「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
今回は、神武天皇東征の際、名草邑において神武軍と戦って敗れたとされる名草戸畔(なぐさとべ)ゆかりの地として知られる海南市且来の「くも池」を紹介します。
くも池は海南の市街地から県道秋月海南線を北上して汐見峠を抜けたところにある池で、現在は池のそばに海南市の清掃工場と温水プール、南側には自動車学校があります。
また、ここは現在の県道がほぼ熊野古道のルートと重なっているとされており、遠く平安の頃に都から熊野をめざして南下してきた人々がこの峠を超えたところで初めて海(現在の和歌浦湾)を見たことから、「汐見峠」の名が付けられたとも言われています。
さて、前三項では古事記・日本書紀に記載された彦五瀬命(ひこいつせの みこと)の物語に関わる地として、竈山神社、竈山墓、水門吹上神社をそれぞれ紹介しました。
古事記によれば、「彦五瀬命の陵(みささき 墓)は紀の国の竈山に在り」と述べた後、すぐに神倭伊波禮毘古命(かむやまと いわれひこの みこと)が熊野村に到着したと記述しているのですが、ここでの日本書紀の記述は若干異なっていて、熊野へ至る前にもうひとつ別の出来事があったと書かれています。
それが次の文章です。
原文
六月乙未朔丁巳。軍至名草邑。則誅名草戸畔者。読み下し文
六月(みなつき)乙未の朔、丁巳。二十三日
軍、名草邑(なくさのむら)に到りて、則ち名草戸畔(なくさとべ)といふ者を誅(つみな)す。
つまり、神武天皇(当時の名前は 倭伊波禮毘古命)は兄である彦五瀬命を竈山の地に葬った後、名草邑(なぐさむら)において名草戸畔(なぐさとべ)という人物と戦い、これを破ったというのです。
それでは、名草戸畔とはどういう人物であったのか。国府犀東(こくぶ さいとう 1873 - 1950)はその著書「神武天皇鳳蹟志(春秋社 1937)」において次のように述べています。
名草戸畔
竈山御陵の附近は、昔名草郡といつて、今の海草郡となつたのは、明治二十九年の事に屬し、海部、名草兩郡が合併したものである。
神武天皇熊野の御迂回に際し、先づ御敵對申したのは、名草郡の故地たる名草邑の豪族で、名草戸畔といふ者であつた。
此の名は勿論、名草邑の地名から出たものであるが、由來戸畔に就いて、學者の間に種種の説が有る。例へば、戸畔は處部の義で、其の地に長たる者をいふと言ひ、或は姥(とめ)の謂ならむかとも、蝦夷語のトペ即ち乳の意で、幼児が母の乳房を慕ふやうに、部下が母の如く其の長(をさ)を慕ふ意味から、女性の酋長をトペと呼び、戸畔に訛ったのではあるまいかとも言ふ。
又大日本地名辭書には、
『記・紀二典並に舊事記、古語拾遺を合考するに、出雲の素戔嗚尊の諸裔神、夙に紀伊に往來し給ひ、伊弉冉尊の舊跡、亦熊野浦に遺る。延喜式紀伊所載の明神大社は、大略出雲の諸神に係る。紀、雲二州親密の交渉あるを知るべし。而して神武帝の時に、名草戸畔あり、崇神帝の時、荒河刀辨※あり、並に女子の家刀自(筆者注:いえとじ 家の中心となる女性)にや。此の女家恐らくは往時出雲の諸神に結べる一流ならん。舊事記に「素盞嗚命六世孫、豊氣主命娶二紀伊名草姫一 爲レ妻、生二兒大御氣主命父建田背命一母紀國造智名曾妹、中名草姫」とあり。 又神武紀には「軍至二名草邑一誅二名草戸畔一」とある名草戸畔は、蓋し當時占國の女酋にして、即ち出雲の諸神の姻戚たり』
とある。所説區々ながら、女の酋長たる事には、何れも一致してをる。
謹みて按ずるに、最初の御計畫では、紀ノ川に沿うて中州へ入らむとし給うたやに見えるが、意外な名草戸畔の抗命(かうめい)に遭はせられたので、一刀兩斷の御制裁を加へさせ給うて、皇軍の士氣を振作せられ、乃で紀伊沿海の浦々に亙りて、海上の統一を圖らせ給うたのであらう。
※筆者注:荒河刀辨(あらかとべ)は天道根命の4世孫または5世孫とされ、古事記では木国造荒河刀辨、荒河刀辨、先代旧事本紀・天孫本紀では紀伊荒川戸俾等として現れる。性別は不明だが女性とする説がある。荒河戸畔 - Wikipedia
同書によれば、諸説あるものの、名草戸畔は当時の名草邑を支配していた豪族のリーダーで、おそらく女性であったのだろうという結論になっています。この書は昭和12年(1937)に出版された大変古いものですが、現在においても名草戸畔が女性であったとするのは概ね定説となっているようです。
名草戸畔 - Wikipedia
名草戸畔の拠点であったとされる名草邑は、前項で紹介した「神武天皇聖蹟調査報告(文部省 1942)」でも「聖蹟」として位置づけられており、その場所は名草山附近(顕彰碑建立地は海草郡安原村大字廣原字長山)とされているのですが、海南市に残る伝承によれば、海南市且来にある「くも池」周辺が神武東征軍と名草戸畔一族との最終決戦の場であったと伝えられています。
下記の画像は国土地理院のWebサイトに掲載されている旧名草邑周辺の地形図に注釈を加えたものですが、これを見ると、確かに現在の冬野・安原など名草山の東側に広がる広大な田園地帯を本拠地としていた名草戸畔の一族が、彦五瀬命を埋葬した竈山を拠点とし、あるいは海伝いに毛見の海岸から上陸し(紀伊国造家に伝わる記録によれば毛見に上陸したとされる)、名草山を回り込んで攻め入ってきた神武東征軍に追い立てられて、遂には平野部の南端にある丘陵地帯を最終防衛ラインとして最後の戦いに挑もうとする姿が思い浮かぶようではありませんか。
一説によれば、神武軍の別動隊がひそかに南に向かい、現在の船尾あたりに上陸して汐見峠から名草戸畔軍の背後を突いたことから、くも池が最終決戦の地となったとも言われているようですが、いずれにせよ、この地で名草戸畔は神武軍の手にかかって倒されてしまいました。
【神武・海道東征 第7部】紀和の道(1)物資運搬の要衝 最初の勝利(1/3ページ) - 産経ニュース
さらに、伝承によれば名草戸畔の遺体は「頭」、「胴(腹)」、「足(脚)」の三つに切り分けられ、現在の宇賀部(うかべ)神社、杉尾神社、千種(ちくさ)神社※、にそれぞれ埋葬されたと伝えられています。これにより、宇賀部神社は「頭の神様 おこべさん(頭 こうべ)」、杉尾神社は「お腹の神様 おはらさん」、千種神社は「足の神様 あしがみさん」として、現在も多くの参詣者を集めています。
※千種神社はかつて百草明神・百草神社と呼ばれていたことから、現在も「ももくささん」との呼称がある。
和歌山県神社庁-宇賀部神社 うかべじんじゃ-
和歌山県神社庁-杉尾神社 すぎおじんじゃ-
和歌山県神社庁-千種神社 ちぐさじんじゃ-
各神社の詳細については項をあらためて後日紹介する予定ですのでしばらくお待ちください。
ちなみに、「くも池」の名は神武天皇がこの地で「土蜘蛛(つちぐも)」を退治したことによるものである、との伝承があるのですが、もともと「土蜘蛛」とは古代日本において天皇に従属しなかった土着の豪族などに対する蔑称として用いられる言葉であることから、土蜘蛛の伝承と名草戸畔の伝承とは相反するものではなく、まさに名草戸畔のことを「土蜘蛛」と称したものであると考えるのが妥当でしょうか。
土蜘蛛 - Wikipedia
作家・イラストレーターのなかひらまい氏は名草戸畔を題材とした「名草戸畔〜古代紀国の女王伝説(スタジオ・エム・オー・ジー 2013)」という書籍を出版されていますが、これは主として宇賀部神社の宮司家に伝承されてきた「今まで語られなかった別の物語」が主軸となっており、上記の名草戸畔の伝承に新たな視点を加えたものとして注目されています。
名草戸畔(なぐさとべ)~名草地方にいた女王のお話~ | イチオシ情報 | まいぷれ[和歌山市]