生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

吹上寺・本居大平の墓(和歌山市男之芝町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 今回は和歌山市男野芝町にある「吹上寺(すいじょうじ)」という寺院を紹介します。この寺院は、古事記の詳細な注釈本である「古事記伝」をまとめたことで知られる国学者本居宣長(もとおり のりなが)の養子となりその研究を受け継いだ本居大平(もとおり おおひら)ら「和歌山本居家」の墓所がある寺として知られています。

 

 吹上寺和歌山城にほど近い和歌山市男野芝和歌山地方気象台の西隣)にある臨済宗妙心寺派の寺院です。この寺院には、本居宣長の養子で、その研究を引き継いで紀州藩に仕えた本居大平墓所があります。

 

 本居宣長(もとおり のりなが 1730 - 1801)伊勢国松坂(現在の三重県松阪市に生まれ、医師を開業するかたわら、源氏物語日本書紀などの研究を行っていました。27歳の時に国学者賀茂真淵(かもの まぶち 1697 - 1769)と出会い、本格的に国学(日本の古典を研究し、古代日本の独自の文化、思想などを明らかにしようとする学問)の研究に傾倒するようになります。33歳にして正式に真淵から入門を許可されてからは本格的に古事記の研究に取り組み始め、最終的に35年の歳月をかけて全44巻の古事記注釈書「古事記伝」を書き上げました。これは、国学における最高の研究成果と位置づけられるばかりか、現代においてもなお古事記研究に不可欠の書として高く評価されています。

 我が国の「正史」として公的に位置づけられていた日本書紀が中世・近世を通じて多くの人々に読み継がれていたのに対し、古事記はあくまでも天皇家の私的な文書とみなされてほとんど顧みられることがなく、その内容を読み解こうとする試みも極めて限定的であったようです。このため、宣長が研究をはじめた時には、漢字ばかりで書かれた古事記の文章が実際に何を意味しているのかすら判然としないことが多く、この研究は困難を極めるものでした。
 こうしたことについて、三重県が作成した教材「三重の文化 郷土の文化編(平成22年9月)」の「松阪市」の項では次のように解説されています。

 28歳で松阪に帰り医者を開業した宣長は、そのかたわら松阪の歌会に参加し、会員たちに『源氏物語』を講義しました。そんな中で宣長は、歌や『源氏物語』が人を感動させる秘密は、人は「もののあはれを知る」心を持っているからだと考えます。「もののあはれ」とは、嬉しいこと、悲しいこと、また四季の移り変わりなど、物の変化に敏感に揺れ動く心をいいます。当時、特に男性は、冷静沈着でなければならないとされていましたが、ここに日本人の心の特徴があると考えた宣長は、それを証明しようと、現存最古の歴史書古事記』(712年成立)の解読を思い立ちます。ところが、漢字ばかりで書かれた『古事記』は難しく歯が立ちません。自分の勉強不足を痛感する宣長の前に現れたのが、江戸の国学者賀茂真淵(かもの まぶち)でした。国学とは、日本固有の文化や思想を、古典や歴史、また言葉の研究で明らかにする学問です。
 1763(宝暦13)年5月25日、真淵が泊まっていた松阪の旅館新上屋(しんじょをうや)を訪ねた宣長に、真淵、『古事記』に注目したことは素晴らしいとほめて、難解なこの本を読むためには、まず『万葉集』から勉強をしなさい、学問は基礎が大事だ、と丁寧に説き諭し、わからないことは手紙で質問してくれれば答えてあげようと約束してくれます。「松阪の一夜(ひとよ)」とよばれるこのただ一度の出会いを機に宣長真淵の弟子となり、その厳しい指導を受けながら、『古事記』の注釈書『古事記伝』の執筆に取りかかったのです。
 『古事記』の冒頭の「天地」という字はどのように読むのか。古代の人は「」をどんなふうに考えていたのか。『古事記』に登場するイルカクラゲ、またタニグクとはどんな生きものか(筆者注:「タニグク(多邇具久)」はヒキガエルとされる)。次々に出てくる疑問を一つ一つ丁寧に、時には街道を往き来する旅人の知恵を借りながら、解明していったのです。
 努力が実り、『古事記伝』全44巻が完成したのは、69歳の夏でした。執筆開始から35年がたっていました。21世紀になった現在でも本書は、『古事記』を読む時の基本書として、また日本古典研究の方法を確立した書として、高く評価されています。

三重県|小中学校教育:教材「三重の文化-郷土の文化編-」

 

 この当時、伊勢松坂紀州藩の領地でした。生涯の大半を市井の学者として過ごした宣長でしたが、その名声は和歌山にも届いていたのでしょう。天明7年(1787)、宣長が58歳の時には紀州藩9代藩主・徳川治貞(はるさだ)からの依頼に応じて国学の視点から政治道徳を論考した「玉くしげ」「秘本玉くしげ」を記し、治貞に献上します。
『玉くしげ』

 寛政4年(1792)、宣長は5人扶持の待遇で紀州藩に召し抱えられることとなりました。この後、宣長は3回にわたって和歌山を訪れ、当時の藩主・徳川治宝(はるとみ 紀州徳川家第10代藩主)らに国学に関する講義を行っています。
和歌山での187日

 

 宣長には長男・ 春庭(はるにわ 1763 - 1828)がいて宣長の研究を助けていましたが、若くして眼病を患い後に失明したようで、宣長の死後、家督宣長の養子となった大平(おおひら 1756 - 1833)が継ぐこととなりました。
大平、養子となる

 宣長の学問を受け継いだ本居大平は、享和2年(1802)、宣長の跡目として紀州藩に召し抱えられ、文化6年(1809)、には家族を連れて和歌山に移り住むこととなりました。
 これによって、本居宣長国学の系譜は和歌山において更に発展することになります。下記のリンク先にある「朝日日本歴史人物事典」の記述に従えば、卓抜な業績こそなかったものの、1,000人以上の門人を抱え、その温厚篤実な人柄によって本居学派をまとめていったとされます。
本居大平について知りたい。 | レファレンス協同データベース

 

 冒頭で紹介した吹上寺には、この本居大平をはじめとする和歌山本居家の一族の墓があります。松阪市にある本居宣長記念館のWebサイトによれば、ここには大平をはじめとする8基の墓石と「先祖親族墓遙拝所」と刻された自然石があるそうです。同サイトに掲載されている写真では、本居大平の墓石は他の墓石と同じように並んでいますが、近年風化が進んできたため屋根をかけるとともに説明板が建立されているようです。

www.norinagakinenkan.com

archive.gencompany.net

 

 

 ちなみに、本居宣長を祖とし、本居大平を2代目とする和歌山本居家第6代目の当主にあたる本居長世(もとおり ながよ)は、「日本童謡の父」とも称される童謡作曲家になりました。
 長世は、野口雨情作詞による「十五夜お月さん」を皮切りに、「七つの子」「青い眼の人形」「赤い靴」「めえめえ児山羊」など、現在も歌い継がれている多くの童謡を次々と作曲しています。また、その長女みどりは、「十五夜お月さん」を歌い、童謡歌手として始めてレコードの吹き込みを行ったため、日本で最初の童謡歌手と言われています。

 東京芸術大学内にあるアートギャラリー「 藝大アートプラザ」のWebサイトでは、東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)出身の本居長世について次のように紹介しています。

 「大正デモクラシー」と称され、民藝運動米騒動など民衆の利福の追求を標榜とした運動が各地で巻き起こった大正時代。音楽の領域でも本居長世を筆頭に、これらに匹敵する動きがあった。
 柳宗悦(やなぎ むねよし)を筆頭とする民藝運動とは、明治政府の思惑によって奪われた工芸品の中の伝統的な美を取り戻すための運動を指す。同様に、明治政府下で推進された学校唱歌に反発し、明治期に喪失された童謡の「わざうた」「わらべうた」の側面を復活させる流れを作ったのが本居長世であったのだ。
(中略)
 そんな本居長世は1885(明治18)年、国学の名家の長男として生を受けた。先祖を辿っていくと、江戸時代に大成したあの国学者本居宣長の6代目の子孫にあたる。父親はすでに離縁されており、幼くして母親を失った長世の育ての親となったのは、本居宣長の曽孫にあたる祖父の本居豊穎(とよかい)であった。本居家は天皇家とも関わりのある国学の名家として広く知れ渡っていたが、それも宣長ではなく、豊穎の名声(※)によるところが大きかった。
※1895(明治28)年、紀州出身の本居豊穎は江戸で神官や国学者として要職を累進。東宮御用掛や東宮侍講の職に就き、嘉仁皇太子(後の大正天皇)に和歌や作文、歴史、地理を教えた。さらに、『北白川宮』など天皇家と関わりのある歌の作詞も手がけた。

 

 本居長世は幼い頃から大家の跡取りとして羨望され、祖父の指導のもとで和歌や漢学の素養を磨き、歌学や言語への関心を高めていった。ところが13歳の時に事態が急変。兄の直臣が突如現れたことで、家学の継承を断念せざるを得なくなった。自らの将来について悩み抜いた末、音楽の道に進むことを決意。1902(明治35)年、東京藝術大学音楽学の前身である東京音楽学校予科に入学した。
 予科を極めて優れた成績で卒業した本居長世は、その後本科ピアノ科に進み、ピアニストの幸田延(こうだ のぶ)らに師事。首席で卒業すると同時に、国語の能力が高く買われ、東京音楽学校邦楽調査掛補助(※)に抜擢。明治以降の俗謡改良の政府方針と邦楽調査の経験を積みながら、柳田国男折口信夫とは異なる切り口で民俗学に踏み込んでいった。その後も順調にエリート街道を突き進み、学校を卒業してからわずか2年でピアノ科助教授の職に就いた。
※邦楽調査掛は1907(明治40)年、在来の邦楽の調査および保存を目的に文部省により設置。主に、楽曲の採譜や録音による保存、古老からの聞き取り、公開演奏会の開催・批評、楽譜や教則本の出版などの事業を行う部門として機能した。

 声明研究は昭和に入って本格的に始められたが、先駆者としてその道を切り拓いたのはこの本居長世である。邦楽調査掛の職に就いていた頃には、当時京都帝国大学(現在の京都大学で教鞭をとっていた2人の僧侶の声明(しょうみょう/仏教の法会に用いられる歌曲)を聞いている。「平家琵琶を学ぶには、まずは声明を研究することから始めなければならない」という考えがあって、声明にも関心を抱くに至った。
 13歳の時に国学者から楽家へと転身を図った本居長世であるが、少なくとも彼にとって国学音楽は全く別物の学問ではなかったようだ。
 
 本居長世が実際に作曲(編曲)を手がけた曲を挙げると、『汽車ぽっぽ』や『赤い靴』、『鯉のぼり』、『十五夜お月さん』、『通りゃんせ』、『七つの子』、『蝶々』、『桃太郎』、『一月一日』など。どれもタイトルを聞いてメロディーがすぐに脳裏に浮かんでくるような名曲ばかりだ。よって、童謡界において本居長世山田耕作は互いに双璧をなす存在であるのは間違いない。

 童謡以外では、かつて卒業式の定番として親しまれてきた(現在は歌われなくなったと聞くが)仰げば尊し』などの学校唱歌、『日の丸の歌』、『明治天皇御製』の作曲(編曲)も担当。日本国歌である『君が代』の成立をめぐっては諸説あるが、一説によると、幕末~明治前期の雅楽演奏者である林廣守(はやし ひろもり)が作曲し、本居長世が編曲したものと伝えられている。

 現代の私たちに親しまれる数々の童謡の作品からは、「わざうた」と「わらべうた」という明治政府により疎んじられてきた、本来の童謡が持つ日本古来の姿が顕現化される。本居長世は幼少期に得た和歌や漢学の素養を糧に、東京音楽学校での研鑽やさまざまな芸術家たちとの交流を経て、童謡の基礎を着実に作り上げていった。

東京音楽学校出身の作曲家・本居長世。『仰げば尊し』『赤い靴』数々の童謡を手がけたその生涯をたどる | 藝大アートプラザ