生石高原の麓から

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瀞の主 ~熊野川町(現新宮市熊野川町)玉置ロ~

 は三重、奈良、和歌山の三県境を流れる。あるいは深くよどみ、あるいは急流が岩をかむ。この話は、そんな神秘さをただよわせる瀞にはいかにもふさわしい。

 

 昔、瀞のあたりに幸右衛門という若者が住んでいた。と、そこへ一人の娘が現われ、名も、生い立ちも告げないまま、嫁になってしまった。やがてこどもが生まれることになったが、お産が近づくと、幸右衛門に「川のほとりに小屋を建ててくれ」といい、そこでこどもを生んだ。だが、それは瀞の主の大蛇で、幸右衛門に正体を見られると、水中深く姿を消してしまった。それからしぱらく。赤ん坊を乗せた小舟をこぎ回る幸右衛門の姿がみられた。


 そして「川の主さん八丁の長さ 可愛い主さん舟の中」。そんな歌がはやったとも・・・・・・。

 

(メモ:瀞へは、国鉄新宮駅前から志古へ出、そこからウォータージェットで。駅前~志古は車で25分、志古~瀞往復は約2時間。一帯は吉野熊野国立公園。)
(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

瀞峡

 

  • この物語は、那須晴次著「伝説の熊野(郷土研究会 1930)」に「瀞のぬしさん」という題名で次のように紹介されている。

瀞のぬしさん (瀞八丁)。
 春の水はどろの八丁に温い匂りを見せて、萌え出た木の葉の中によどんでいた。幸右衛門は蝶蜂にうながされて、釣りの糸を垂れること、きょうで7日、日毎にこの清くぬるんだどろの精と見えぬ手の交渉を続けていった。「幸右衛門様」軽くやわらかに、彼の肩に手をかけたものがあった。ことの意外に振り返って見ればそれはだった。若い女だった 美しい眼もくらむばかりの女であった。

 一人暮しの幸右衛門が喜んで若い女を自分の宅へ請じ入れたのは勿論のことである。は別に名もいわなかった。そして何を語ろうともしなかった。ただのいうがままに「はいはい」といって働き、暇さえあれば麗しい笑を投げかけては幸右衛門を嬉しがらせていた。そのうちに臨月になった。或る日のこと、改まって願いがあるといって、「どうか川の辺りの誰も知らぬところへ小さい家を建てて下さい。そして、私にそこで身二つにならせて下さいませ。誰に見られるのも恥かしいのでごさいます。」というのであった。幸右衛門は承知して、何人にも気づかれぬところへ小屋掛をした。「身二つになったら帰りますから、それまで見に来ずに待っていて頂戴」といって家を出た。

 

   ☓    ☓

 

 幸右衛門は待った。けれどもなかなか帰って来なかった。もう5日になる。もしか産後が悪くて弱ったのではなかろうか。とそれからそれへ思いめぐらすにつけて矢も楯もたまらず、彼は見に行ったのである。静かに静かに足音を忍ばせて小屋によった。すると、中には大変な物がいた。それは蛇であった大きな蛇は小屋一ぱいにどぐろをまいて、頭の所に人間の赤ん坊をだいていた。が、物音に気づいたのか、頭をきっとこちらにむけると、急にもとの愛らしい女になって、子供をかかえて出て来た。「幸右衛門樣、あれ程御約束をしたのに。もうこうなっててはこれまででございます。ああ、幸右衛門様。私はこのどろのぬしであったのでごさいますが、余りにお美しいあなたのお姿にみとれて・・・・・・どうかお許し下さい。私の代りに、この子をおたのみ致します。では左様なら、お名残り惜しうございます。

 

   ☓    ☓

 

 ぽかんとしている幸右衛門の前に紅衣に包んだ可愛い乳児を置くと見る見るは水の中へ消えてしまった。「待って呉れ。」といったが何の答えもなかった。後悔と淋しさと、やるせなさに赤ん坊を抱いて幸右衛門は泣いた。朝日の登る頃、小船には生れて間のない可愛い女の子に乳水を含ませながら、八丁のどろをこぎめぐる幸右衛門の姿が気の毒であった。
   川の主さん八丁の長さ
     可愛いぬしさん舟の中
という唄は、こうした伝説から読み出されたものである。
※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字及びかなづかいを現代のものにあらためた。

 

  • 本文にある「どろ)」とは、熊野川の支流・北山川の上流にある峡谷「瀞峡(どろきょう)」を指す。吉野熊野国立公園の一部で、その範囲は和歌山県三重県奈良県にまたがる。上流から「奥瀞」、「上瀞」、「下瀞」と呼ばれているが、中でも下瀞の上流は特に「瀞八丁(どろはっちょう)」と名付けられ、1キロメートル以上にわたって断崖、巨石、奇岩、洞窟が続く渓谷美が国の特別名称に指定されている。瀞峡、及び瀞八丁について、「角川日本地名大辞典 30 和歌山角川書店 1985)」では次のように解説されている。

北山川<北山村・熊野川町>
 奈良県吉野山地の伯母峰峠付近に源を発し熊野川に注ぐ1級河川。流長92km、河川箇所表による総延長34,473km、流域面積761平方km。奈良県大台ヶ原山地大峰山脈の間をおおむね南に流れ、大蛇行をしながら三重県奈良県和歌山県飛地東牟婁郡北山村・熊野川町)三重県の境界を南西流し、十津川熊野川町宮井で合流して熊野川となる。
(略)
 流域の峡谷は北山峡と総称され、吉野熊野国立公園に含まれる。下流熊野川町玉置口と奈良県十津川村田戸間約1.2kmの下瀞、田戸から上流約2kmの三重県紀和町和田間を上瀞、さらに上流北山村七色までの約28kmを奥瀞七色峡)という。これらを総称して瀞峡と呼び、北山峡の中心部をなしている。下瀞の深淵は静、先行貫入曲流峡谷で深成岩の貫入による接触硬化によって中生層の黒色圭室頁岩が露呈している。奥瀞は滝と瀬の連続した豪壮な動の景観を示していた。昭和40年完成の七色ダム、昭和41年完成の小森ダムの築造で、奥瀞の大半は湖底に沈んだ

 

瀞八丁熊野川町>
 北山川峡谷中の下瀞をいう。東牟婁郡熊野川町玉置口と奈良県十津川村田戸の約1.2kmの区間で、呼称は江戸期からみえる。「風土記」には「此処八町の間河水緩流の所土俗是を八町の泥といふ 其上流下流とも川勢奔注するに 中間八町の間深くして静に湖水の如し・・・・・・其景亦他に其類を見す 実に熊野中の一大勝境なり」とある。川名の「どろ」は水が静かによどむという意味で、「とろ」ともいい、延長約8町(筆者注:約870メートル)の深淵に名づけられた。節理のきれいな両岸の岩は熱変成を受けたホルンフェルス(筆者注:接触変成岩)で、岩質が硬いため浸食に強く、崖の高さは約50m、水深も16~20mに及ぶ。川幅は60~80m、中生代の大瀑布が後退を続け、その滝壺が連続して深淵を形成したとされる。水源地の大台ケ原山付近が日本の最多雨地域であることが、川水の浸食活動に深く関与している。夫婦岩亀岩屏風岩寒泉窟山彦橋母子滝滑岩天柱岩鶏冠岩竜潜窟仙遊洞虎島などの奇岩・奇勝が展開する。原始林の間にはツツジシャクナゲ・ウツギなどが自生し、秋には紅葉が水に映じ、絶景として知られる。

 

  • かつては、瀞峡観光のため、水深の浅い場所でも運行が可能なプロペラ船(スクリューではなく、船体後部に付けた巨大なプロペラで推進力を得る船)が瀞峡を運行していた。三重県が管理する下記サイトの情報によれば、大正9年(1920)にはプロペラ船の第一号が熊野川に浮かび、プロペラ船を利用した船会社がいくつか誕生し、河口の新宮町(現新宮市)~瀞峡間を往来していたとのことである。
    瀞八丁(南牟婁郡入鹿村木津呂ほか)※

 

  • 昭和40年(1965)10月1日、新たにウォータージェット船(ポンプにより高圧の水流を噴出することで推進力を得る船)が就航し、プロペラ船にとってかわった。メモ欄にある「ウオータージェット」はこの船のことを指す。長らく瀞峡観光とウォータージェット船とは不可分の関係にあったが、平成23年(2011)の紀伊半島大水害以降、熊野川・北山川への土砂流入が増大し、航路を維持するための浚渫作業などに多大な労力を必要とていたことに加え、新型コロナウイルス感染症の拡大に伴う観光客の急減も追い打ちとなり、令和3年(2021)1月1日をもって事業休止となった。
    瀞峡ジェット船休止 運営会社「航路整備の労力過大」:紀伊民報AGARA

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。