生石高原の麓から

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鯨えびす ~太地町太地~

 七福神で知られる恵比須さんは、海上、漁業、商業などの神として広く信仰を集めているが、この地に伝わる「えびす」は、鯨で名を売った男の話。

 
 昔。まだ太地の人々が鯨の捕り方を知らなかったときのこと。悠然と泳ぐ鯨の群れを見ていた和田頼治という男が、大きな網で鯨を追い込み、モリで撃ち捕ることを考えついた。頼治は多くの漁師を指揮して、つぎつぎと大鯨を仕止めて行ったのだが、そのうち、だれいうとなく頼治を「鯨えびす」と呼ぶようになったという。

 ところで、鯨そのものを「えびす」と呼ぶ地方がある。サメやイルカ、はては海で拾った石までも、そう呼ぶところがあるとも。

 つまりそれは、豊漁をもたらしてくれる「福の神」という視点から生まれたものであり、そこには素朴な信仰さえあったのだろう。

 

(メモ:太地は、わが国近代捕鯨発祥の地といわれ「鯨の博物館」や、鯨の泳ぐプールなどがある。国鉄紀勢線太地駅からバスが出ている。国道42号線から約3キロ。)


太地町立くじらの博物館
  • 我が国では有史以前から捕鯨が行われてきており、西洋とは異なる独自の捕鯨技術を発展させてきた。縄文前期(約8,000年前)の遺跡とされる稲原貝塚(千葉県館山市)からイルカの骨に刺さった黒曜石のヤス(小型の銛)の石器が出土しており、この時代に既に鯨類を捕獲していたことが判っている。
  • 奈良時代になると、万葉集において鯨を「いさな」または「いさ」と呼び、捕鯨を意味する「いさなとり」が海や海辺にかかる枕詞として用いられていることから、この時代には捕鯨が一般的に行われていたと考えることができる。
  • 日本で最初の捕鯨の歴史書とされる「鯨記(1764)」によれば、大型のクジラに対しての突き取り式捕鯨(ヤス・銛・矛・槍などで鯨類を突いて取る方法)が最初に行われたのは1570年頃の三河国であり6~8艘の船団で行われていたとされる。
  • 戦国時代末期になると、熊野水軍をはじめとする各地の水軍や海賊の出身者らは活躍の場を失った。こうした者の中から捕鯨を新たな業とするものが現れた。慶長11年(1606)、太地の郷士(村に土着した武士)であった和田忠兵衛頼元(わだ ちゅうべえ よりもと)は、泉州堺の浪人伊右衛門と、尾張師崎(知多半島の南端)の伝次とともに「突き取り法」による組織的な捕鯨を行うようになった。その方法は、山見と呼ばれる探鯨台を設置して鯨の動向を探り、旗や狼煙(のろし)によって刺手組(綱つきの銛を装備した小舟数隻で構成するチーム)を指揮して鯨を追い、銛で突き刺して捕獲するもので、こうした組織的な捕鯨法が確立されたのは我が国で初めてのことであった。
  • 本文で紹介されている和田頼治(わだ よりはる のちに太地家を興し太地角右衛門を名乗る)は、和田忠兵衛頼元の孫である。それまでの「突き取り法」による捕鯨が、暴れる鯨にとどめを刺す際に非常な危険を伴うものであったことから、頼治は新たに「網取り法」を開発した。この方法は、鯨の進行方向前方に網を仕掛けて、数十隻の船団で鯨を網に追い込み、鯨が網に絡まり身動きできなくなって体力を消耗したところを銛などで突いてとどめを刺すものである。一説には頼治が蜘蛛の巣にかかった虫を見てこれをヒントに考案したとも言われるが、銛を突く際には鯨がほとんど動けなくなっているため、従来の「突き取り法」に比べると安全性が著しく向上した点が特徴である。また、「突き取り法」では遊泳速度の遅いセミクジラやコククジラなどしか捕獲対象とならなかったが、「網取り法」では遊泳速度が速いマッコウクジラやザトウクジラなども捕獲できるようになったため、捕獲効率が飛躍的に向上し、太地は大いに繁栄することとなった。
  • 太地で開発された「網取り法」は全国各地に伝達された。「ジャパンナレッジ版 日本大百科全書(ニッポニカ)」によると、江戸中期には、紀州和歌山県)の太地・古座、土佐高知県)の津呂・久保津、肥前(長崎・佐賀県)の生月・小川島、壱岐長崎県)の勝本、五島長崎県)の魚目、対馬長崎県)の鰐浦、長門山口県)の通・見島・川尻、丹後京都府)の伊根、能登(石川県)の小木浦などで網取り法による捕鯨が行われていたとされる。
  • 網取り法は、捕獲効率が高い反面、非常に多くの人手を要することが難点とされる。前項と同じく「ジャパンナレッジ版 日本大百科全書(ニッポニカ)」によると、その総計は500人から800人にのぼるとされる。

網取式捕鯨は、海岸の丘の上に見張りを置き、クジラを発見するとのろしによって通報し、多数の捕鯨船を出漁させる。
捕鯨船団の構成の一例をあげれば、勢子船(せこぶね)15隻、網船(双海(そうかい)船)13隻、引船(持双(もっそう)船)4隻、親船1隻、計33隻に達する。
親船の指揮の下に勢子船は集団でクジラを追い立て、あらかじめ双海船が幾重にも張り巡らせた網にクジラを絡ませて行動を鈍らせ、手投げ銛を投げて体を弱らせ、最後に鼻孔(びこう)に綱を通して持双船によって鯨体をつり下げて捕鯨場まで曳行(えいこう)する。
クジラの解体は海岸で、ろくろなどの機具を活用して解体し、納屋(なや)と称する工場で漁獲物の処理を行う。これらの一連の組織を鯨組(くじらぐみ)とよび、従業員は陸上・海上部門をあわせて500~800人を擁した

  • 俗に「鯨一匹捕れば七浦潤う」と言われるように、鯨は漁村に莫大な利益をもたらした。ありとあらゆる部位の肉と軟骨は塩漬けにされて食用に、油は灯火用の燃料にしたほか、ヒゲと歯は櫛や笄(こうがい 結髪用具)などの手工芸品に、毛は綱に、皮は膠(にかわ)に、血は薬に、採油後の骨は砕いて肥料になった。また、マッコウクジラの腸内でできる凝固物は竜涎香(りゅうぜんこう)として香料に用いられた。天和元年(1681)には年間で95頭を捕獲し、6000両を超す利益が得られたという。(参考:日本遺産 鯨とともに生きる )

    日本遺産ストーリー - 鯨とともに生きる

  • 貞享5年(1688)に刊行された井原西鶴(いはら さいかく)の浮世草子(大衆小説)「日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)」巻二に、「天狗は家名の風車 紀伊国に隠れなき鯨ゑびす、横手ふしの小哥の出所」として紀伊国の鯨取りの話が掲載されている。書内では、地名は泰地、人名は天狗源内となっているが、これは太地太地角右衛門和田頼治)がモデルであるとされる。財団法人日本鯨類研究所が発行する「鯨研通信 第380号 1990年12月」に同話の原文と現代語訳が掲載されているので、以下に引用する。ちなみに、井原西鶴の出自は紀州井原家であり、現在の日高川町三十木で誕生したとの説が有力となっている。

智恵の海広く日本の人の祖(はたらき)を見過にうとき唐楽天(もろこしらくてん)が迯(にげ)て帰りことのおかし。
詩をうたふは耳遠く横手ぶしといへる小哥(うた)の出所を尋ねけるに紀路大湊泰地(きじ おおみなと たいじ)といふ里の妻子のうたへり、
此所は繁昌にして若松村立ける中に鯨恵比須(えびす)の宮をいはひ、鳥井に其魚を胴骨立しに高さ三丈ばかりも有りぬべし。
目なれずして是にけう覺(さめ)て浦人に尋ねければ、比濱に鯨突の羽指(はざし)の上手に天狗源内(てんぐ げんない)といへる人。
毎年仕合男としておかし此人をやとひて舟を仕立けるに、有時沖に一むら夕立雲のごとく塩吹けるを目がけ一の鑓(もり)を突て風車(かざぐるま)の験(しるし)をあげしに。
天狗とはしりぬ。
諸人浪の聲をそろへ笛太鞁鉦(ふえ たいこ かね)の拍子をとって大綱つけて轆轤(ろくろ)にまきて磯に引きあげるに其たけ三十三尋貳尺六寸(せみ)といへる大鯨前代の見はじめ七郷(ななさと)の賑い竃(かまど)の煙立つづき。
油をしぼりて千樽のかぎりもなく。
其身皮ひれまで捨る所なく長者に成は是なり。
切かさねし有様は山なき浦に珍しく雪の富士紅葉の高雄爰(ここ)にうつしぬ。
いつとても捨置骨を源内もらひ置て是をはたかせ。
油をとりけるに思い外成徳より分限に成。
すゑすゑの人のため大分の事なるを今まで気のつかぬこそおろかなれ、近年工夫をして鯨網を拵(こしらへ)見付次第に取損ずる事なく今浦々に是を仕出しぬ。
昔日は濱はさしの住(すまい)せしが。
檜木造りの長屋貳百余人の猟師をかかへ舟ばかりも八十艘何事しても頭(づ)に乗って今は金銀うめきて、遣へども跡はヘらず根へ入ての内證(ないしょう)吉是(よしこれ)を楠木分限(くすのき ぶげん)といへり

 

広い海にも似た智恵の豊かな日本人の働きをみて、世渡りにうといとゆう中国の楽天が逃げかえったことのおかしさ、詩を歌ふのは聞いてもよくわからないもので、横手節という小唄の出所を尋ねてみると、紀州泰地という村の妻子が歌っているという。
その泰地は賑い栄えていて、若い松の林の中に鯨恵比須の宮を祀り、鳥居に鯨の肋骨が立てられているが、その高さは約三丈はあろう。
見なれないので驚いて浜辺の人に尋ねたところ、この浜に鯨突きの上手な羽指に、天狗源内という人がいた。
この人は毎年運の良い男なので雇い、鯨舟を仕立てた。
ある時、沖に夕立のように大きい潮を吹いた鯨を目がけて投げた、一番最初の銛が命中した。
そこで、風車の旗印をあげたところが、その羽指が天狗とわかった。
陸上の鯨解体場で待機していた人々は、浪の音に掛け声を合わせて、笛大鼓や鉦で柏手をとりながら、鯨に結びつけた太い綱を轆轤に巻きつけて、海岸へ引き揚げた。
その体長は33尋2尺5寸(約50メートル)もあるセミクジラで、大きさは前代未聞である。
その鯨のおで七浦が賑い、各家々からは暮しの豊さを象徴するかのように、食事の支度をする竈の煙が立ちのほっている。
鯨の油を搾ったところ、その量は千樽以上もあった。
その肉や皮そして鰭まで捨てる所がなく、富豪になるのはこの鯨のためである。
裁割されて積み重ねられた皮や肉は、山のない浜に、白い皮は雪が積った富士山を、また赤い肉は紅葉の名所高雄山を、ここへ移したようであった。
鯨が捕れた時は何時も捨てていた骨を、源内はもらって粉砕し、油を採ったところ、予想外に利益があがり、そのために金持となった。
普通の人々が、今までそのことに気がつかなかったことは、愚かであった。
近年工夫をして鯨網を考案し、鯨を発見次第、捕りそこなうことがなくなり、今では浦々で鯨網を使用しはじめた。
以前、源内は浜辺の小さい家に住んでいたが、檜造りの長屋を建て、200人余りの鯨捕り達を雇い、鯨舟だけでも80を数えた。
何をしても順調で、今は金銀が有り余る程たまり、その金銀をいくら使っても、使い切ることがない、押しも押されぬ大金持となっている。
これを楠木分限という。

  • 上記の「日本永代蔵」に、「鯨恵比須の宮に、鯨の肋骨でできた高さ三丈(約9メートル)もの鳥居がある」との記述があることから、昭和60年(1985)に恵比寿神社鯨のあご骨でできた鳥居が建てられた。その後、平成8年(1996)に二代目が、平成31年(2019)に三代目がそれぞれ建立された。現在の鳥居はイワシクジラのあご骨でできたものである。
  • えびす(ゑびす)は七福神のうちの一柱の神として人々に親しまれているが、その発祥は各地の民間信仰であるとされており、地域や神社によって様々に異なる由来・伝承を有している。ちなみに、七福神のうち六神は中国・インドが発祥とされ、日本由来の神はえびす神のみである。

七福神
 恵比寿:日本(神道
 大黒天:インド(ヒンドゥー教
 毘沙門天:インド(ヒンドゥー教
 弁財天:インド(ヒンドゥー教
 布袋:中国(仏教)
 福禄寿:中国(道教
 寿老人:中国(道教

  • 現在「えびす神社」は日本に約3500社あるとされるが、その総本社兵庫県西宮市の西宮神社である。同社の主祭神であるえびす大神蛭児命 ひるこ・こひるこのみこと)は、いわゆる「国産み神話」において伊弉諾岐命(いざなぎのみこと)と伊弉諾美命(いざなみのみこと)との間に最初に生まれた子供である。しかし、古事記によれば「わが生める子良くあらず」との理由で葦の舟に入れて海に流されてしまった。西宮神社の社伝では、蛭児命は西宮に漂着し、「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。このように、西宮神社に伝わる「えびす」は「漂着神」としての性格を有している。
  • 大阪市浪速区にある今宮戎神社に祀られているえびす神は事代主命(ことしろぬしの みこと)であり、蛭児命を祀る西宮神社とは異なっている。事代主命は、いわゆる「国譲り大国主をはじめとする地上の神々(国津神)が、天照大御神を祖とする天上の神々(天津神)に国土を譲り渡したこと)」の際に、大国主に代わって承諾の返事をしたとされる。この返事を迫られた際に事代主命は美保ヶ崎(島根県松江市)で釣りをしていたとされることから、しばしば釣竿を持った姿で現される。現在のえびす神のモチーフとなっている「釣竿を持ち、鯛を抱えた姿」は事代主命がモデルであると言える。
  • このほか、民間における「えびす信仰」には多数の形態がある。Wikipediaの「えびす」の項には、主な民間習俗として次のような例が紹介されている。

海神
えびすの本来の神格は人々の前にときたま現れる外来物に対する信仰であり、海の向こうからやってくる海神である。
下記の漁業神、寄り神(漂着神)の他に純然たる水の神としての信仰も存在する。

漁業神
恵比寿自体が大漁旗の図版として使われるほどポピュラーな漁業神であるが、日本各地の漁村ではイルカやクジラやジンベエザメなど(これらをまとめてクジラの意味である「いさな」と呼ぶ)を「えびす」とも呼んで、現在でも漁業神として祀る地域が多数ある。クジラやジンベイザメなどの海洋生物が出現すると豊漁をもたらすという考えからえびすと呼ばれ、漁業神とされる。実際にクジラなどが出現するとカツオなどの漁獲対象魚も一緒に出現する相関関係がある。
漁業に使う網の浮きを正月などに祀る地域があるが、四国の宇和島周辺や隠岐などでは、その浮きのことを「えびすあば」(あばとは浮きのこと)と呼んでおり、えびすが漁業神であることを示す好例である。

寄り神(漂着神)
主に漂着したクジラを指して(古くは流れ鯨・寄り鯨(座礁鯨)を)「寄り神」と呼ぶことがある。「鯨 寄れば 七浦潤す」「鯨 寄れば 七浦賑わう」などというように、日本各地には地域がクジラの到来により思わぬ副収入を得たり飢饉から救われたりといった伝承が多いが、特に能登半島佐渡島三浦半島で信仰が残っている。海外からの漂着物(生き物の遺骸なども含む)のことを「えびす」と呼ぶ地域もあり、漁のときに漂着物を拾うと大漁になるという信仰もあるという。九州南部には、漁期の初めに海中からえびすの御神体とするための石を拾うという風習があるという。これらの民俗信仰は、えびすの本来の性格を示すと考えられる。

福神
平安時代末期にはえびすを市場の神(市神)として祀った記録が残っており、鎌倉時代にも鶴岡八幡宮境内で市神としてえびすを祀ったという。このため、中世に商業が発展するにつれ商売繁盛の神としての性格も現れたとされる。同時に福神としても信仰されるようになり、やがて七福神の1柱とされる。福神としてのえびすは、ふくよかな笑顔(えびす顔)で描写されている。
えびす神は耳が遠いとされているため、神社本殿の正面を参拝するほか、本殿の裏側に回りドラを叩いて祈願しなくてはならないとされる。このため、今宮戎神社などでは本殿の裏にはドラが用意されている。 

  • メモ欄では、太地を「わが国近代捕鯨発祥の地」と紹介しているが、現在太地町では同町を「古式捕鯨発祥の地」と称している。近代捕鯨(動力船に備えつけた捕鯨砲によって鯨を捕獲する方法)については、明治32年(1899)の日本遠洋漁業株式会社(山口県長門市仙崎 数度の合併を経て現在は日本水産株式会社)設立に始まるとするのが一般的となっている。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。