生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

龍神温泉と役行者・弘法大師

(「紀州民話の旅」 番外編)
 前項「枕返しの怪」で取り上げた旧「龍神村(現在の田辺市龍神村」の名の由来は、弘法大師空海)が龍王の夢のお告げによりこの地に温泉を開き、そこを「龍神温泉」と名付けたことによるものと言われている。この温泉は美肌効果が高く、島根県湯の川温泉群馬県川中温泉とともに「日本三美人の湯」と並び称されるほどである。
枕がえしの怪 ~龍神村(現田辺市)小又川~ - 生石高原の麓から

 

 この温泉について、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」では、次のように解説している。

りゅうじんおんせん 竜神温泉龍神村
 日高川源流に近い日高郡龍神村龍神にある温泉。重曹。泉温48℃。温泉開発の歴史は古く、伝承によると役行者(えんの ぎょうじゃ)が今から約1,300年前に発見し、弘法大師難陀竜王(なんだ りゅうおう)のお告げによって浴場を開いたので、竜神温泉と呼ぶようになったという。「風土記」もこの説を記載している。護摩壇山のふもとにあり、深い山々に囲まれた渓谷にある温泉。竜仙境という別名に恥じない秘湯である。上御殿下御殿という由緒のある古い木造建て旅館や、共同浴場・露天風呂・国民宿舎がある。昭和42年高野竜神国定公園に指定、同55年に高野竜神スカイラインが完成した。湯は透明無臭、俗に美人湯といわれ、この土地では「寒川男に竜神」という古諺が残る。創傷・火傷・胃腸病に効くという。紀伊徳川家初代頼宣の保護により在家6軒を建てさせ、龍神村殿垣内の百姓に下し置かれたとある。玉置氏記録(日高郡誌)には13軒の宿の屋号と屋敷地が記載されている。文化7年の「旅行用心集」に紀伊六湯の1つにあげられている。空海命名といわれる曼荼羅天誅組の残党が幽閉された天誅などが近くにある。
(以下略)

f:id:oishikogen_fumoto:20210311114324j:plain
紀伊国名所図会 後編五之巻 龍神全図
国立国会図書館デジタルコレクション)
f:id:oishikogen_fumoto:20210311114522j:plain
紀伊国名所図会 後編五之巻 浴室の図
国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 竜神温泉のはじまりについて、田辺市と合併する前の旧龍神村が編纂した「龍神村」には次のように記載されており、上記引用文にもあるとおり役の小角(えんの おづぬ 役行者の別称)により開かれたとする。

役の小角と龍神温泉
 文武天皇(在位697~707)の時代、龍神温泉大和国の修験者「役の小角(えんのおづぬ)」によって発見されたのである。
 日本鉱泉に、
温泉は、役の小角がはじめてこれをひらき・・・・・」とある。
 また、上御殿龍神村湯本)所蔵の「応永二年(1395)乙亥年正月十二日高野山山本坊 阿闍梨(ぎょう)敬白
の古文書によると、
夫、紀州日高郡龍神温泉湧出之濫觴(らんしょう 事の起こり)は、役の行者三十二歳にして・・・山巖に攀上(よじのぼっ)て、神之霊験を顕(あり)し、中にも高野山は甲地(優れた地)清絶(非常に清らかなこと)の仏土なるによりて、久しく止住し、薫練(くんれん 徳をもって良い方に導くこと)を凝し(こらすこと)、中の峰修験道の儀式)を修業し玉ふ時、龍神の山に躋(のぼ)り玉ふ。
 行者此地を差過(さしすぎ)たまふに、怪く煙立上るを、如何と不思議の思をなし、持給える錫杖を以突穿(もって つき うがち)たまふに、焔咽(えんいん)に返り温湯迸出(へいしゅつ ほとばしり出ること)しければ行者驚嘆し、医王善逝(いおうぜんぜい 優れた医師、転じて薬師如来のこと)、済度の方便(仏が世の人を救うために用いる手段)なるべし、随喜感悦して数多の病者を浴し試玉ふに、忽に瘥(いや)さざる無き也・・・・・
とあり、この古事は、千三百年の昔から我々の祖先が連綿として伝えた口碑であり、この古文書はそれを裏付けている。
 天地開闢(かいびゃく)の昔から、漆黒の岩肌にこんこんと湧き出ずる温泉は、幽遠の彼方より久遠の未来へと絶ゆることなく郷土史を後世に継承していくことであろう。

 

 上記引用文中にある「日本鉱泉」は、明治19年(1886)に内務省衛生局が編纂したもので、当時の国内の鉱泉(温泉・冷泉)を網羅した資料である。このうち、龍神温泉の「発見」に関する部分を引用する。

発見
 年月詳ならず
 古へ(いにしえ)役の小角 中の峯修業の時始て泉池を開き 弘仁中僧空海高野山に入り難陀竜王の夢告に因りて衆庶の来浴を導き 医王薬師如来のこと)の像を自鐫(じせん 自らの手で彫ること)して草堂に安置す 此挙 龍王の告る所なるを以て龍神温泉と称し 即ち村名と為す 後地震の為に泉竅(せんきょう 泉の湧く穴)堙塞(いんそく ふさがれること)せしこと有れども 遂に旧に復して涌出すと云う
※読みやすさを考慮し、漢字及びかなづかいを現代のものにあらためた。

 

 龍神温泉を開いたとされる役行者(えんの ぎょうじゃ 伝634 - 伝701 役小角(えんの おづぬ)とも)は、日本独自の山岳信仰である修験道の開祖とされており、実在の人物ではあるが、前鬼後鬼を弟子にして使役するなど、超人的な法力の持ち主として様々なエピソードが伝えられている。「日本大百科全書(ニッポニカ)(小学館)」では、役行者について次のように解説している。

役行者
 7世紀後半の山岳修行者。本名は役小角(えんのおづぬ)役優婆塞(えんのうばそく)ともいう。日本の山岳宗教である修験道(しゅげんどう)の開祖として崇拝され、江戸末期には神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)諡号(しごう)を勅賜された。多くの奇跡が伝えられるので、実在を疑う人もあるが、『続日本紀(しょくにほんぎ)文武(もんむ)天皇3年(699)5月24日条に、伊豆島に流罪された記事があり、実在したことは確かである。多くの伝記を総合すれば、大和(やまと)奈良県葛上(かつじょう)郡茅原(ちはら)郷に生まれ、葛城山(かつらぎさん)金剛山)に入り、山岳修行しながら葛城鴨(かも)神社に奉仕した。やがて陰陽道(おんみょうどう)神仙術密教を日本固有の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を確立した。そして吉野金峰山(きんぶせん)大峰山(おおみねさん)、その他多くの山を開いたが、保守的な神道側から誣告(ぶこく)されて、伊豆大島に流された。この経緯が葛城山神の使役や呪縛(じゅばく)として伝えられたものである。彼が積極的に大陸の新思想や新呪術を摂取したことは、新羅(しらぎ)や唐に往来したとする伝承にうかがうことができ、その終焉(しゅうえん)も唐もしくは虚空(こくう)に飛び去ったとされている。
[五来 重 2017年5月19日]
五来重著『山の宗教――修験道』(1970/新版・1999・淡交社)』
和歌森太郎著『山伏』(中公新書)』

役行者とは - コトバンク

 

 龍神温泉については、弘法大師空海)が難陀竜王のお告げによって開湯したとの伝承も残されている。これについて、和歌山県日高郡役所大正12年(1923)に発行した日高郡の地誌「日高郡」の「温泉寺(おんせんでら)」の項に次のような記載がある。これによれば、空海がここに草庵を結んで自作の薬師像を安置した後、江戸時代の宝永2年(1705)に、明算という僧が自身の腫れ物をこの湯で治したことをきっかけとして難陀龍王薬師堂を再建し、温泉寺と名付けたとしている。

温泉寺 龍神村大字龍神
 [風土記]に言う、「本尊薬師如来 旧は小堂に安して高野山本坊より堂守を置けり。元和以後温泉の功近国に聞え、入湯の人多くなりしより宝永二年再建して興山寺(筆者注:高野山で施設管理・財務・庶務などを預かる行人方(ぎょうにんがた)の中核寺院、明治2年(1869)に青巌寺と合併して金剛峯寺となった)末となり、温泉寺と称す。入湯の人背参詣をなし、湯銭も当寺に納むという。」 里伝に弘仁年間空海来錫(筆者注:らいしゃく 「錫杖を持って訪れる」の意で高位の僧がやってくることを指す) 温泉の湧出を見、難陀龍王の夢告により草蘆(筆者注:そうろ 草庵のこと)を結んで、自作の薬師像を安置す。後 僧明算 腫物に悩み、当温泉に来浴平癒す、乃ち龍王社及薬師堂を再建し温泉寺と名づくと。是れ蓋し宝永二年のことならん。
※読みやすさを考慮し、漢字及びかなづかいを現代のものにあらためた。

 

 上記引用文中にある「難陀龍王(なんだ りゅうおう)」は、「八大竜王」の筆頭に位置づけられる竜王で、水の恵みをもたらす善神とされる。臨黄寺院ネットワーク臨済宗黄檗宗合同の情報発信組織)が管理するWebサイト「WEB版 絵解き涅槃図」では、難陀龍王及びその弟とされる跋難陀(ばつなんだ)龍王について次のように解説している。

【解説】難陀龍王跋難陀龍王
 それぞれ仏法を守護する八大龍王の一。雲を呼び雨を起こす蛇形の鬼類。
 龍が巻き付いた姿で、図の右側に描かれることが多い。

 諸経典に出場する八大龍王は、仏法を守護する者の代表としてあげられる「天竜八部衆(天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅緊那羅・摩呼洛伽)の中の龍の八王。インドでは龍はコブラのイメージで捉えられるが、龍(ナーガ)族という一種族を指すと考える説もある。中国では神獣として皇帝の権力の象徴とされる。西洋のドラゴンは羽根をもち、悪者として説話に登場するが、東洋では善神であり、羽根が無くとも天空を飛翔することができる(「応」と呼ばれる下等な龍は羽根が無ければ飛べない)
 龍は、そもそも水と深い関係があり、水の恵みをもたらす神として崇拝されている。そのことから、八大龍王は日本では主に雨乞の神として崇められ、中でも娑羯羅龍王が雨乞の神として特別に取り上げられることが多い。禅寺でも、伽藍の守護神として、朝課の後に八大龍王の名を唱えている。
 以下、難陀・跋難陀とともに、八大龍王に加えられる他の龍王の説明を加えておく。

1.難陀龍王(なんだりゅうおう;アーナンダ・ナーガ・ラージャ;Ānanda nāga rāja)
 八大龍王の中でも筆頭。難陀(Ānanda)とは歓喜の意。海洋の主。経典では、頭上に9匹の龍を戴き、右手に剣をもち、左手を腰に位置するとされるが、「涅槃図」では人物に龍が巻きつく姿で描かれることが多い。『不空羂索神変真言経』第十六「広博摩尼香王品」によると、跋難陀龍王の兄であり、同じく八大龍王の一である娑伽羅(サーガラ:大海)龍王と戦ったことがある。

2.跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう;ウパナンダ・ナーガ・ラージャ;Upananda nāga rāja)
 跋難陀(Upananda)は亜歓喜と訳される。難陀龍王の弟。経典では、頭上に7匹の龍を戴き、右手に剣、左手は空中に位置するとされるが、「涅槃図」では難陀龍王と同様、あるいは鱗を衣の下から覗かせていることがある。兄の難陀龍王とともに摩竭陀(マガダ)国を保護り、飢饉を退けた。また、釈尊が降誕されたとき、雨を降らして灌いだとされて、潅仏会の起源となっている。釈尊の説法の会座には必ず参じた。
WEB版 絵解き涅槃図: 【解説】難陀龍王・跋難陀龍王

 

 上述の「龍神村」には、地元の旧家に伝わる文書の記述として、弘法大師龍神の使いの老人から、この温泉は「娑婆世界(しゃばせかい 人々が住む「この世」をさす)衆生を救けるために龍神から授けられた(地上に上がってきている)」ものである旨を伝えられたという話が掲載されている。

弘法大師
 弘法大師により龍神温泉命名されたのは、おそらく嵯峨天皇(809~822)の平安朝初期であって、巨勢族が安住してから約140年、また役の小角から約100年以降のことである。
 『日高郡』によれば、
空海が、宗義弘通の根拠地たりし高野山に近き我が郷日高郡は、おのずから弘法大師に会せる伝説に富む・・・・・
 仏徒の堕落、仏数の腐敗をおもんぱかりしが為に深山幽谷を選び、紀南山中を跋渉(ばっしょう)せしこと再三ならず、都内の邑(むら)、里いたる所、空海の奇蹟、伝説を遣せり・・・・・
とあり、我が村においても「御錫(ごしゃく)の水」、「大師衣掛岩」(大熊地区)の地名は、大師の来郷を物語っており、小口家・加藤家の古文書によると(原文注釈)、

 夫、紀州日高郡龍神之道筋御踏分相成りしは高野大師始めあそばし給ふ。[中略]
 それより龍神へ御越相成り所も此の水上(かみ)にして、大師、杉谷(現在の小森谷)と御付けに相成り給ふ。川下へ御越あり候所、老人一人来りて遍照(大師)に会い、幸い大師は問うて曰く、
老人は、いずこより来るぞ。」と御尋ねあれば、
龍宮より来り。」と言へり。
 此の地を龍神と名付け相成り候、なかんずく此の湯は、いずこより来るぞと御不審あれば、老人曰く、
娑婆世界の衆生を救けんため、龍神よりあがり給う」と答えあり。大師、大いに御喜び給ひて、薬師如来を御作り給ひ、彼の人(老人)に御渡し給ひ候。神湯寺(かみゆでら 温泉寺)と名付け給ふ。(中略)
 薬師堂(温泉寺)度々の火難にあいしも、諸国の諸人、温泉の由来を聞きおよび、薬師、大師を尊びて湯治これあり。なお、龍神明珠山龍蔵寺と申すも大師之名付け候也。(以下略)
(略)
 両家の古文書は、豊臣秀吉が朝鮮に再征軍を出発された慶長2年正月の吉日、龍神安芸左助盛義敬白とある。盛義なる人物については不詳であり、龍神系図にても見当たらないが、慶長年間における豪士だったであろう。

 

 上記のような役行者弘法大師に関する由緒について、公益社団法人 龍神観光協会のWebサイトでは、下記のとおり「役行者が発見し、後に難陀龍王の夢のお告げによって弘法大師が開いた」と説明している。

難陀龍王社(なんだりゅうおうしゃ)
 田辺市龍神村龍神 龍神温泉元湯前
 龍神温泉は、その昔、修験道の開祖である役の行者が発見し、後に難陀龍王の夢のお告げにより、弘法大師が開いたと云われている。その難陀龍王を祀る小社が元湯の玄関前にある。古くは元湯から対岸にある、現在の元湯別館にわたる橋のたもとに祀られていたが、平成10年、元湯の改築後、現在の場所に移転した。
 龍神温泉は、1300年の歴史と、徳川時代には紀州藩徳川頼宣公がこの温泉を保護し、浴場を設けるなど紀州徳川家の別荘温泉地として栄えてきた温泉。いつの頃からか「日本三美人の湯」の一つと称されている。
 「国民保養温泉地」にも指定されている。

難陀龍王社(なんだりゅうおうしゃ)|龍ページ|龍神村の観光情報/社団法人龍神観光協会

 
 龍神温泉へは、JR紀伊田辺駅から龍神バスで約1時間20分、高野山から南海りんかんバス龍神バスを乗り継いで約1時間40分となっている。自動車・二輪車の場合、冬季は国道371号線(高野龍神スカイライン)の高野山龍神間で冬季交通規制(四輪車はチェーン携行・夜間通行止め、二輪車は終日通行止め)が行われるので注意が必要。