生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

おはらさん 杉尾神社(海南市阪井)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、日本書紀において神武軍と戦って敗れたとされる名草戸畔(なぐさとべ)の腹部を祀る海南市阪井の「杉尾神社」を紹介します。

杉尾神社 天井に飾られているしゃもじ(後述)が見える

 前項では日本書紀において神武天皇の軍勢に敗れたとされる名草戸畔(なぐさとべ)の遺体の頭部を祀ると伝わる「宇賀部神社」を紹介しました。

 今回は、これに続き名草戸畔腹部が祀られているとされる「杉尾神社」を紹介します。

 

 杉尾神社海南市阪井に所在しており、背後にある高倉山をはさんだ北側には前項で紹介した宇賀部神社が存在します。

 同社の創建時期は社伝では神亀元年(724)と伝えられているようですが、明確な記録としては永禄年間(1558 ~ 1570)との記載のある書が最古のものとされます。ちなみに和歌山県神社庁のWebサイトでは、同社の由緒について次のように解説されています。

由来
 当神社は、杉尾明神八幡宮主祭神とし、一村の氏神にして社殿美麗なり。
 奥に建久2年(1190~1199)鎌倉時代初期に書せしを永禄(1558~1570)室町時代に寫しかえたるよし書せり。
 元亀年中(1570~1573)室町時代末期棟礼あり又慶長7年(1596~1615)江戸時代初期に書せる祭事の記録ありて其巻末に去年大守浅野候より検地ありて神事の料なし困りて略式を新にする。
 『南紀神社禄』に云う「杉尾神社はいづれの神なることを知らず 元亀年中、八幡宮の当社修造の棟札いまにありその銘に曰く、二品仁助親王とあり こは仁和寺号、厳島御宝、すなわち伏見院貞敦親王の御子にして後、奈良院御猶子なり
 伝説として、(おはらさん)お腹の神様として今でも御杓子をお供え祈願している。
 多分食養生からであろうが、由来については、昔紀の川の河口に1匹の大蛇が川岸に流れついた。玉をくわえ腹部に金色に光る杉織状になった輪があり、立派な足もあったと伝えられ、これぞ神の化身と小野田頭部杉尾神社腹部千種神社、と3体を埋め神として祭った。
 今でも神社地である玉輪山には大蛇の好物とする「たにし」があり、夫婦であるとされている大蛇が生息しているのかもしれない。
和歌山県神社庁-杉尾神社 すぎおじんじゃ-

 
 冒頭で紹介したように、杉尾神社は、宇賀部神社千種神社とともに神武東征軍に敗れた名草戸畔の遺体を埋葬した場所と伝えられ、「おはらさん お腹の神様」として信仰されているのはこの伝承に基づくものと言われますが、これとは別に、上記引用文にあるように同社には「紀の川の川岸に流れ着いた大蛇の腹部を祀った」との伝承もあり、むしろこちらの伝承の方がよく知られているようです。
 この物語について、和歌山県が管理するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」には次のような物語が収載されています。ちなみに、上記の写真でも見られるように、同社では腹痛治癒祈願のために「しゃもじ(杓子)」を備える風習があるようです。

おはらはん
    出典:ふるさとをたずねて(むかし話Ⅰ)
    発行:海南市教育委員会
 今からもう何百年も前のことやして。紀ノ川の河口にある北島橋よりずっと下流のちょうど海と川のさかい目あたりで、きれいな紀ノ川の水流と紀伊水道の海水がまざりあってうずまいている潮の中から、一匹の大きな蛇が現われたかと思うや、紀ノ川の流れをよこぎって南岸の方へ泳いでくるんよ。
 そのとき、畑仕事に精出していた百姓どもが「あれよ、あれよ」と見とれているまもなく、たちまちに大蛇は白波をたてて南岸に泳ぎついたんやと。
 百姓たちはみんなそれぞれにくわやかまを持って、おそるおそる大蛇の泳ぎついたところに行くと、そこには 今まで見たこともないような大きくて、それはそれは美しい大蛇がいるんや。
 その上、口にはまるい真珠のようにきれいな玉をくわえて少しも動かんし、その姿が絵にも描けんばかりの美しさで、みんなみとれるばかりだったんよ。
 また、お腹のあたりには、錦を飾ったようにぴかぴかと輝く輪をまいているんやして。
 それに大蛇は不思議にも大きな足も生えていたんや。
 あまりの美しい大蛇百姓どもは、
これは普通の蛇でないぞ、きっと神様の身代りじゃ
とうわさしはじめたんや。
 少しも動かない大蛇を見て「ありがたい、ありがたい」と口々に念じながら、村でお祀りしようと大蛇の身体を三つに分けたんやして。
 の方は小野田まで運んで埋めてお祀りし、お腹の方は阪井の杉尾神社にお祀りし、の方は重根の千種神社にお祀りしたんや。
 それで、杉尾神社は「おはらはん(お腹の神様)と呼ばれて「おなかいた」の人達がお参りするんよ、昔の人は「しゃもじ」をお供えして「しゃくもち(おなかいた)をなおしてもらおうとお祈りしたんよ。
  お腹(なか)痛けりゃ杉尾のお宮
  腹(はら)の黒いのはなおりゃせぬ
と歌が残っているそうな。

海南市:おはらはん | 和歌山県文化情報アーカイブ

 

 このように、杉尾神社に伝わる大蛇伝承は、名草戸畔の伝承と同様に「大蛇(足があり、玉をくわえているとの表現を踏まえると、「大蛇」というよりはむしろ「龍」とする方が適当と思われる)の死骸を三つに分けて、頭部を宇賀部神社、腹部を杉尾神社、脚部を千種神社に祀った」としていますが、現在ではこの伝承は宇賀部神社千種神社には伝えられていないようで、杉尾神社だけが伝えているように思われます。
 もしかすると、もともとは名草戸畔にまつわる伝承であったものが、「神武天皇と敵対した者」にまつわる伝承を公に受け継いでいくことを憚り、「名草戸畔」を「大蛇(龍)」に置き換えて口伝してきたのかもしれません。それはそれで、大変興味深いものと言えるでしょう。

 

 なお、上記で紹介した和歌山県神社庁のWebサイトによれば、同社の「おはらさん」伝承の起源としてもう一つ別の物語が伝えられているとしており、次のような話が掲載されています。

 又、氏子中より浅野家(筆者注:江戸時代に紀州藩主(後に広島藩へ加増転封)となった浅野家を指すものか)に嫁いでいた娘があり、嫁ぎ行く前夜はげしい腹痛におそわれ、うわ言に「北の山に埋もれている古い器があるから、それにて亀の川の水を汲み神社に供えてほしい」言われた通りすると、不思議にも激痛がおさまり無事赤穂に嫁ぐことができた。
 それ以来お腹の神様として崇敬されてきたとも云う