生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

背美の子持ち ~太地町太地~

 太地の捕鯨は慶長11年(1606)に始まったといわれ、荒海での鯨との戦いは、いかにも勇壮。しかし、そのかげには多くの悲劇も生んだ。

 

 太地港を見下ろす道路協に、ぽつんと立つ古びた「漂流人記念碑」は、古式捕鯨の「鯨方」に壊減的な打撃を与えた明治11年の大量遭難を語り伝える。

 年の瀬も押しつまった、この年の12月24日、太地の男たちは、嵐の中を、子持ちの背美鯨に挑んだ。
 昔から「背美の子持ちは夢にも見るな」といい伝えられてきた太地ではあったが、不漁続きのさ中に訪れた、願ってもないチャンス。男たちはわれを忘れて鯨を追った。

 

 だが、結果は悲惨だった。巨大な尾ビレにたたかれ、嵐に舟をひっくり返されて、111人が帰ってこなかった。

 270年にわたる古式浦鯨にピリオドを打たせたこの事件は、今後も太地の人たちに、永く語り伝えられることだろう。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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本文執筆当時の漂流人記念碑
  • 一般に「大背美流れ(おおせみながれ)」または「背美流れ」と呼ばれるこの事件により、江戸時代初期から伝わる太地の古式捕鯨は事実上壊滅した(古式捕鯨に対して、動力船に搭載した捕鯨砲でロープ付の銛を打ち込んで鯨を捕獲する方法を一般に「近代捕鯨」という)。なお、後の項で詳述するが、本文にある「背美の子持ちは夢にも見るな」との格言が当時の一般的な認識であったか否かについては議論がある

 

  • 現在、漂流人記念碑は太地港から平見地区へ通じる二車線の県道梶取崎線沿いに移転しており、その前に次のような内容の解説板が設置されている。

漂流人紀念碑
明治11年(1878)12月24日、子連れのセミクジラを追って沖へ出た太地鯨方船団は悪天候のため遭難し、出漁者の大半となる百名以上が帰らぬ人となった。

燈明崎山見の責任者であった和田金右衛門頼芳が残した「背美流れの控え」には、生還者が報告した事故の顛末が記されている。それによると、船団は出漁の翌日朝にはクジラを捕まえることに成功した。しかしすいぶん沖合に流されたので、陸に戻るのに時間を要した。夕方にはクジラも捨て、懸命に陸を目指した。夜に入って西風が強くなり、夜が明けると山も見えないほど沖に流されていた。

各舟を繋いだが、強風のため綱は切れ、多くの舟は漂流して行方不明となった。

未曾有の惨事を後世に伝えるこの記念碑は、まず東の浜に建てられたが、昭和34年(1959)に平見に通じる坂道の中腹に移され、さらに平成14年(2002)に現在の場所に移された。また順心寺には、鯨組宰領の子係によって昭和29年(1954)12月24日に建立された「太地捕鯨方漂流殉難供養碑」がある。
   平成26年12月  太地町教育委員会

 

  • 太地町観光協会のWebサイトには、前項の説明版で紹介されている和田金右衛門頼芳による「背美流れの控え」の現代語抄訳が掲載されている。その内容は次のとおりである。

明治11年(1878) 24日、雨天、北東風
午後2時前頃に三輪崎の網舟がやってきて、太地の勢子舟も旗をあげてクジラの発見を知らせた。やがて三輪崎の舟が網を掛けたがクジラは南へ逃げた。
クジラは太地の網に当たって太地湾の方へ逃げた。そのうち潮が速くなり、網が切れた。さらに網を掛けたが外れてしまった。親クジラに銛を打ち込んだが、夜になって沖の方が見え難くなった。舟の篝火が見えるが、だんだんと沖へ離れて行き、やがて見えなくなった。

 

25日、晴天、弱い西風、穏やかな海
燈明崎から船団が見えないので、高山へ行ったがやはり見えない。そこで小文次、林蔵、次郎平を樫の上へ派遣したところ船団が見えた。しかし沖へ流されているので、さらに高いところに登ると、ずっと沖に船団が見えた。暗くなってきたので皆で心配した。
夕方、直大夫の舟が戻ってきた。「今朝10時頃にクジラを仕留めたが、米と水がなくなったので補給するため帰ってきた」と報告した。伊豆のマグロ船などに頼んで米と水を届けてもらうことにした。

 

26日、晴天、強い西風
今朝も樫の上に行ったが船団は見えない。小文次、栄治、林蔵、魚切の粂八を妙法山へ、佐与平、友蔵を八郎ヶ峰へ、多喜平、林七、次郎平を樫崎へ派遣した。大騒ぎになってきた。

 

27日、晴天、弱い西風、穏やかな海
夜12時頃、要大夫の舟に乗った11人が大引のマグロ船に助けられ帰ってきた。要大夫が言うには、25日の夕方にクジラを捨て、陸に上がろうとするうちに夜になり、西風が強くなった。夜が明けても陸は見えず、綱で舟を結んだ。風に流されるうち、要大夫、富大夫、次郎大夫の舟が離れて、陸に打ち上げられた。富大夫の舟は櫓が折れたので他の舟に乗り移り、要大夫の舟も壊れたが、マグロ船が来て助けられた。他の舟がどうなったかは分からない。(後略)

大背美流れ(おおせみながれ) | 太地町観光協会(和歌山県)

 

  • 上記の太地町観光協会Webサイトによれば、事故後の明治12年(1879)2月に太地村民の救済を目的として和歌山市内に開設された支援事務所の広告では生還者数80名行方不明者数107名死亡者数8名と記録されているという。

 

  • 海に投げ出された人のうち8人は、東京の伊豆諸島の一つである神津島(こうづしま)に流れ着き、島民に助けられた平成27年(2015)11月11日付けでWBS和歌山放送ニュースのWebサイトに掲載された記事によると、この時に救助された漁民の曾孫にあたる太地町前教育長の北洋司(きた ようじ)氏が同日に神津島を訪れ、教育長らと面会して当時の礼を述べたとのことである。また、この際に同島の濤響寺(とうごうじ)に保存されていた過去帳を調べた結果、明治11年に前浜海岸に打ち上げられた熊野の鯨とり3人が同寺で弔われたとの記録を新たに発見したとも報道されている。

 

  • 和歌山市出身の小説家・津本陽(つもと よう 、1929 - 2018)は、昭和50年(1975)から53年(1978)にかけて同人誌「VIKINGにこの事件を題材とした小説「深重の海(じんじゅうのうみ)」を断続的に連載した。津本氏は、この作品が第79回直木賞(昭和53年/1978年上期)を受賞したことにより華々しく文壇デビューを果たし、以後、同氏の人気作家としての地位が確立されることとなった。

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津本陽 深重の海
  • 本文では、「背美(せみ)の子持ちは夢にも見るな」との格言が古くから言い慣わされてきたと書かれているが、事件より前にこのような認識があったか否かについては定かでない。太地町の広報誌「広報たいじ 平成30年8月号」において太地町立くじらの博物館学芸員櫻井敬人氏は、津本陽氏の訃報を受けて、同氏が「深重の海」の中でこの格言が「あった」との説を取ったことについて次のように書いている。

 「深重の海」の参考文献に「熊野太地浦捕鯨」が挙げられていることから、津本氏は、その中に収められた「熊野太地浦捕鯨乃話」を読んだに違いない。著者は太地五郎作氏で、彼の父は「背美流れ」のときに燈明崎で山見旦那を務めていた人物であった。勇猛なセミクジラは子を守ろうとしてますます暴れて捕らえることが難しいことから、それは「背美の児持は相手にしない方が宜しいという戒め」であると太地五郎作氏は説いている。
 鯨組宰領の子孫で歴史家の太地亮氏は、言い伝えは事故の後に生まれた言葉であるという見解を「太地角右衛門と鯨方」の中で述べている。子持ちのセミクジラが捕獲されていたことを示す資料の存在がその理由である。例えば太地角右衛門頼徳が寛政3年(1791)に記し、翌年に神津島に伝えられた文書では、どの種のクジラでもまず子鯨を捕らえると母鯨は逃げることがなく、合わせて母鯨も捕らえることができると書かれている。鯨唄にも「背美の子持ちを突きおいて、春は参ろぞ伊勢様へ」という歌詞がある。
 ニューベッドフォード捕鯨博物館ダイヤー学芸員の研究によると、1830年代までにアメリカ大陸太平洋沿岸においてセミクジラを捕獲するようになったアメリカの鯨捕りたちは、セミクジラは獰猛であり、特に子連れのセミクジラには注意しなければいけないという認識を持っていたという。何世代にもわたってクジラを観察してきた太地の鯨捕りたちも同様の知識を持っていなかっただろうか。
 「背美流れ」から39年後の大正6年(1917)に出版された「紀伊東牟婁郡」に、太地尋常高等小学校が調査した「太地捕鯨船遭難顛末」という文章が収められている。「俚歌にこれあり曰く『背美の子連れは夢にも見るな』」とあって、子鯨は母鯨から離れないので母鯨は「益々強勢」になると書かれている。その言葉がどのように生まれ、どのように理解されてきたかは、残念ながら説明されていない。

平成30年度 広報たいじ|太地町

 

鯨とともに生きる新宮市那智勝浦町太地町串本町

絶景の宝庫 和歌の浦和歌山市海南市

「最初の一滴」醤油醸造の発祥の地 紀州湯浅(湯浅町

「百世の安堵」津波と復興の記憶が生きる広川の防災遺産~(広川町)

1300年つづく日本の終活の旅西国三十三所観音巡礼〜那智勝浦町和歌山市紀の川市ほか)

女性とともに今に息づく女人高野~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~九度山町高野町ほか)

「葛城修験」-里人とともに守り伝える修験道はじまりの地和歌山市橋本市紀の川市岩出市かつらぎ町ほか)

www.wakayama-kanko.or.jp

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。