生石高原の麓から

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橋杭の立岩 ~串本町鬮野川(くじの川)~

 古座町の国道わきから、約2キロを距てた大島に向かって、大小30余の岩礁が立ち並ぶ。高さ20メートルの、切りたった大岩も含めたそれは、文字通り一直線。ちょうど橋ゲタのように連なる。

 

 朝の陽光に映え、タ方ともなれば幻想的なシルエットを描く島かげは、まさに大自然が織りなす造形の美。

 一つ二つと橋杭立てて 心届けよ串本ヘ~

 「串本節」にもうたわれる天然記念物「橋杭岩」には、二つの伝説がある。

 

 昔、弘法大師が、天の邪鬼と一緒に熊野を旅し、串本を通りがかったときのこと。長い旅路の間に、大師の偉大さにすっかり圧倒されていた天の邪鬼は、何とかして大師を困らせてやろうと考えていたが、やっと名案が浮かんだ。

 

 「お坊さん。離れ島に住んでいる人たちは、海が荒れると陸地に戻れず、それに島には水も不足しているので、大変困っています。ここから島に橋をかけて、島の人たちを助けてあげようではありませんか」ともちかけた。心のやさしい大師は、島の人たちに深く同情、天の邪鬼の提案に賛成した。
 さらに、天の邪鬼は「二人で一つの橋をかけるのは面白くない。おたがい、一晩のうちにどんな立派な橋をかけるか、競争してみませんか」といい、大師の方から先に橋をかけることになった。

 

 「どんなに偉いお坊さんでも、まさか一晩のうちに橋をかけられるはずはない。こんどこそ、大師の鼻をあかしてやることができる」。天の邪鬼は、内心ほくそえんだ。やがて陽が沈んだ。すると大師は、近くの山から大きな岩を引き抜いては肩にかつぎ、つぎつぎ、海に並べはじめた。
 驚いたのは天の邪鬼。「これは大変。このままでは、夜明けまでに橋が出来てしまう。何とかして大師の手を止めなければ」。あわてて悪知恵を働かせた。

 「そうだ。大師に、もう朝がきたと思わせればよいのだ
 そう思いついた天の邪鬼は、すぐニワトリの真似をして「コケコッコー」と大声で叫んだ。
 大師はもうあと、材木を架ければ橋ができあがる、というところで、作業を止めなけれぱならなかった……と。

 


 この伝説は、いわゆる「大師の威光」を伝えるたぐいのひとつだが、いまひとつ「太吉の涙」というお話がある。

 

 大島の沖に、暴れ者の海坊主がいた。島の漁師たちが、あまりたくさん魚を獲るので腹を立て、いつも大波を起こして島の人を困らせていた。そんな人々の難儀に胸を痛めたのは、島に住む太吉という正直な若者。

 「私の体はどうなってもよいですから、島に橋をかけてください」と、神に祈りつづけた。そのひたむきさを哀れに思った神さまは「私も手伝うから、一緒に橋をつくろう。しかし私は明日、神の国へ帰らねばならないので、一晩のうちに架けよう」と太吉に告げた。


 その夜、太吉は山から大きな岩を海に運び、つぎつぎに橋ゲタを築いた。これを見た海坊主。橋が出来てしまえば島の人を困らせることはできない、と驚き「ニワトリのなき声を真似て、神さまに帰ってもらおう」と、大きな声で「コケコッコー」と叫んだ。それにつられて串本中のニワトリも、いっせいに「コケコッコー」となき出し、朝がきたと思った神さまは旅立ってしまった。

 太吉は「もうあとひとふんばりで立派な橋ができたのに」と思うと、悲しくて仕方がない。ポロポロと涙をこぼしながら、海辺にすわり込んでしまった……。


 これらの岩には、それぞれに名前がつけられている。多くは、その形から「鳥帽子岩」「かぶと岩」「亀島」「拝み島」などと呼ぶが、国道わきの大岩は、太吉が橋づくりのとき、はき物をぬいだということで「くつぬぎ岩」。
 二番目の「大師岩」には、弘法大師をまつった洞穴があって、いまも供物が絶えないし、大師の杖の跡から湧き出したという温泉は「弘法湯」として、地元の人たちに親しまれている。

 

(メモ:国鉄紀勢線串本駅から歩いて15分。国道42号線を串本に入ると、海辺に連峰が一望できる。「くつぬぎ岩」だけは、古座町姫地区になり、大島寄りの岩は磯釣りのメッカ。そばに串本海水浴場もある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

橋杭岩
  • 橋杭岩(はしぐいいわ/はしくいいわ)は、串本町鬮野川(くじのかわ)の海岸から大島紀伊大島)に向かって大小約40の岩が約850メートルにわたって連続してそそり立つ奇観をいう。直線上に岩が立ち並んでいる姿が、橋の杭(橋脚)が立ち並ぶように見えることから「橋杭岩」と呼ばれる。

 

  • 本文で紹介されている伝承では、弘法大師を困らせてやろうと天の邪鬼(あまのじゃく 人の心を読み取って悪戯をしかける小鬼)が大師に橋を架ける競争をもちかけたことになっているが、和歌山県が管理するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」では次のように紹介されており、大島の人が困っていることを聞いた弘法大師が架橋を発案し、それを嫌々手伝わされた天の邪鬼が大師の邪魔をしたという流れになっている。

橋杭(はしぐい)
 昔々、弘法大師天の邪鬼(人の邪魔ばかりする悪者)が熊野地方を旅して串本までやって来ました。大島の人々が不便でたいそう困っているのを聞いた弘法大師は、「人に見られないように一晩の内に海に橋を架けてやろう」と思い、天の邪鬼にも手伝ってもらうことにしました。しかし、天の邪鬼はいつも人の反対ばかりする上、偉い弘法大師には引け目を感じていましたので、何とかして弘法大師を困らせたいと思っていました。
 夜になると、いよいよ二人は橋をかけ始めました。天の邪鬼はふだんから働いたことがなかったので、すぐ疲れてきました。それであまり手伝おうとしませんでした。いっぽう、弘法大師は山から何万貫もある大きな岩を担いできてひょいと海中に立ててどんどん橋杭を立てていきました。「この調子で橋を作ると朝までには立派な橋ができ上ってしまう。何とか邪魔をする方法はないものだろうか」と天の邪鬼は考えました。そこで弘法大師が「人に見られぬように夜のうちに橋をかけてしまいたい」と言っていたのを思い出して鼻をつまんで「コケコッコー夜が明ける~」と鶏の鳴きまねをしました。弘法大師は「まだ夜が明けるはずはない」と耳を疑いましたが、もう一度天の邪鬼が「コケコッコー」と鳴きまねをすると夜が明けてしまったと勘違いしてあわてて工事を止めてしまいました。それで今でも橋杭岩は海の中ほどまでしか続いていません。この珍しい岩は、大正十三年に国の天然記念物に指定されました。
串本町:橋杭(はしぐい)岩 | 和歌山県文化情報アーカイブ

 

  • もう一つの伝承として紹介されている「太吉の涙」については、熊野古道大辺路刈り開き隊が発行した「橋杭岩でいっぱい遊ぶ絵地図」に次のような話として紹介されている。

太吉の涙のおはなし
 昔、黒潮入道という海坊主が海を荒らす悪さをしていたので、大島の太吉という正直者が
みんなが安全に串本に行き来できますように・・・
と、神様に祈りました。神様
太吉や、願いを叶えてやろう。私も手伝うから明日一晩のうちに、大島と串本の間に橋をかけなさい。必ず一晩でかけなければならないぞ
と告げました。
 次の晩、太吉は神様の助けをかりて岩の橋杭を立てました。すると入道は怒り、海を大荒れにしましたが、太吉はどんどん岩を立てることができました。
 おどろいた入道は太吉に
なぜそんなに急いで立てるのだ?
と聞くと、太吉は
神様との約束で今晩中に橋をかけなければならない
と、それを聞いた入道は悪知恵を思いつき
コケコッコー!
と一番鶏の鳴きまねをすると、村中の鶏も鳴き始め、太吉は夜が明けたと思い神様との約束を守れなかったと悲しみ死んでしまいました
夕立は太吉の涙や・・・
と村人は言います。すると串本と大島の間に大きな虹の橋がかかるんです。

 

  • 昭和5年(1930)に発行された那須晴次著「伝説の熊野(郷土研究会)」にも「太吉の涙」と同様の伝承が収載されているが、こちらでは主人公の名は「与兵衛」となっている。

橋杭岩(串本)
 本州の最南端串本町の東北に橋杭の立岩という一群の島がある。日本海流黒潮は滔々と絶えずその巌頭を噛んでいる。
 鯨潮ふく熊野灘に突兀として大小数十個の岩石が一直線に南北にのびている橋杭岩。其岩質は石英粗面岩である。春は棚引く霞に遠近の群島夢の如く浮び秋は照り映ゆる紅葉に錦の島を数うるがようだ。島の蔭には鷺鴎が閑眠を貪り舟子が網を挙げて細鱗を捕っている。雅なこと奇なこと誠に一幅の名画である。
 今は昔この串本に与兵衛と言う一人の漁師があった。彼は幸福な日をすごしていた。然し南国の秋には毎年海が荒れた。逆まく波は十数日間島と大陸との交通を絶ったのである。与兵衛はただそれが心配だった。彼は一年中島を大陸からはなさせまいと決心した。そして遂にの御前に跪いたその誠心は神に通じた。神は与兵衛の志を憐まれて、或夜与兵衛の枕頭に現われた。「与兵衛、今夜鶏の鳴くまでに橋杭をつくれ。橋は立派に俺が架けてやる。」神はこうお告げになった。
 与兵衛は雀躍して喜んだ。彼は神を伏し拝みつつ身支度甲斐甲斐しく山から石を運んだ。重い重い石も与兵衛の真心の前にはなんでもなかったのである。彼の仕事は着々とはかどった。石は一本一本海岸から立ち並んだ。そして橋杭は殆んど半ば出来上った。
 驚いたのは海神である。彼は与兵衛を呼びとめてその訳を聞いた。正直与兵衛はありのまま鶏の鳴くまで橋杭を造らねばならぬ事を告げ、そしておのが仕事を観て美しく並んだ杭に見入った彼の両頬には得意の微笑が浮かんでいた。
 突然黎明を告ぐる鶏の声が響いた。与兵衛は驚いて自分の耳を疑った。コケコッコーという声は確に与兵衛の耳に入った。彼は狂気して持って居た石を捨てて海に身を投じてしまった。鶏の鳴声は海神の真似であった。
 橋杭は遂に完成しなかった。そしてそのまま中絶した。然し神は非常に与兵衛をあわれんだ。そうして村雨が晴れて日光が雲間よりもれ出てくる時はいつも与兵衛を慰めた。「与兵衛心配するな 橋は立派に出来たぞ」と。神がそういわれる時には常に大島の磯から串本の山へと七色の虹の橋が美しく架けられていた。

 

 

  • 串本町鬮野川の「」は、「くじ引き」の「くじ」の意を表す漢字。地名の由来は不詳だが、「おみくじ(御神鬮・御御鬮)」など吉凶・運不運・事の成否などを占う神事を指すことから、次項の「姫神」に由来する神事が行われたことに由来する地名かもしれない。
  • 古座町(現在は串本町姫)の地名は、北部にある重畳山(かさねやま)に鎮座する「姫神」に由来するとされる。現在は「重山(かさねやま)神社」と改称されているが、この神社の祭神は、「多岐津姫神」「多岐理姫」「市杵島姫神」の三神とされており、これは航海の安全を司る「宗像三女神むなかたさんじょしん)」の「湍津姫神(たぎつひめ)」「田心姫神(たごりひめ)」「市杵島姫神(いちきしまひめ)」と同一神であると考えられる。
  • 重畳山には、空海弘法大師高野山開創前の弘仁元年(810)ここに真言密教の大道場を開創しようとしたが、規模があまりに小さかったため高野山に移ったとの伝説があり、本項の伝承はこれと関連があるものか。重畳山にまつわる空海の伝承については、別項「まかずの稲田」を参照されたい。
    まかずの稲田 ~古座町(現串本町)古田~ - 生石高原の麓から

 

 

  • 本文にある「弘法湯」もまた弘法大師空海による開創伝承がある。弘法湯は姫区(自治会)の住民が共同で管理しているようであるが、同施設のWebサイトでは「くつぬぎ岩」と「弘法湯」の縁起について次のように解説している。

弘法湯温泉縁起
 昔この辺の村々に難病がはやり、村人たちが病に苦しんでいたところ、人々の夢枕に雲水が立ち、この杖の指すところに湯が湧き出ている。この湯は万病を癒やすとのお告げがありました。
 翌朝、村人たちは手分けをして探したところ、姫の方から1番目の大岩の1丈(3メートル)位の高さの側面に両足跡杖の跡があり、この岩の下の割れ目から湯が湧き出ていました。ある者は湯を飲み、亦、ある者は湯を汲みて浴した所、病はたちどころに治りました。以来この岩を「弘法岩」(クツヌギ岩)と、温泉を「弘法湯」とよんでいます。
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。