生石高原の麓から

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小川八幡神社の獅子舞

 「旧小川村の伝承」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していた記事のうち、旧小川村(現在の紀美野町小川地区)に伝わる故事や行事に関わるものを再掲するとともに、必要に応じて注釈などを追加していきます。

 

 今回は、旧小川村の氏神である小川八幡神社の秋祭で披露される獅子舞の紹介です。

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獅子舞
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 小川八幡神社例大祭は、毎年10月17日に開催される。昭和の初期まで、この祭には3メートルほどの木の板の先に獅子頭を付け、獅子舞の衣装をつけたものが八幡神社の社から馬場まで練り歩き、これを「お渡り」と呼んでいた。

 昭和初期になって、坂本地区の若者たちが隣の在所からお囃子と踊り方の指導を受け、新たに獅子舞を奉納することになった。前述の「大般若経」の所有権等を巡るトラブルが原因となってこの例大祭は20年近く中断していたが、1994年になって祭が再開されることになり、これを期に坂本地区において「坂本獅子舞保存会」が結成されて獅子舞も復活することになった。

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 小川八幡神社例大祭に関して、昭和60年(1985)に旧野上町が発行した「野上町誌」には「年中行事」の項に町内各地の秋祭りについての次のような記述があります。     

秋祭り

 十月に入ると秋の収穫を祝って各地の神社で秋祭りが行われる。神社は年中を通して、いろいろな祭礼があるが、秋祭りは一番盛大である。当地方では日方の柿本神社が一番早くて十月十一日、そこから順に奥地へ移り野上八幡宮は十月十五日、小川八幡宮は十七日、志賀野の丹生神社は十八日で、一番遅いのは黒江中言神社の十一月一日である。しかし現代は十月中旬の日曜日にする所が多くなった。神社の秋祭りは子供達にとって一番楽しい祭りである。宮の森から祭り囃の笛や太鼓の音が聞こえて来ると、もうたまらない。神社の参道には旗や幟が立ち並び、出店もたくさん出て客引の声が飛び交って祭り気分をかきたてる。晴衣の老若男女が、ぞろぞろとひっきりなしに参詣する。午後には、お渡りの行事がある。赤鬼青鬼の面をつけた者が露払いをつとめそのあとに獅子が続き、若者連のかつぐ神輿が馬場をねり歩く。そして神官を先頭に町の有力者達が神官の服装をして馬に乗り行列をくり広げる。これが済むと余興として馬駈けがあったが今は、しなくなった。そのあと神殿で神主さんの神事があり最後に大餅投げを行う。また昔は青年や大人達の奉納相撲大会もあったが今は無い。

 

 また、同じく「野上町誌」の「宮座」の項には、小川八幡神社の宮座(祭祀を行う組織)について次のように書かれており、現在の祭りは享保19年(1734)に高野山から派遣されていた代官・朝応が神輿や大獅子などを修復・寄進したことによって再興されたもので、これを機に、かつては特定の血縁集団であった祭りの担い手(宮座)が、広く氏子全体で構成される地縁集団へと変化したことなどが解説されています。

小川八幡神社の宮座
 小川八幡神社の宮座に関する古記録はあると思われるが本誌編集の現段階では、ただ一史料『小川庄八幡宮祭礼之記(殿垣内家所蔵文書)』によって宮座について述べてみることにする(この祭礼之記は二通あって小川八幡神宮宝庫には壱があり弐は殿垣内家所蔵文書で同文である)
 中世から小川八幡宮が衰微し、祭典等も断絶の状態にあったので享保19年(1734)5月、高野山巴陵院代朝応が、これが再興を企て自ら願主となって神輿大獅子小獅子大小の鋒その他神宝の破損したのを修覆して之を寄進し、神事祭礼を執行することとした。その「定書」の中にある文書から宮座に関係あるものと思われるものを摘記すると、

両神主 村々庄屋 肝煎 氏子中一同に迄 歓喜得心の上-
-屋婦さめ(筆者注:やぶさめ)馬三匹、乗人は庄中村々公事家之内 乗り可被申候
 尤村廻しに馬出之公事家之外成共公事家筋目之仁乗り可被申
候-
-永々祭礼之儀式、庄屋・肝煎七月寄合相催評定可申候-

 なお文書の裏面に、

-祭礼之行列、渡り物、今般願主と庄中相談之上 之儀に候得ば
 此後増減可被致無用事-

 以上の文書から推察すれば享保19年(1734)ころは宮座制に変遷があったのであろうか、既に「氏子」という表現で、庄屋肝煎(筆者注:きもいり 諸事の世話役・責任者)氏子と明記している。これは氏神の担い手である血縁集団が完全な地縁集団となって、氏神信仰の担い手が変わっていることを示している。
 やぶさめ馬の三匹の乗り人は、小川庄中の村々の公事家(くじや)の内から出すこととあって公事家は宮座の構成員と思われる。公事家の任務については詳らかでないが神宮寺の別当(筆者注:管理責任者)村役人等と提携しながら神社の祭礼、修繕、遷宮、維持全般に亘って関与するはもちろん、村落共同体の中枢を占め、いわば支配的性格の強い構成であったと思われる。なお今後永年に亘る祭礼については、庄屋肝煎の村役人が毎年七月に寄合をして評定することを誓い、各村の庄屋年寄惣代は署名捺印した証文二通を作成し、一通は宮の宝蔵へ、一通は庄の黒箱に保管することとしている。この文書からすれば氏子の手による氏神まつりという形態になったことを示すものである。

 

 本文にもあるように、かつては小川八幡神社の秋祭りでも「お渡り」という行事が行われていました。その内容については上記町誌からの引用文にもあるように、が先導してその後に獅子が続き、神輿神官がこれに続いて渡御行列を行うというもので、昭和初期には八幡神社を出て神社の南にあった馬場までの間を練り歩いたようです。
※当時、祭の日にはこの馬場で「馬駆け(乗馬による競争)」が行われていた。現在、小川宮から馬場を経由して生石高原に至る「桜の小経」が整備されている。

 しかしながら、当時の「獅子」は現在のような姿ではなく、板の先に獅子頭を付けて衣装を被せたものであったため、獅子が勇壮に舞い踊るような「獅子舞」は行われていませんでした。このため、地区の若者たちが旧美里町へ行って現地で獅子舞の道具や踊り方を教えてもらい、それを当地に伝えたものが現在の「小川八幡神社の獅子舞」の原型となっているとのことです。

 その後、昭和50年代になって前項で紹介した「大般若経」が学術的に価値の高いものであることが判明し、その帰属をめぐって小川八幡神社神宮寺説を取る神社側と、集落共同管理説を取る氏子側とで大きな争いが発生したため、その余波を受けて長期間にわたり小川八幡神社例大祭が行われなくなってしまいました。
小川八幡神社と大般若経 - 生石高原の麓から

 本文にあるように1994年(平成6年)になって両者の間でようやく和解が成立したことから、例大祭も復活し、これを機に獅子舞も再び行われるようになりました。20年近くにわたって中断していたことから、かつて獅子舞の担い手となっていた若者たちも既に老境の域に達しており、復活にあたっては次の世代への引き継ぎが行われました。上記の写真はこうした新旧のメンバーが祭本番に向けた練習を行っているところです。

 

 なお、上記の個人サイトの文章が書かれた平成時代中期(1990年代後半)までは、小川八幡神社例大祭は曜日に関わらず毎年10月17日に開催されていましたが、かつては農業や林業、自営業などに従事する人々が多かったこの地域でも会社員などの勤め人が多くなり、平日では休みを取ることがだんだん難しくなってきたことから、2000年代になると他の神社同様に10月17日に近い日曜日に開催日が変更されるようになりました。
 令和2年(2020)、令和3年(2021)は新型コロナウイルス感染対策のため例大祭は神事のみの催行となり、獅子舞等は行われませんでしたが、今年こそは盛大な祭りが行われてほしいものです。