生石高原の麓から

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おこない棒 ~那智勝浦町那智山~

 昔、那智山がいた。この鬼、里へ出てきては田畑を荒らし、村人たちを困らせる。
 そこで村人たち、一計を案じて鬼にいった。
 「もっとヒマな時に出てくればいいのに。ヒマなのは正月の元日から七日までや」

 

 正月がやってきたので、鬼は早々に里へおりてきた。ところが、正月の七日間、那智の里はどえらい騒ぎ。「おこない」といって、樫の棒で、七日七晩、そこら中をたたいて騒ぎ回る習わしがある。

 そんなことを知らない鬼は、騒ぎの真っただ中に飛びこんで、びっくりしてしまった……。

 

 今でも正月には「おこない」と称して、細い川柳の一方を四つ割りにして、たたく風習が那智大社青岸渡寺に残っており、七日の晩には床や石段を、腕が痛くなるまでたたくという。

 

  • この話は、和歌山県が発行する広報誌「県民の友」の昭和60年(1985)1月号でも「ふるさとの民話」として紹介されているが、現在もこの「おこない」の風習が残っているかは不明。
  • 一般的に「おこない行事」とは、主に西日本の各地で年頭に行われる伝統行事で、その年の豊作を祈願して餅つきや芸能などを行うものとされる。内容や形式は地域によって大きく異なり、修正会(しゅしょうえ 新年の幸福を祈願する仏教行事)や追儺(ついな 年越しに行われる鬼追いの宮中行事)などと結びついたものも多い。
  • 宮中で行われる追儺の行事は現在我が国で行われている「節分」行事の原型と言えるが、これは古代中国で行われていた「大儺(たいだ)」が伝来したものである。
  • 丁武軍氏の「古儺文化の起源・変遷・現状:中国南豊と京都を事例として(Dynamis:ことばと文化 2004,8:65-90)」によれば、「大儺」行事の古くからの形式をよく残していると言われる江西省南豊県石郵村の「(おにやらい)」行事では次のような儀式が行われているとされており、本文中にある「おこない」行事との類似点がみられる。また、この行事は春節の1日から17日まで続けられ、最終日には夜通し爆竹を鳴らし続ける風習があるという点も、上記行事と類似する。

続いて開山鍾馗大神という三名の祭司が頭に儺面をかぶり、手に鉄の鎖を持ち、大声をあげながら門を駆け出て、儺を探してまわる。そのときに銅鑼や太鼓が一度に鳴らされ、群衆の中から「儺、儺」の声が盛んにわき起こる。三人の祭司が村中の家々を回って、儺を探し、家の隅々まで目を光らせて、矛で家の壁や隅を叩いたり、残りの鬼を捕まえようと懸命である

  • 」は、もともとは「厄払い」の意があり、転じて災厄(無形の鬼)を追い払う英雄や儀式のことを指していたが、その儀式を行う者(方相氏 ほうそうし)の風貌が恐ろしいものであったたために、後に「儺」が「悪鬼」とみなされるようになり、意味が逆転したものと考えられている。
  • 熊野那智大社では、毎年正月に牛王神璽(ごおうしんじ)祭が営まれている。これは、烏牛王神符(からすごおうしんぷ)という神札を作成するための神事で、元旦に那智の滝の奥にある「秘所」から若水をくみ上げ、その水を用いて2日に初刷りを行い、連日祈祷を行った後、8日に那智の滝御神体とする別宮・飛瀧神社(ひろうじんじゃ)での祈祷を経て満願となるものである。この際、飛瀧神社では、滝の前に設けた祭壇に刷り上った烏牛王神符を積み上げて、神職が牛王杖(ごおうづえ)と呼ばれる柳の枝で打板といわれる樫の板を激しく打ち、邪気をはらう神事が行われる。
  • 牛王神符は他の神社でも用いられているが、中でも熊野三山(本宮、新宮、那智)の牛王神符は別格とされる。「熊野誓紙」とも呼ばれるこの神符の裏面に起請文(誓約書)を書くと、それは熊野権現に対して誓いをたてたことになり、誓いを破ると熊野権現の使いであるカラスが一羽(一説に三羽)死に、約束を破った本人も血を吐いて死んで、地獄に落ちると信じられた。
  • 高杉晋作が作ったとされる都都逸(どどいつ)、「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」は、熊野牛王神符を念頭に、「他の客と交わした起請文をすべて反故にしてでも、貴方と朝まで過ごしたい」との意を表したものとされる。また、この都都逸をサゲに用いた落語「三枚起請もよく知られている。


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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。