生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

神武天皇聖蹟 男水門顕彰碑(和歌山市小野町 水門吹上神社)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、神武天皇の兄・彦五瀬命(ひこいつせのみこと)ゆかりの地である「男水門(おのみなと)」に関する話を紹介します。


 前項、前々項では、神武天皇の兄にあたる彦五瀬命(ひこ いつせの みこと)が現在の竈山神社竈山墓に祀られているという話を紹介しました。

 その物語の概要については竈山神社の項で詳述したところですが、その中で、「彦五瀬命が男建(おたけ)びをあげて亡くなったので、その地を『男水門(をのみなと)』と呼ぶようになった」というエピソードが登場します。そこで、今回はこの「男水門」に関する話を取り上げます。

 

 和歌山市小野町にある水門吹上神社(みなと ふきあげ じんじゃ)は、和歌山では「紀州の十日えびす発祥の地」として多くの参詣者を集める神社ですが、この神社の境内には「神武天皇聖蹟 男水門顕彰碑」という石碑が建立されており、上記の物語において彦五瀬命が男建びをあげて亡くなったのはこの場所であると伝えられています。
和歌山県神社庁-水門吹上神社 みなとふきあげじんじゃ-

 

 ところで、彦五瀬命に関する物語は「古事記」、「日本書紀」の両方に登場するのですが、この「をのみなと」に関してはそれぞれの書物で書かれている内容が異なっているため、話をややこしくしています。
 それを確認するために、まずはじめにこの両者の原文を比較してみます。非常に読みにくいですが、しばらく辛抱してください。

古事記

読み下し
於是(ここに)登美毘古(と)戦ひたまひし[之]時、五瀬命(いつせのみこと)[於]御手(みて)登美毘古(の)痛き矢串(やぐし)を負ひたまひき。
故爾(しかるがゆゑに)(のたま)はく 「(われ)(は)日の神之(が)御子(みこ)(な)り。日に向(むか)ひて[而]戦ふは不良(よからざ)るが故(ゆゑ)に、賤(いやし)き奴(やつ)(の)痛手(いたて)を負ひつ。今自(よ)り者(は)(ゆ)き廻(めぐ)りて[而]、日を背負(せお)ひて以ちて撃たむ。」とのたまひき。
(ま)ちたまひて[而]、南方(みなみのかた)(ゆ)(めぐ)り幸(いでま)しし[之]時、血沼(ちぬ)の海(うみ)に到りき。其の御手之(が)血を洗(あら)ひしが故(ゆゑ)に、血沼(ちぬ)の海と謂ふ[也]
其の地(ところ)(ゆ)(めぐ)り幸(いでま)し、紀国(きのくに)の男之水門(をのみなと)に到りて[而](のたま)はく「(いやし)き奴(やつ)(の)手に負(お)ひて乎(や)死ぬる。
と男建(をたけ)びて[而](ほうせり、かむあがりしたまひき)
(かれ)其の水門(みなと)を号(なづ)男水門(をのみなと)と謂(い)[也]
(みささき)、即ち紀の国の竈山(かまやま)に在り[也]

 

原文

於是與登美毘古戰之時。五瀬命。於御手。負登美毘古之痛矢串。
故爾詔。
吾者爲日神之御子。向日而戰不良。故負賤奴之痛手。自今者。行廻而。背負日以撃期而。
自南方。
廻幸之時。到血沼海。洗其御手之血。故謂血沼海也。
從其地廻幸。到紀國男之水門而詔。負賤奴之手乎死。爲男建而崩。
故號其水門。謂男水門也。
陵即在紀國之竈山也。
出典:古事記をそのまま読む 古事記をそのまま読む《18》

 

日本書紀
読み下し 
五月(さつき)丙寅の朔、癸酉。八日
(みいくさ)茅渟(ちぬ)山城水門(やまきのみなと)和泉の国日根郡亦の名は山井水門(やまゐのみなと)に至る。
時に五瀬命(いつせのみこと)。痛矢(いたやくし)の瘡(きず)、痛(いた)みますこと甚し。
乃ち劔(つるぎ)の握(たが)(みとり)しばりて、雄詰(をたけび)して曰く。
(うれた)き哉、大丈夫(ますらを)にして賤(いやし)き虜手(やつこ)の傷(て)を被(お)ひて、報(むく)いずして死(や)みなむやと。
時の人、因りて其の處を號(なづ)けて『雄水門(をのみなと)』と曰ふ。
進みて紀伊(きのくに)竈山(かまやま)名草郡に至りて、彦五瀬命(いつせのみこと)、軍に薨(かみさり)ましぬ。
因りて竈山(かまやま)に葬(をさ)め奉る。
出典:国立国会デジタルコレクション 「新訳日本書紀」飯田弟治訳 嵩山房 大正1
新訳日本書紀 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

原文

五月丙寅朔癸酉。
軍至茅淳山城水門〈亦名山井水門。茅淳。此云智怒。〉
五瀬命矢瘡痛甚。
乃撫釼而雄誥之曰。〈撫劔。此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屡。〉
慨哉。大丈夫〈慨哉。此云于黎多棄伽夜。〉被傷於虜手。將不報而死耶。
時人因號其處曰雄水門。進到于紀伊國竃山五瀬命薨于軍。因葬竃山
出典:wikisource 日本書紀/卷第三 - 维基文库,自由的图书馆

 


 上記のとおり、古事記によれば、彦五瀬命(文中では五瀬命は「紀の国の男之水門」に着いた後に男建びをあげて亡くなったとしていますが、日本書紀では「茅渟の山城水門」で亡くなったとし、後に紀伊国竈山に至ったと記しています。つまり、亡くなったのが紀伊国に入ってからだったのか、入る前だったのかが両方の資料で異なっているということになるのです。

 

 この点における古事記日本書紀との記述の違いが大きな問題となったのが、昭和15年(1940)に行われた「神武天皇即位2600年(紀元二千六百年)」を記念する事業でした。当時の日本政府は昭和10年(1935)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を設置して、5年がかりで各種の記念事業を企画していったのですが、その一つに「神武天皇聖蹟の調査保存顕彰」事業があったのです。
 このため、国では文部省の所管により、全国の聖蹟調査を実施し、その結果を報告書にまとめるとともに、聖蹟と認められた場所については顕彰碑を建立するという事業を進めました。
 昭和17年(1942)に発行された「神武天皇聖蹟調査報告(文部省)」によれば、最終的に「神武天皇聖蹟」と認められた場所は18か所にのぼりますが、このうち「をのみなと」に関しては古事記日本書紀の記述がそれぞれ異なるため、どちらが正しいかを判断することができず、大阪府に所在する伝承地を「雄水門」、和歌山県に所在する伝承地を「男水門」とすることで、この両者を「聖蹟」として認めるという極めて例外的な取り扱いを行っています。

 この報告書については国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できますので、これを参考に必要部分を引用しておきます。

dl.ndl.go.jp

10 雄水門 男水門

 日本書紀に據れば、神武天皇御東征の際、戊午年(御即位前三年)五月皇軍を率ゐて、盾津よ り茅渟山城水門(ちぬの やまきのみなと)(一名山井水門(やまゐのみなと)に至り給うた砌、皇兄五瀬命が矢瘡の御痛みが甚だしい為、劍を撫して雄誥(をたけび)遊ばされたのに因って、時の人が此の地を雄水門と稱したとある。 又古事記には、神武天皇血沼海(ちぬまのうみ)から廻(めぐ)りいでまして、紀國男水門(きのくにの おのみなと)に到り給うた砌、皇兄五瀬命が賤奴(やつこ)の為に手傷を負うて死ぬことかと詔(の)らせられ、男建(おたけび)して崩じ給うたので、其の水門を男水門と謂ふとある。
 かくの如く雄水門男水門については、既に記紀の古に於て茅渟紀國との兩説があって、今日之を一定することは困難であるから、こゝには雄水門と男水門の兩者について調査の結果、夫々傳説地を認めることになつたのである。

 

(一)雄水門

 神武天皇聖蹟雄水門傳説建地は、大阪府泉南郡樽井町及雄信達村にあつて、其の地域は樽井町臺地の西北部から雄信達村大字男里字天神付近に亙るものと認められる。
 日本書紀に據れば、雄水門はもと茅渟山城水門、又山井水門と稱せられたが、同書垂仁天皇三十九年十月の條に「五十瓊敷命(いにしきのみこと)居於茅渟菟砥川上宮(うとの かはかみのみや)」と見え、又延喜式五十瓊敷入彦命の宇度(うと)墓が和泉國日根郡にありとあるに據れば、日根郡(今の泉南郡西南部)の地方は古く茅渟の地に属してゐたことが察せられる。而して和泉志享保年間 關租衡、並河永等編)には山井水門が樽井村にあり、又山井が同村にありとなしてゐるが、今樽井町には山井の遺阯があって、「山之井」の碑が存し、其の附近の雄信達村の地域にも現に湧泉があるが、山井の名はかゝる地下水の湧出に起因するものであらう。尚今の樽井町役場の敷地には、もと神日本磐余彦命を奉祀した山井神社があつた。次に樽井町の西方なる雄信達村大字男里字天神の天神森の地は舊濱堤の残存したもので、周圍の水田よりは一段高く、此處に府社(おの)神社(大字男里字井ノ口鎮座)の攝社濱宮があり、濱宮は一に天神とも稱せられ、彦五瀬命を奉祀してゐる。泉州(元禄年間 石橋新右衛門編)には「余按男里濱松林中有小社曰天神社是五瀨命洗矢瘡地即男水門也」 と記し、和泉志には「今稱濱天神所謂撫劍雄誥之地」とあつて、今社前に天保四年界浦源良材撰の「雄水門」の碑がある。 大字男里は嘗て小野里とも書かれ、元禄十五年岸和田藩の命に依つて男里の文字に一定されたのであるが、延喜式所載の和泉國(筆者注:口へんに袁)、和名類聚抄に見える和泉國日根郡(を)於郷の遺名と解せられ、又府社男神延喜式神名帳の和泉國日根郡の條に 神社二座と見える古社であり、此の「ヲ(筆者注:口へんに袁)」、「(を)」、「」は雄水門の「」と相通ずるものであらう。即ち樽井臺地の西北部から天神森に亙っては、雄水門に關する所傳が存し、共に其の徴證が認められるのである。
 此の地域の北方約五百米で海岸に達し、又地域の東部樽井町の集落のある處は洪積層の臺地をなしてをり、其の臺地の西北端から天神森を經て西方尾崎町に至る沿岸地帶は、男里川から流出した土砂の堆積に依って構成され、一段の低地をなしてゐるが、此の低地は往昔は海面であって、男里川の舊河口は現在よりも奥地に位し、今の天神森の附近一帶は恐らく往時の水門であり、着船地であつたと考へられる。

 

 保存顯彰施設

 神武天皇聖蹟雄水門傳説地の保存顯彰施設に關しては、其の實施箇所として、大阪府泉南郡信達村大字男里字天神の府社男神社攝社濱宮境内を選定し、其處に顯彰碑を建設して、碑の表面には、

神武天皇聖蹟雄水門顯彰碑

裏面には、

神武天皇戊午年五月皇軍ヲ率ヰテ茅渟山城水門ニ至リ給ヘリ時ニ皇兄五瀬命矢瘡ノ痛甚シク劔ヲ撫シテ雄誥遊バサレシニ因リ時人其ノ處ヲ雄水門ト稱セリ聖蹟ハ此ノ地附近ナリト傳ヘラル

と刻することとし、其の意見を紀元二千六百年奉祝會に囘付した。
 仍つて同會に於ては、之に基き、該地に東面して標準型顯彰碑を建設することに決定し、右工事は之が施行を同會より大阪府に委嘱し、昭和十五年八月着工、同年十二月に竣功 し た。


(二)男水門

 神武天皇聖蹟男水門傳説地は、和歌山縣和歌山市にあつて、其の地域は小野町附近の地と認められる。
 和歌山市小野町二丁目村社 水門神社 吹上神社 の境内には、寛文九年李梅溪建立に係る碑があつて、其の碑面には、

海部郡宇治湊昔建顯國社合祭蛭兒神余生此郷甞聞
此地蓋五瀨命雄誥而薨之處因名男之芝志波俗用芝字 社邊
開阡陌也名曰雄之町今為小野古事紀(記)武帝南迴幸到
紀水門五瀨命負手守(乎カ)死而男建而崩故號其水門謂
之水門也陵即在籠山也校之日本紀大同小異也今以
古事紀(記)爲據遂告祠官邑長別立一區封土蕃草以石局
焉余故勒片石以壽于無疆  寬文九己酉年六月廿三日
                          梅溪李全直 建之並書

と記し、此の地は五瀬命が雄誥して薨去遊ばされた處であるのに因つて男之芝と稱し、町を雄之(小野)と曰つたと傳へてゐる。而して今神社に傳はる慶長四年桑山宗榮(重晴)の寄進状には「湊明神」、同六年淺野幸長の寄進状には「湊惠比須」とあつて、古く此の附近が湊と稱せられたことが知られる。 又紀伊風土記は、男水門は湊の地を指し、湊の地内の小野町雄芝等は男水門の遺名であると記してゐる。 即ち小野町附近の地は、古くから男水門と傳へられてゐたと認められる。
 和歌山市内小野町邊は湊と稱せられる地區に屬し、市の南北を貫く舊砂丘上にあつて、紀ノ川が和歌山彎に注ぐ其の河口に近い處であるから、此の附近は往時から良好な着船地であったと思はれる。

 

 保存顯彰施設

 神武天皇聖蹟男水門傳説地の保存顯彰施設に關しては、其の實施箇所として、和歌山市小野町二丁目の村社 水門神社 吹上神社 境内を選定し、其處に顯彰碑を建設して、碑の表面には、

神武天皇聖蹟男水門顯彰碑

裏面には、

神武天皇地沼ヨリ廻リテ紀國ノ男水門ニ至リ給ヘリ時ニ皇兄五瀬命賤奴ガ手ヲ負ヒテヤ死ナント宣ヒ男建シテ薨ジ給ヒシニ因リ男水門ノ名ヲ得タリ聖蹟ハ此ノ地附近ナリト傳ヘラル

と刻することとし、其の意見を紀元二千六百年奉祝會に囘付した。
 仍つて同會に於ては、之に基き、該地に北面して標準型顯彰碑の石棚を省いて稍、 縮小したものを建設することに決定し、右工事は之が施行を同會より和歌山縣に委嘱し、昭和十五年十二月着工、翌十六年三月に竣功した。

 

 このように、「をのみなと」の所在地については大阪府和歌山県の両方を「神武天皇聖蹟」としているのですが、上記報告書によると大阪府には「標準型顕彰碑」を、和歌山県には「標準型顕彰碑の石棚を省略して稍(やや)縮小したもの」をそれぞれ建立したとされており、どうやら大阪の方が「より確からしい」聖蹟であると位置づけられているようです。

 下記のリンク先に、googleマップに投稿されている似たようなアングルの写真がありますが、たしかに両者を比べてみると大阪の方が立派に見えますね。残念ではありますが、水門吹上神社の方も否定されたわけではありませんので、堂々と胸を張って「聖蹟である」と主張すれば良いのです。

水門吹上神社 聖蹟碑(Google マップ)

男神社摂社濱宮 聖蹟碑(Google マップ)