生石高原の麓から

かつて開設していた個人サイト「生石高原の麓から」の内容をブログ形式に移行しています

からし地蔵 ~中辺路町(現田辺市中辺路町)西谷~

  清姫の墓の近くから北ヘ、西谷川にそって2キロほど行くと福巖寺がある。境内のお地蔵さんは、文政6年(1823)、83歳で亡くなった第六世住職、鉄凌道機和尚をまつったものといい、土地の人は「一願地蔵」とか「からし地蔵」と呼ぶ。

 

 自らの臨終を悟った和尚は、死の三日前、村人一同を集めて別れのあいさつをし「わしの死後、地蔵をつくって人通りの多いところへまつってほしい。まつってくれれば、一人に一願は必ず叶えて進ぜよう」と約束。「ながながと如来のまねも今日限り」との辞世の句を残し、本堂で坐死したという。


 地蔵ははじめ、汐見峠にまつられ、人通りが少なくなったので近くの射森峠に移したが、のち、境内に移したといい、和尚が好んだカラシと酒を供えるところから、からし地蔵の名がついた。
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

一願寺(福厳寺)参道入口付近

 

 

  • 福巖寺の由緒について、同寺のWebサイトには次のような説明があり、福巖寺として成立したのは寛文2年(1662)のことであるとする。

由緒
 万治(筆者注:1658 - 1661)以前より、当字菴尾(筆者注:西谷地区の小字名)福徳菴があり、真言宗の僧、太初守元和尚が菴主をしていました。
 真砂には漬入山萬福禅寺がありましたが、大水害のために流失。
 寛文二年(1662)二月に、再建不能の萬福禅寺と福徳菴が合併し、開山に海蔵寺第五世の桃源長茂大和尚を懇請して、寺名も雪峰山福巖寺と改め、清姫とその一族、並びに檀信徒各家の先祖の菩提を弔うために現在地に建立されました。
 現在の本堂は平成十年十一月に完成しました。

 

  • 本文にある「からし地蔵」の由来について、福巖寺のWebサイトでは次のように解説されている。

一願地蔵尊 / 俗称からし地蔵
 一願地蔵尊は、俗称からし地蔵と呼ばれている。
 寛政年間(1789 - 1801)に遠州静岡県龍泉院 呂庵和尚 徒弟道機和尚が当山第六世として住山。
 檀信徒の帰依篤く二十有年在住されたが、自らの臨終を知り、三日前檀家に別れの挨拶をし
ながながと 如来のまねも 今日限り
と辞世を残し、文政六年(1823)二月二十七日、八十三才で本堂前に於いて座亡された。其の時
我の死後供養として、地蔵尊を刻し、人通り多き場所に祭られたし、然らば遠州の人も或は通りあわせて香華もたむけて呉れるならん、その代わり一度に一つの願いは必ず叶えて進ぜよう
と誓われた。よって里人はこれを実行し、熊野参拝途上の汐見峠に安置した。其の後現在の境内に移転、和尚の好物からしを供え、今に至るまでからし地蔵として名を残している。

 お参りの時に一度に沢山のお願い事をするのではなくて願いは一つだけ・・・そういうところから一願地蔵と呼ばれるようになったようです。
 誰しも欲張りにあれもこれもたくさんお願いしてしまいがちですから・・・。
 一願地蔵尊の大祭会式は毎年二月末の日曜日午後一時からです。
 大祭当日先着五百名二十歳以上の参拝者に身体健康のご祈祷をしました祈祷酒をお一人1本差し上げます。
式が終了後に餅投げがあります。

一願地蔵尊 : 一願寺 公式ホームページ|臨済宗妙心寺派雪峰山・福巖寺

 

  • 東京に拠点を置く「民話と文学の会」が昭和55年(1980)に発行した「民話叢書5 熊野・中辺路の民話(「熊野・中辺路の民話」編集委員会編)」には、「一願地蔵」としてこの物語が次のとおり収載されている。

地蔵にまつわる伝説
一願地蔵
   立石慶蔵畑中文三中田武平(西谷)
 この福岩寺の六代目のおっさん(坊さん)を祀ったのが、この地蔵さんで、遠州から来たこのおっさんは偉い人やったらしい。この世ともうお別れやと言うて、仏前に座禅したまま死んだちゅう(筆者注:死んだという)
 死ぬ時に
もし人間が苦難に会うたら祈れ、一つだけ願いをかなえてあげる
と言い、
わしを街道筋へ祀ってほしい。街道筋なら遠州の人も本宮詣(熊野三山の一つ、熊野坐神社)の途次、線香の一つも立ててもらえるさか(筆者注:立てて貰えるから)
と言われたので、一願地蔵といい、昔の街道の榎木峠潮見峠の中程に祠をたてて祀っとった。今は旧街道がさびれたんで、この寺に祀っとる。
 願いをかなえてほしい時は、酒とからしを必ず持って参るんや。昔は遠うからも(筆者注:遠くからも)参ったよ。会式にゃ相撲もあってない(筆者注:あったのですよ)。賑やかで、一日に(筆者注:酒の)一合瓶250本から300本あがった(供えた)ぜ。
   [記録 中津

 

 

  • 上記で引用した福巖寺のWebサイトにあるように、「からし地蔵」の由来となった福巖寺第六世道機和尚は遠州静岡県龍泉院 呂庵和尚 の徒弟と伝えられている。この経緯については、田辺市と合併する前の中辺路町が編纂した「中辺路町」にも、「寛政年間遠州静岡県竜泉院の「呂庵和尚」の高弟「鉄凌道機和尚」がどんな因縁か西谷の福巖寺へ第六世として二十余年間在住し村人の信仰の対象となり親まれていた」とあるのみで詳細は不明である。ちなみに、ここに「竜泉院」とあるのはおそらく静岡市葵区にある「龍泉院」のことを指すと思われるが、同寺は、戦国時代から安土桃山時代にかけて今川義元に仕え、今川氏滅亡後は流浪の末徳川家康に臣従した武将・安部元真(あんべ もとざね 安倍大蔵(あべの おおくら)とも)が開基となった寺院である。同寺について、静岡市観光ガイドのWebサイトでは次のように解説されている。

龍泉院とは?
 静岡県静岡市葵区の北部井川地区の、「井川湖」を望む高台に位置し、町に時を告げている古刹で、1504年に井川の殿様と呼ばれ、今川家・徳川家に仕えた安倍大蔵元真が開基、賢窓常俊禅師により開創された曹洞宗寺院。かつては安倍大蔵の庇護のもと、9末寺を抱える寺院だったとされる。境内奥に、安倍大蔵の墓がある。

 

  • からし地蔵に酒とともに供えるとされる「からし」は、いわゆる唐辛子のことを指す。寺院参道手前の酒店では、清酒と唐辛子をセットにした「一願酒」が販売されている。

 

*****
本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。