生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

文武両道の学僧豪傑・北畠道龍(和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、幕末に「法福寺隊」と呼ばれる民兵集団を組織して精強をもって全国に名を轟かせ、明治に入ってからは私立法学校のさきがけとなる「講法学舎」を創設するとともに浄土真宗本願寺派の僧として本山改革運動に取り組むなど様々な分野で活躍し、「文武両道の学僧豪傑」と呼ばれた北畠道龍(きたばたけ どうりょう/どうりゅう)を紹介します。

 和歌山市和歌浦中にある「明光通り商店街」近くの住宅街の中に法福寺という寺院があります。幕末から明治時代のはじめにかけてこの寺の住職を務めていたのが北畠道龍です。

 

 道龍は、僧侶でありながら軍事指導者教育者宗教改革論者など様々な側面を有する人物で、その見方によって業績に対する評価も大きく変化するようです。
 例えば、平成元年(1989)に和歌山県が発行した「和歌山県史 人物和歌山県史編さん委員会編)」では次のように解説されており、民兵(武士ではなく農民・漁民・町民などの一般庶民により構成された兵士)組織「法福寺隊」での活躍に主眼が置かれています。

北畠道龍 きたばたけ どうりゅう
1820~1907 
僧侶 和歌山市出身 和歌浦法福寺住職。
幼名宮内法名循教
若いころ全国を行脚して各地の志士と交わる。
帰郷後、法福寺山門に「日本体育共和軍隊」の大看板を掲げ、「国家危急のときは士農工商を問わず剣を取れ」と説いて僧侶や町人を集めて法福寺隊を組織。
文久3年(1863)の天誅組の変、慶応元年(1865)の長州征討で活躍した。
維新後、政府から陸軍少将兼元老院議官に任命されたが固辞
明治9年(1876)上京して北畠講法学舎を創立する。
14年西本願寺執事となるが、間もなく外遊、16年12月インドから帰国した。
その後、坊主改良論を説き、北畠大学設置運動を展開するが、実現しなかった。
明治40年10月15日没。
主な著書に『世界宗教の興廃』『宗教歴史』などがある。
(阪上義和『紀の国百年人物誌』)

 ところが、同じく和歌山県が運営するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」では次のように紹介されており、ここでは「北畠講法学舎」という私立法律専門学校の開設を最大の業績とみなして、道龍を「教育者」と位置づけています。

教育者 北畠道龍 (きたばたけどうりゅう)
文政3年(1820)~明治40年(1907)
和歌山市生まれ


北畠講法学舎をつくった文武両道の学僧豪傑
 文政3年(1820)、現在の和歌山市和歌浦浄土真宗本願寺派法福寺に生まれる。幼名を宮内循教といい、道龍と号した。
 11歳のころから、仏典、徂徠学、易学、禅学などを学び、武芸も、剣は柔剛流、槍は大島流柔術関口流を学びそれぞれ免許を与えられた。
 20歳の時、寺務を弟に譲り巡遊の旅に出て、本山や他宗派の学問を修めるとともに、諸国の志士と交流した。
 明治9年(1876)56歳の時、友人の協力をえて、東京の有楽町にのちに明治大学を創立した矢代操とともに北畠講法学舎を設立し校主となった。そして、当時の司法卿山田顕義に、「本学舎卒業生には無試験で代弁人の免状を与える」ことの許可を得、この特典により、北畠講法学舎は学舎内に訟務局を設け、訴訟代言業務を開業した。
 明治18年(1885)、『今日新聞※1』が「現今日本十傑」を募集し各界のナンバー1を選んだ際には、政治家では伊藤博文著述家では福沢諭吉、そして教法家では北畠道龍が1位となった。
 明治22年(1889)、精神学・歴史学等を専門とする北畠大学を設立しようと(筆者注:後述の西巻開耶)と共に東奔西走して資金を集め、各方面の理解を得るが、会計係の不正により、大きな負債を負い、計画は崩れた。
 日本体育共和軍隊(法福寺隊、義烈隊、遊撃隊とも称される)をつくり、また、紀州藩政改革徴兵制創始への参与、さらに北畠騒動とよばれる本願寺改変の活動でも知られる学僧豪傑であった北畠道龍は、明治40年(1907)87歳で亡くなった。
北畠 道龍 | 和歌山県文化情報アーカイブ

※1 明治17年(1884)に創刊された日本初の本格的夕刊紙。「みやこ新聞」「都新聞」と改名した後、「国民新聞」と合併して「東京新聞」となる。昭和38年(1963)に株式会社東京新聞中日新聞社の傘下に入り全業務を中日新聞社に譲渡したため、現在の「東京新聞」は中日新聞東京本社の発行となっている。
東京新聞 - Wikipedia

 さらに、大正15年(1926)刊行の「大日本人名辞書 上巻大日本人名辞書刊行会 1926)」には次のような記述があり、ここでは陸奥宗光が投獄される原因となった「立志社事件※2」道龍も関与していたことや、晩年に宗教改革を唱えたことなどが記されています。
※2 明治10年(1877年)、土佐の政治団体立志社」に属する人物の一部が企てた政府転覆計画に関与したとして、陸奥宗光は禁獄5年の刑を受けた。
日本屈指の名外務大臣・陸奥宗光の「禁獄5年の刑」|歴史チャンネル

キタバタケ ダウリョウ 北畠道龍
西本願寺の僧、紀伊の人、其先は北畠顕家※3に出づ
初め法福寺の僧と爲り 後京都西本願寺學寮に入り學頭たり、
文久年間 大和十津川の變起るや僧兵を組織して之に向ひ功あり
蓄髪して士籍に入り禄三百石を食む、
明治二年和歌山藩少參事となる
廢藩の後退職、京都に出で獨逸學を修む
十年 西南の役 陸奥宗光の陰謀に黨し
土佐一派と氣脈を通じて事を舉げんと欲して果さず僅かに其罪を免る、
其後西本願寺の命を以て歐洲を巡り
印度を經て釋迦の遺跡を探ぐり
歸朝の後 宗教改革を唱へ
大に為すあらんとして晩年甚だ振はず
四十年病て大阪に歿す
道龍人となり 
體軀肥大、機鋒峻峭、雄辯人を壓す
深く佛學哲理を究め 兼て劍法兵法に通ず、
著書十數部あり
大日本人名辞書. 上卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション

※3 南北朝時代の公卿、武将。「神皇正統記」を記した北畠親房の長男で、後醍醐天皇に従い義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥を平定した。その後鎮守府将軍に任ぜられて足利尊氏らと戦い、一度はこれを打ち破って九州に追いやったが、延元3年/暦応元年(1338)の石津の戦いで高師直らの軍勢に破れ、わずか21歳(満20歳)で短い生涯を終えた。眉目秀麗でありながら戦では勇猛果敢であったとされ、「花将軍」と讃えられた。
なにわ大坂をつくった100人 第77話 北畠顕家


 「県史」の記述にあるように、道龍が最初にその勇名を轟かせたのが文久3年(1863)に発生した「天誅組の変(「大日本人名辞書」では「大和十津川の變」)」でした。この変の詳細については別項「龍神温泉天誅組大菩薩峠」において詳述しているためここでは省略しますが、孝明天皇の元侍従・中山忠光尊王攘夷派の志士を率いて五条倒幕の兵を挙げた事件です。
龍神温泉と天誅組・大菩薩峠 - 生石高原の麓から

 紀州藩ではこれを鎮圧するために藩兵を派遣しますが、この際に道龍率いる民兵組織「法福寺隊」も同行しており、藩兵を上回る華々しい働きをみせたことから一躍脚光を浴びることになったのです。
 これについて、和歌山県教育委員会が発行する「ふるさと教育読本 わかやま発見」には次のような記述があります。

第2編 わかやまの歴史
第3章 紀州徳川家の時代

激動する幕末の紀州

(略)
 同年(筆者注:1863年8月17日,公家の中山忠光を大将とした尊王攘夷をとなえる天誅組が,大和国奈良県五條代官所を襲撃し,占領しました。幕府の代官所を襲った天誅組に対し,紀州藩はこれをおさえるために3,900人の藩兵を向かわせました。しかし,紀州藩兵は実際の戦いにあまり役立たなかったようです。これに対して,津田正臣が指導してつくった在地の有志により組織された農兵隊と,和歌浦法福寺の僧北畠道龍が率いた法福寺隊が,藩の正規兵以上の実力を発揮し,注目されました
わかやま発見|目次

 上記引用文において北畠道龍と並んで名が挙げられている津田正臣(つだ まさおみ)は後に初代和歌山県知事(当時の職名は権令)となった人物です。紀州藩では津田が率いた農兵隊道龍が率いた法福寺隊の活躍が目覚ましかったことから、それまでの士族に限定した藩兵組織から身分階級の区別なく徴兵する近代兵制への転換を急速に進めることとなります。その任にあたったのが津田正臣の兄である津田出(つだ いずる)北畠道龍なのですが、こうした紀州藩の兵制改革に関しては項をあらためて詳しく紹介したいと思いますので、ここでは省略することとします。
津田正臣 - Wikipedia
津田出 - Wikipedia

 

 和歌山市出身の作家・津本陽(つもと よう 1929 - 2018)氏は、道龍を主人公とした小説「幕末巨龍伝(新潮社 1984)」を発表していますが、その序盤において天誅組の変における道龍法福寺隊の活躍について次のように描いています。

 万一、敵の大軍があらわれ法福寺隊が包囲されたときは、狼煙(のろし)を放てば三番手が救援にくることになっていたが、見るからに臆病者らしい井関弥五助(筆者注:道龍らと合流した藩兵の隊長)らが、戦闘の間にどれほどの援けとなるか、怪しいものである。
 道龍は後続の兵士たちが追いついてくると、躍進して前へ出ようとした。兵士は皆臆した様子はない。冗談をいいあう者さえいて笑声が聞えるのに、道龍はおどろきかつ満足する。
 やっぱり儂が思うていた通り、世襲の禄を守り安穏に過ごしてきた武士より、百姓町人のほうが胆玉(きもだま)がふといのやと、あらためて認める思いである。法福寺隊の実力について抱いていた懸念は、高野山での同志討ちの椿事(筆者注:小説中では、この地に至る前に藩兵及び法福寺隊らが敵の撹乱にあって同士討ちをする事件があった)の際、陣形をすこしも崩さなかった事実により、信頼してはいたが、和歌浦の男たちは道龍の想像をうわまわる闘志をそなえていた。
(中略)
 又六(筆者注:追討軍総督・坂西又六のこと)は懐中から一通の封書をとりだし、目録と墨書された上書きをはずした。
大殿様よりのご褒美のお言葉を頂戴いたしたゆえ、伝達に参った。まずは控えられい
 あらたまった又六の口上を聞き、道龍は気色をあらためる。
おい皆の者、聞いたか。法福寺隊に大殿様よりご褒美のお言葉を、頂戴するんやぞ。ただちに列伍をととのえよ
 兵士たちは慌てて駆け集まってきた。
 道龍は隊列の先頭に立ち、頭を垂れる。
褒詞、北畠道龍ならびに法福寺隊一統儀、このたび伊都郡富貴鳩の首において、賊徒多数を討滅いたし、難所切所を乗りこえ敵塁をきりしたがえし働き神妙なり。ここに賞金壱万匹※4を遣し、その功業を嘉賞すること依って件の如し
 道龍は五体の痺れる感動にひたっていた。三年半の歳月を、法福寺の頓狂坊主と蔭口をたたかれつつ、遣り繰り算段して文盲の青年たちを兵士に仕立てあげてきた辛苦が、報われたのである。
(中略)
 鳩の首の一塁を奪取しただけで、これほどの恩賞にあずかるとは誰も思ってはいなかった。道龍も褒詞を聞きつつ、いささか針小棒大の認められかたやと感じたほどであったが、紀州藩征討軍三千人のうち、敵と接触し撃破したのは、法福寺隊のみであった。
(中略)
 九月八日、法福寺隊は鳩の首(はとのこうべ)より天の川辻(てんのかわつじ)へ向けて進撃をはじめた。大和五条に本営を置いていた天誅組が、四藩の兵の包囲をのがれ、五条から十津川へ向う街道の要衝であるその地に、主力を移したのである。
(中略)
 紀州藩一の手三百余人は、八日夜天の川辻より二里半北方に迫ったが、夜討ちをかけられ番小屋を焼払われて後退する。
 井伊勢も夜討ちに遭い、本陣に放火され兵粮(ひょうろう)弾薬をすべて焼失した。
 法福寺隊は進軍の途中、帯川村で敵と激闘し、道龍は敵の小隊長の首級をあげる。天の川辻を見あげる峠下に、全軍が集結したのは十二日であった。
(中略)
 道龍は声をからして叫びたて、駆け寄ってくる敵兵を、鉄棒の一閃ではねとばす。別の敵が槍を構え、横合いから突きかかるのをかわしもせず、横殴りで地に沈める。
 僧侶隊の連中がわきめもふらず斬りこんでゆく。甲冑に身をかためた二十人ばかりの武者が、矢声とともに立ちむかってくるのをみると、道龍は地を蹴って突進した。

 

 天の川辻の天誅組本陣は、半刻(一時間)たらずの戦闘で陥落した。法福寺隊僧侶隊の奮戦で死命を制せられた敵は、四囲の山地へ遁走する。
 後続の四藩の兵は、道龍たちのはたらきによって、焼け跡の釘を拾うような安易な追撃戦をおこなうことができたのである。
(以下略)

幕末巨龍伝 (双葉社): 2009|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

※4 「匹(ひき 「疋」とも)」は銭を数える単位。もともとは「銭一貫文=百疋」であったが、天誅組の変の8年後にあたる明治4年(1871)に公布された新貨条例では「百疋=25銭」とされた。これに従えば「賞金1万匹」は「新貨25円」に該当することになるが、下記のサイトによれば当時の四等巡査の月給が6円であったとされるので、これを現在の警察官の初任給(令和4年度和歌山県警察官の大卒初任給が219,030円)と照らし合わせれば90万円程度と考えることができる。
明治~令和 値段史

 

 道龍率いる法福寺隊は、慶応2年(1866)に幕府長州藩に対して征討軍を送り込んだ通称「第二次長州征伐」でも活躍したと伝えられ、最新式の装備を有して士気も高い長州軍に次々と幕府軍が敗走する中、唯一互角の戦いとなった「芸州口の戦い」において紀州軍の一角を担っていたとされます。
 こうして民兵組織の実力を示した道龍たちは、先述した津田出の指揮のもとで紀州藩の兵制改革に乗り出します。時あたかも明治維新の直後であり、津田出が招いたプロイセン王国(現在のドイツ)下士官カール・ケッペンを教官として紀州藩に構築された新しい軍隊は全国から注目を浴び、ケッペンをしてその精強さ故に「新しいプロイセンの誕生である」と評されるほどの充実ぶりをみせました。
カール・ケッペン - Wikipedia

 ところが、この新兵制は明治4年(1871)の廃藩置県紀州藩が解体されたことにより突然終焉を迎えました。藩兵は解散となり、ケッペンのもとで長屋喜弥太(後に初代和歌山市長となる)らとともに歩兵大隊長を務めていた道龍はこれをもって軍の表舞台から退場することになります。

 

 

 上述の「幕末巨龍伝」によると、その後道龍は政府から陸軍少将として招かれたもののこれを辞退し、京都東山へ転居してドイツ人法学者ヨンゲルのもとで法律学、理学、天文、地理、精神学などを学んだとされます(道龍はケッペンからドイツ語を学んでおり、この時点で一定のドイツ語の基礎を身に着けていたものと考えられる)
 その後は東京に移り、明治10年(1877)には自由民権運動の指導者として知られる大井憲太郎とともに法律学校「講法学舎(後に「講法学社」と改名)」を創設しました。この学校は現在の弁護士に相当する「代言人」を養成するために設立されたもので、それまでは官立の司法省法学校及び東京大学のみでしか行われていなかった法曹養成を民間でも行おうとする新しい取り組みでした。我が国で最初に開設された私立法律学元田直(もとだ なおし 法政大学の創設者の一人とされる)が明治7年(1874)に開設した「法律学」であるとされていますが、講法学舎はこれに続き二番目に古い私立法律学であるとされます(栗原進徳が明治8年(1875)に山形県鶴岡代官町で開設した法律学舎支校を二番目とする見方もある)
 講法学舎では、上記「和歌山県ふるさとアーカイブ」の引用文にもあるように、卒業生全員に無試験で代言人資格が付与されたことから入校希望者が相次ぎました(後に試験制度が厳格化されたためこの制度は消滅する)
 村松玄太氏は「近代法制胎動期における私立法律学校の簇生に関する予備的考察(「明治大学史資料センター報告 第37集」明治大学 2016)」において道龍の経歴と講法学舎創設の経緯、及び後に道龍と袂を分かった大井憲太郎が創設した明法学舎について次のように記しています。

(三)北畠道龍(講法学社)
 講法学社創立者北畠道龍(1820-1907)は紀州出身の浄土真宗の僧侶・教育者。戊辰戦争においては和歌山藩大隊長となり、その功により監事参事の職を任され、その後京都でドイツ学を学んだ。1876(明治9)年、上京した北畠はその年の12月、大井憲太郎村瀬譲とともに私立講法学社を設置した。同校は生徒数を増やし、神田紅梅町に教場を移転する。同校には明治法律学校創立者矢代操が講飾および学校の共同経営者として、岸本辰雄宮城浩蔵が講師として参画していた。のちに同校を退校した生徒を中心に明治法律学校が創立している。

 

(四)大井憲太郎(明法学舎)
 明法学舎創立者大井憲太郎(1843-1922)は、豊前国出身の政治家、弁護士。自由民権運動における指導的立場にあった。箕作麟祥に学び大学南校(筆者注:だいがくなんこう 現在の東京大学法・理・文学部の源流)に入学。その後代言人として活動しながら自由党に参加する。1875年、元老院少書記となるが、免官。その後は弁護士として活躍する。1876年、講法学社の設立に参画したが北畠と挟を分かち、1877年、駿河台東紅梅町に明法学舎を設置するに至っている。1885年の大阪事件(筆者注:朝鮮で革命を起こし、これに乗じて明治政府の打倒を図ろうとしたが、未遂に終わる)を主導したことで逮捕投獄される。出獄後の1893年衆議院議員総選挙に立候補し当選。1898年の憲政党の結成に尽力した。
Meiji Repository: 近代法制胎動期における私立法律学校の簇生に関する予備的考察

 

 上記引用文のうち北畠道龍の項には矢代操岸本辰雄宮城浩蔵という三人の名前と明治法律学校という校名が登場しますが、これが現在の明治大学のルーツであるとされており、同学では矢代岸本宮城の三人を創立者としています。当時の状況について、明治大学のWebサイトでは次のように解説しています。

創立者たち
 明治大学の歴史は、法学部の歴史でもある。法学部の前身である明治法律学校が創立されたのは、1881(明治14)年1月。開校届けによれば、創立者岸本辰雄宮城浩蔵矢代操の3人で、いずれも司法省法学校の卒業生(第一期生)である。
(中略)

 

創立の背景
 司法省法学校の第一期生は1876(明治9)年7月に同校を卒業することとなり、岸本宮城はフランスに留学、矢代講法学舎(大井憲太郎ほか設立)という代言人(弁護士の前身)養成学校の運営に携わった。岸本パリ大学宮城リヨン大学で法学士号を取得して、1880年2月と6月に相次いで帰国したのち、明治政府の法制官僚として諸立法事業などに参画する傍ら、矢代の依頼をうけて講法学舎講師をつとめた。岸本らは、司法省法学校卒業式の際に、恩師ボアソナードが語った「法学の普及こそが諸君の天職であり、使命である」という言葉を忘れず、法学教育に携わる希望を持ち続けていたわけである。おりしも講法学舎が経営方針の対立から内部分裂したため、創立者の3人は、同年10月に帰国した西園寺公望とも相談して、同学舎の生徒の一部を引き継ぐ形で、明治法律学校を創立したのである。
概要 | 明治大学

 その創設の経緯が内部分裂という残念な事態であったとはいえ、現在の明治大学を生み出した母胎の一つが講法学舎であったということは紛れもない事実であり、この点においても道龍が残した功績は極めて大きいものがあると言って間違いないでしょう。

 


 また、道龍はこの頃から浄土真宗本願寺派21世宗主明如(大谷光尊)に重用されることとなり、本願寺の改革に深くかかわるようになります。当時、本願寺では島地黙雷大洲鉄然赤松連城といった防長防府と長州、現在の山口県出身の僧侶グループが大きな勢力となっていました。これに対し、道龍島地らの説く教義は「異安心(いあんじん 浄土真宗において宗祖・親鸞の説くものとは異なる異端的な信仰を指す)」であるとして批判し、明如から全面的な委任を受けて本願寺の大改革に乗り出そうとしたのです。
 一旦はこの改革が軌道に乗ったかに見えましたが、やがて防長グループ明治新政府において大きな力を有していた防長出身の政治家の支援をとりつけ、明如までを動かしてこの改革を完全に「無かったこと」にしてしまいます。これについて、元龍谷大学教授の児玉識氏は「防長から見た明治維新期における本願寺教団:森竜吉史学の再評価とその批判的継承を目指して(「龍谷大学 仏教文化研究所紀要 第49集」龍谷大学 2010)」において次のように記しています。

(2)反防長グループの台頭とその後の教団
 以上からもお分かりのように、防長グループ西本願寺教団だけでなく明治仏教界全体をリードする勢いをもっていたのでした。しかし、それだけに防長閥を形成しているとして、各方面からの反発があったことが当然予測されますが、事実、自由民権運動が広がり、藩閥政府への攻撃が強まるにつれ、防長グループに対する批判の声は教団内で高まっていきました。その攻撃の口火を切ったのは、默雷が「願クハ死生以テ法主ニ事へ、長ク法城ノ股肱タラン」とまで尊敬していた法主明如を中心とする本願寺内のグループで、その首謀は和歌山県出身の北畠道龍という僧でした。北畠は幕末の幕長戦争の際に紀州藩士として長州に攻めてきたこともある人物ですが、かれがまず島地黙雷の書いたものには、先ほど申しました称名念仏を重視する能行派の傾向が強いし、また大洲赤松香川らの防長グループもこれに近いが、これは教団の正統教義に反する異安心(異端教義)ではないかと、信仰面から防長グループを厳しく批判したのでした。明如もこれを支持します。そして、明治12(1879)年6月14日、突如明如教団革正運動の一環として管長の公選制実施檀家制の廃止本願寺の東京移転を発表して、実際に居を東京に移し、島地大洲香川長州派でかためた在洛役員を全員解職して、あらたに北畠革正事務局総理に任命して社会を驚かせました。これがいわゆる「北畠騒動」といわれる事件です。しかし、この明如を中心とする長州閥グループのクーデターに対して防長グループは、新政府の力を借りて三条実美岩倉具視らに明如を説得させ、この革新的な計画を全部中止させてしまいました。そして、明如は京都に帰り、教団はなにもなかったかのように従来通りの形態で存続することになったのでした。ただ、これを機に教団内での防長グループの発言力が弱くなったのは確かでした。
Index of /Libraries/龍谷大学仏教文化研究所紀要/仏教文化研究所紀要49

 

 こうして本山改革運動に挫折した道龍に対し、本願寺海外への派遣僧として欧米への留学を提案します。多額の留学費(上述の小説「幕末巨龍伝」では「当時としては空前絶後の4万8千ドルという巨額」とされる)を得た道龍は約2年間にわたりフランス、ドイツ、デンマークスウェーデン、イギリス、ロシア、オーストリア、トルコ、ギリシャ、イタリア、インドを歴訪したのでした。
 インドでは、仏教における最高の聖地と位置づけられているブッダガヤを訪問した最初の日本人となりました。このとき、道龍は現地で発掘調査が続けられていたブッダガヤの大塔を釈迦の墳墓であると誤解(現在では、釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた場所に建立された寺院と解釈されている)し、その感激の旨を石碑に刻んで現地に建立したと記録されています。
無盡燈ギャラリー141号│大谷大学同窓会[無盡燈]

「北畠道竜師印度紀行(西村七兵衛編・出版 明治17年)」に記された石碑の模写

北畠道竜師印度紀行 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 明治17年(1884)に帰国して後は、帰朝大演説会を催すとともに旅の詳細を記した書籍を出版、上述の「和歌山県ふるさとアーカイブ」にもあるように「今日新聞」が読者の投票により選定した「現今日本十傑」では「教法家」の区分で1位となるなど華々しい活動を行いました。これについて小説「幕末巨龍伝」では次のように記されています。

 彼が大旅行を終え横浜に帰着したのは、明治17年1月24日であった。柳原前光津田出松本良順野津鎮雄村瀬譲陸奥宗光ら朝野の名士数十名にむかえられた。
 2月上旬、木挽町厚生館で帰朝大演説会を開催し、彼は満堂の聴衆にむかい宗教改革の意志あることを語り、みずから日本のマルチン・ルーテルたらんと言明した。
その後、仏蹟参拝探険行の詳細を記した「天竺行路所見※5」を出版、名声はいよいよあがった。明治18年5月、某新聞が「現今日本十傑の人気投票」なるものをおこなった際、伊藤博文榎本武揚中村正直鳩山和夫福沢諭吉福地源一郎渋沢栄一らに伍して道龍も名をつらねた。」
※5 「国立国会デジタルコレクション」で閲覧することができる 
天竺行路次所見. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

 その後、道龍自由民権運動の活動家であった西巻開耶(にしまき さくや 1866-1908)と出会います。開耶明治15年(1882)に集会条例違反等で罰金刑を受けたことから「日本初の女性政治犯」とも呼ばれますが、道龍と出会った時期には女性の政治参加や女性教育の必要性を主張していた人物でした。
 道龍は欧州留学での経験から女性の経済的・精神的自立の重要性を訴える活動を行っており、これに共鳴した開耶はやがて道龍の弟子となり、道龍の晩年には妻となります。二人はそれぞれ「大学」と「女学校」の開設を夢見て資金調達に腐心しますが、財務担当者の離反などもあって遂にこの夢が叶うことはありませんでした。
 二人の出会いから晩年の暮らしについて、Wikipediaの「西巻開耶」の項では次のように書かれています。

 道龍は留学していたドイツで見聞した婦人組織「ノンネン会」(筆者注:「ノンネン(nonne)」はドイツ語で「尼僧」「修道女」の意)を参考に、日本で同種の組織を実現しようとした(のちに「婦人修正会」となる)道龍1886年明治19年)から東北地方を巡回し各地に「法話事務所」を設置して女性を対象とする会合(ノンネン会)を開催し、女性の知識向上と宗教心涵養を図っていたが、開耶は1888年明治21年)1月より東北巡回に同行して演説を行うようになった。
(中略)
 福島では地元有力者の支援を受けながら「学場」を設け、生徒を募集して教育を行った。開耶が英語と漢学を教え、英書を講読して世界的視野を広げようとするものであった(なお、実用的科目とされた裁縫も教えられている)東京でも女学校の設立を準備していたという。
 道龍の東北での巡回演説活動は、彼が目指す「北畠大学」設立のための資金獲得という目的もあった。しかし、道龍の急進改革論に反発する仏教界(主要には浄土真宗本願寺派の保守派)の攻撃や、道龍の性格に起因する諸問題(側近とのトラブルや、関心を次々に移して事業や組織・支持者の面倒を十分に見ないこと)もあって、道龍の名声は次第に低下していくことになる。最終的には財政担当者が離反し、道龍が目指した「北畠大学」は頓挫した。これとともに、開耶の女学校計画も挫折した。
 道龍開耶は、東北での事業をあきらめ、大阪に転居しているが、時期ははっきりしない。1896年(明治29年)3月24日、大阪で開耶道龍との第一子を出産している。1897年(明治30年)1月15日、開耶は正式に道龍との婚姻を届け出た。当時開耶は32歳道龍は78歳であった。大阪での結婚生活は経済的に厳しいものであったと伝わるが(道龍の先妻との子からの仕送りもあったが、この先妻の子たちも事業に失敗するなどで厳しい状態になったという)、最終的には3男1女を得た。道龍は日記に家庭の好事を書き残すなど、家庭人としての一面も垣間見せている。各地の婦人会の中には、晩年の道龍との交流が残ったところもあるようである。
 1907年(明治40年)10月15日に道龍は88歳で死去。開耶も翌1908年(明治41年)の大晦日に死去した。43歳没。
西巻開耶 - Wikipedia

 このように、晩年は決して恵まれたものであったとは言えませんが、民兵組織のリーダーとして、私立法律学校創立のさきがけとして、また宗教改革論者として、そして女性の自立をめざした宣教活動者として、それぞれ道龍が果たしてきた八面六臂の活躍はいずれも何らかの形で後世に影響を与え、世の中を動かしていく力を産み出していったのだと思います。

 

 現在では人々の活動や関心はより専門化し、先鋭化する方向へと進みがちですが、北畠道龍のように様々な分野に関わってそれぞれの世界を変革していこうとする強烈な個性を持った「傑物」もまた必要とされる時代なのではないでしょうか。