生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

おこべさん 宇賀部神社(海南市小野田)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、日本書紀において神武軍と戦って敗れたとされる名草戸畔(なぐさとべ)の頭部を祀る海南市小野田の「宇賀部(うかべ)神社」を紹介します。


 前項では日本書紀に書かれている「神武天皇軍が名草邑で名草戸畔(なぐさとべ)という者を誅殺した」との記述について、海南市小野田にある「くも池」がその決戦の地であったという伝承を紹介しました。
 あわせて、名草戸畔の遺体を三つに分けて、頭部宇賀部神社腹部杉尾神社脚部千種神社にそれぞれ埋葬したとの伝承も紹介しました。
 今回はこのうち、頭部を埋葬し祀ったとされる宇賀部神社をご紹介します。

 

 「宇賀部神社」は、正式には「うかべじんじゃ」と呼ぶのが正しいそうですが、一般には「おこべじんじゃ」、あるいは「頭の宮 おこべさん」として親しまれており、特に受験シーズンには合格を祈願して多くの参詣客が訪れる有名神社です。ちなみに、「おこべさん」という呼び方は、「」という漢字を「こうべ」とも読むことから、「お頭(こうべ)さん → おこべさん」と変化していったものと言われています。

 

 同社が頭に関することにご利益のある神社とされてるのは、上述のとおり名草戸畔の頭部を祀った神社であるとの伝承によるものですが、同社の創建や祭神に関する資料は過去の戦乱で消失してしまい、現在では不詳となってしまっているようです。こうしたことについて同社のWebサイトにある「由緒」の項では次のように解説されています。

 古記録は戦国時代の兵火で焼失して、由緒を尋ねる確たる典拠がない。
 しかし鎌倉期よりの神職小野田家所蔵の文書によれば、「山城国愛宕神社を勧請すとあり、古来、祭神3柱の中央祀神たる「宇賀部大神」を「迦具突智神(筆者注:かぐつちのかみ イザナギイザナミの子)」とする説に符号する(筆者注:山城国(京都)の愛宕神社は全国の愛宕神社の総本社であり、火伏せ・防火に霊験のある神社として知られる。迦具突智神は火の神として知られ、山城国愛宕神社の祭神の一柱であるとともに全国の多くの愛宕神社において主祭神となっている)。 また一説には、神武天皇ご東征のみぎり、皇軍に随順することを肯じなかった名草戸畔の首級を祀るともいわれ往古より頭の守護神として、「おこべさん」の愛称で広く親しまれてきた。

 荒八王子命は、もと現在地の東方100㍍に、若宮八幡神社は南方約400㍍、高倉山の中腹に鎮座していたが宝暦4年(1754)、本殿新築に際して、この地に合祀された。    
 当神社は「紀伊風土記」によると、「一村の氏神にて社殿壮麗なり・・・宮作及ひ境内の形状 尋常村落の産土神とも見えす 必古官知の神にして後世その神名を失ひしものならん」とあり、古くは由緒ある知名の神社であったが乱世を経て、衰微したようである。

 元来、頭病平癒の神として尊崇されてきたが、現在では学業成就入試合格等を祈願する若人の数が増え、四季を通じて祈願者の後は絶えない。

 なお、境内社として太神宮、天神社、山王神社、稲荷神社、祇園神社、多賀神社、秋葉神社、弁財天神社が祀られている。

頭の宮 宇賀部神社

 

 また、宇賀部神社は、「最後の日本兵」とも呼ばれる小野田寛郎(おのだ ひろお 1922 - 2014)氏が同社の宮司家の出身であることでも知られています。

 小野田氏は海南市出身で、第二次世界大戦中に陸軍少尉としてフィリピン・ルバング島で情報員の任務を与えられたまま終戦を迎えたものの、上官からの作戦解除命令がないことからそのまま山中にとどまり、30年後の1974年になって捜索に来た元上官から任務解除命令を受けたことによって初めて敗戦の事実を受け入れて、日本に戻ってきた人物です。
 帰国後はブラジルに移住して原野を開拓して牧場経営を行っていましたが、1984年からは、たくましい青少年育成のために福島県で「小野田自然塾」を開設し、自然教育キャンプ等の活動を行うかたわらで勢力的に出版や講演などの活動も行ってこられました。
※現在は一般財団法人小野田記念財団 【自然塾】一般財団法人 小野田記念財団

ja.wikipedia.org

 

 このため、同社の境内には「不撓不屈」と刻まれた小野田氏の記念碑が建立されており、下記の内容の説明板が添えられています。

不撓不屈(ふとうふくつ)
強い意志を持って、どんな苦労や因難に出会っても、決して心がくじけないこと

小野田寛郎(ひろお)
 大正十一年海南市名高に生まれる。(本籍地小野田)
 太平洋戦争に従軍し、最前線のフィリピン・ルバング島に派遣される。終戦を知らされずに三十年、最後の一兵になるまで戦い抜いた元陸軍少尉。
 帰国後は単身ブラジルに渡り、未開の荒野を開拓して立派な牧場主となる。一方、日本では福島県に「小野田自然塾」を開き、青少年の健全育成に挺身する。その間、著述に講演にと席の暖まる暇もない活躍を続ける。

・若人へのメッセージ
 人はひとりでは生きられません。社会の中で生きるには、ルールを守り、自制することも必要でしょう。
 自らの心を鍛え、自分の行動に責任を持って逞しくのびのびと生き抜いて行ってください。

※石碑建立の趣意は、石碑の裏面に刻んでいます。

 なお、2021年には小野田氏がルバング島で暮らした日々をテーマにした映画「ONODA 一万夜を越えて(ベルナール・サンドロン原作、アルチュール・アラリ監督、遠藤雄弥・津田寛治主演、フランス・ドイツ・ベルギー・イタリア・日本国際共同製作)」が第74回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門オープニング作品として上映されています。(公開はフランス:同年7月21日、日本:同年10月8日)
ONODA 一万夜を越えて - Wikipedia

 

 

 ところで、前項で「くも池」を紹介した際に、なかひらまい氏が書いた「名草戸畔〜古代紀国の女王伝説」という書籍についても触れていますが、この書籍の出版にあたってはなかひら氏が小野田氏から聞いた名草戸畔の物語が大きなきっかけとなったそうです。
 これによれば、宇賀部神社宮司家である小野田家には同家が名草戸畔の後裔であるとの口伝が伝わっているとされており、このことについてなかひら氏は2014年に小野田氏が逝去された際に和歌山県の広報紙「和-nagomi- vol.23 2014」に追悼文を寄せていますのでこちらもご参照ください。 
[Special Essay Mai Nakahira -追悼小野田寛郎氏-]負けなかった名草戸畔の物語