生石高原の麓から

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清姫狂乱 ~中辺路町(現田辺市中辺路町)真砂~

  平安の頃、真砂(まなご)の里に美しい娘がいた。名は「」という。山路に咲く百合のように、その姿は清らかで、村の男たちのあこがれの的だった。縁談は降るようにあったが、には、心ひそかに想いを寄せる若者がいた。毎年、熊野詣での途中、の館に立ち寄り、一夜の宿をとる奥州白河の「安珍」という僧だった。

 

 ある年のこと、が気嫌をそこねて駄々をこね、側の女たちを困らせていた時、たまたま投留していた安珍が「よい娘になれば、お嫁にしてあげよう」とあやした。その時から、は「私は、この人のお嫁になるんだ」と固く心に決めた。

 

 それから数年。は美しい娘に成長した。しかし、館に立ち寄る安珍は、に魅せられた様子もない。ある年の秋、はとうとうたまりかねて、安珍の寝所に忍び寄った。
 「もし安珍さま。私は、幼い時から貴方さまをお慕いし、妻になるものと心に決めていました。だけど、貴方はいっこうにその気がなく、明日になれば熊野へ旅立って、来年までお会いすることができない。どうか、私をふびんと思って、お情をかけてください」と恥かしさも忘れ、必死の思いで打ち明けた。スソの乱れから、雪のような肌がこぼれる妖艶な清の姿態に、さすが志操堅固な安珍も思わずを抱きよせた。

 

 しかし、気を取り直した安珍は「私は熊野詣での途中。いまここで二人が結び合えば、私だけでなく、あなたにも神佛の罰が下る。修業を終えれば必らずここに戻ってくるのでその時まで待ってください」と、を説いた。

 

 こうして安珍清姫から逃れ、見捨てられたと知った清姫が、憎悪の炎を燃やす大蛇に化身する。そして道成寺の釣り鐘にかくれた安珍を焼き殺すという展開となるこの伝説は、のちに「道成寺物語」として世に広まった、一般的なストーリーである。

 

 真砂の里には、確かに「清姫」という女性が実在した。真砂兵部左衛門尉清重=延喜元年(901)没=の長女で、希代=延長6年(928)没=という。


 国道近くの木立ちの中には、清姫の墓といわれる、古い墓石があり、汐見峠には、清姫安珍の姿を求めて登ったという杉の木も残る。「清姫の捻木(ねじぎ)」と呼ばれる杉は、高さ15メートル、幹の直径1.1メートル。無数の枝が、まるで大蛇がトグロを巻くように、左右にねじれ、怪奇のムードをただよわせている。

 

 そして、小さなお堂のそばの石碑には

煩悩の焔も消えて、今ここに眠りまします清姫の墓

ご詠歌が刻まれる。

 

 しかし、地元の人は、彼女は心やさしく学のある美女で、後には朝廷に仕えた釆女。間違っても、安珍の寝所に忍び込むような、はしたない真似はしない…と主張する。

 

 清姫の伝説は、いくつかある。そのひとつに、清姫は、白蛇の化身の遍路を母に持つ美女だった…というのがある。
 13歳の時、16歳の安珍と夫婦の約束をかわしたが、深夜、清姫の部屋に蛇の影が写っているのを見た安珍が、恐ろしくなり逃げた。そこで清姫は、汐見峠まで後を追ったものの、里に引き返し、傷心のあまり淵に身を投げたが、その怨念が大蛇に化身し、安珍を焼き殺した…と。
 また、安珍清姫を手ごめにして逃げたとの話も残されている。

 

 ただ、地元で最も実感を込めて伝えられているのは「清姫、玉姫混合説」。
 清姫の二、三代前に生まれた「玉姫」という娘が、行きずりの修験僧に「なんじの身体には、角(つの)のある化身が宿っている」といわれ、修験僧からもらった数珠を頭にかけたところ、数珠がはずれなくなった。その後、玉姫は断髪して、名を「順功」と改め、悪霊払いの修業に出たまま行方を断った。そして、清姫の美しさと玉姫の伝説が重なって、道成寺物語のヒロインが生まれたのではないか…といわれる。

 

 いずれにしても、熊野という信仰の山を舞台にした、妖しくも美しい女の悲恋物語は、一体何を意味するのだろうか。清姫を研究している地元の中瀬喜陽さんや谷上和貞さんは「それはまぎれもなく、熊野詣での道者に対する「女人禁断」の戒めではなかったか」という。

(メモ:清姫の墓は、国道311号線清姫バス停の近く。4月と11月の23日に供養祭がある。捻木のある汐見峠は、ここから北へ約5キロ。なお真砂清重に関しては「清次」という説もある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

清姫の墓

 

  • 安珍(あんちん)清姫(きよひめ)の物語について、合併前の旧中辺路町が編纂した「中辺路町」では次のように解説されている。

第三章 伝承文学
第一節 清姫物語

 中辺路を代表する物語に『清姫物語』がある。この物語は熊野五大伝説といわれている、小栗判官照手姫楊枝薬師とお柳秦の徐福一つたたら、等の中「安珍清姫」物語として、最も広く世に知られている物語である。
 この物語の原典は、法華経の功徳を説いた仏教説話に始まるものであるが、やがて文学や芸能として多くの作品が世に出されている。
 原典、『大日本法華経験記(ほっけきょう しるしき)』は長久元年(1040)にできた書であるが、その後この物語は、承保元年(1074)『今昔物語』に載せられ、更に承保より250年ばかり後の、『元亨釈書』(1321 - 1323成立)に転載されている。そして元亨より更に80年程後にできたのが、日高道成寺の「道成寺縁起絵詞(えんぎ えことば)」である。応永34年(1427)謡曲道成寺ができ、これをもととして常磐(ときわず)長唄浄瑠璃など次々と作られ、歌舞伎人形芝居にも清姫を扱った文芸作品は多く、今日ではその数、100を超えるであろうといわれている。 

 

 紀伊国道成寺の僧法華経を写して蛇を救う諸(こと)

 今は昔、熊野に参る二僧があった。一人は老人一人は年若くして容姿端麗であった。牟婁の郡まで来て、ある民家に二人は宿をとった。その家の主人は若い寡婦(やもめ)の女で、下女二、三人ばかりいる。
 女主は宿った若い僧の美貌に懸想(けそう)して、深く愛欲の心を起し、ねんごろにもてなした。夜に入って、僧が寝てしまうと、夜半のころ、女主はこっそりと、若い僧の寝所に這いより、衣を打かけ並んで寝てを目覚ませた。は目覚て驚きひどく恐れて迷った。
 女は、「我が家ではいままで人を泊たことはありません、それにもかかわらず、今夜あなたをお泊したのは、昼間あなたを一目見てより、夫になっていただきたいと思い込んだからでございます、それであなたをお泊して、思いを遂げようと思い、こうしてお側に参りました。私は夫もなく寡婦の身でございます。どうかあなた、この私を哀れと思って下さい」とくどきかける。
 はこれを聞くと、大に驚き床の上に起き上り坐して、「私はかねてからの宿願があり、日頃身も心も精進して、はるばると長い道中を熊野権現の社前に参詣する途中なのです。それをここで宿願を破っては、あなたも私も共に神仏の罰をこうむります、ですからそんな気持はどうか早く捨てて下さい」とさとしても頑として聞入れず、のつれない言葉を恨んで、夜もすがらに抱きついて誘惑しようと痴態の限りを尽したが、は様々な言葉でをなだめすかして、「私はあなたの言うことをいやだといっているわけではない。であるから今は熊野へ参詣して、二・三日中に御明し、御幣を奉り、その帰りの途次に、あなたの意に従います」と約束してしまった。
 はその約束をたのしみにして、自からの部屋に帰っていった。夜が明けたのではその家を発って熊野に向った。その後は約束の日を数え、ただひたすらにを恋したって、諸ろもろ準備を整え帰りを待っていたが、彼女を恐れて、帰途の立寄を避けて、別路を通り逃げて去った。の帰りがあまりにも遅いので、待ちわび往来に出て、往還の人々に尋ねていたところ、その時熊野より帰る僧がいたので尋ねると、「若い僧と老たる僧なら、とっくに帰りもう二・三日になる」と言う。これを聞き手を打ち、さては他の道を通り逃げたと知るや、怒り狂って家に帰り寝室に閉じこもった。
 暫くは音もたてずにいたが、そのまま死んでしまった
 下女たちがこれを見て泣き悲んでいると、五尋(ひろ)ばかり(筆者注:7~9メートル)の大蛇、忽ちに寝室より這い出した。家を出ると、街道に行き熊野帰りの道にそって走り行く。人はこれを見て大いに恐れた。
 さて彼の二僧は、はるか前方を歩いていたが、噂を聞いたある人が「この後ろに奇異なことが起った。五尋ばかりの大蛇が出て来て、野山を越して走り来ると」、二人僧これを聞きて思うのには、定めてあの家主の女が、約束を違えたのを怒って、悪心を起し毒蛇になって追駆て来るものと思って、いっさんに駆け出し、道成寺という寺に逃込んだ。
 寺の僧たちこの僧たちを見て、「何んでそのように走って来たのか」と尋ねると、二人の僧はその由をつぶさに語って、その助力を頼んだ。寺僧たちは集まって相談し、釣鐘を取下して、この若い僧の中に籠めて、寺の門を閉め老僧の方は、寺の僧に伴われて寺の中に隠れた。しばらくして大蛇がこの寺に追って来た。
 閉した門をものともせずのり超えて入り、堂を廻ること一・二回して、この僧を籠めたる鐘堂の戸口へ来て、尾をもって扉をたたくこと百度ばかり、遂に扉を叩き破って堂内へ入った。
 に巻きついて、尾で竜頭を叩くこと四・五時間ばかり、寺の僧どもこれを恐れると共に怪んだ。四方の扉を開けて集まりのぞけば、毒蛇は、両の眼より血の涙を流し、鎌首を持上て舌なめずりをして、もと来た方へと走り去った。寺の僧たちを見ると、さしもの大鐘も蛇の毒熱の気に焼れて、炎を盛にあげていて近寄れず、そこで水をかけて鐘を冷して、を取りのけて見れば、僧は皆、焼け失せて骸骨もなく、僅かの灰が残るのみであった。
 老僧はこれを見て泣き悲しんで帰っていった。
 その後寺の上﨟(筆者注:じょうろう 修行を積んだ地位の高い僧)たる老僧の夢に、前の蛇よりもさらに大なる大蛇が、まっすぐにやって来て、この老僧に向って言うのに、
私はこの鐘の中に籠められた僧です。悪女が毒蛇となって、遂にその毒蛇のために、とりこにされて、その夫になってしまいました。むくつけくけがれた蛇身をうけ、はかり知れない苦しみを受ております。いまこの苦をまぬがれようと思うても、とても私の力では及びません。生前私は法華経を受持しておりました。願わくば聖人の広大な恩徳を蒙り、この苦しみよりのがれたいと思います。特別に無縁の大慈悲心を発されて、身を浄め法華経如来寿量品(筆者注:法華経の経典のうち、全部で28の品(もん/ほん/ぽん 「章」にあたる)で構成される「妙法蓮華経」のうち第16品「如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)」のこと)を書写して、我等二匹の蛇のため供養して、この苦を抜き給へ、法華経の力でなければ、どうして、この苦しみをまぬがれることができましょう
と云って帰ると見て夢がさめた。
 その後老僧はこのことを思うと、忽ち道心が湧き起り、自ら如来寿量品を書写し、衣鉢を投げ捨て、 諸僧を招き、一日法会を営んで二匹の蛇の、苦業を救うため供養し奉った。
 その後老僧の夢に、一僧と一人の女が現われ、ともに微笑を浮べてうれしげな顔で、道成寺に来て老僧を礼拝し、「あなたが清浄な善根を修して下さったので、おかげで私ども二人は、たちまち蛇身を捨て善所おもむき、女は忉利天(とうりてん)に生れ、男は兜卒天(とそつてん)に昇ることができました」とこのように告げた後、二人は別々になって空に昇っていったと見て夢がさめた。
 その後老僧は喜び感動して、いよいよ法華経の威力を貴ぶこと限りなかった。まことに法華経の霊験あらたかなことは不思議である。僧と女があらたに蛇身を捨て天上に生れかわったことは、ひとえに法華経の力である。

 これを見聞した人は、みな法華経を信仰して書写し読誦した。また老僧が僧に愛欲を起こしたのも、みな前世からの定めであったに相違あるまい。されば女人の悪心のすさまじいこと、すでにこのとおりである。だから、女人に近づくことを仏は厳重に禁じられたのだ、このわけを知って、女に近づくことは止めるべきだと語り伝えたとのことである。 

 

  • 本文にある「清姫の墓」は真砂地区の富田川沿いにあり、その近くには当地に伝わる清姫伝説を記した石碑が建立されている。安珍清姫の物語には様々なバリエーションがあるが、現代に伝えられている物語のひとつとして、この碑文を引用する。

清姫之里の伝説
 清姫の父 真砂の荘司藤原左衛之尉清重は妻に先立たれてその子清次と暮らしていた
 ある朝散歩の途中黒蛇に呑まれている白蛇を見て憐に思い助けた
 数日後 白装束の女遍路(白蛇の化身)が宿を乞い そのまま清重と夫婦の契を結び清姫が誕生した
 清姫が13才の年 毎年熊野三山へ参拝の途中ここを宿としていた奥州福島県白河在萱根の里 安兵衛の子 安珍16才は みめうるわしい清姫の稚い頃より気をとられて 行く末はわが妻にせんとひそかに語られも真にうけて安珍を慕った
 ある夜 安珍は障子に映った蛇身の清姫を見てその物凄い形相に恐れをなした
 それとは知らぬは思いつめて遂に胸のうちを語り
いつまでも待たさずに奥州へ連れていってほしい
と頼んだ
 安珍は突然の申し入れに大いに驚き これはなんとかして避けようと思い
我は今 熊野参拝の途なれば必ず下向には連れ帰る
とその場のがれの申しわけをされた
 はその真意を知らず 安珍の下向を指おり数えて待ちわびたが あまりにも遅いので旅人に尋ねると 
あなたの申される僧は 先程通られ早十二、三町も過ぎ去られた
と聞くや さては約束を破り道を変えて逃げられたのだと察し あまりの悔しさに道中に伏して泣き叫んだ
 やがて気を取り直して汐見峠まで後を追い 杉の大木によじ登り(現在の捻木 はるかに望めば すでに田辺の会津橋を渡り逃げ去る安珍を見て瞋(いか)りにくるい 生きてこの世でそえぬなら 死して思いをとげんと立帰り 荘司ヶ渕に身を投げた
 その一念が怨霊となり道成寺まで蛇身となって後を追い 鐘にかくれた安珍を七巻半して大炎を出し焼死させ 思いをとげたと云う
 時延長6年8月23日(今から約1080年前 西暦928年)
 後 里人達はこの渕を清姫と呼び 霊を慰めるため碑を建立
 清姫の墓として毎年4月23日に供養を続けている


 平成20年4月吉日
   福巖寺第12世 霊岳代誌
      寄贈者 高岡節子
          清水泰弘

 

  • 上記引用文でわかるとおり、原典では二人の旅の僧と寡婦の女主人の物語となっており、主人公の名前も伝えられていないが、現代に伝わる物語では安珍清姫の名前や、清姫の母が白蛇の化身であったことなど、さまざまな脚色が加えられている。これについて、尾道市立大学伝承文化研究会による紀要論文「絵巻『道成寺縁起』を読み解く<安珍清姫伝説を追って> -平成二十五年度~二十七年度研究活動より-(尾道市立大学芸術文化学部日本文学科 尾道文学談話会会報 6号 2016)」では次のように述べており、室町時代になって仏教説話としての縁起絵巻と、後に芸能と結びつくこととなる「読み物」とに別れていったとしている。

 絵巻『道成寺縁起(以下『縁起』)の成立背景は不明ではあるが、室町時代後期とされている。下巻奥書には、天正元年(1573)12月に足利義昭日高郡由良興国寺に滞在した折、『縁起』を高く評価して禄を与えた際の書判が花押とともに確認でき、この頃には成立していたことが分かる。

 『縁起』(流布本)は、『大日本国法華経験記(以下、『法華験記』)下129「紀伊国牟婁郡の悪しき女」をはじめとして、『今昔物語集(以下、『今昔』)14「紀伊ノ國ノ道成寺僧、寫法花救蛇語・第三」、『元亨釈書』19願雑4・霊性安珍にも類話が見え、近しい内容は平安時代にまで遡ることができる。そして、いずれも仏教説話的要素が色濃く、『縁起』も同様に法華経の功徳を説く内容である。

 一方、『縁起』と同時代と推定される『賢学草子』、『道成寺絵詞』、そして本稿でも取り上げる近世初期成立の奈良絵本『ひだか川』は御伽草子的な性格を持ち、『縁起』を骨子としながらも展開の違いから異本に分類される。

 一連の道成寺物語の伝承を追うと、民間に語られていた先行の類話が室町時代の物語隆盛の波に乗り、一方は寺の縁起絵巻として定着(流布本)一方は仏教説話的要素を切り捨てて都風な読み物へと脚色されていったと推測される(異本)

 その後、同話は歌舞伎をはじめとする芸能、わらべ唄雨乞い踊り山伏神楽絵画作品映画など、多様な広がりを見せることになる。そして、道成寺では現在も物語の絵解きがおこなわれており、稀少な文芸の伝承性を間近に見ることができる。

絵巻『道成寺縁起』を読み解く<安珍清姫伝説を追って> ―平成二十五年度~二十七年度研究活動より―-尾道市立大学リポジトリ

 

 

 安珍清姫伝説の後日譚に従い、白拍子(筆者注:しらびょうし 平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞を演ずる芸人。 主に男装の遊女であった。)紀州道成寺の鐘供養の場に訪れる。女人禁制の供養の場であったが、白拍子は舞を舞い歌を歌い、隙をみて梵鐘の中に飛び込む。すると鐘は音を立てて落ち、祈祷によって持ち上がった鐘の中から現れたのは白拍子蛇体に変化した姿であった。蛇は男に捨てられた怒りに火を吹き暴れるが、僧侶の必死の祈りに堪えず川に飛び込んで消える。

小 鼓との神経戦である乱拍子(間をはかりながら小鼓に合わせ一歩ずつ三角に回る。大きな間をとるので、ラジオ放送では放送事故 - 無音時間過長 - になったこともある)から一転急ノ舞になる迫力、シテが鐘の中に飛び込むや鐘後見が鐘を落とすタイミング、鐘の中で単身装束を替え後ジテの姿となる変わり身と興趣が尽きない能である。

道成寺 (能) - Wikipedia

 

安珍清姫の鐘
 「鐘に恨みは数々ござる」で知られる紀州道成寺の霊話は長唄、歌舞伎等の芸能に取り入れられています。その物語に縁あるこの鐘は数奇な運命で当山に伝わりました。
 正平14年(1359)3月31日、道成寺では安珍清姫の伝説以来、永く失われていた鐘を再鋳し鐘供養を盛大に営みました。すると、その席に一人の白拍子が現われ、舞い終わると鐘は落下し、白拍子は蛇身に変わり日高川へと姿を消してしまいます。その後、近隣に災厄が続いたため、清姫のたたりと恐れられた鐘は山林に捨て去られました。
 それから200年あまり経った天正年間、その話を聞いた「秀吉根来攻め(1585)」の大将・仙石権兵衛が鐘を掘り起こし京都に持ち帰り、妙満寺へと納められました。そして、時の貫首日殷大僧正法華経による供養によって怨念を解かれ、鳴音美しい霊鐘となったと伝えられます。
 当山では、例年の春に鐘供養を営み安珍清姫の霊を慰めており、道成寺を演じる芸能人はこの鐘に芸道精進を祈ります。
安珍・清姫の鐘 | 顕本法華宗 総本山妙満寺

 

  • 通説では清姫は真砂(まなご)庄司の娘と伝えられるが、「庄司(荘司)」とは荘園領主から現地の管理を委ねられた者の総称であり、真砂庄司とは真砂地区の管理を司っていた在地の役人を意味する。「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」の「真砂」の項には、この地と清姫との関係について次のように記載されている。

道成寺伝説の清姫誕生の地ともされるが,「今昔物語集」巻14 - 3の紀伊国道成寺僧写法花救蛇語には当地名は登場せず、室町期の「道成寺縁起」に至って「紀伊国室の郡真砂と云所に宿あり」と見え(道成寺蔵),また謡曲道成寺に「昔この所にまなごの荘司といふ者あり,かの者一人の息女を持つ」とあり,ともに物語の発端の舞台をこの地に設定しているが,道成寺伝説を当地と関連させるようになるのは中世後期に入ってからのことと思われる。

 

  • 本文にあるように真砂地区の富田川沿いには「清姫の墓」と伝えられる板碑があり、田辺市指定の文化財(西谷口の板碑)となっているが、これは、碑文によれば、匡勝禅尼の追善供養のため明徳5年(1394)に建立されたものである。その隣接地には「清姫」があり、「中辺路町(1988-1992)」では次のように記載されている。なお、その後この建物は平成13年(2001)年に建て替えられたが、平成20年(2008)に放火により焼失したため、平成21年(2009)に再建された。

清姫堂(薬師堂)
所在地は真砂区西谷口の庄司ヶ渕で、古くは砂の城館跡付近に在り、真砂氏の持仏薬師如来を納めたお堂であったが、いつのころか焼失し、近年に至って真砂地区の人々により、現在地に建立され今日に及んでいる。

 

  • 清姫の捻木」は、熊野古道中辺路のルートの一つ「潮見峠越え」の一部である「捻木峠」にある杉の大木。現地の説明板には次のとおり記載されている。なお、塩見峠越えの熊野古道平成28年(2016)に世界遺産紀伊半島霊場と参詣道」の構成要素として追加登録された。

捻木(ねじき)
 ここは捻木の杉があるため、捻木または捻木峠と言われ、旅人がよく休息した場所です。
 捻木の杉は、周囲6m、高さ20mに及ぶ大木で、昔、奥州の僧 安珍(あんちん)を追ってきた清姫(きよひめ)が、田辺の会津の橋を渡っている安珍を見て、悔しさのあまり身をよじって杉の木も捻じ曲げてしまい、それがそのまま成長したのがこの木だと言い伝えられています。
 根元に祀られているのは、修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)です。
 ここから槇山の山腹をぬって約2kmで潮見峠に達します。

 

  • 本文において言及されている「真砂兵部左衛門尉清重の長女・希代が実在した」「清姫(希代)が采女天皇に仕える女官)になった」という話や、「清姫、玉姫混合説」の詳細については不明。これとは別に、Wikipediaの「安珍清姫伝説」の項では次のような異説が紹介されている。

 さらに異説としては、清姫は当時鉱山経営者になっており、安珍清姫から鉱床秘図を借りたまま返さないので、怒った清姫やその鉱山労働者が安珍を追い詰めたという話がある(「清姫は語る」津名道代〈中辺路出身〉)。
 このほか、和歌山での異説として『日高川草紙』がある。三井寺の若き僧・賢学が、遠江国の長者の娘・花姫と結ばれる運命を知りこれが修行の妨げとなることを恐れ、幼い花姫を亡き者にしようと胸を刺して逃げる。その後賢学は一目惚れした娘と結ばれるが彼女の胸の傷から成長した花姫その人であると気付き彼女を捨てて熊野へ向かう。花姫は彼を追い、ついに蛇となって日高川を越えて追いすがる。とある寺に逃げこんだ賢学は鐘の中に匿われるが、蛇と化した花姫は鐘を破壊し賢学を引きずり込みながら川へと消えていった。その後弟子たちが二人を供養したという。安珍清姫伝説に比べて宗教色が希薄で「御伽草子」的要素が強い話である。
安珍・清姫伝説 - Wikipedia

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。