生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

保田龍門レリーフ・高倉下命(和歌山市小松原通 県庁本館)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前回は和歌山県庁本館の建物と、その中央階段(2階~3階の踊り場)に飾られている保田龍門(やすだ りゅうもん)の「丹生都比売命(にうつひめの みこと)」をモチーフにしたレリーフについて紹介しました。
 今回は同じく県庁本館中央階段(3階~4階の踊り場)にある「高倉下命(たかくらじの みこと)」をモチーフにしたレリーフを紹介します。

 

  高倉下命(たかくらじの みこと 古事記日本書紀では「高倉下(たかくらじ)」と表記される)は、古事記日本書紀で語られている「神武東征伝(じんむ とうせい でん 神倭伊波礼毘古命が日向を出て東に向かい、大和の橿原宮において初代・神武天皇となるまでの物語)」における重要な登場人物です。

 神武東征伝については、これまでも竈山墓くも池などの項で紹介してきたところですが、今回はその続きとなる物語になります。
竈山墓(彦五瀬命の墓)(和歌山市和田)
くも池 名草戸畔終焉の地(海南市且来)

 

 兄である彦五瀬命(ひこ いつせの みこと)竈山で葬った後日本書紀では、その後さらに名草戸畔を誅殺した後)神倭伊波礼毘古命(かむやまと いわれびこの みこと 後の神武天皇の軍は熊野へたどりつきますが、そこに大きな熊があらわれて、東征軍はみな気を失い倒れてしまいました。
 そこへ熊野の高倉下(たかくらじ)という人物が現れて、目を覚ました神倭伊波礼毘古命に一振りの大刀を渡すと、悪い神々はみな切り倒されて、正気を失っていた彼の軍勢も目覚めました。
 神倭伊波礼毘古命高倉下命に仔細を尋ねると、このように答えました。

「私はこのような夢をみました。
 天照大神高木神の二神が御雷(たけみかづち)の神を呼び出して、
 『葦原の中つ國(あしはらの なかつ くに 地上世界のこと)はひどく騷がしい。私の子らが困っているようなので、お前が地上に降りて助けてやりなさい
 と仰せになった。
 御雷(たけみかづち)の神が言うには
私が地上に降りなくても、私がかつて葦原の中つ國を平定した時に用いた大刀(※後述)がありますから、代わりにこれを地上に降ろしましよう。この大刀は、高倉下の倉の屋根に穴をあけてそこから落とし入れましょう
 ということでした。
 そして、私(高倉下)
お前は朝目が覚めたら、この大刀を持って天の神の御子に奉れ
 と命じられました。
 そこで、夢の教えのままに朝早く倉を見ると本当に大刀があったので、これを持って参上しました。」

 この出来事について、古事記ではこのように記述しています。

原文
神倭伊波禮毘古命。從其地廻幸。到熊野村之時。大熊。髣髴出入即失。
神倭伊波禮毘古命。焂忽爲遠延。及御軍皆遠延而伏。〈遠延二字以音。〉
此時。熊野之高倉下〈此者人名。〉齎一横刀。到於天神御子之伏地而。獻之時。天神御子即寤起。詔長寢乎。
故受取其横刀之時。其熊野山之荒神。自皆爲切仆。
爾其惑伏御軍。悉寤起之。
天神御子。問獲其横刀之所由。高倉下答曰。
己夢云。天照大神高木神。二柱神之命以。召御雷而詔。
葦原中國者。伊多玖佐夜藝帝阿理那理。〈此十一字以音。〉
我之御子等。不平坐良志。〈此二字以音。〉
葦原中國者。專汝所言向之國故。
御雷可降。
爾答曰。
僕雖不降。專有平其國之横刀。可降是刀。〈此刀名。云佐士布都神。亦名云甕布都神。亦名云布都御魂。此刀者。坐石上神宮也。〉
降此刀状者。穿高倉下之倉頂。自其墮入。
「故建御雷神教曰。穿汝之倉頂。以此刀堕入。」
故阿佐米余玖〈自阿下五字以音。〉汝取持。獻天神御子
故如夢教而。旦見己倉者。信有横刀
古事記/中卷 - 维基文库,自由的图书馆

 

読み下し
かれ神倭伊波禮毘古の命、其地(そこ)より廻り幸でまして、熊野の村に到りましし時に、大きなる熊、髣髴(ほのか)に出で入りてすなはち失せぬ。
ここに神倭伊波禮毘古の命焂忽(にはかに)をえまし、また御軍も皆をえて伏しき。
この時に熊野の高倉下(たかくらじ)、一横刀(たち)をもちて、天つ神の御子の伏(こや)せる地(ところ)に到りて獻る時に、天つ神の御子、すなはち寤(さ)め起ちて、「長寢(ながい)しつるかも」と詔りたまひき。
かれその横刀(たち)を受け取りたまふ時に、その熊野の山の荒(あら)ぶる神おのづからみな切り仆(たふ)さえき。
ここにそのをえ伏せる御軍悉に寤め起ちき。
かれ天つ神の御子、その横刀(たち)を獲つるゆゑを問ひたまひしかば、高倉下(じ)答へまをさく、
おのが夢に、天照らす大神 高木の神二柱の神の命もちて、御雷(たけみかづち)の神を召(よ)びて詔りたまはく、
葦原の中つ國はいたく騷(さや)ぎてありなり。
我が御子たち不平(やくさ)みますらし。
その葦原の中つ國は、もはら汝(いまし)が言向(ことむ)けつる國なり。
かれ汝御雷の神(あも)らさね」とのりたまひき。
ここに答へまをさく、
「僕(やつこ)降らずとも、もはらその國を平(ことむ)けし横刀あれば、この刀(たち)を降さむ。(この刀の名は佐士布都の神といふ。またの名は甕布都の神といふ、またの名は布都の御魂。この刀は石上の神宮に坐す。)
この刀を降さむ状は、高倉下が倉の頂(むね)を穿ちて、そこより墮し入れむとまをしたまひき。
かれ朝目吉よく汝取り持ちて天つ神の御子に獻れと、のりたまひき。
かれ夢の教のまにま、旦(あした)におのが倉を見しかば、信(まこと)横刀(たち)ありき。かれこの横刀をもちて獻らくのみ」とまをしき。
稗田の阿礼、太の安万侶 武田祐吉注釈校訂 古事記 校註 古事記

 

 このとき高倉下命神倭伊波礼毘古命神武天皇に渡したとされる大刀は、布都御魂(ふつのみたま)、またの名を布都御魂(ふつみたまのつるぎ)韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)佐士布都神(さじふつのかみ)などと呼ばれる神剣で、古事記では石上神宮奈良県天理市にあると書かれています。
 この剣は実際に石上神宮で保管されていたとされますが、江戸時代になると、祟りがあるため石上神宮内の禁足地に埋められた、との伝承のみが残されていて現物を見ることはできませんでした。ところが、明治7年(1874)に当時の宮司であった菅政友氏の主導により発掘調査を行った結果、禁足地中央附近から剣が発見され、これこそが布都御魂であると断定されました。この剣は現在、御神体として同神宮に祀られています。
 その詳細については不明なことも多いのですが、「こうかくろうの小籠包」という個人サイトで菅政友氏による報告文が紹介されていますので、これを引用しておきます。

封土は拝殿後 正中 壱丈許(筆者注:ばか)り後にて
高さ二尺八寸余、中央にかなめの木直株有之
(太さ弐尺五寸 埋候時植しものならん)
石 平地より下 凡(筆者注:およそ)壱尺余に至れば
一面に瓦を以て之を蓋い、
壱間半四方許(筆者注:ばかり)も可有之歟、
尺或石余の石を積重 境界を成し候様子に御座候。
(中略)
鋒端東に向い剱一振出現、
此は折損し候所も無之、
其他刀剣様之物一切無之候間、
伝説の如く之剱[フツノミタマ]霊なること 疑うべきにあらねば、云々。
※筆者注:読みやすさを考慮して、改行、かなづかい等を適宜改めた

石上神宮のフツノミタマと高倉下

 

 ちなみに、鹿島神宮茨城県鹿嶋市にも布都御魂と称する刀(国宝)が伝わっていますが、これは現在では「二代目の韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」であると解説されているようです。
布都御魂(ふつのみたま) - 刀剣ワールド


 この高倉下布都御魂日本書紀では韴霊)に関する物語については古事記ばかりでなく日本書紀にもほぼ同様の内容で記述されているのですが、最も注目すべきポイントは神倭伊波礼毘古命が窮地に陥った際に高倉下がこれを救ったという点にあるのではなく、天照大神「天つ神の御子(あまつ かみの みこ 古事記における表現)」あるいは「天孫日本書紀における表現)」である神倭伊波礼毘古命を助けるために布都御魂(韴霊)を遣わせた(後に道案内として八咫烏(やたがらす)も遣わせる)という点にあるのです。

 神倭伊波礼毘古命と兄・彦五瀬命長髄彦に敗れて転進を余儀なくされた際に「自分は日の神の御子である」と自ら名乗ったことはありますが、この時点まではまだ天の神による具体的な加護は与えられていませんでした。しかし、熊野に至って神倭伊波礼毘古命は遂に天照大神から直接手を差しのべられて進軍を助けられることになったのです。

 これによって、神倭伊波礼毘古命東征軍「天つ神の御子」が率いる軍勢であるという正統性を明らかにすることとなり、これがやがて大和橿原宮における初代天皇・神武としての即位へと繋がっていくわけで、高倉下とのエピソードは神武東征伝の中でも特に重要な部分であるということが理解していただけるでしょう。

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