生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

鼻そげ地蔵 ~本宮町(現田辺市本宮町)湯峰~

 いわゆる「身代り地蔵」話のひとつ。温泉谷の尾根を登った峠に、自然石に刻んだ二体の地蔵があり、左甚五郎にからんだ話が、いまなお語りつがれている。

 

 350年前。甚五郎本宮に泊り、毎日湯峰に通っていた。いつも、峠の地蔵さんの前で一服していたが、そのとき、弁当持ちの弟子が、師匠の仕事が一日も早く完成するように、と弁当の飯を一箸ずつつまんで供えていた。そのうち、飯が少ないことに気づいた甚五郎弟子が弁当を盗み食いしているものと思い込み、ある日、ささいなことを理由に、弟子の鼻をチョンナでそいでしまった。

 その日の夕方、仕事を終えた甚五郎は、さすがに手荒なせっかんをしたことを悔いながら峠にさしかかると、その地蔵さんの鼻が、ちょうどチョンナでそいだように欠けて、生々しい血が流れていたという。
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

鼻欠地蔵(鼻そげ地蔵)

 

  • 鼻そげ地蔵(近年は「鼻欠地蔵」の表記が一般的となっている)は、熊野古道大日越え湯の峰温泉熊野本宮大社とを結ぶ山越えルート)」の峠部分に位置する磨崖仏(まがいぶつ 自然石に刻まれた仏像)である。現地にある説明板には、隣接する「名号碑(みょうごうひ 「南無阿弥陀仏」の文字を刻んだ碑)」とあわせて次のような解説が記載されている。

大日峠の地蔵磨崖仏と六字名号碑(だいにちとうげ の じぞうまがいぶつ と ろくじみょうごうひ)
 巨岩に坐像と立像各1躰が刻まれた地蔵菩薩で、この地蔵には、江戸時代の彫刻師左甚五郎(ひだり じんごろう)が誤って鼻を削いだ弟子の身代わりになったとの伝説が残り、地元では「鼻欠地蔵」と呼ばれています。
 また傍らには、「南無阿弥陀仏」「興国3年(1342)」と彫られた六字名号碑が残されています。

 

  • この物語について、熊野路編さん委員会編「くまの文庫3 熊野中辺路伝説(下)(熊野中辺路刊行会 1972)」には次のように記載されている。

鼻そげ地蔵
 本宮、湯ノ峰間の道は、古来何度か改修されたが、湯ノ峰の温泉谷の右側の尾根を登る道が最古のものだといわれており、本宮大社の祭礼の前日、湯ごりを終えた神官が巫子や稚児を従えて通るのもこの道である。
 ところで、ここを登った峠に自然石に刻んだ二体の地蔵があり、左甚五郎にからんだ話が伝えられている。
 昔、甚五郎が本宮に泊って、弟子を従え毎日この峠を越えて湯ノ峰に通っていたが、峠の地蔵の前の石に腰を下して一ぷくするのが例であった。その際、弁当を持って従う弟子の一人が、師匠の仕事が一日も早くりっぱに完成することを願って、いつも弁当から一箸ずつ地蔵に供えていた
 甚五郎ははじめそんなことは知らなかったが、毎日のことなので、気づかずにはすまされない。とうとう甚五郎の知るところとなり、これはてっきり、弟子が師匠の弁当を盗み食いしているものと思い、ある日、些細なことを理由に、弁当持ちの弟子の鼻をチョンナ(筆者注:釿(ちょうな)のこと。手斧ともいい、木材を荒削りするために用いる道具。)でそいで懲らした。弟子はその場から血まみれのまま逃げ去った。
 その日の夕方、仕事を終えた甚五郎は、さすがに手荒な折檻をしたことを心に悔いながら、心重く峠にさしかかり、いつも一ぷくする地蔵の前を通ると、その地蔵の鼻が、ちょうどチョンナでそいだように欠けて、生々しい血が流れていたという。

 

  • 和歌山県民話の会編「熊野・本宮の民話和歌山県民話の会 1981)」には、住民による語りとして、次の三篇の話が収載されている。最初の話では、鼻を削がれた弟子というのは地蔵が身代わりとして変化(変身)した姿であり、実際には弟子はその場におらず、鼻を削がれることも無かったとしている。また、二つ目の話では、鼻を削いだのは大工の棟梁であるとし、左甚五郎の名前は登場しない。三つ目の話では、甚五郎は弟子の顔を殴っただけで削ぎ落としておらず、地蔵は弘法大師空海)作であるとの伝承が加わっている。

鼻そげ地蔵(一)
 左甚五郎が本宮に泊って湯峰の建物をするため、弟子を連れて山越えをして通って居た。いつも峠のお地蔵様で一ぷくするのが常でした。弟子の一人は、弁当の御飯を一箸供えていたが棟梁の甚五郎は一向にそれを知らなかった。
 ある時、棟梁より弟子が遅れて山越えをした。昼飯を食おうと思って棟梁が弟子の持ってきた弁当箱を開いて見ると、少し減っていたので、これはてっきり
弟子の野郎、俺より先に食ったにちがいない。一つ弟子をこらしめてやらねば、
と思い、腹立ちまぎれに、チョンナで弟子の鼻をそいでやったところ、弟子は血まみれになって宿へ逃げ帰った。棟梁は仕事を終えて宿へ帰る途中、いつもの峠のお地蔵様の鼻を見るとはなしに見たら、ぽっかりと鼻が欠けているではないか。
これは、不思議だ。
と思って宿へ帰り、弟子を見ると、なんと弟子はぴんぴんしているではないか。棟梁は、弟子に、今までのてん末を話したところ、弟子のいわく、
用が出来、困っていた所、行者が来て、『湯峰の甚五郎棟梁の仕事場へ行くのだが、用はないか。』と尋ねてくれた。そこで、弁当をおたのみした。」
と、
あの時は、確かにお前が来たと思ったのに・・・・・。
 棟梁はよくよく思い出してみると、弟子は峠を通るたびいつも自分の弁当から、一箸供えていたのでお地蔵様が、身代わりとなって自分を戒めたのだと悟り、以後、弟子を大事にし、神仏も信仰する様になった
 その件以来、大日山の峠のお地蔵様は、鼻そげ地蔵と呼ばれるようになったということである。
   [話者・岡本喜次郎(渡瀬) 記録・小路

 

鼻そげ地蔵(二)
 むかし大工の棟梁が一人の弟子をつれて、本宮からこの湯の峯に仕事に来ていた。
 いつも峠の地蔵さんの前まで来ると弟子は、弁当のおにぎりを一つそなえていたのだ。
 昼になり弁当を食べようとすると、弁当がないのです。棟梁は弟子に
お前、わしの弁当を食ったなあ。
といっておこり、チョンナーという道具で弟子の鼻をそいでしまった。
 ところが家に帰ってみると、弟子の鼻はそのままきれいについているのです。棟梁は、
こりやおかしい、そいだ鼻が弟子の顔についているとは?
と思いながら峠の地蔵さんをみたら、地蔵さんの鼻がないのです。そのうえ血がたらたらと流れていた。
   [話者・仲田幸一(湯峯) 記録・前山

 

鼻かけ地蔵
 本宮大社の修理に左甚五郎がきたそうな、弟子を連れて。ところが朝弟子に持たせてきた弁当を昼に食べようと開いて見ると、誰かが、ちょっと食べているんやそうです。それが毎日続くので、これはてっきり弟子が食べるんだろうと思って、ある日弟子の顔を思い切りなぐって叱ったんです。そこで弟子は、実は師匠の仕事が立派に完成するようにと毎朝来る道に祀っている湯峯の地蔵さんに少し取って供えいるといったそうです。
 その日、仕事の帰りに、その地蔵さんを見ると鼻がかけていたていいますよ。
 この地蔵さんは弘法大師がつくったという。
   [話者・玉置梅子(湯峯)  記録・中津

 

  • 左甚五郎(ひだり じんごろう 生没年不詳)は、江戸時代に活躍したと伝えられる彫刻職人。代表的な作品としては「日光東照宮の眠り猫」が良く知られているが、これ以外にも左甚五郎作と言われる作品は全国各地に100点近く存在する。しかしながら、その制作時期は安土桃山時代から江戸時代後期まで300年にもわたっており、一人の制作者によるものとは到底考えられない。このため、複数の職人が左甚五郎の名前を用いた、あるいは左甚五郎の名前が伝説化したことにより優れた作品の多くに左甚五郎の伝承が付け加えられた、などとも言われている。左甚五郎について、「朝日日本歴史人物事典朝日新聞出版)」では次のように解説している。

左甚五郎
 江戸時代に彫物の名手として知られた人物で,日光東照宮の眠り猫,東京上野東照宮の竜など,甚五郎の作品と伝えられる彫物は全国に多数存在する。黒川道祐の『遠碧軒記』(1675)によると,「左の甚五郎と云もの」が「左の手にて細工を上手に」し,京都の北野神社の透彫豊国神社の竜の彫物を作ったという。この当時すでに甚五郎に関する伝承があったことを示すが,左は姓ではなく左手を示したこともわかる。四国高松の生駒家の分限帳(寛永10<1633>年,同16年の2種)に大工頭の甚五郎の名があり,その墓とされるものも現存するが,墓は古いものではない。いずれにせよ甚五郎は伝承上の人物で,庶民の間に生まれた英雄伝説の一種と考えるべきである。江戸中期以降,神社や寺院に彫物を多用することが流行し,これが伝説と結び付いたのであろう。
西和夫
左甚五郎とは - コトバンク

 

  • 左甚五郎には、紀伊国根来(現在の岩出市の出身であるとの伝承もある。これについて、和歌山県が発行する「和歌山県総合情報誌 和-nagomi- Vol.29(平成28年3月4日発行)」では次のように解説している。

左甚五郎
 日光東照宮の眠り猫をはじめ、知恩院の忘れ傘など、江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。紀伊国根来に生まれたともいわれ、加太春日神社や粉河寺にその彫刻が残されている紀州東照宮の社殿欄間中央には、家康が鷹狩りを好んだことから、左甚五郎作と伝わる鷹が雉子を捕らえている彫刻が施されている。
[Art of Wakayama]左甚五郎

 

  • 湯の峰には左甚五郎の伝承を有する作品は存在しないが、熊野地方でみれば熊野速玉大社新宮市の神門にある欄間が左甚五郎作とも言われているようである(詳細は不詳)。

 

  • 鼻かけ地蔵」という名称の伝承は他の地域にもあるが、由緒はそれぞれ異なっている。比較的有名なものとして、兵庫県城崎温泉に伝わる「鼻かけ地蔵」の伝承と、横浜市金沢区に伝わる「鼻欠地蔵」の伝承を紹介しておく。

豊岡・但馬の民話昔ばなし
鼻かけ地蔵
 城崎温泉駅から円山川をはさんでちょうど向こう岸側に、楽々浦(さきうら)という、普通の川では珍しい大きな入江になった場所があります。そこには、「まんが日本昔ばなし」でも紹介された、鼻のないお地蔵様「鼻かけ地蔵」が奉られています。
 昔々、この地に住んでいた漁師の夢にお地蔵様が現れ
私はもう大変長い間、この楽々浦の川底に沈んでいる。苦しくて仕方が無いので、是非お前の力で引き上げて欲しい
と言われました。漁師は不思議な夢もあるものだ、と思いながらその日も漁に出掛けました。

 そして川に網を投げると、いつもの倍もの魚が網から溢れそうな位入っているではありませんか。やっと網を引き揚げ、再び網を投げると、また同じ様に普段の倍ほどの魚が獲れました。そして3度目にまた網を投げ、引き揚げようとすると、今度は今までと手応えが違います。やっとの思いで網を引き揚げて見るとそこには夢に出て来た通りのお地蔵様が入っていました。
 漁師は夢のお告げが本当だったことを知り、早速川のそばにある木の下にお地蔵様をお祀りしました。すると何とお地蔵様の鼻の穴からボロボロと米粒がこぼれて来るではありませんか。一日中出て来るのでお地蔵様の首に箱を掛けておきました。
 漁師は溜まったお米を村の人々にも分けて、お地蔵様を大切にしていました。ところがある日、漁師は
お地蔵様の鼻の穴をもっと大きくすれば、ザーっとお米が出て来るのではないか
と考え、家からノミと槌を持ち出し、お地蔵様の鼻の穴を大きくしようとしました。

 ところが手元が狂い、あっと思った時にはお地蔵様の鼻は欠けて無くなってしまいました。鼻のかけたお地蔵様からは、再びお米粒が出て来ることもなくなってしまいました
 今では、一つだけお願いごとをすると、一つだけ叶えてくれるお地蔵様にとして、地域の人々はもちろん、観光客の方々からも愛されています。

鼻かけ地蔵|ホテル金波楼【公式】|

 

風化した鼻欠地蔵 (大道町内会Webサイト)
 環状四号線の大道中学校に入る道の左側に摩崖仏があります。この岩に彫られた風化したお地蔵さんは鼻欠地蔵と言い、相州(鎌倉)武州(金沢)の境に作られました。双方の土地争いの仲裁役として建立されたのですが、争いがなかなか絶えないのでお地蔵さんが見せしめに、自ら立派な鼻を欠いてしまったと言い伝えられています。
 今は、風化してしまって原型をとどめていませんが、江戸名所図会には、優しいお顔のお地蔵さんの絵が残っています。旅人が二人で、お地蔵さんに向かって話をしている様子が描かれています。旅の安全をお願いしているのかもしれません。山から降りてくる人、荷物を背負った農家の人なども描かれています。絵図には鼻缺地蔵(はなかけじぞう)と書いてあります。
 前方に流れる川は、侍従川です。鼻欠地蔵の前は、当時は、かなり広かったようです。1944(昭和19)年に相武隧道が開通して大船との交通が利便となり、この辺りの地形は大きく変わりました。昔の人たちは、ここを「地蔵の前」と呼んでいました。(2月14日 廣瀬)
▶風化した鼻欠地蔵 | 大道町内会ホームページ

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。