にはキャンプ場も再開予定とのことである。
  • メモ欄中、「村役場」とあるのは、現在田辺市大塔行政局となっている。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。