スギとヒノキが、みごとな幾何学模様を描く美山の里。そんな山深い里にふさわしい話が、いまも語りつがれている。
その昔、愛川の日高川を見下ろす高台に、遍照寺という寺があった。ある年のこと。この寺で飼われていた鶴が、ふとしたことから、片方の足を析ってしまった。坊さんが手当てをしたがよくならない。そのうち、鶴は夕方になると決まったようにどこかへ飛んで行き、足はみるみる回復して行く。不思議に思った坊さんが、鶴のあとをつけて行くと、山の中に湯がわき出ていた。鶴は毎日ここへ来ては、湯につかっていたらしい。神場温泉は、こうして発見されたという。
その後、沢山の人が湯治にやってきたが、そのうち、だれいうとなく「鶴の湯」と呼ぶようになったとか。
- この物語は、中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」の「美山村」の項で「遍照寺の鶴」という題名で紹介されている。
遍照寺の鶴
昔、遍照寺に鶴を飼っていた。その鶴がちょっとしたことで片っ方の脚を折ったんだ。
ところが翌日鶴はどこかへ飛んで行ったと思ったが夕方もどってきた。その翌日も同じ。毎日同じようなんで、坊さんが不思議に思って、ある日のことに鶴の飛んでった方角へついて行ったんだ。そしたら上初湯川の奥の神場(かんば)の湯を浴びている鶴を見つけたという。
それまで、この辺の人は神場に湯の湧くのを知らなかったと。
『郷土の行事と伝説』 尾崎かね代の文
- 遍照寺は日高川町愛川(あたいがわ)に所在する真言宗寺院。神場温泉からは直線距離にして西に約4キロメートルの位置にある。日高川町に合併する前の美山村が編纂した「美山村史」によれば、開基は浄土宗の僧であるとの伝もあるが詳細は不明で、延宝6年(1678)に書かれた「日高鑑(ひだかかがみ 「大指出帳」と呼ばれる、村から領主に提出された地域の現況報告書のひとつ)」の「愛川村」の項に「寺壱軒 真言遍照寺 高野山遍照院末寺」との記録があることから、少なくともこの時点では真言宗の寺院として成立していたものと考えられている。
- 「鶴の湯」については、「美山村史」の「特論 美山村の古道」の項でも地元の人の話として次のような記述がある。これによれば、鶴は遍照寺で飼っていたものではなく、同寺の住職がここでたびたび鶴を見かけたことから冷泉の湧くこの地に着目し、後に隠居所を設けたとしている。
美山村の裏の細道<神場から妹尾—舟原—土井>
(略)
筆者は昭和59年9月11日、妹尾出身の前田静夫氏(現、美浜町在住)の案内でこの山の古道を歩いた。
上初湯川の垣内原から前章で述べたごとく杉木立の急勾配の山径を上り、神場峠に登り、峠の地蔵さんの周辺の草を刈って一礼して、水のない小谷に自生しているワサビを見ながら神場につく。神場に縁のある前田氏はこう語った。
此処は私の祖母の出た所です。その昔、愛川(あたいがわ)の遍照寺の老僧が隠居していた所と伝えられ、家伝に依れば350年位前のことらしい。明治の末頃、大火にあい記録が焼失してしまった事は何より残念です。此処に冷泉があって、これを鶴の湯と言いますが、昔、遍照寺の住職が妹尾の檀家回りのたびに此処を通ると鶴がいたので老後の住居と定め、鶴の湯と命名したのが始まりだと伝えられています。
その昔、神場にはお大師さまをお祭りしていました。明治の始めころまではお客も多く、栄えて来ましたが、その後、湯治客も少なくなって来ました。そこでお大師さまに代わって、お薬師さまを迎えました。
そこで、お大師さまの魂をぬいて、約300メートル下の滝の上に捨てました。
さて、その夜、お薬師さまをお迎えした祝宴を催して皆、お酒をいただいて、神場に泊まったのですが夜中に大雪となりました。
一緒に寝ていたはずの坊さんが見えなくなり、皆で探したところ家から三枚目下の田んぼの岸の積雪30センチほどの雪の中で「俺(わし)の行くところがない」と言ってうずくまって居たと言うことです。私の祖父がこれは捨てられたお大師さまのしわざであると考えて、捨てたお大師さまを背中に負って妹尾にお移し、お堂にお祭りしました。これが今日の妹尾のお大師さまです。
神場にたどりつくと、最初に目につくのが冷泉をためている水槽で、その下手に部屋の跡、谷の向かいに本家の跡、その本家の入り口の石段の上に薬師堂跡、墓所があった。
- 「角川日本地名大辞典 30 和歌山県(角川書店 1985)」の「地誌編 美山村」の項に次のような記述があり、この温泉は順栄という僧によって江戸期の半ばに発見され、昭和28年の大水害(紀州大水害)によって破壊されるまで続いたという。
神場の湯屋と古社の祭
上初湯川の神場(かんば)に薬師堂と湯屋があって、小瘡や痔病に効くといわれ、有田郡内から、あるいは加茂谷(海草郡下津町)あたりから湯治にきていた。「続風土記」によれば、江戸期の半ば僧順栄が発見して薬師堂を建立して湯治場を開いたのに始まるという。この秘湯は昭和28年の大水害に破壊されるまで続いた。(略)
- 角川日本地名大事典の文中にある「続風土記」の記述とは、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊続風土記」の「巻之六十五 上初湯川村」の項にある次のような記述を指す。前述の「美山村史」の引用文では温泉の発祥は約350年前(文中の現地訪問時である昭和59年を起算点とすれば1634年)とあるが、紀伊続風土記では正徳年間(1711 - 1716)に発見されたものとしており、鶴に関する伝承は紹介されていない。
温泉
神場にあり
渓流の側石の硲 数箇所より少しづつ湧出し
筧をわたして湯屋に取る
湯は冷にして水にひとし 温めて浴す
其功験は冷質小瘡痔疾等を治す
其始めを尋ぬるに
正徳年間(筆者注:1711 - 1716)に
愛川の遍照寺の住僧順榮というもの
此地を過りて始て此湯を見付
試むるに験ありしより
此所に草庵を結びて隠居し
薬師堂を建て 湯の鎮守とし
男女の子を貰い
夫婦として此に住せしむ
これより代々此湯を支配し
家作を広くし 今の定右衛門に至る
星霜を経るに従いて近郷にも普く聞えて
十四五年前より来たり浴するもの盛になり
多き時は六十人許にも至る 四時絶えず
然れどもいまだ龍神湯崎等の如く
遠郡他国に聞えざれば
在田郡中或は加茂谷辺の者のみ
多く来るという
- 明治19年(1886)に内務省衛生局が編纂した全国の鉱泉(温泉・冷泉)リストである「日本鉱泉誌」には、神場温泉について次のような記述がある。これによると、当時は浴場1棟と宿泊施設2戸あったが、道路が非常に不便であったため、浴客は一年間にわずか300人程度であったとする。また、南北朝時代の応安年間(1368 - 1375)に入浴の記録があるとされており、江戸時代よりも前に温泉の湧くことが知られていたようである。
神場鉱泉
位置景況
硫黄山(山名)の麓にして渓岸の岩石間より湧出す
浴場一棟 旅舎二戸あり
山間僻陬(へきすう かたいなか、僻地のこと)の地にして
道路頗(すこぶ)る不便なり
浴客
平均一ヶ年 凡(およそ)三百人
発見
年月詳ならざれども応安中既に試浴する者ありと言う
応安中 南朝の臣 蕷治郎平豊明 寒濕※の病を患い
世乱を避けて此山中にあり
此泉に浴し癒ゆるを得たり
又 桃園天皇御宇僧順栄なる者
草庵を泉側に結び 寒疾を療す
遂に医王の像を安し
浴客をして尊崇せしむと言
※筆者注:寒濕(寒湿)とは漢方における病態の一種で、寒と湿が結びついて陽気(身体を温める力)の運行や血流を妨げ、疼痛、関節の強ばりを引き起こすもの
- 「日本鉱泉誌」の発行から37年後の大正12年(1923)に和歌山県日高郡役所が発行した日高郡の地誌「日高郡誌」では、「神場鉱泉」について次のような記述があり、当時既に相当衰退していたことがうかがえる。
神場鉱泉
川上村大字上初湯川 時代未詳の中生層に属す 字神場448番地
硫黄山腹の巖間より湧出する炭酸泉にして、山巒(さんらん 山、山岳)環合四抱せる間に、掌大の余地を卜して(ぼくして 占って定めること)浴室を構ふ。一日の湧出量約2石(約360リットル)と称す。其の始を問うに、正徳年間愛川遍照寺の僧順栄 伊賀国名張の人 なるもの、此の水に硫黄の気あるを見て汲取り、試みに病者をして浴せしむるに験著し、乃ち薬師堂を結びて、男女の子を養いて此処に住ましむ。これより浴客年に倍し、新に浴室をも増築す、或いはいう、応安中、南朝の臣 蕷治郎平豊明 寒濕を患い、世乱を避けて此の山中にあり、此の泉に浴して癒ゆるを得たりと。 徳川の季世、浴客多く甚だ盛なりしが、近時振わず、旅舎あれど、不備不便、言を俟たず。 一ヶ年の浴客数凡そ70人。
- 上記「角川日本地名大辞典」の記述にあるように、神場温泉は最終的に昭和28年(1953)の紀州大水害により破壊されたことによって閉鎖されたが、下記の個人ブログでは2011年に同地を訪問した方のリポートが掲載されている。
神場(美山村)
- 平成4年(1992)、神場温泉から約2キロメートルほど南の旧笠松小学校猪谷分校跡地に「美山療養温泉館」がオープンした。国土地理院の地図によれば同館の約800メートル北東に温泉の記号があり、ここが泉源と思われるため、同館と神場温泉とは直接の関係はないものの、いずれも猪谷(いだに)川沿いに湧出する温泉であり、見方によっては神場温泉の復活と考えることができるかもしれない。ちなみに、別項で紹介した「蛇杉」の近くにある「美山温泉 愛徳荘」の温泉は、この「美山療養温泉館」の泉源を利用しているとのことである。
美山療養温泉館
美山温泉 愛徳荘
温泉ガイド
赤い谷と蛇杉 ~美山村(現日高川町)初湯川~ - 生石高原の麓から
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。