生石高原の麓から

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お雪の墓 ~串本町大島~

 大島は、太平洋戦争の頃まではむしろ、串本の町より賑わった。とくに徳川三百年の間。江戸へ通う船乗りたちのオアシスとして重宝された。

 

 当時は、これら船乗り目あての遊郭も多く、水を積みこむ間に、男たちは遊んだ。なかでも「お雪」と名のる遊女は、船乗りたちのあこがれだったのか、世襲のように三代続いたという。

 大島 水谷 かかりし船は お雪みたさの汐がかり

 「串本節」にまで歌われたお雪は、まこと大島繁栄の功労者だったのだろうか。大島港から正面に見上げる蓮生寺に残るその墓には、いまも紫煙の絶えることがない。

 

(メモ:大島へは巡航船かフェリーで10分。蓮生寺大島港から歩いて5分。島のタクシーを利用すれば、日米修交記念館トルコ記念館樫野崎灯台など島内の名所を案内してくれる。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

蓮生寺

 

  • 串本の大島(他地域の大島と区別するため「紀伊大島」と呼ばれることもある)は、串本町の沖合約1.8キロメートルの海上に浮かぶ、面積約9.68平方キロメートルの和歌山県下最大の島である。
  • 平成11年(1999)に大島架橋が完成し、大島は串本と地繋がりになった。このため、「ここは串本 向かいは大島 仲をとりもつ巡航船」と民謡・串本節(後述)に唄われた巡航船(フェリー)は廃止された。

 

  • 鉄道網・道路網が発達するまでは海上交通が唯一の大量輸送手段であったが、紀伊半島沖は台風銀座と呼ばれるほどの難所であったため、大島港我が国東西を結ぶ重要航路の風待・避難港としておおいに栄えた。また、漁港としても栄えており、重要な捕鯨基地でもあった。海が荒れた時には廻船が百隻以上も停泊していたと言われ、大島港周辺にはこれらの船乗りを目あてにした遊郭が建ち並び、最盛期には150人以上の遊女がいたとも伝えられる。
  • 和歌山市出身の作家・神坂次郎(こうさか じろう 1927 - )氏は、その著書「紀州歴史散歩創元社 1985)」の中で串本節お雪の話について、次のように記している。 

 大島を訪れるのはこれで数度、七年前にきた時は港近くの富田屋で半月ばかり滞在して『熊野路』(保育社カラーブックス)を書きあげた。そのとき近所の陽気な老女、芝ハマさん(当時95歳)を知った。歌の好きなお婆さんであった。散歩をする道みちハマ婆さんはよく歌を唄ってくれた。へんてこな串本節だった。
  〽ここは大島、向かいは串本・・・
 が、じつはこの歌詞が正調なのだとハマ婆さんはいう。
昔ゃみんな ❝ここは大島・・・❞ て唄いよったンよ。それがにィよ、串本のほうの宣伝が派手じゃったので、あっちゃに唄をぬすまれ、文句(歌詞)まで変えられてしもうたんよ・・・。でーん! この歌ァ大島がほんまよ
 当時の大島は、串本などよりはるかに繁昌した地で、海の国道1号線を往来する回船の風待ち、潮待ちの港として、日によっては東京通いの帆船が百艘以上も係(か)かることがあった。そんな船乗り相手の遊女たちも大島には多かった。遊女百五十余人。ハマ婆さんも 〽なぜに佐吉は松のかげ 、と串本節にうたわれた佐吉楼の姪であった。その“佐吉“に船乗りたちの心をときめかせた島一番の美女お雪がいた。
   〽大島水谷かかりし船は お雪みたさの潮がかり
あしゃあ、お雪さんのことはよう覚えとる。べっぴんじゃったが、どことのう寂しそうなひとじゃった。あしが、船乗りから教えてもろうたゲスイ(卑猥な)歌を唄うてたら、嬢ちゃんはそんな歌うとうたらいけん、て叱ってくれた
 ハマ婆さんの知っているお雪は、三、四代目のお雪なのであろう。お雪というのは、大島の遊女たちの中で最も美人である妓につけられる名だという。その、海の男たちの心をときめかせた初代お雪の墓が、蓮生寺の墓地にある。妙艶信女。苔むしたその墓は、港を一望する丘の上にひっそりとしずまっている。遊女の墓というのは、なまめかしくもかなしいものである。
 墓の近くに、朝露童子、泡幻童女などと刻んでおびただしい名を連ねた一枚の墓碑がある。おそらく、世の祝福をうけることなく、はかなく去った遊女たちの嬰児のものであろう。それは、眩ゆい陽ざしの下で眺めるには、あまりにももの悲しい風景であった。 

 

 

  • 串本節」は串本地方の民謡。「日本大百科全書(ニッポニカ)小学館)」によれば、その源流は千葉県で生まれた「白桝(しらます)粉屋」という唄で、これが江戸時代末期に「おいとこそうだよ」という唄を生み、やがて串本地方にも伝えられて祭の神輿(みこし)唄や宴会唄として定着したものとする。

串本節 くしもとぶし
 和歌山県最南端の港町、串本地方の民謡。串本は風待ちや台風の避難港としてにぎわい、港町の酒席の騒(さわ)ぎ唄(うた)として歌われてきた。この唄の源流は、千葉県の粉屋の娘を歌った『白桝(しらます)粉屋』という唄で、これが江戸時代末期に「おいとこそうだよ」という唄を生み、旅芸人か獅子舞(ししまい)かの口から串本地方にも伝えられたものであるという。囃子詞(はやしことば)に伊勢(いせ)お陰参りの「エジャナイカエジャナイカ、オチャヤレ」がつき、「エジャナイカ」あるいは「オチャヤレ節」になり、神社祭礼の神輿(みこし)行列唄や酒宴の唄として歌われていた。1924年(大正13)アメリカから水陸両用機が串本にきた際、取材で集まった京阪神の新聞記者たちにより紹介され、当時の上方(かみがた)漫才師砂川捨丸(すてまる)がレコードに吹き込んでから、『串本節』として全国的に広まった。
斎藤 明

串本節とは - コトバンク

 

  • 上記引用文にもあるとおり「串本節」が全国に知られるきっかけとなったのが、大正13年(1924)のアメリカの航空会社ダグラス社による水陸両用機の世界一周飛行であった。この時、悪天候のために串本沖への飛来予定が10日も遅れたため、手持ち無沙汰となった取材記者やカメラマンらを慰労しようと串本町長が開いた宴会で芸者衆が披露したのが串本節であり、これを覚えた記者らが後にこの歌を全国へ伝えたことにより串本節が全国的な知名度を得るに至ったとされる。

飛行機による初の世界一周と和歌山県の「串本節」
饒村曜   気象予報士 2017/9/28(木) 5:00
(略)
 中には、世界一周飛行を行い、それを宣伝に使おうとする会社が現れます。それが、1921年(大正10)年7月にドナルド・ウィルズ・ダグラスによって米カリフォルニア州サンタモニカで設立されたダグラス社です。
  ダグラス社は、アメリカ海軍向けに雷撃機(魚雷を積んで船舶を攻撃する飛行機)を製造していましたが、海軍に納入していたダグラスDCー2を改良し、燃料タンクを大きくして2人の乗員の席間隔をつめた「ダグラスDWC(Douglas World Cruiser)」(表)を、5機作っています。このうち、1機は試作機で訓練用に使われました。
 「ボストン」、「シカゴ」、「ニューオリンズ」、「シアトル」と都市名が付けられた4機の「ダグラスDWC」は、 1924年大正13年)4月4日にシアトル海軍基地を、車輪の代わりにフロートと呼ばれる浮きを付けた状態で出発しています。
 当時は、飛行場の数が少なかったために、海や湖に着水することが多かったためです。
 フロートと車輪を適宜交換しながら、世界一周を行い、2機がリタイアしたものの「シカゴ」と「ニューオリンズ」の2機が出発点のシアトルに戻ってきたのが9月28日です。
 飛行機による初の世界一周は、出発から175日間、69箇所に寄港し、4万4342キロメートルの飛行でした。
(略)
 世界一周飛行中の「ダグラスDWC」は、5月17日にパラムシル(北千島)、19日にヒトカップ南千島)、22日に湊(現在の青森県八戸市)に寄港し、22日のうちに霞ヶ浦に到着しています。
 しかし、和歌山県串本町への寄港は6月1日と、霞ヶ浦に到着した日の10日後です。
 これは、5月24日に東シナ海で発生した低気圧(図2の丸1 筆者注:本項では省略)が、発達しながら日本の南岸を通過したためで、とても飛べる状態ではなかったからです。
(略)
 飛行機で世界一周ということは、当時のビッグニュースであり、阪神地区の新聞記者やカメラマンは大挙して串本に押し掛けていましたが、飛行機の到着の遅れで、10日間もの長逗留を余儀なくされています。
 このため、手持ちぶさたの記者達を慰めようと、串本町長が宴会を開き、芸者衆が地元の歌と踊り(串本節)を披露したところ、これが大好評となっています。
 飛行機がくるまでの間に習い覚えた記者達は、無事取材を終えて各社に帰ったあと、宴会の余興で披露した人が多くでています。これを伝え聞いた、神戸の漫才師、砂川捨丸がレコードに吹き込み、巡業で歌ったことから、串本節が爆発的な全国人気を得ています。
 偶然が重なり、飛行機による初の世界一周が、和歌山県の串本節を全国的に有名にしました
飛行機による初の世界一周と和歌山県の「串本節」(饒村曜) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

  • 上記引用文では、ダグラス機の取材記者が宴会で披露した串本節を聞いた漫才師の砂川捨丸(すながわ すてまる 1890 - 1971)がレコード化したとされるが、この経緯については明確ではない。一般的には、大正14年(1925)頃から捨丸が舞台で串本節を披露して人気を博し、後にこれをレコード化したと言われている。いずれにせよ、大衆に串本節が定着する大きなきっかけとなったのが砂川捨丸であったことは間違いない。前和歌山市長の大橋健一(おおはし けんいち 1946 - )氏のブログによれば、かつての串本節の囃し言葉は「エージャナーイカ」であったとするが、現在は「アラヨイショ~」が定着しているとする。砂川捨丸が「アラヨイショ~」として唄ったのがはじめとの情報もあるが、未確認である)
    串本節 : 大橋建一ブログ

 

 

  • メモ欄中、「日米修交記念館」は、寛政3年(1791)、レディ・ワシントン号とグレイス号の2隻のアメリカ商船が大島に上陸したことを記念して設けられた施設。これはペリーの黒船来航より62年も前のことで、公文書に記録されたはじめての日米間の接触であるとされる。
    日本ではじめて、アメリカとの交流|串本町

 


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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。