すっかり整備された国道311号線が、渡瀬のトンネルを過ぎると、とたんに九十九析れとなる。それを下りきったあたり、四村川の流れが、つかず離れずといった形で流れ下る。心なしか、湯の香が漂ってくる。そんな思いで握るハンドルは、軽い。
湯けむりが立ちこめる「湯峰温泉」は、静かな山峡にふさわしく、いかにも、ひなびた風情をみせる。二世紀初頭、熊野国造、大阿斗足尼(おおあとたじのすくね)が発見した日本最古の温泉といわれ、平安朝以来、熊野詣での人々の湯垢離(ゆごり)場として広く知られるようになった。いま国民保養温泉。
古い温泉地らしく伝説が多いが、その代表はやはり、小栗判官助重と照手姫にまつわる話だろう。
判官は、知勇兼備の将といわれた常陸小栗の城主、孫五郎満重の子。応永30年(1423)、満重が関東管領・足利持氏に攻められて自害したため、三河へ落ちのびたが、途中の藤沢近くで強盗に毒酒を盛られ、全身マヒの重傷を負った。不治の病いと思われたが、夢の中で「熊野の湯に入れば全快する」との神のお告げがあり、その時、酒場にいた遊女、照手に助けられて湯峰温泉にたどりつき、一日七回、湯の色が変わるというツボ湯に入って全快。その後、罪を許されて小栗に帰り、照手と平和に暮らした。照手は判官の死後、遊行上人の戒を受けて仏門に入った。長生比法尼と名乗り、判官自作の像に毎日礼拝する信仰の生活を続けたという。
その旧跡、藤沢山の長生院は遊行寺の一院となっており、遊行寺には二人の法楽歌
うち向う 心のかがみ曇らすは げにみ熊野の神や守らむ 助重
世のうさを 身にしづますはついにこの 仏の道もしらですくらむ 長生法尼
も残されている。
判官が、照手姫の引く車に乗り、大阪から熊野へ通じる熊野街道を通ったということから、この道を、「小粟街道」ともいい、その道中には判官に関する話がいくつか残る。また湯峰には判官が湯治に使ったというツボ湯のほか、乗ってきた車を埋めたという「車塚」、全快後、力を試したという「力石」、髪を結んだワラを捨てたところ、自然に稲になり、年々モミをまかなくとも米がとれる「まかずの田」など、二人にまつわる旧跡も多い。
もっとも、判官が本当にこの地へ来たか、となると、実証はむずかしい。
小粟判官は、後小松天皇(14世紀末)から仁孝天皇(19世紀中期)にかけての、各地の事跡を記した「大日本野史」(野史=1851年完成)などにも出ている実在の人物。だが、湯峰温泉へ来たというのは、近松門左衛門(1653~1724年)の「当流小栗判官」あたりから出はじめた説だという。
にもかかわらず、いま、湯峰を語るとき、判官を抜きにして語ることはできない。それほどまでに、湯峰と判官を結びつけた背景には、一体どんなものがあったのだろうか。
湯峰といえば、熊野本宮へは、あとひと息の地。ただひたすら、熊野の聖地をめざして、長くけわしい道を歩み続けた人々は、ここまできて恐らくほっとしたに違いない。こんこんと湧き出る熱い湯にひたって、旅の汚れを落し、気持も新たに、大社へ向かったことだろう。そこには、聖地への湯垢離場としての、ある種の雰囲気があったのではないだろうか。
そしてここの湯は、関節痛、神経痛、りゆうまち、皮ふ病などに効くという。古くは湯宿、いまは民宿に長逗留して、いわゆる「湯治」を続けるお年寄りが多い。
さらに「湯の谷川」の名そのままに、無数の泉源から噴きだす温泉が流れとなる川。山はだから人家までもをおおいつくす、白い湯煙。そうした湯の効能と、一種独特の静かなたたずまいが、山狭にふさわしい物語を生みだしたのではないのだろうか。
かつて、白装東に身を包んだ人たちが行き来し、たたずんだこの地に、いま、軽装の若者の姿が多い。そこには華やいだ雰囲気はない。静かに判官の遺跡を訪ね、歴史にとけ込もうとするかのようなところにも、湯峰の持つ特異なムードがある。
(メモ:311号線の渡瀬のトンネルを出て下りきったところが、渡瀬温泉。ここを過ぎて道を左へとると湯峰、右へ行けば、広い川原のどこからでも湯が湧き出る川湯温泉。渡瀬から両温泉までは、車でそれぞれ5分前後。311号線の国鉄バス本宮駅前から168号線へ入ると本宮大社。三つの温泉と大社を巡る循環バスがある。)
- 一般的に「小栗判官(おぐり はんがん/ほうがん 作品名としては、「おくり」「をぐり」など様々な表記がある)」と呼ばれるこの物語は、中世にはじまった「語りもの」の芸能として全国に広く流布された。仏教の教えを民衆に広く伝えることを主目的とした「語りもの」芸能を特に「説教節」と呼ぶが、「小栗判官」は「甦りの地」としての熊野の霊力を強くアピールするものとなっており、高野山ゆかりの「苅萱(かるかや)」、安寿と厨子王の物語として知られる「山椒大夫(さんしょうだゆう)」などとともに説教節の代表作とされている。
- 「小栗判官」は、京、常陸(茨城県)、相模(神奈川県)、美濃(岐阜県)、熊野(和歌山県)など広い地域を舞台とするスケールの大きな物語であるとともに、一旦は毒殺された小栗判官が熊野の「湯の峰」の湯につかって甦(よみがえ)り、両親や妻と再会するという、「死と再生」の物語でもある。ストーリーも多岐にわたり、多様な解釈が可能であることから説教節以外にも浄瑠璃や歌舞伎などの人気演目となっていて、現代でも、市川猿之助による「スーパー歌舞伎 オグリ(初演1991)」や、宝塚歌劇団花組公演「オグリ! 〜小栗判官物語より〜(2009)」など、様々なジャンルで演じ続けられている。
スーパー歌舞伎 オグリ - Wikipedia
- この物語には時代や地域、演目によって多くのバリエーションがあり、また、各地に小栗判官にまつわる様々な伝承が伝わっていることから、一つのストーリーとして紹介することは難しいものの、大筋としては、「毒殺された小栗判官が、閻魔大王(えんま だいおう)の計らいで餓鬼阿弥(がきあみ)の姿となって地上に戻され、それとは知らぬ照手姫や各地の人々の助けを得て熊野に至り、湯の峰温泉で湯治することで元の姿を取り戻して、後に照手姫と結ばれる」という流れになっている。
- 本文では、小栗判官が湯峰温泉へ来たという話のおこりを近松門左衛門の頃ではないかとしているが、瀬田勝哉氏の「 説経『をくり』の離陸 : 「引く物語」は何を語るか(武蔵大学人文学会雑誌 「The Journal of Human and Cultural Sciences」 2009年度・第41巻 第2号)」によれば、 寛永初年(1624 )に成立したと考えられている「古活字版丹緑本をくり」には既に湯の峯の名が出ていることから、近松(1653~1724)以前から湯峰温泉がこの物語に登場していたことは間違いないようである。
Musashi Academy of the Nezu Foundation Institutional Repository: 説経『をくり』の離陸 : 「引く物語」は何を語るか
- この物語が成立した経緯については明確になっていないが、日本中世史学者の松尾剛次氏は「説経節『小栗判官』成立再考(国文学研究資料館「国際日本文学研究集会会議録 24号」 2001)」において、戦国時代初期に成立した歴史書・軍記物である「鎌倉大草紙」を原型とする説、常陸小栗を拠点とする遊行巫女が語った話が藤沢(現在の神奈川県藤沢市)の清浄光寺(通称「遊行寺」)で発展し、後に青墓(おうはか/あおはか 現在の岐阜県大垣市)の念仏比丘尼が完成させたとする説などを紹介した上で、清浄光寺第14世太空上人(遊行上人14世在職 1412 - 1417、藤沢上人8世在職 1417-1439)が同寺の再建勧進のために生み出したものではないかとの説を展開している。また、同じく原型の一つと想定されている清浄光寺の長生院の「小栗略縁起」は、小栗を太空上人が助ける話であることから、上人の遊行寺再興勧進に際して喧伝された話が藤沢を中心にして物語的成長を遂げたものであろうとしている。
参考
国文学研究資料館学術情報リポジトリ
小栗判官 - Wikipedia
- 本文で語られている小栗判官の物語は、上述の松尾剛次氏の著作に登場する清浄光寺長生院に伝わる「小栗略縁起」(詳細はWikipedia「小栗判官」を参照されたい)を下敷きにしたものと考えられる。しかしながら、同氏によればこの縁起はやや後代に成立したものであるとされていることから、より原典に近いであろう説教節の物語をWebサイトの情報をもとに紹介する。
京の二条大納言兼家には子がなかったため、鞍馬の毘沙門天に子授けの祈願をしたところ、男の子が生まれた。やがて18歳になると、この子は小栗と名付けられた。
小栗は幼少の頃から聡明であったが、不調(ぶちょう 変わり者)であったため妻を娶ろうとしなかった。ところが、ある時、小栗の横笛を聞いた深泥池(みぞろがいけ 現在の京都府京都市北区)の大蛇が小栗に恋慕し、美女に化身して近づいたところ、小栗はこれを大変気に入り、夜な夜な契をかわすことになった。
これを知った父・兼家はたいそう怒り、京から追放することにした。最初は壱岐・対馬へ流そうとしたが、母の懇願により、母の知行地である常陸国(ひたちのくに)へ送ることになった。
常陸国で暮らすことになった小栗のもとに、ある日、後藤と名乗る行商人が訪れた。その商人から全国の話を聞いていたとき、小栗の家臣が
「小栗殿にふさわしい妻となるべき人を知らないか」
と尋ねたところ、
「武蔵、相模、両国の郡代(統轄者)である横山という者の娘に照手(てるて)という素晴らしい姫がいる」
との答えがあった。
すぐに乗り気になった小栗が、後藤に
「仲人をせよ。想いが叶った際には褒美を与える。」
と命じたところ、後藤は照手姫にあてて手紙を書けという。小栗の手紙を預かった後藤は、一計を案じてその手紙を照手姫に読ませることに成功した。最初は怒った照手姫であるが、後藤の一言により心を入れ替えて
「細谷川に、丸木橋の、その下で、ふみ、落ち合ふべき」
と書いた返事を後藤にことづけた。
この返事を見た小栗は、
「これはつまり、一家の者は知らないが、姫一人は了承したということだ。急いで婿いりすべし。」
と喜び、すぐさま家臣10人を引き連れて横山の屋敷に向かった。
小栗の来訪を知った横山の父は、五人の息子を集めて話し合った。
嫡子のいへつぐは、
「あの小栗という者は天から降った人の子孫といい、力は強く、荒馬にも乗る名人と聞きます。戦をしても簡単に討ち取れるような者ではありません。婿に取るよりほかに手はないいでしょう。」
と言ったが、父はこれに納得せず、
「失せろ」
と追いやってしまった。
これに対して三男の三郎は、
「私に計画があります。まずは婿と舅の顔合わせとして宴を開きます。興が乗ってきたら、父上が「余興として、乗馬の腕を見せてくだされ」と言って、例の鬼鹿毛(おにかげ)という人を喰らう馬の前に連れていくのです。鬼鹿毛はいつものように餌がやってきたと思って、小栗を喰い殺してしまうでしょう。」
と答えた。喜んだ横山は早速この計略を実行に移した。
計画どおりに宴が始まり、いよいよ小栗が鬼鹿毛の前にやってきた。なんと、そのまわりには鬼鹿毛が喰い殺した人の死骨白骨、黒髪が無造作に散らばっているではないか。小栗の家臣たちは、
「あの馬が小栗さまに危害を加えようとすれば、畜生とて許さない。鬼鹿毛の首を切り取って、横山の侍どもと切り結んでご覧に入れます。」
と気色ばんだが、小栗は
「あのような大剛な馬は、力業だけでは乗れるものではない。」
と言い、馬に近づいて話しかけた。
「いかに鬼鹿毛よ。汝も生ある者ならばよく聞け。普通の馬ならば厩に繋がれて人に与えられた餌を食べるものだが、鬼鹿毛は人を餌にして喰うと聞く。それは畜生の中での鬼ではないか。人も馬も生ある者。生ある者が生ある者を喰らうとは、後世にどんなめにあうことか。それはともあれ、今回は馬場を一回り乗せてはくれぬか。乗せてくれれば、鬼鹿毛が死して後、黄金の御堂と寺を建てて、鬼鹿毛の姿を漆で固めて馬頭観音として祀ろうではないか。」
これを聞いた鬼鹿毛は、前膝を折り、両目から黄色い涙をこぼして小栗に乗れと言わんばかりの態度を示した。こうして小栗は鬼鹿毛を見事に乗りこなし、横山の策謀を打ち砕いた。
これで済めば良かったのだが、横山はその翌日、昨日の乗馬の労苦をねぎらうという名目で再び小栗を宴席に招いた。照手姫は縁起の悪い夢を見たので、必死で小栗を引き留めようとしたが、小栗は夢違え(ゆめたがえ)の呪文を詠じただけで宴席に参上した。
宴席には小栗と10人の家臣、そして横山と83人の家臣がそれぞれ参加した。宴が進んだ頃、横山は二口銚子(内部が二つに別れている銚子)を持ち出して、一つの銚子から横山の家臣には酒が覚める薬酒を、小栗とその家臣には毒の酒をそれぞれ注いで乾杯をした。毒酒を飲んだ小栗の家臣はそれぞれに後ろに倒れ、前に突っ伏して絶命した。小栗は刀を抜き、立ち上がろうとしたが、やがて力尽きて21歳の生命を散らせることとなった。横山は、占いの博士の進言を受けて、小栗の死体を土葬に、10人の家臣の死体はそれぞれ火葬に付した。
横山はまた、鬼王・鬼次という兄弟を召し出して、
「人の子を殺しておいて、我が子を殺さねば都の覚えも良くないほどに、不便とは思えども、照手姫を相模川に沈めてまいれ。」
と命じた。これを受けて兄弟が照手姫を輿に乗せて相模川に向かい、いよいよ石を結びつけて川に沈めようとしたその時、鬼王が
「いかに鬼次よ。あの照手姫の姿は、出づる日に蕾む花の如くでもあり、入る日に散る花の如くでもある。命を助けよう。その科として罪を受けたとしても、それは仕方のないことよ。」
と言い、弟の鬼次もこれを承諾したので、石を切り離して輿だけを海に浮かべて突き流した。
姫を乗せた輿は風に流されて相模国のゆきとせが浦に漂着する。そこで村君の太夫という人物に助けられたが、太夫の姥(妻)に折檻を受け、遂には六浦が浦(もつらがうら 現在の横浜市金沢区)の商人に売られてしまう。
この後、照手姫は現在の新潟、富山、石川、福井、滋賀の各地を転々とし、美濃の国の青墓(おうはか/あうはか 現在の岐阜県大垣市)にある万屋という宿屋の主・君の長のもとへ至り、そこで常陸小萩と名付けられた。君の長は小萩に
「遊女となるか、ならねば16人分の水仕事を一人でするか。」
と迫ったが、小萩は
「たとえ16人分の水仕事をすることになったとしても、遊女となることはありえません。」
と応えたので、全ての水仕事を押し付けられることになった。ところが、千手観音が影身に添ってくれたので、16人で仕事をしていたときよりも早く仕事を終えられるようになった。
このような暮らしが3年続いた。
横山の計略により命を落とした小栗と10人の家臣は地獄の閻魔大王の前に引き出された。閻魔は
「小栗は娑婆(現世)に居たときには善よりも悪の人物であったから悪修羅道(あくしゅらどう)へ堕とすこととし、10人の家臣たちは非法の死であったから、いま一度娑婆へ戻してやろう。」
と言う。これを聞いた家臣たちは
「我ら10人が娑婆へ戻っても本望を遂げることは困難です。主の小栗さまを娑婆へ戻していただければ、我らが本望まで遂げていただけることは間違いありません。我らは大王さまの決定により、浄土でも悪修羅道でも、どこへでも参ります。」
と訴えた。
これを聞いた閻魔大王は、なんと孝に篤い家臣たちかと思い、11人全員を娑婆へ戻そうと思ったが、家臣10人の体は既に火葬によりこの地上になかったため、やむなく小栗一人を娑婆へ戻すこととした。そして10人の家臣は閻魔大王の脇立とし、今も末世の衆生を守っている。
それでは、と、閻魔大王は小栗に次のような文言を書いた自筆の胸札を与えた。
「この者を、藤沢の御上人の、明堂聖(めいどうひじり 詳細は不詳で、前述の松尾剛次氏の著作によれば「当麻道場(相模国無量光寺)の第二十七世明堂智光上人」を指すとする説や、「明道(仏道をよく理解している)の高僧」を指すとする説などがある)の、一の御弟子に渡し申す。熊野本宮、湯の峯に、お入れあつて、たまはれや。熊野本宮、湯の峯に、お入れあつて、たまはるものならば、浄土よりも、薬の湯を上げべき(湯の峯の湯に入らせてくれれば、浄土からも薬の湯を送りましょう)」
大王がにんが杖(「人頭杖(にんとうじょう)」という人の生首が付いた杖のこと 人の善悪を見定めると言われている)という杖で虚空を打つと、建立から三年になる小栗塚が四つに割れて、卒塔婆が前へ倒れた。上野が原に烏が群れ騒ぐのを見た藤沢の上人がここに立ち寄ってみれば、髪はぼうぼうで、足手は糸より細く、腹はただ鞠を括ったような者があちらこちらを這い回ってた。
さては、かつての小栗である、このことを横山一門に知らせては一大事、と考えた上人は、髪を剃り、その形が餓鬼に似ていることから餓鬼阿弥陀仏(がきあみだぶ)と名付けて、閻魔大王の胸札に次の文言を書き加えた。
「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」
さらに、土車(つちぐるま 土を乗せて運ぶ木製の台車)を作り、この餓鬼阿弥を乗せて、引綱を付けて自らもえいさらえい、と引いてみせた。
土車は上野が原を出た。相模では横山家中の家臣たちが小栗とは知らずに照手の供養と思って五町(約500メートル)ほど引いた。それから、小田原、箱根、三島、富士川、駿河、大井川、掛川、熱田神宮などの地を経て、美濃の国、青墓の宿の万屋の門についたところで、何という因果の御縁か、土車が三日間うち捨てられていた。
万屋で水汲みに出た小萩(照手姫)は、この餓鬼阿弥の姿を見てこぼした言葉こそ哀れであった。
「夫(つま)の小栗様ならば、例えあのような姿をしていようとも、この世にさえいてくれたなら、自分の苦労すら苦労とは思わぬのに。」
そうして胸札を見ると、
「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」
と書いてある。
それが夫とは知らないまま、小萩はせめて三日間だけでもこの車を引きたいと君の長に暇を願い出た。君の長は、
「あのとき遊女になっていれば三日が十日でも暇をやるが、それを断ったのだから何としても暇はやらん。」
と言う。これを聞いた照手は
「もし三日の暇をいただけるならば、これから後、君の長夫婦の身の上に大事が生じたときには私が身代わりになってどのような事でも致しますので、何とぞ情けと思って三日間の暇を下さいませんか。」
と懇願する。
君の長は、
「さても汝は、優しいことを申すものだ。暇は取らすまいと思ったものの、その言葉を聞いた上は、慈悲に情けを加えて五日間の暇をやろう。」
とこれに応えたので、照手姫はあまりの嬉しさに、裸足で走り出て土車を引き始めるのであった。
小萩は普段の姿では美貌が目立ってしまうことを懸念して、あえて物狂いのような姿に身をやつし、土車を押していった。美濃と近江の境にある長競(たけくらべ 滋賀県坂田郡山東町長久寺)を越え、草津、瀬田の唐橋を越え、とうとう大津にある玉屋に到着した。
小栗とは知らぬあの餓鬼阿弥に同行するのも今夜が最後と思うと、小萩は宿も取らず、土車を枕とし、夜通し泣いて過ごした。夜が明けると、玉屋で紙と硯を借りて餓鬼阿弥の胸札に次のように書き添えた。
「海道七か国に車引いたる人は多くとも、美濃の国、青墓の宿、万屋の君の長殿の、下水仕(しもみずし)、常陸小萩と言ひし姫、さて青墓の宿からの、上り大津や、関寺まで、車を引いて、まゐらする。熊野本宮、湯の峯に、お入りあり、病本復するならば、かならず、下向には、一夜宿を参らすべし。かへすがへす。」
こうして小萩は急いで君の長のもとへ戻ったのであった。
小栗を乗せた土車は、大津を出て桂川を渡り、山崎、天王寺、住吉、堺を経て、小松原、南部、糸我峠、蕪坂、鹿瀬を過ぎて、こんか坂(不詳)に着いた。ここから湯の峯までは道が険しいので、車を捨てて、籠を組み、若い山伏に背負われて行く。
こうして、上野が原を立ってから444か日目に熊野本宮・湯の峯に到着した。湯の峯の湯に、7日入れば両眼が明き、14日入れば耳が聞こえ、21日入れば口がきけるようになり、49日が過ぎる頃には背丈が六尺二分(約182センチメートル)もある、もとの小栗の姿に戻った。
小栗は、熊野権現から貰い受けた金剛杖を手に修行者の姿で京に戻り、父・兼家の屋敷を訪れたが、門番の者に追い返された。しかし、その姿が小栗の伯父の目に止まり屋敷に呼び戻されたので、小栗は思い切って母親に向かってこう告げた。
「いかに母上様、小栗でございます。三年間の勘当(ここでは音沙汰のなかったことを指すか)をお許しくださいませ。」
父・兼家はこれを聞いて
「奇妙なことを言う。我が子の小栗は相模国で毒殺されたのだ。さりながら、わが子であれば、幼い折より教えて来たる秘術がある。不躾ながら、受けてご覧なされ。」
と言うと、五人張りの強弓を手に取って13本の矢を握り、二人の間にある障子の向こうから続けざまにこれを放った。小栗は、一の矢を右手で取り、二の矢を左手で取って、三の矢はあまり間近く来たので歯でこれをがちと噛みとめて、三筋の矢をおし握り、間の障子をさっと開けて頭を床につけ
「父上殿。小栗でございます。三年間の勘当、お許しくださいませ。」
兼家も、母上も、一度は死んだと思った我が子に再会できたことに大いに喜び、花車を仕立てて帝に報告に伺った。これには帝も感心し、五畿内五か国の領地を与えようとしたが、小栗はこれを断り、常陸国に加えて美濃国一国を領地として賜った。
三千余騎の家来集を引き連れて美濃国の国司に着任した小栗は、初日の宿を青墓の万屋に取った。君の長は百人の遊女を小栗の接待にあたらせたが、新たな国司は少しも喜ぶ様子がない。そればかりか、君の長を呼び出して、
「常陸小萩という者に酌をさせよ。」
と命じたのである。
さては常陸小萩の美貌が国司に漏れ聞こえていたのかと、君の長は小萩を呼んで酌に行くよう命じるが、小萩は
「いま酌に行くようであれば、はじめから遊女になっています。酌になど行きません。」
と断った。ところが君の長は、
「かつて餓鬼阿弥の車を引くと言って暇を申し出たときに、『これから後、君の長夫婦の身の上に大事が生じたときには、身代わりになってどのような事でも致します』と言ったではないか。いまお前が酌に行かなければ、私ら夫婦の命に関わるのだ。なんとかしてくれ。」
と道理を解くので、小萩はその約束を思い出し、酌に出ることを承知した。
常陸小萩が酌に伺うと国司は小萩の身上を尋ねたが、小萩は
「私は主人の命で酌に参っただけです。初めて会ったあなた様と懺悔物語をするつもりはありません。それが嫌なら酌をやめます。」
と言って酌の手を止めた。それも道理と納得した国司は自分の身の上を語り始めた。
「私は常陸の国の小栗と申す者であるが、相模の国の横山殿の一人娘、照手姫に恋して、押し入って婿入りしたが、毒酒にて責め殺された。しかし、10人の家臣たちの情けによって蘇り、餓鬼阿弥と呼ばれて、車に乗せられ海道七か国を引かれて行った。その折に、青墓の宿の万屋の常陸小萩と言う姫に世話になった。その礼のためにここに参ったのです。」
これを聞いた小萩、いや照手姫は、何もものを言わず、涙にむせるばかりであったが、やがて
「私は、実は常陸の者ではなく、相模の国の横山殿の一人姫、照手姫にてございます。」
とこれまでの身上を語り始めた。照手姫の話を聞き、今は16人分の水仕事を一人でやらされていると知った小栗はたいそう怒って、君の長を死罪にすると言い出したが、照手のとりなしにより君の長には美濃の国のうち18郡が与えられた。
照手姫を連れて領国の常陸に戻った小栗は、自分を毒殺した照手の父・横山らの一族を討とうとしたが、これも照手姫の懸命の説得により思いとどまった。しかし、これでは収まりがつかないと考えた照手姫が仔細を手紙にしたためて父・横山殿に送ったところ、父は
「古来、七珍万宝の宝より我が子に優る宝はないと、今こそ思い知った。今はなにも惜しいものはない。」
といい、大量の黄金と人喰い馬「鬼鹿毛」を小栗に贈った。あわせて、全ての原因は三男の三郎にあるとして三郎に七筋の縄をつけて、小栗のもとへ送った。これを見た小栗は
「恩は恩、仇は仇で、返すべし」
として、贈られた黄金で黄金御堂と寺を建立し、鬼鹿毛の姿を漆で固めて馬頭観音として祀り、三男三郎は荒簀(あらす)に巻いて、西の海に沈めてしまった。その後、小栗は常陸の国で富貴万福、二代の長者として栄え、83歳で大往生を遂げた。これほどの人物であるので、末世の衆生に拝ませようと、美濃の国で正八幡、荒人神として祀られている。同じく照手姫も、18町(約2キロメートル)下に、縁結びの神様として祀られている。
- 富田町生馬にある真言宗系の寺院救馬渓観音に伝わる小栗判官の伝承もよく知られている。同寺のWebサイトによれば、開山は修験道の開祖とされる役行者で、空也上人が自ら刻んだ観音像を奉安し、鳥羽天皇が堂宇を建立したとされる。その後、小栗判官が湯の峰に向かう途中、病により動けなくなった馬を当山の霊験により救ったことから、判官により堂宇が再建され、寺名を「救馬渓観音」に改めたという。
当山の縁起
当山は1300年前の飛鳥時代、修験道の開祖「役の行者」によって開山され、その後天暦7年(953)、空也上人が自ら刻んだ観音像を奉安。後に熊野詣でに行幸された鳥羽天皇が堂宇を建立され、寺名を「岩間寺」といった。
当山の中興の祖と云われるのは、戯曲・浄瑠璃で有名な小栗判官こと小栗小次郎助重で、常陸の国小栗城で足利持氏の軍に破れ逃れた後、仏門に帰依し各地を巡錫(筆者注:僧が各地を巡って教えを広めること)中「瘡痍(筆者注:そうい 戦などで体に受けた傷をさす)」にかかった。治療のため、妻「照手姫」と紀州湯の峯温泉に湯治に向かう途中、突然愛馬が病に冒され動けなくなってしまった。この時、当山の霊験あらたかなることを聞き、従者と共に参拝し祈願すると馬の病は忽ちに全快し、無事湯の峯にたどり着くことが出来た。愛馬が救われたことに感激した小栗判官は応永33年(1426)堂宇を再建し、「救馬渓観音」と名付けられたという。
当山の縁起
- 本文の物語、及び上記の救馬渓観音の縁起では小栗判官を常陸小栗城主・小栗満重の子小次郎助重としているが、これは上述の松尾剛次氏による論考のうち「鎌倉大草紙」に現れる名前である。江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊続風土記」の「巻之八十五 湯峯村」にある「車塚」の項には下記のような記述があり、ここでは当時既に一般に流布していた小栗判官の伝承について、鎌倉大草紙の記述をもとにした創作であろうと考察しており、救馬渓観音の縁起はこうした考察の影響を受けている可能性がある。
車塚
当村より本宮へ往還にあり
俗説に小栗判官此湯に浴し
跛躃(筆者注:足が動かないこと)平癒し
車を此処に棄て帰るという
又熊野往還の古道
今の街道と少し宛替れる所を小栗街道といい習えり
院本(筆者注:ここでは「浄瑠璃の語りを収録した本」の意か)に
小栗判官兼氏という者 毒酒に中られ
熊野湯峯の温泉に浴して平癒せし事を作りて
車街道という事のあるより
終に車塚 又 小栗街道等の名起りしならん
按ずるに鎌倉大草紙に小栗満重という者の事を載たり
其大意は 応永三十年春
常陸ノ国ノ住人 小栗孫五郎平満重という者
謀反を起しけるに管領持氏発向ありて
城を攻落されければ
小栗 終に参州(筆者注:三河国 現在の愛知県)に落行き
其子 小次郎は相州(筆者注:相模国 現在の神奈川県)に
忍び行きけるに
亭長(筆者注:料理屋の主人) 強盗とともに小栗主従を殺し
資財を奪わん事を謀り 娼婦を集めて毒酒を勧めけるに
照姫といえる娼婦 其密謀を小次郎に告げければ
小次郎酒に酔いたるふりにて座を立て
林中に繋ぎありしあら馬に乗て其所を逃れ
藤澤の道場に奔る
上人是を参州に護送せしむ
後 永享の頃 小栗参州より来て照姫に種々の財を興へ
強盗どもを誅し 子孫代々参州に居住すとそ
院本是を取りて粧飾するに
温泉に浴する事を以てせり
其事宝元より本国にあつからす
※筆者注:読みやすさを考慮して漢字及びかなづかいを現代のものにあらためた
- 湯の峰温泉は、平成16年(2004)、「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部として、温泉としては世界で唯一の世界遺産にも登録されている。
湯の峰温泉 - Wikipedia
- 現在は、田辺方面から311号線渡瀬トンネルを抜けてすぐの三叉路を左へとると湯峰、直進して次の信号を右折すると川湯、さらに直進してトンネルを越えて突き当たりの国道168号線を左折すると本宮大社となっている。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。