生石高原の麓から

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鯛島 ~古座町目津(現串本町古座)~

 目津海岸から約一キロ。海賊「藤四郎」で知られる九龍島(くろしま)の後に続くようにして鯛島が浮かんでいる。

 

 「古座節」にいう。「古座の九龍島鬼や出た、蛇出た。大きな蛇げな、うそじゃげな。岸の九龍島慕うてきたか、沖の鯛島いじらしや」と。全島が新第三紀層の砂岩。露出した岩肌の感じから、蛇に見たてたのだろうか。

 九龍島はれっきとした町有地なのだが、鯛島は町役場で調べても“戸籍”ははっきりしない。しかし、背に十数本の樹木を乗せて、タイ焼きの鯛そっくりのユーモラスな姿は、お燐りの九龍島とは切り離せない。尾ビレに背ビレ。大人一人は通れる穴が目玉。海ぞいの国道を行くドライバーたちの目を楽しませてくれる。

 

(メモ:国鉄紀勢線古座駅下車。バスなら駅前から潮岬行きに乗り、目津か大浦で下車。車なら5分で遠望できる場所へ行ける。島の付近はグレ、イシダイなど磯釣りのポイントが多く、西に橋杭岩、南に大島も望める。)

  • 鯛島(たいじま)は、古座川の河口から約1キロメートル沖にある無人島。対岸から見ると鯛の姿に見え、ちょうど目にあたる位置に空洞があることから、「鯛島」の名がついた。
  • 九龍島(くろしま)は、鯛島に隣接する無人島。鯛島より大きく、島内は亜熱帯性原生林に覆われている。「九龍島の自然林スダジイ等の植物群落)」は町指定天然記念物となっている。
  • 九龍島はかつて「黒島」と表記されていたが、新宮市教育委員会が管理する「熊野学」のWebサイトによれば、元和6年(1620)に古座浦で船遊びを行った南龍公(初代紀州徳川家藩主 徳川頼宣)が九龍島と表記を改め、島内に弁財天を祀ったとされる。

    https://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/htm/kumanogaku/article/history/chronologicaltable3/index.html

  • 九龍島は、平安時代末期のいわゆる源平合戦治承・寿永の乱)などで活躍した熊野水軍(海賊とも)の拠点の一つであったと言われ、海賊の隠れ家と伝えられる洞窟がある。
  • 本文にある「藤四郎」は、戦国時代末期の海賊とされ、月野瀬の里古座川町)に棲むおふじという少女を連れ去ろうとして少女が古座川に身を投げたという、通称「少女峰(しょうじょほう)」の伝説で知られる。この伝説については項を改めて後に掲載する予定としている。
  • 古座節については不詳。民謡「串本節」の歌詞を掲載しているWebサイトに、「古座の黒島 鬼出た蛇でた  大きな蛇ぢゃもの うそじゃげな」という、本文とほぼ同一のフレーズがあることから、本文掲載の古座節は串本節のバリエーションの一つではないかと思われる。
    (全国の民謡)http://koryo.seesaa.net/index-6.html
    (串本節については、本ブログの「お雪の墓」の解説参照)
    https://oishikogennofumotokara.hatenablog.com/entry/2020/07/05/151412
  • 本文掲載の古座節にある「蛇」と「鯛島」に関しては、次のような民話が残されている。

鯛島と清暑島(せいしょとう)
昔々、古座川の水が温かくなってきた春の川口近くの海岸で、鯛の子蛇の子が仲良く毎日遊びたわむれていました。
そして、年を重ねるにつれて、いつしかお互いに恋心を抱くようになり、やるせなさと不安が積もっていきました。
蛇さん、あのね。私は大きくなったら深い海に行かなければならないの。そうしたら、蛇さんは私のことなんか忘れてしまうでしょうね
そんなことはありませんよ。あなたこそ私が大きな蛇になったら、恐ろしがって私に寄りつかなくなるのと違うだろうか」
そうこうするうち、ある年の梅雨の時期に大雨が降り古座川が大水で溢れてしまいました。
そのため、遊び場だった岸も流れてしまいました。
蛇は仕方なく鯛に別れをつげ濁流をさかのぼって行きました。
鯛はそんな蛇を悲しく見送り、自分も深い海に帰る運命を悟り深海へ泳いで行きました。
鯛と蛇はこのようにして離れ離れになってしまいましたが、お互いに完全に忘れられず恋しさはつのるばかりでした。
それで、とうとう蛇も鯛も岩になってしまいました
集落の人たちは、鯛が岩になったものを鯛島、蛇が岩になったものを清暑島と呼ぶようになりました。
これを知った弁天さん大黒さんは相談の末、鯛と蛇を逢わせてやるために漁師に舟をつくらせ、一年に一度だけ、鯛を船に乗せて古座川を上らせ蛇に逢わせてやることになりました
これが古座の河内(こうち)祭りの始まりだそうです。

和歌山県ふるさとアーカイブ 「和歌山の民話」より (一部表記を変更)

古座町:鯛島(たいじま)と清暑島(せいしょとう) | 和歌山県文化情報アーカイブ

  • 民話にある清暑島は、古座川河口から約3キロメートル上流にある川中の島。もともとは河内島(こうちじま)と呼ばれていたが、津藩士の子で朱子学者でもあった斎藤拙堂(さいとう せつどう 1797 - 1865)が私的に清暑島(せいしょとう)と呼んだことから、現在では河内島・清暑島の両方の呼び名が共に定着している。
  • 民話にある河内祭りは、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」に、「日置浦より新宮迄の間に此祭に次ぐ祭なし」と記載があり、当時から非常に大きな祭であったことがわかる。その中核的な行事は華麗に飾り付けられた鯨舟(「御舟(みふね)」と呼ぶ)3隻による水上渡御で、河口部にある古座神社で「河内大明神」の神額を授かり、一旦海に出て九龍島の近くで「潮(しお)汲み神事」を行ったうえで、河内様(こおったま 河内島全体を御神体とする呼び名)まで漕ぎ上り、島に上陸して神額・潮・御神酒等を奉納する。この神事が、前述の民話にある「鯛を船に乗せて古座川を登らせ蛇に逢わせてやる」行為そのものであると考えられている。
  • 河内祭りは、「河内祭の御舟行事(こうちまつりの みふねぎょうじ)」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。文化庁の「国指定文化財等データベース」によれば、その祭事の内容は次のとおりである。

河内大明神は一般に河内様と呼ばれ、祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)であると信じられている。
祭りは五地区のうちの古座区の行事を中心に行われる。
古座区では区長が祭典委員長を務め、オキノヒト・オキノショウバイとも呼ばれる漁家の青年の組織する勇進会が御舟を担当する。
一方、オカノヒト・オカノショウバイと呼ばれる漁家以外の青年は青年会に組織されて獅子舞を担当し、網代網漁の指揮をする船頭は当舟の責任者を務める。
このほか、勇進会退会者の有志が河内会を組織し御船唄を担当するとともに、青年会退会者有志は獅子舞保存会を組織し、獅子舞の指導に当たっている。
なお、古座区以外の4区では区ごとに7,8軒が一組となって当屋を務め、高池下部では芳流館互盟社という青年会、古田では青年クラブの組織が獅子舞を担当する。
23日の昼過ぎに勇進会の手により御舟化粧杉が取り付けられ、夕方にはショウロウの宮入獅子の宮入が行われる。
ショウロウは男児2人と女児1人で、背負われて宮入をする。
網代の船頭が選び、古くは7歳の子どもであったが、現在は小学2,3年生が務める。
両親の健在な漁師の子どもが選ばれ、これを務めると身体が丈夫になるといわれた。
この日、区内に辻屋台を設置し、かつては一般家庭でも潮汲みと注連掛けを行った。
24日の早朝、御舟・当舟の飾り付けが行われる。
御舟行事に使用される舟は、御舟当舟獅子伝馬(ししでんま)・櫂伝馬(かいでんま)の種類があり、それぞれ祭り専用の舟がある。
御舟・櫂伝馬は古座区だけが持ち、獅子伝馬・当舟は古座区と高池下部が持っている。
古座区の御舟・櫂伝馬は各三艘ずつあり、区内を上・中・下の三つに分けてそれぞれ御舟の宿を設け、一艘ずつを受け持つ。当舟・獅子伝馬は、区全体でそれぞれ一艘である。
御舟の飾りは舟の左右に三枚ずつ陣幕を張り、水押しに水引を付け、化粧杉を飾った箱形の木枠全体を水引幕で覆う。
艫(とも)には河内大明神と書かれた大幟五色の吹き流しを斜めに立てる。
舳先から(のぼり)、提灯(まとい)・軍旗長刀弓矢等を飾り立て、艫に色紙で飾られたモチマエダケを立てる。
これらは舟の前後に扇形に開くように飾るという。御舟の舳先(へさき)の図柄と色は、上の御舟桜と黄色中の御舟菊と青色下の御舟牡丹と赤色である。
当舟は舳先に御幣を立て、艫に樫の木と竹を七・五・三に組み、吹き流しを二本立て、全体に屋形を付ける。
河内様の古田側の川原では5区がそれぞれの祭壇およびショウロウ屋台を設営する。
座は下流から古座・高池下部・古田・月野瀬と並び、宇津木の座だけ対岸に設けられる。
午後2時ころ、古座区にある古座神社から河内大明神の神額が御舟に遷され、御舟が河内様に向かう。
御舟の順番は毎年順送りとなり、いったん海上に出て左に旋回してから川上に向かう。
このとき、初めて御船唄が歌われる。
途中、橋にさしかかると神額は舟から降ろされて陸路橋を越え、再び舟に遷される。神額の上を越させないためである。
三艘の御舟は河内様に到着次第、次々に島に登って参拝する。
一方、古座区の河口付近では中学生の漕ぎ手によって櫂伝馬競争が行われる。
この夜、古座神社では宵宮の祭式が行われ、河内様では御舟が順番に島を右回りに三周し、夜籠りが行われる。
かつては、川原で夜を明かしたが現在ではいったん帰宅している。
この日、古座区の獅子舞は区内の家を回り、高池下部・古田の獅子は河内様の古田側の川原で舞った後、区内の家を回る。
25日本祭で、狩衣姿のショウロウ祭典委員長などを乗せた当舟を先頭に、獅子を乗せた獅子伝馬櫂伝馬が続き、その後に一般参加者の舟が続いて河内様に向かう。
このときもショウロウは地面に足をつけず、神額同様橋を陸路で越える。
当舟が河内様に到着するとショウロウを除く全員が島に登り参拝をする。
その後、川原に移りショウロウはショウロウ座に着座する。
この座はかつては榊と竹で組み毎年造り替えるものであった。

  • 河内祭りにおいて参拝の対象となる「河内様」は河内島そのものであり、鳥居や拝殿を持たない非常に原始的な形態の神社であると言える。このため、本来の河内祭りは自然崇拝的な素朴な水神信仰であったものが、後代になって、平安時代末期に熊野水軍の一派である古座水軍源平合戦に参加して勝利を得て無事に帰還した際に氏神である河内神社に戦勝報告を行ったことにより、現在のような華やかな祭りになったと伝えられている。

    新・紀州語り部の旅 - 紀南 串本町(古座) | 和歌山県観光情報

  • これに対し、熊野の地域情報サイト「み熊野ネット」では、個人からの情報として「河内祭が熊野水軍の凱旋or慰霊祭が起源という説は昭和初期に地元郷土史家が提唱したもので、それまでそういう伝承はなかった」との言説を紹介している。

    河内神社(河内島):熊野の観光名所

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。