生石高原の麓から

かつて開設していた個人サイト「生石高原の麓から」の内容をブログ形式に移行しました

武内宿禰誕生井(和歌山市松原)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、和歌山市松原にある「武内宿禰誕生井(たけのうちの すくね たんじょうい)」を紹介します。ここは、5代の天皇に仕え、300年以上も活躍したと伝えられる日本古代史上のスーパーマン武内宿禰が誕生した際に産湯を使ったとされる井戸です。

 

 安原八幡神社の奥宮とされる武内神社長寿殿という建物の中に、日本の古代史において非常に特異な輝きを放つ人物・武内宿禰(たけのうちの すくね/たけしうちの すくね/たけうちの すくね)が誕生した際に産湯を使ったとされる井戸武内宿禰誕生井)があります。

 前項の安原八幡神社の解説でも紹介しましたが、武内宿禰は、景行成務仲哀応神仁徳という5代の天皇に仕え、300年以上にわたって活躍したと伝えられる人物で、忠臣として称えられ、日本銀行(お札)の肖像に5回も採用されたということでも知られています。

wakayama-rekishi100.jp

 

 武内宿禰の出自について、古事記孝元天皇」の項では次のように記されており、第8代孝元天皇の皇子・比古布都押之信命(ひこ ふつおしの まことの みこと 彦太忍信命とも)と、木国造紀伊国造であった宇豆比古(うずひこ 莵道彦(うじひこ)とも)山下影日売(やましたかげひめ 影媛(かげひめ)とも)との間に生まれた子、つまり孝元天皇の孫である孝元天皇-比古布都押之信命(彦太忍信命)-武内宿禰とされています。

原文
比古布都押之信命
(略)
又娶木國造之祖。宇豆比古山下影日賣。生子建内宿禰
古事記/中卷 - 维基文库,自由的图书馆

 

読み下し
比古布都押(ひこ ふつおし)の信(まこと)の命、
(略)
また木國造(きのくにのみやつこ)が祖、宇豆比古(うづひこ)山下影(やましたかげ)日賣に娶ひて、生みませる子、建内宿禰(たけしうちの すくね)
稗田の阿礼、太の安万侶 武田祐吉注釈校訂 古事記 校註 古事記

 

 これに対して、日本書紀の「景行天皇」では、武内宿禰屋主忍男武雄心命(やぬし おしを たけを こころの みこと)という人物と、菟道彦(うじひこ)である影媛(かげひめ)との間に生まれたとしています。

原文
三年春二月庚寅朔。卜幸于紀伊。將祭祀群神祇。不吉。乃車駕止之。遣屋主忍男武雄心命〈一云武猪心。〉令祭。爰屋主忍男武雄心命詣之。居于阿備柏原而祭祀神祇。仍住九年。則娶紀直遠祖菟道彦影媛。生武内宿禰
日本書紀/卷第七 - 维基文库,自由的图书馆


読み下し
三年 癸酉 春二月庚寅の朔。紀伊に幸(みゆき)して將に群(もろもろ)の神祇を祭(いは)ひ祀(まつ)らむと卜(うら)ぶるに、吉(よ)からず。乃ち車駕(みゆき)、止みぬ。屋主忍男武雄心命(やぬし おしを たけを こころの みこと)(一に云。武猪心(たけゐこころ)。)を遣して祭ら令(し)めたまふ。爰に屋主忍男武雄心命、詣(いでま)して、阿備(あひ)の柏原(かしはら) 紀伊國名草郡 に居て、神祇を祭(いは)ひ祀(まつ)る。仍りて住(とどま)りすむこと九年。則ち紀直(きのあたひ)の遠祖、菟道彦(うぢひこ)影媛(かげひめ)を娶りて。武内宿禰(たけうちの すくね)を生む。

飯田弟治 「新訳日本書紀(嵩山房 1912)」 
新訳日本書紀 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 この項では武内宿禰の父とされる屋主忍男武雄心命に関する詳しい記述はみられませんが、同じく日本書紀の「孝元天皇」には次のような記述があり、孝元天皇の皇子である彦太忍信命武内宿禰の祖父であるとされていることから、武内宿禰の父である屋主忍男武雄心命彦太忍信命の子であると推定されます。これに従えば、武内宿禰孝元天皇の曾孫にあたる孝元天皇彦太忍信命(比古布都押之信命)-屋主忍男武雄心命武内宿禰こととなり、古事記とは一世代のずれが生じているのです。

原文
伊香色謎命彦太忍信命
(中略)
彦太忍信命。是武内宿禰之祖父也
日本書紀/卷第四 - 维基文库,自由的图书馆


読み下し
(みめ 筆者注:孝元天皇の妃)伊香色謎色命(いかかしこめのみこと)彦太忍信命(ひこ ふつおし まことの みこと)を生む。
(中略)
彦太忍信命(ひこ ふつおし まことの みこと)は、是れ武内宿禰(たけうちの すくね)の祖父なり。
飯田弟治 「新訳日本書紀(嵩山房 1912)」 
新訳日本書紀 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 このように古事記日本書紀ではその血縁関係については若干の揺れが認められるものの、大枠としては武内宿禰父は孝元天皇の直系にあたり、母は紀伊国造家の出身である、と考えて間違いでしょう。

 また、古事記によれば武内宿禰7男2女の子をもうけたとされ、それぞれが「巨勢」「蘇我」「平群」「」「葛城」など、各地の有力豪族の祖になったとも記されています。
 
 武内宿禰が果たした役割について日本書紀では5代の天皇及び神功皇后の項に記述があり、これが「忠臣として300年以上にわたって天皇に仕えた」とする説の根拠となっています。日本書紀にはそれぞれの天皇・皇后の時代において、景行天皇の勅命を受けて東北諸国の形勢・民情の視察を行い、成務天皇には大臣に任じられ、仲哀天皇とともに熊襲征伐に向かい、仲哀天皇崩御の後は身重の神功皇后を補佐して朝鮮半島に進出し、応神天皇時代には朝鮮半島出身の人々を指揮して「韓人の池奈良県田原本町」を掘らせ、晩年には仁徳天皇の政道に参与した、などといった武内宿禰の事績が記されているのです。

 明治維新により新たに「天皇中心の国づくり」を国是とした大日本帝国では、天皇の権威を高めるために長年にわたって天皇を支えた忠臣として武内宿禰を顕彰する動きが高まり、紙幣の肖像画に何度も登場することになりました。日本銀行(お札)としては、明治22年の一円紙幣、明治32年の五円紙幣、大正5年の五円紙幣、昭和18年の一円紙幣、昭和20年の二百円紙幣と合計5回も紙幣に登場しており、これは聖徳太子の7回、菅原道真和気清麻呂の6回に次ぐ記録です。

ja.wikipedia.org

 

 武内宿禰の生誕地については諸説ある佐賀県武雄市の武雄神社にも生誕伝承がある)ものの、公式には享保16年に当時の第71代紀伊国造俊範によって、和歌山市松原にある井戸が宿禰の産湯の井戸であると考証されました。それ以後、長寿で知られる武内宿禰にあやかるため、紀州徳川家に子供が生まれたときには、この井戸の水を産湯として用いることとしたそうです。
 このことについて、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「松原村」の項には次のように記されています。

武内宿禰誕生井

小名柏原にあり
日本紀
(略)
とあるは即此地なり
天和二年記に此所を位高き屋敷といひ傅ふとあり 此時兵亂うち續き其事績湮沒すといへども猶位高き屋敷といひ傳ふるを見れば 此地 武雄心ノ命 住居の地にて武内宿禰誕生の舊蹟なること明なり
此地境內東西十間 南北十五間 松樹茂生す
其內に井あり
享保年中 官命ありて井邊に甃をなし井欄を鎖して
平日汲ことを許さず
傍に碑を建てて 武內宿禰誕生井 と刻す
境内四圍離を施し 人の妄に入ることを許さず
公子御誕生の時は此井水を御產湯に用ふるを例とす
(筆者注:読みやすさを考慮して改行、かなづかいなどを適宜あらためた)

 

 現在、この井戸のまわりは安原八幡神社の奥宮とされる武内神社の境内となっていますが、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊国名所図会」にある「武内宿袮誕生井」の絵にはこうした神社の姿はなく、武内神社は明治以降に設けられたものではないかと思われます。
紀伊國名所圖會 [初]・2編6巻, 3編6巻. ニ編(六之巻上) - 国立国会図書館デジタルコレクション

国立国会デジタルコレクション
 「紀伊國名所圖會 [初]・2編6巻, 3編6巻. ニ編(六之巻 上)」 

 ちなみに、国文学者の梶川信行氏は、「阿騎野と宇智野--『万葉集』のコスモロジー (万葉古代学研究所第2回委託共同研究報告)(万葉古代学研究所年報 第5号 2007))」において、ここが武内宿禰生誕の地と認められるようになった経緯について次のように論考しています。

 和歌山市の郊外に鎮座する安原八幡宮の奥宮武内神社和歌山市相坂 筆者注:正しくは和歌山市松原)には、現在も宿禰が祀られている。小さな集落の中の狭い境内の一角に、「長寿殿」と呼ばれる木造の小屋が設けられ、そこには宿禰の産湯に使ったとされる古井戸がある。境内の説明板によれば、これを宿禰の産湯の井戸と認定したのは第71代の国造紀俊範であって、享保十六年(1731)のことに過ぎないと言う。ところが、十九世紀になると、『紀伊風土記』や『紀伊名所図会』などにも宿禰の産湯の井戸のことが取り上げられ、宿禰紀伊国の生まれであるということは、確かな事実であるかのようになって行く。
 とは言え、『古事記孝元天皇段)には、宿禰の母は代々日前神宮の神官を務めて来た紀国造の血筋の山下影日売であったとされている。同様に、『日本書紀』の景行天皇三年二月の条にも「紀直が遠祖菟道彦が女影媛を娶りて、武内宿禰を生ましむ」と見える。紀氏は、紀ノ川流域を勢力範囲としていたと考えられ、宇智神社(筆者注:奈良県五條市今井)南海道に沿った紀ノ川の河川敷近くに鎮座している。宿禰の子孫には、巨勢氏葛城氏など、紀伊国への交通路を拠点としていた氏族も見られる。そうしたことが、宿禰は母の里紀伊国で生まれたとする理解を生んだのであろう。
万葉古代学研究年報|奈良県立万葉文化館