生石高原の麓から

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和泉式部の供養塔 ~本宮町(現田辺市本宮町)伏拝~

 なだらかな茶畑がひろがる丘陵地。その一段高いところに、伏拝(ふしおがみ)王子の祠。そして、かたわらには、笠塔婆の上に宝篋印塔の塔身とフタを積み上げた、一風変わった石碑もある。平安中期、熊野へ詣でた和泉式部の供養塔という。

 

 都からはるばるやってきた式部は、最後の休けい地「神向山」に着くころ、月の障りとなった。けがれた身での参拝はできない、とここから熊野を伏し拝んだ式部だったが、その夜の夢枕に現われた熊野権現

 「もろともに 塵にまじわる神なれば 月の障りも何か苦しき

とのお告げで、無事、参ることができたというのが、そのお話。

 

 伏拝の地名もここから起こったのだというが、これは時宗念仏聖たちが「熊野権現は女人の不浄をも嫌わない、広大無辺な神」だという思想を広めるため、有名な式部をかつぎ出したのだ・・・とする説が強いようだ。

 

(メモ:伏拝王子社は、国道168号線の竹の本バス停から西へ、三越川ぞいに約1キロ、一帯は「音無茶(おとなしちゃ)」の産地。)
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

伏拝王子跡 左が和泉式部供養塔、右が伏拝王子祠、奥に和泉式部の和歌を書いた標柱がある

 

 

  • 和泉式部は、まれにみる美貌と歌才の持ち主であったと言われ、恋多き女として華やかな恋愛遍歴が喧伝された。中でも、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛や、同親王の没後に生じた親王の同母弟・敦道親王との愛人関係・正妻との確執は大いに世間の耳目を集めたようである。同時代に活躍した紫式部(むらさき しきぶ 源氏物語の作者)は、自らの日記(通称「紫式部日記」と呼ばれる)の中で、和泉式部の才能は評価しつつもその派手な恋愛遍歴に対して「けしからぬ方と厳しい意見を述べている。これについて、木戸幹夫氏は「紫式部における女性像広島大学教育学部光葉会「国語教育研究 26上号」 1980)」で次のように紹介している。

同僚の才女「和泉式部」への褒貶
   -仮借なき評家の立場
 和泉式部の「文」や和歌に対しては、式部は一目置いていたらしいことが次の文章でわかる。しかし、一つ褒めては一つ貶すという形をくり返し、通算九項目の事柄の批評をする内で、褒めているのが四つ貶しているのが五つという結果になっている。

 

和泉式部という人こそ、おもしろう書きかはしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、その才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、かたのことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ。<以下略>   (日記)

 

 このあとは、「さらりとした歌に一点良い所があるが、それでも他人の歌の批評を見ると本当の歌の道はわかっていない。」そしてまた、「労せずして口から自然に出てくるような詠みぶりだ。」と言い、最後には、「恥づかしげの歌よみやとはおぼえず。」と冷淡に突き放してしまうのである。公開を予期した日記文としては実に大胆というべきである。和泉式部紫式部とでは、紫式部の方が早く中宮彰子に仕え、和泉式部がおくれて宮仕えに出たころには、この日記は既に成立していたものと思われる。従ってこの文章には和泉に対する同僚意識はないかもしれないが、後日の添削はできたはずだ。


 紫式部は自分とは尽く対照的な面を持つ和泉式部に対して、かなり異質なもの異和の感覚を覚えたようである。「おもしろう書きかはしける。」も、素直にほめたのではなく、奔放な恋愛による男性遍歴における手紙の贈答を指した上の、皮肉な評価なのかもしれない。「和泉はけしからぬかたこそあれ。」がこのことを述べていると思われる。即ち、橘道貞為尊親王敦道親王と次々に男性を遍歴しているのがそれであろう。前章で述べたごとく、自ら律する生き方を求め、現世の無常を知る紫式部にあって、和泉式部の生き方は、まことに「けしからぬ方」なのであり、認めがたいものであったはずである。


 しかしながら、和泉式部の才能が並々でないことは事実であり、「口にまかせたる言(こと)どもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみそへ侍り。」と褒めるのである。

 

 このようにして結局は冷淡な突き放しで終わるということを考えると、前節の清少納言に通じる才女への対抗意識に加えて、一種独特な異和感が、仮借なき評家としての筆をふるわしめたものと考えられる。
紫式部における女性像 - 国語教育研究 26上号 - 学内刊行物 - 広島大学 学術情報リポジトリ 

 

  • 本文の物語については、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「伏拝村」の項に次のような記述がある。

和泉式部供養塔
村中街道の傍にあり
伝え言う
昔 和泉式部 熊野詣
月事の穢を憚(はばか)りて奉幣せず
此所にて遥拝し 空しく帰らんとせしに
其夜霊夢ありて 参詣する事を得たり
故に 後年供養の為に
石塔一基を建たりという
碑面には文字なし続千載集※1

  もろともに塵にまじはる神なれば
    月のさはりぞ何かくるしき※2

左駐に 是は和泉式部熊野へもうでたりけるに
さわり(障り)して奉幣かなわざりけるに

  晴れやらぬ身の浮雲の棚引きて
    月のさわりとなるぞかなしき

とよみてねたりける夜の夢に
告させ給いけるとなんとあり

※筆者注1、注2:「紀伊風土記」には「続千載集」に「もろともに塵にまじはる神なれば 月のさはりぞ何かくるしき」という歌が掲載されているとするが、下記の「本宮町史」の記述にあるように、「風雅和歌集」に「もとよりも塵に交はる神なれば 月の障りもなにか苦しき」という歌が掲載されているとするのが正しいようである。

 

  • この物語について、旧本宮町が編纂した「本宮町史」では、「和泉式部の参詣伝説」という項を設けて詳細に論じているので、その一部を下記に引用する。ここでは、国学者本居宣長(1730 - 1801)民俗学者柳田国男1875 - 1962)がこの伝説について「和光同塵(わこうどうじん 仏や菩薩が仏教の教えを受け入れない人々を救済するために、本来の姿を隠して汚れた俗世に現れること)」という仏教の教えの影響を強く受けたものであると指摘していること、また、柳田国男和泉式部・熊野の神が詠んだとされる二首の和歌はいずれも偽作であり、この伝説そのものが時宗の関係者により創作されたものであると断定していること、などを紹介している。

和泉式部の参詣伝説
 和泉式部が熊野参詣の途中、生理が始まった。女性の生理を穢れとして忌み嫌う時代のことなので、神前に参拝することはできない。せっかく参詣に来て、月の障りとなって晴れやらぬ身が悲しいと歌に詠むと、その夜の夢に、本来、神は衆生を救うため俗塵に交わるものであるから、月の障りなどなんら苦になるものではないという熊野の神のお告げを得た。これは貞和5年(南朝正平4年、1349)ごろ成立の17番目の勅撰集「風雅和歌集」巻19 神祇の部に、

 

もとよりも塵に交はる神なれば 月の障りもなにか苦しき
是は、和泉式部、熊野へ詣でたりけるに、障りにて奉幣かなはざりけるに「晴れやらぬ 身のうきくもの たなびきて 月の障りと なるぞ悲しき」と詠みて寝たりける夜の夢に、告げさせ給ひけるとなむ。

 

とある。

 和泉式部は、平安時代前期の女流歌人で、貞元2年(977)ごろ誕生、宮中に宮仕えて、橘道貞と結婚。女房名の和泉式部は夫道貞が和泉守であったことによる。二人の間には、やはり女流歌人である小式部が生まれた。離婚の後、為尊親王やその弟敦道親王との熱烈な恋愛は「和泉式部日記」に見える。親王たちの死後、藤原保昌と再婚。保呂は長元9年(1036)に没するが、その後の和泉式部の没年は不明である。こうした和泉式部の実像に対し、伝承ははなはだ多く、全国に広がり、内容も多岐にわたって豊富である

 

 和泉式部の熊野参詣伝説は古くから、熊野信仰が一般的に広く女性にも開放されていたこと、庶民的性格であることを示すものとされてきた。しかし外来思想を嫌う本居宣長は、この霊夢の歌を、

 

この和泉式部なども、法師の云ふことのみ、つねに聞きなれて、仏意(ほとけごころ)の心に染(そ)みつきたりしより、さる夢をも見たるこそ有けめ。神はいかでかかる御心ならん。塵に交はるなどいふことも唐文(からぶみ)老子といふに、和光同塵といへることのあるをとりていひ出でたる乱りごとにこそあれ、さらに神の御上(うへ)になきことなり。

 

と説く(『玉勝間』巻二 本居宣長全集第一巻)。宣長和泉式部と熊野の神の歌そのものは否定していない。仏教思想に染まった和泉式部を、いや仏教伝来以来の日本文化を否定しているのである。それに対し、民俗学者柳田国男和泉式部と熊野の神の歌について、

 

この二つの歌は二つとも、作者の名誉の為に是非否定せねばならぬほど粗末な歌であります。最も手短にをかしい点を申しますと、はれやらぬ身といふことは意味を為さず、浮雲のたなびくといふことはありませぬ。又神歌と称する方は、所謂和光同塵の意を託したのでせうが、本来の関係があやしい上に、差支が無いといふことを苦しからず謂ったのは、神にふさはぬ中代の俗語でありました。従って二首ともに偽作といふことになり、歌は偽作で事柄だけが真実とは、有り得ないのであります

 

と延べ、これが勅撰集「風雅和歌集」に載せられたのは霊夢の奇譚を伝える者が京都に多かった。それは「熊野信仰と結び付けようとした一遍の門徒ではなかったかと思ひます」と論じる(「女性と民間伝承」柳田国男全集6)。


時宗和泉式部の伝承
 一遍門徒、つまり時宗時衆)は熊野と深くかかわりをもつ。

(略 別項「一遍上人名号岩」参照)

 女性の生理は不浄なるもの、赤の穢れとして忌み嫌われた。次に述べるように(本項では省略 別項「湯峰と小粟判官 」参照 )、餓鬼阿弥となった小栗判官も熊野に参詣するのであるが、餓鬼は餓鬼病、ハンセン病のこと、これも科学の発達していない時代には黒の穢れとして嫌われ恐れられた。しかし一遍の教えは浄不浄を嫌わず、ひとしく受け入れ、ひとしく賦算(筆者注:念仏の書かれた木札を配ること)した和泉式部の参詣伝説も小栗判官・照手姫物語も浄不浄を嫌わない時宗の教えを説く説話として広く伝えられたというのである。
(以下略)

 

  • また、「本宮町史」では、和泉式部の供養塔伏拝王子にあることについても検討を行っているが、享保6年(1721)の資料では和泉式部は舟で本宮・新宮に参詣しようとしていたと記載されていることから、伏拝王子でこの歌が詠まれたとするのは「ふさわしくない」としている。

和泉式部の伝承地
 和泉式部の伝承地は、熊野詣の九十九王子の一つ、伏拝王子跡にある。伏拝王子は、熊野本宮の聖域を示す大鳥居のあった発心門王子とそれに次ぐ水呑王子の次の王子で、重なる山々谷間には明治22年(1889)の大水害まで熊野本宮大社の旧社殿があった大斎原(おおゆのはら)が眼下に見える。まさに伏し拝みの名にふさわしい景勝地である。伏拝王子跡の石祠に並んで和泉式部の供養塔と称する石塔一基が建っている。
 ところが享保6年(1721)成立の「熊野草創由来雑集抄」(「神道大系」神社編四三熊野三山)には、

 

霊夢桜之事
和泉式部熊野に詣で待るに、或時、舟にて月水のかなしび侍りければ、大島居のわき桜の下に終夜して、
  晴やらぬ身の浮雲のかさなりて月のさはりとなるぞくるしき
御詑(託)宣
  本よりも塵にまじはる神なれば月のさはりも何かくるしき
是により鳥居の傍(カタハラ)にしけれる木を霊夢となん今にいゝ伝へ侍りぬ。近比迄、古木の根ばかり残れるよしなり。また伝へ聞、和泉式部十八歳の時、熊野へ詣でけるに月水のさはり待りてかなしみぬ。折しも桜の花のさかりなりければ、
  さくら木の昔の春を忘れざる板になりても花や咲らん
この義有る古跡も侍れば、今こゝにしるす者歟。

 

とある。舟とあるので、熊野川から本宮または新宮に参詣しようとしているので、伏拝王子のような山中の伝承地ではふさわしくない。なお、くまの文庫7「熊野中辺路 詩歌」には、「さくら木の昔のはるを・・・」と詠んだのは「和泉式部80歳の時」とある。生理学的には18歳がふさわしい であろうが、「板になりても」とあるので、歌意としては80歳のほうが正しいと思われる。

 

  • 和泉式部については、全国各地にさまざまな伝承が残されている。その代表的なものとして、Wikipediaには次のような伝承が掲載されている。

和泉式部 - Wikipedia

  • 民俗学者柳田国男は、これらの和泉式部伝説について、京都の誓願寺京都市中京区)を拠点として活動していた熊野比丘尼などの女性遊行者(各地を渡り歩いて宗教を広める活動をする者)との関係を指摘している。誓願寺は、古くから遊行者の集まる場所であり、全国から来た遊行者が各地の伝承をそれぞれに伝え合ったり、大衆にわかりやすく面白く説教を伝えるために話芸を磨いたりする活動が盛んであった。現在でも同寺は「芸道上達の寺」、「落語発祥の寺」として特に芸能関係者の信仰を広く集めている。
  • 能楽研究者、東京大学名誉教授の松岡心平氏は、「女人の穢れを許容する時宗と能(「銕仙 研究十二月往来 326」(銕仙会 2014)」において上記の柳田国男による考察について次のように記している。ここで紹介されている「和泉式部小野小町)が瘡を患った」というエピソードが、本文の「和泉式部が月の障りとなった」という話と類似した構造を有していることは非常に興味深い。

女人の穢れを許容する時宗と能 
 柳田国男の『女性と民間伝承』には、和泉式部あるいは小野小町が瘡(かさ ハンセン病・梅毒などの皮膚病)をわずらい、

   南無薬師諸病疾除の願立てて
     身より仏の名こそ惜しけれ

という歌を詠むと、薬師如来が、

   村雨はただひとときのものぞかし
     おのがみのかさそこに脱ぎおけ

と、夢の中で返歌し、皮膚病がたちまち直った、という話がみえる。もちろん「みのかさ」には、「身の瘡」と「蓑笠」の二重の意味が込められている。

 柳田は、このような伝承の全国伝播の担い手として熊野比丘尼比丘尼)をあげ、彼女たちのたまり場が、室町時代時宗化した京都の誓願寺であったと推測している。この柳田の考えをもとにすれば、熊野帰りの一遍上人誓願寺で念仏札を配っているところへ和泉式部の亡霊があらわれ、札をもらって舞を舞うという能「誓願寺」の背景が理解できるだろう。
研究十二月往来 | 銕仙会 アーカイブ

 

ふしおがみ 伏拝 <本宮町>
熊野川中流右岸、同川支流三越下流域に位置する。地名について、「風土記」に「和泉式部此処にて本宮を伏拝しより此の名起こるといふ」とあるが、中辺路を通って参拝する際、ここではじめて本宮を遠望することができるので、この地から本宮を伏し拝んだことに由来すると思われる

 

  • 本文には「最後の休けい地「神向山」に着くころ」との記述があるが、これについての詳細は不明。伏拝地区にある曹洞宗の寺院「福寿院」の山号が「神向山」であるため、この寺院を指すものか。寺院の山号はしばしば同地にある山の名称になっていることがあるので、この地にある山をさして通称「神向山」と呼ぶ可能性もある。いずれにせよ、現在の一般的な熊野古道ルートでは、「神向山」を休憩地と位置づけているものはない。

 


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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。