生石高原の麓から

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おこない棒 ~那智勝浦町那智山~

 昔、那智山がいた。この鬼、里へ出てきては田畑を荒らし、村人たちを困らせる。
 そこで村人たち、一計を案じて鬼にいった。
 「もっとヒマな時に出てくればいいのに。ヒマなのは正月の元日から七日までや

 

 正月がやってきたので、鬼は早々に里へおりてきた。ところが、正月の七日間、那智の里はどえらい騒ぎ。「おこない」といって、樫の棒で、七日七晩、そこら中をたたいて騒ぎ回る習わしがある。

 そんなことを知らない鬼は、騒ぎの真っただ中に飛びこんで、びっくりしてしまった……。

 

 今でも正月には「おこない」と称して、細い川柳の一方を四つ割りにして、たたく風習が那智大社青岸渡寺に残っており、七日の晩には床や石段を、腕が痛くなるまでたたくという。

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

 

  • この物語は、徳山静子編「紀州の民話未来社 1975)」に「おこないの棒」という題名で次のように紹介されている。

おこないの棒 (東牟婁郡那智勝浦町)
 むかし、むかしのことや。那智の山にはがいたんやと。そい(れ)が里へやってきて田んぼや畑をわや(駄目)にしたり、村人にわるさするんで困っとったとい。
 なんとかせにゃあきゃせんと、村人の一人が鬼に向ってこう言ったんやとい。
 「なあ、鬼さんよォ! わい(お前)らなんでこないにせわしない(忙しい)時ばっかし出てくるんけ。ちと暇なときくりゃいいのによォ。ほいたらよォ、ようけわるさでけるやんけ
 「ひまな時ちゅうたら、いつぞ
 「そいはな、正月の元日から七日までよ
 鬼はええこと聞いたわいと、村人の言うたことをほんま(本気)にして、山へいによった(帰ってしまった)んやと。
 正月がやってきた。鬼は早々に里におりてきよった。
 ところがや、正月は七日間、那智の家ではどえらいさわぎなんや。“おこない”、ちゅうてな、ここらではカシの木の棒で、七日七晩そこいら中たたいて騒ぎ回るならいがあるんや。
 そい知らんもんやさかい、さわぎのまっただ中にとびこんだ鬼はびっくらこくった。
 「一年中で一番ひまな時やいうさかい出て来たら、このさわぎや。普段の日はどがいなことになるやらわからん
言うて、一目散に山へいんでしもた(筆者注:帰ってしまった)んやと。
    はなし 故橋爪健一

 

  • この話は、和歌山県が発行する広報誌「県民の友」の昭和60年(1985)1月号でも「ふるさとの民話」として紹介されているが、現在もこの「おこない」の風習が残っているかは不明。

 

  • 一般的に「おこない行事」とは、主に西日本の各地で年頭に行われる伝統行事で、その年の豊作や大漁を祈願して餅つきや芸能などを行うものとされる。内容や形式は地域によって大きく異なるが、仏教寺院で行われる修正会(しゅしょうえ 新年の幸福を祈願する仏教行事)と呼ばれる儀式の影響を受けたものと考えられている。
    竹内町のオコニャ /とっとり文化財ナビ /とりネット /鳥取県公式ホームページ

 

  • 修正会は宮中行事追儺(ついな 疫鬼を追い払う行事)の影響を受けて成立したものとされており、修正会の中でも鬼追いの儀式が行われることが多い。
  • 神戸市にある若王山無動寺(にゃくおうざん むどうじ)では、修正会の儀式として「無動寺のオコナイ」という行事が行われる。この行事におけるる一連の儀式の中に、氏子が樫や椎の木の棒が割れるまで板に叩きつけ続ける「棒たたき」があり、本文の話と類似した行事が行われているようである。神戸市では、ふるさと納税」の返礼品としてこの行事の特別見学が取り上げられており、下記のような紹介文がWebサイトに掲載されているので参考に引用する。

 王子神社は、無動寺を守護する神社です。その無動寺では、毎年2月の第一日曜日(令和3年は2月7日午後)に市登録無形民俗文化財無動寺のオコナイ」が行われます。「無動寺のオコナイ」は節分の修正会で行われる様々な行事の事で、主に若王子神社の氏子が主体となって行う「シュウシ」と無動寺で行われる「棒叩き」という伝統行事があります。

「シュウシ」は若王子神社を1年間守ってきた宮守役の氏子の労を労い、1年間の安泰に感謝する行事で、集落に伝わる伝統的な料理でもてなす行事です。この行事が終わると氏子たちは、「棒叩き」に移ります。本尊の大日如来坐像を安置する無動寺の本堂に集まり、山から伐ってきた樫あるいは椎の木の棒を床に敷かれた板に強く打ちつけます。氏子たちは棒が割れるまで力一杯叩き続けます。大きな音で邪気を打ち払うという意味があります。割れた棒の先に氏子たちが作ったお札を挟んで家に持ち帰り、一年間の家内安全、五穀豊穣(商売繁盛)のお守りとします。
神戸市:ふるさと納税の返礼品に伝統行事特別見学など体験型を追加!

 

  • 宮中で行われる追儺の行事は現在我が国で行われている「節分」行事の原型と言えるが、これは古代中国で行われていた「大儺(たいだ)」が伝来したものである。
  • 丁武軍氏は「古儺文化の起源・変遷・現状:中国南豊と京都を事例として京都大学大学院人間・環境学研究科文化環境言語基礎論講座「Dynamis:ことばと文化」Vol.8 2004)」において、「大儺」行事の古くからの形式をよく残していると言われる江西省南豊県石郵村の「(おにやらい)」行事を紹介しているが、これは本文の「おこない」行事に類似したものと考えられる。また、この行事は春節の1日から17日まで続けられ、最終日には夜通し爆竹を鳴らし続ける風習があるという点も、上記行事と類似する。

 続いて開山鍾馗大神という三名の祭司が頭に儺面をかぶり、手に鉄の鎖を持ち、大声をあげながら門を駆け出て、儺を探してまわる。そのときに銅鑼や太鼓が一度に鳴らされ、群衆の中から「儺、儺」の声が盛んにわき起こる。三人の祭司が村中の家々を回って、儺を探し、家の隅々まで目を光らせて、矛で家の壁や隅を叩いたり、残りの鬼を捕まえようと懸命である

  • 中国山東省徳州市職員の董雪氏は、Webサイト「Science Portal China」に掲載された「中日「儺」文化小論」という記事において日中の「追儺」行事の歴史を概観している。同記事で董は、「」はもともと「厄払い」の意があり、転じて災厄(無形の鬼)を追い払う英雄や儀式のことを指していたが、その儀式を行う者(方相氏 ほうそうし)の風貌が恐ろしいものであったたために、後に「儺」が「悪鬼」とみなされるようになり、意味が逆転したと述べている。

 の習慣は中国からは消失していったが、ベトナム朝鮮半島、日本などに伝わったこの習俗は、現地の民族文化と融合して大きく発展していった。日本の飛鳥・奈良時代の儺礼は、伊吉博多が中国から導入して修正を加えたもので、大宝儺礼と呼ばれる。平安期になると、これに変化が起こり、侲子(しんし)という役回りが加わり、桃の木で作った弓や杖などの物品も出現した。さらに重要なのは、967年の『延喜式』から、「大儺」の名称が「追儺」に改称されたことで、この名称はこの後、継続的に用いられることとなった。平安後期になると、方相は、鬼を払う英雄から追い払われる鬼の役割に替わり、鬼を払う主役は上卿や殿上人などが担うようになった。方相の役割がなぜ英雄から悪鬼に替わったかという問題について、日本の研究者の広田律子は、「仏教で盛んだった修正会に追儺の儀式が取り入れられた際、恐るべき風貌の方相氏が仏事において追い払われる邪鬼のイメージと同一視されるようになったため」と分析している。
【14-02】中日「儺」文化小論 | SciencePortal China

 

  • 熊野那智大社では、毎年正月に牛王神璽(ごおうしんじ)が営まれている。これは、烏牛王神符からすごおうしんぷ)という神札を作成するための神事で、元旦に那智の滝の奥にある「秘所」から若水をくみ上げ、その水を用いて2日に初刷りを行い、連日祈祷を行った後、8日に那智の滝御神体とする別宮・飛瀧神社(ひろうじんじゃ)での祈祷を経て満願となるものである。この際、飛瀧神社では、滝の前に設けた祭壇に刷り上った烏牛王神符を積み上げて、神職が牛王杖(ごおうづえ)と呼ばれる柳の枝で打板といわれる樫の板を激しく打ち、邪気をはらう神事が行われる。
  • 牛王神符は他の神社でも用いられているが、中でも熊野三山(本宮、新宮、那智の牛王神符は別格とされる。「熊野誓紙」とも呼ばれるこの神符の裏面に起請文(誓約書)を書くと、それは熊野権現に対して誓いをたてたことになり、誓いを破ると熊野権現の使いであるカラスが一羽(一説に三羽)死に、約束を破った本人も血を吐いて死んで、地獄に落ちると信じられた。
  • 高杉晋作が作ったとされる都都逸(どどいつ 七・七・七・五の定型詩、「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」は、熊野牛王神符を念頭に、「他の客と交わした起請文をすべて反故にしてでも、貴方と朝まで過ごしたい」との意を表したものとされる。また、この都都逸をサゲに用いた落語「三枚起請もよく知られている。
    落語 三枚起請のあらすじ オチの朝寝がしてみたいの解説 | 落語あらすじ.com


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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。