生石高原の麓から

かつて開設していた個人サイト「生石高原の麓から」の内容をブログ形式に移行しています

龍神温泉と天誅組・大菩薩峠

(「紀州 民話の旅」番外編)
 別項「枕がえしの怪」のメモ欄で言及されていた「天誅(てんちゅうぐら)」は、現在の田辺市龍神村小又川地区にある民家の土蔵のことを言う。ここは、文久3年(1863)、尊皇攘夷を訴えて大和国(現在の奈良県で挙兵した「天誅組(てんちゅうぐみ)」のうち、この小又川に逃れてきた水郡長雄(にごり ながお 「長雄」は「善之祐(ぜんのすけ)」の諱(いみな 死後に贈られる諡(おくりな)を指す場合もあるが、この場合は「通常は使用しない実名」をいう)である)をはじめとする河内勢の志士8人和歌山藩に捕らえられ、3日間にわたって幽閉されていた場所である。
 蔵内には長雄が書いた辞世の歌

   皇国の ためにぞつくす まごころは
     神や知るらん 知る人ぞしる

が残されており、現在もその複製を見学することができる。
枕がえしの怪 ~龍神村(現田辺市)小又川~ - 生石高原の麓から

天誅


 この出来事について、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1985)」では「天誅組隊士の幽閉」という題名で、次のとおり解説されている。

天誅組隊士の幽閉
 小又川の津越には天誅(県史跡)と呼ばれる土蔵が残っている。文久3年(1863)8月に中山忠光を中心として討幕の兵をあげ、大和五条奈良県代官所を襲撃した天誅組の残党が、大和国十津川郷を経て当村域方面に逃げこみ再挙を計画したが、監視がきびしく、結局は小又川にあった和歌山藩兵の営所に自首して捕えられた。水郡長雄をはじめとする7人は、藩の役人に接見ののちに津越の百姓喜助宅の土蔵に幽閉された。これが天誅である。3日後に彼らは和歌山城下に護送され、京都で斬首された。

 
 天誅組とは、文久3年(1863)、尊皇攘夷(幕府の力を弱め、天皇に全ての権限を集中させるとともに、外国を撃退し、鎖国を続けること)を掲げ、時の孝明天皇を奉じて大和で挙兵した浪士(脱藩した武士)らのグループである。主将は孝明天皇の侍従であった公卿・中山忠光(なかやま ただみつ)であったが、彼らが五条(現在の奈良県五條市代官所を襲撃した直後孝明天皇公武合体(朝廷と幕府を結びつけて幕藩体制の強化を図ろうとする一派)の主張を受け入れて態度を翻したため、「逆賊」として幕府の追討軍に追われる立場になった。蜂起から逆賊となるまでの経過は概ね下記のようなものであった。

 江戸時代末期、孝明天皇による攘夷(外国を撃退し、鎖国を続けること)の勅書を受けて第14代将軍徳川家茂文久3年(1863)5月をもって攘夷を決行することを決定した。これを受けて長州藩は同年5月10日、下関海峡を通過するアメリカ船を砲撃して「攘夷」を決行した。続いてフランス船、オランダ船に対しても砲撃を行ったが、後に米仏艦隊による報復攻撃を受けて長州藩は敗北した(下関戦争)。
 これに伴い、砲撃に参加していた急進的な攘夷派公卿孝明天皇の侍従)中山忠光は、京に戻ったのち謹慎を命じられ、侍従の職も剥奪された。
 こうした中、幕府の力では攘夷が実現できないと考える尊攘派の中では天皇自らが軍を率いて攘夷を決行すべしという「攘夷親征」を望む声が高まり、遂に天皇自らが大和に赴いて攘夷の成功を祈願し、攘夷倒幕の兵を挙げる(大和行幸)という計画がたてられた。具体的には、孝明天皇が大和にある神武天皇春日大社を参拝した後、軍議を開いて諸藩に攘夷の檄を飛ばし、伊勢神宮に参詣した上で幕府に対し攘夷不履行の罪を問い、兵を集めつつ伊勢から江戸に迫るというものであった。
 同年8月13日、いよいよ天皇神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられた。その先鋒として、中山忠光を主将とする攘夷派浪士40名の志士たちが大和へ向かった。これは、孝明天皇行幸に先立って幕府代官を討って大和を平定し、幕府が支配していた土地と人民を朝廷に返上し、兵を募って御親兵として天皇を迎えようとしたものである。
 8月17日夕方、五条の町へ着いた彼らは、幕府天領大和国五条代官所を襲撃。代官鈴木正信源内)の首を刎ね、代官所に火を放って挙兵した。桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地とする旨を宣言し、「御政府」あるいは「総裁所」を称した。五条御政府と呼ばれる。
 ところが、8月18日になって、京では「八月十八日の政変」と呼ばれる事態が発生し、公武合体中川宮久邇宮朝彦親王)が孝明天皇を説得して大和行幸が突然延期されることとなった。同時に、大和行幸・攘夷親征の詔勅天皇の真意ではない偽勅であったとされ、大和行幸の先鋒として挙兵した天誅組は、その活動を正当化する根拠を失った。これにより、挙兵の大義名分を失った天誅組は「暴徒」とされ追討を受ける身となったのである。
 中山忠光らは、京の政変は逆臣による策謀であり、一時的なものと判断し、十津川郷内から約1000人の郷士を集めて軍事行動を継続した。これに対して京都守護職松平容保は、高取藩、彦根藩、津藩など周辺諸藩に対し天誅組追討令を発し、8月26日、高取城において大規模な戦闘が行われた。しかし、高取城側が大砲を用いたのに対し、十分な指揮系統が確立されていなかった天誅組の兵士は一気に混乱に陥り、潰走することとなった。
 その後、天誅組の残党は十津川郷に退却し、各地へ敗走することとなったが、それぞれ捕らえられて賊徒として処刑されて、明治維新まで生き延びられたのは数人であったと伝えられている。中山忠光は、辛うじて大坂に逃げ、後に長州藩の庇護を受けて下関に隠れていたが、禁門の変の後に長州藩の実権を握った恭順派によって元治元年(1864)11月に絞殺された。
天誅組 - Wikipedia
天誅組の変 - Wikipedia

 

 天誅倉に幽閉されたのは、水郡善之祐長雄)率いる「河内勢」と呼ばれるグループであった。産経新聞が運営するWebサイト「産経WEST」の「河内幻視行」という特集では、「甲田 「天誅組」あえなく賊軍に」という題名で河内勢に関する次のような記事が掲載されている。

 文久3(1863)年8月16日午後、この水郡邸から、菊の御紋の旗幟(きし 筆者注:「旗印」、合戦の際に掲げる幟(のぼり)のこと)をかかげた2人の男を先頭に、ゲヴェール銃や槍などで完全武装した70人ほどの戦闘集団が、高野街道から葛城山方面に向かって、行進を始めた。
 中央付近で、ひとりだけ馬に乗っているのは、鍬(くわ)形のカブトに、緋縅(ひおどし)のよろいをまとった前侍従、中山忠光。まだ18歳であった。のちに「天誅(てんちゅう)(忠)」と呼ばれる武装蜂起集団の、華々しい出陣式である。
*  *  *
 大庄屋である水郡邸の当主、善之祐は国事に奔走し、この邸宅は南河内一帯の志士たちのサロンになっていた。京都で天誅組が旗揚げすると、さっそく同志をつのり、甲田村や富田林村、長野村などから17人を集めた。13歳の長男、英太郎もくわわった。
 軍夫なども含めると、総勢は200人にのぼった。よほどの人格者であったのであろう。途中で、天誅組にくわわった河内の国学者伴林光平も「性沈黙豪胆年来慨世の志深く」と評した。
 「武装蜂起集団」と記したが、当初はもちろん名目があった。京の長州藩の策謀で、8月13日、孝明天皇は攘夷祈願のため、大和行幸の詔(みことのり)を発した。その先駆けとして、大和を目ざし、最終的にはいっきに倒幕を敢行するというのが、実質的なリーダーである土佐の吉村寅(虎)太郎らのネライであった。
 一行は河内長野の旅館で1泊し、翌17日には天領地であった大和・五條に入り、代官所を襲ったうえ、火をはなった。代官の首ははねられた。代官は地元民の人望も厚く、現在なら、たんなる放火殺人である。
 しかも翌18日には、いわゆる「8月18日の政変」が起き、京の過激派公卿(くぎょう)長州藩は、薩摩・会津両藩によって、放逐された。天誅組追討の勅命もだされ、あっさり「賊軍」となってしまった。
*  *  *
 天誅組には十津川兵千人もくわわり、意気軒高であった。善之祐ら河内勢も各所で善戦したが、追討の勅命は決定的であった。
 十津川兵が撤退し、数十人グループの散兵戦を展開したが、各所で幕府軍に敗れた
 9月になると、弾薬もなくなった。忠光善之祐に、なんの連絡もせずに陣地を移動し、果無山脈を越えて熊野・新宮に脱出すると言い出した。これには善之祐も怒った。
 「是の如くんば即ち我は腹背敵をうくるものにして、宛然嚢中(のうちゅう)の窮鼠たり
 と抗議し、河内勢は本隊から離脱した。十津川の村外れで、酒を飲んで寝入っているとき、迷惑に思っていた村民に爆殺されそうになった
 万策がつき、22日には、龍神村紀州藩屯所に自首した河内勢は8人になっていた。このとき、
 「皇国の ためにつくす まごころは 神や知るらむ 知る人ぞ知る
 という歌を残したとされる。京の六角獄舎に送られ、翌元治元年の禁門の変のさい、処刑された。英太郎は15歳未満だったため、刑をのがれ、河内へ戻された。

【河内幻視行】甲田 「天誅組」あえなく賊軍に(2/4ページ) - 産経WEST

 

 旅行の口コミサイトであるフォートラベル(4travel.jp)に投稿された個人の旅行記によると、本来の天誅倉は昭和39年(1964)の大雨で倒壊したため、現在のものは後に復元されたものであるとのこと。内部では、天誅組の関連資料や模型の展示、ビデオ上映などが行われているほか、水郡長雄の辞世の句、「皇国のためにぞつくす真心は神や知るらん知る人ぞ知る」の複製も見ることができる。また、天誅組について、次のように解説されている模様であり、紀州藩小又川駐屯隊長の吉本任は水郡一行を手厚く遇したという。

 文久3年(1863年)、天誅組尊王倒幕を掲げ決起しますが、敗北し幕府軍の追討を受けることになります。水郡長雄をはじめとする8名は、再起を図り逃れていましたが、紀州藩兵の警備の強固さに、このまま逃れられないのなら天誅組の精神を天下に示したいと覚悟し、紀州藩小又川駐屯隊長の吉本任の前に自首しました。
 吉本はこの心意気に感心し、農家の米倉に幽閉された一行に酒を運ばせ負傷者の治療を受けさせるなど、護送されるまでの2日間、手厚い待遇をしました。
龍神(和歌山県)の旅行記・ブログ by hiro3さん【フォートラベル】

 


 小説家・中里介山(なかざと かいざん 1885 - 1944)の長編時代小説「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)」は、大正2年(1913)から昭和16年(1941)まで都新聞毎日新聞読売新聞などに連載された全41巻(未完)の一大巨編で、昭和10年(1935)から昭和11年(1936)には大河内伝次郎(おおこうち でんじろう)主演で、また昭和28年(1953)には片岡千恵蔵(かたおか ちえぞう)主演でそれぞれ映画化もされた。このうち第5巻は「龍神の巻」と題されており、たまたま天誅組と同行することになった主人公の机竜之助(つくえ りゅうのすけ)が、十津川から紀州へ落ち延びようとして追手の爆弾により失明の危機となり、修験者のアドバイスにより龍神温泉の滝の水で治療しようとする話が描かれている。「大菩薩峠」は「青空文庫」で公開されているため、その一部を引用する。
作家別作品リスト:中里 介山

三輪の神杉の巻(第4巻)

(略)

 これら浪士の一行が、この後、中山忠光を奉じて旗上げをした「天誅組」の卵であることは申すまでもありません。
 「天誅組」は天忠組である、天朝へ忠義を尽す義士たちの寄合いである。そうして机竜之助は、かの新徴組から新撰組にまで、腕を貸した男である。新徴組や新撰組は幕府の味方である、天忠の志士とは根本から目的が違うのであります。
 では、机竜之助こそ、松本奎堂筆者注:まつもと けいどう 天誅組の総裁の一人)に説かれて、改めて天朝へ忠義の心を起したか、徳川へ尽す志を変じたか。
 そんなはずはない、竜之助が新徴組に腕を貸したのとても、なにも徳川に恩顧があるわけでもなければ、幕府を倒してはならないという義憤があるわけではないので、ただ行きがかり上そうなったまでであります。
 されば、「天誅組」の仲間になったとても、事改めてギリギリ歯を噛んで尊皇攘夷を絶叫するなんという勢いになれるはずがないのです。ただ、あの喧嘩の一幕を納めた松本奎堂の意気が面白い。
どうじゃ、吉野の方へ遊びに行かんか
行ってもよい
 これで相談が纏まって、彼は一行の中に加わって、またも大和の国へ逆戻りをして来たものです。

(略)

竜神の巻(第5巻)
 宇津木兵馬もまた、この夜、宿を出て、ただひとりこの竜神の社内へ出て来たのであります。
 今日で、この地に留まること三日、まだ机竜之助の在所がわからない。
 十津川で山小舎が爆発した後、中にいた十人の浪士の運命は悉くきまったけれども、竜之助一人の行方だけがわかりませんでした。しかし、落ち行くところは必ずや紀州竜神--竜神は昔から落人の落ち行くによい所であります。
 源三位頼政の後裔もここに落ちて来た。熊野で入水したという平維盛もこの地へ落ちて来た。ずっと後の世になっても、乱を避け世を逃れた人の言い伝えが土地の古老の話に聞くと幾つも残っているのであります。
 兵馬は十津川から追いかけて来る間、山中の杣に聞くとこんなことを言いました--ある夜、一人の武士が、この山間の水の流れで頻に眼を洗っていた。最初は水を飲んでいるのかと思って、よく見たら、幾度も幾度も眼を洗っていたのであった。杣と聞いて安心し、竜神へ出る道をよくたずねて、覚束ない足どりで出かけて行った・・・・・・・
 たしかにそれ。そうしてどこかに負傷している。眼を洗っていた--かの火薬の烟に眼を吹かれたのでもあろうかと、兵馬は直ちに想像しました。

(略)

御浪人、眼はどうじゃ、眼は
 窓を隔てた次の間から、修験者は、この世の人でないような声で尋ねてみると、
うむ、よくない、だんだん悪くなるようじゃ
 机竜之助は、肱を枕に、破れた畳の上に身を横たえて、傍には両刀を置いて、こう答えたが、燭台の光で見ると、例の蒼白い面がいっそう蒼白く、両眼は閉じて--左の眼のふちにはうっすらと痣がある。
それはいかん、滝の水で洗うて来たか
 修験者は言う。竜之助は答えて、
さいぜん、滝まで下って行った、どうやら人がいるようだから、やめにして帰って来た

(略)

さて、修験者殿……
 竜之助は、やや改まった声で、
いつまでもこうして御厄介になってはおられぬ、拙者は立退こうと思う
待て待て、その眼を充分に癒してからにするがよいぞ
治るかよ、この眼が
治る、信心一つじゃ
うむ--
 竜之助は、また黙った。
しかし、その信心ができぬ。拙者にはこうなるが天罰じゃ、当然の罰で眼が見えなくなったのじゃ、これは憖(なま)じい治さんがよかろうと思う
 竜之助は独言のように言う、修験者はこれについて返事がない。竜之助が独言のように言った時は、修験者はもう護摩壇に上っていて、それを聞かなかったものらしい。
眼は心の窓じゃという、俺の面から窓をふさいで心を闇にする--いや、最初から俺の心は闇であった
 竜之助の面には皮肉な微笑がある。窓の外の闇はいよいよ暗くして、雨は相変らずポツリポツリ、風もザワザワと吹いている。

(以下略)

 

 上記の「大菩薩峠」で修験者が机竜之助に眼を洗うよう勧めたのが「曼荼羅の滝」であるとされる。下記のWebサイトをはじめとして観光パンフレット等では「この滝で眼を洗い全治したと紹介されることが多いが、上記引用部分にあるとおり、竜之助(作品の中では「虚無にとりつかれた剣士」とされ、いわゆる「ニヒリスト剣士」の系譜の事実上の元祖と言われている)は眼を治さないまま龍神を離れた。この後、竜之助は完全に視力を失って「音無しの構え」を使う盲目の剣士として活動することとなる。

www.nwn.jp

 

 今日で言う「ダークヒーロー」の嚆矢とも言うべき机竜之助の人物像は、「大菩薩峠」が発表された大正時代から昭和初期にかけて大きな話題を呼んだ。公益財団法人日本近代文学館のWebサイト(2021.4.3~6.12開催の展示会「中里介山大菩薩峠」-明滅するユートピア」)にも紹介されているように、この異色の作品は文学界から高く評価されるとともに、演劇や映画など大衆文化にも大きな影響を与えたことから、この作品によって「龍神温泉」が全国的な知名度を得たと言っても過言ではないだろう。

中里介山の「大菩薩峠」は、日本の近代文学のなかでもたいへん特異な、不思議な位置を占める大長編です。1913(大正2)年から始まって、1941(昭和16)年まで28年間も書きつがれ、しかも未完に終わりました。理由のない不条理な殺人から始まって、江戸末期、盲目の侍・机龍之助を中心に夥しい数の人物たちを登場させ、終わりのない物語がくりひろげられます。泉鏡花谷崎潤一郎らが高く評価し、1920年代半ばにはベストセラーになって演劇や映画にも取り上げられています

www.bungakukan.or.jp