生石高原の麓から

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うるしが渕 ~古座川町月野瀬~

 古座川の清流が巨岩にぶつかり、深渕をなしているところがある。これを「うるしが渕」という。

 

 昔、池ノロ漆塗りの名人がいた。その塗りは、誰もが真似のできない立派なものだったが、漆の出所が秘伝で、名人は二人いた息子のうち、漆塗りの好きだっただけに「十五夜の夜、渕の底にたまった漆をとる」と秘伝を授けて死んだ。

 

 これを立ち聞きしていたは怒り、ムギワラ(くわ)の刃でをつくり、こっそり渕に沈めておいた。何も知らぬ十五夜の夜、渕にもぐったところ、竜が目を光らせ、いまにも襲いかからんばかり。びっくりして逃げ帰った。ほくそ笑んだが、そのあと渕へもぐると、本物の竜がいて呑まれてしまった、と。

 

 兄弟が憎しみ合うのを戒めたお話だが、いまは渕のそばの岩山に県道のトンネルも切り開かれ、渕には漆ならぬ大ウナギが生息している。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

うるしが渕付近の古座川

 

  • 平成26年(2014)に古座川「水のまちづくり」推進協議会連絡先:古座川町役場産業振興課)が制作した「古座川風土記(発行所:有限責任事業組合 古座川街道やどやの会)」では、うるしが渕について次のように紹介している。

 南紀の最高峰大塔山(1,122m)を源とする亘長64kmの古座川の、随所に見られる河の中で、誰もが納得する深渕は、あまりにも深く水面下が漆(うるし)の如く暗黒であるところから「漆渕(うるしがふち)」と称される渕であろう。月野瀬村洞地区を縦断して流れる古座川支流主谷(おもたに)川の河口にあたり、「船付け」の名も残る。
 川面中程までに突出した望月岩尾又の瀬の急流が直接ぶつかり渦を巻く。川底の岩盤はえぐられて深い溝となるとか。この渕底に潜水を試みたのは二人しかいないという。
 望月山の先端「切岩(きりいわ)」は、少年たちの格好の水泳場となるが、この切岩へ泳ぎ着くのは漆渕の反対側からとするのが通例であって、特に年少者は急流の直接ぶつかる渕へ近づくことはしない。家人の注意もさることながら、流れの水圧で川底に巻き込まれたら大変との本能的恐怖からである。
 河口の「舟付け」から先端の切岩までの中間あたりに、水面下に二人程利用できる格好の腰掛岩があったが、水位の低下で、今は水面から1m程上に姿を現している。望月岩は花岡班岩特有の縦横に亀裂が走る。この亀裂をが住家とする。亀裂から頭を出す鰻を引っかけ道具でしとめるのが「通」の仕事であった。

 

 幕末の著名な伊勢国の漢学者齋藤拙堂(さいとう せつどう)(著書『南遊誌』)は、古座川を舟遊し両岸に連なる奇岩秀峰に魅せられて八勝を撰し、それぞれに岩名を附した。その中に少女峰(十七ヶ嶽)明月厳(めいげつがん)(望月岩)とともに鱣魚潭(せんぎょたん)(漆渕)も含まれている。「鱣魚潭」を直訳すると、田うなぎ、魚の澄む奥深い渕ともなろうか。もっとも昔から漆渕は大鰻の住家として語り継がれるところである。

 

  • この「古座川風土記」には、本文にある兄弟の話も「漆渕の龍」という題名で下記のとおり収載されている。

漆渕(うるしがふち)の龍

 昔、池の口村に漆塗りの名人がいた。そこの漆塗りは、どのような漆で塗ったのか分からないほど立派な漆であった。その漆の出処はこの家を継ぐものにしか伝えられない秘伝だった。その名人に二人の息子がいた。父親はまじめなの方を世継ぎにふさわしいと決め、自分が死を悟るにあたり、二男に秘伝を授けた。それをがこっそり盗み聞きしていた。
 その秘伝とは、古座川筋の月野瀬村の漆渕の底のどこかに上等の漆が溜まるのを採るのであった。この「漆」を採るためには、十五夜の満月の晩に水底に潜らねばならない。このことを知ったは、横取りをするために策をめぐらした。麦わらで龍の形を作り、その眼には鏡を使い、下には鍬(くわ)の刃を磨いて使った。それを十五夜の宵のうちにこっそり渕に沈めておいた。
 は父親の教えのとおり、十五夜の明かりを頼りに渕に潜ると、月の光を受けてきらきら光る大きな龍の目と大きく開いた口に舌がチョロチョロと動く作り物の龍に驚いて逃げた。
 これを見ていたはしめしめと水底へ潜ると、作り物の龍が本物の龍になって、兄は龍にのみこまれて命を失った

 

 日向国の米良(めら)の庄に漆取りの兄弟がいた。が漆の木を探して山の中を歩いていると、気味の悪い淵に出た。はうっかり鉈を淵に落としてしまい、淵に潜って探しているうちに、淵の底に良質な漆が溜まっているのを見つけ大喜びする。
 それを町に持っていくとたいそうなお金が手に入るので、その日から人が変わったように怠け者になってしまった。弟にはそのことを秘密にしていたが、ある日、怪しく思ったは、の後をつけて淵の漆のことを知る。そして弟も兄同様に怠け者になってしまった
 に漆のありかを知られたのを面白く思わず、淵の底に木彫りの龍を沈めてに漆をとらせないようにした。翌日が淵に潜り、木彫りの龍を見て本物の龍と間違えて逃げて帰った。
 それを見てしてやったりのが漆を取ろうと淵に潜ると、木彫りの龍が動き出し、兄に襲いかかった。慌てて逃げだすが、自分の作った龍が動くことを信じられず、もう一度潜るが、やはり龍が襲いかかってきた。兄はやっとのことで逃げ出した。
その後、龍は、深い淵に戻ったまま二度と姿を現すことはなかった。
(稿:蔵人 本掲載日2012-8-14 14:33)
まんが日本昔ばなし〜データベース〜 - 龍の淵

 

  • 宮崎県が管理するWebサイト「みやざきの神話と伝承101」には、上記で紹介した「まんが日本昔ばなし」の原典となる物語が紹介されている。

米良の漆兄弟

 日向の山奥、米良という小さな村に、漆職人の兄弟が住んでいた。兄は安佐衛門、弟を十兵衛といった。
 ある日、安佐衛門は新しい漆の木を探しに山へ出掛けた。途中、米良川沿いのがけ道で、足を滑らせ、鎌(かま)を手から離してしまった。鎌はがけを滑って川のふちに沈んでいった。困った安佐衛門はふちに潜ることにした。底に着いて探ると、手が鎌柄に触れた。
 柄をつかんだ途端、安佐衛門は、ヌルッとしたものを感じた。水面に顔を出して、手を見ると、何とそれは漆ではないか。しかも、極上の漆である。安佐衛門は、もう一度潜ってみた。やっぱり漆だ。見事な漆のふちだった。欲の深い安佐衛門は、独り占めにしようとした
 翌日から安佐衛門は、ふちの漆をすくった。そして十兵衛と一緒に、球磨表熊本県人吉市に売りに出掛けた。の漆はのものよりはるかに高価で買い取られた。驚いた十兵衛がある朝、家を出るの後を付けたところ、がふちに潜って漆をすくっているではないか。それから十兵衛は、兄に内証でふちの漆を採り始めた
 幾日か後、2人は売りに出た。今度は2人とも今までにない高値で買い取られた。驚いたのは兄の安佐衛門の様子に気付いたは、それとなくの後を付けてみると、がふちの漆を採っているのを見つけた。
 安佐衛門は、球磨表から木彫りの龍(りゅう)を買って帰り、ふちの底に置いてを追い出そうと考えた。何も知らない十兵衛がふちに潜ってみると、龍が火を噴き、つめを立てて襲いかかってくるではないか。驚いた十兵衛は、帰るなりに龍のことを告げた。
 安佐衛門は、これで漆は自分のものになったと、ふちに潜っていった。ところが、そこにいたのは木の龍ではなく、本物の龍だった。龍に襲われた安佐衛門は二度と水面に上がってはこなかった
 安佐衛門には、臨月を迎えた妻がいた。は悲しんで、龍をのろい、21日の願をかけた。満願の夜、白むくに身を包み、短刀を口にくわえた妻が、ふちの岩の上に立っていた。
 は、静かにふちに入っていった。間もなくふちの水が大きく動いて、龍がウロコを光らせて川下に流れていく。そして妻の姿も、水中から消えた。何日かたったある日、ふちの底に龍の頭の形の石が見られた。
みやざきの神話と伝承101:米良の漆兄弟

 

  • 島根県にも類似の伝承があるようで、島根県石見地方の神話等を紹介する個人サイト「広小路_Broadstreet」では、「頼太水(よりたみず)」という物語が紹介されている。その内容は概ね次のとおりであるが、この伝承では兄弟の確執よりもむしろ「聖域に侵入したことにより竜の祟りを受けた」との意味合いを強く感じる物語となっている。

 寛永12年(1635)、現在の安来市広瀬町布部に頼太頼次という漆取りの兄弟がいた。
 布部川の上流にある雌渕という渕の底には周囲の漆の木から自然に流れ出た樹液が溜まっていると言われていたが、そこには竜が住んでいると言われ、誰もとりに行く者はいなかった。
 あるとき、兄の頼太は、思い立って雌渕に潜り、大量の漆を集めてきた。
 それを知った弟の頼次は竜の祟りを恐れ、兄の行動を止めさせよう藁で大きな竜の姿を作り、渕に沈めた。
 頼太が再び雌淵に潜ったところ、急に天気が悪くなり、大雨が降りだしてきた。三日三晩雨は降り続き、渕の水は布部川に流れ込んでいった。頼太のその後を知る者は誰もいない。
それ以降、この地方では大水のことを頼太水と呼ぶようになったという。
広小路 | 出雲の伝説 | 全国に伝播した龍の淵伝説と頼太水伝説

 

  • 劇作家の木下順二が昭和22年(1947)に発表した作品「木竜(もくりゅう)うるし」は、こうした伝承を参考にしたものと思われる。この作品(戯曲)の登場人物は権八藤六という二人のきこりで、上質な漆を沼の底に見つけた権八は、なんとかそれを独り占めしようと木彫りの竜を沼に沈めて藤六を驚かせるのだが、後に権八自身も木彫りの竜が動いて見えることに慌てふためいて、遂には藤六に自分の企みを白状し、藤六の言葉を受け入れて村の皆で漆を共有しようと考えを改める、というストーリーになっている。この作品は小学校の国語の教科書でもたびたび採用されているようで、現在は教育出版株式会社の「ひろがる言葉 小学国語 四年 下」に掲載されている。
    ひろがる言葉 小学国語 四年 - 教育出版

 

  • 古座川のうるしが渕には「いたずら河童」というもう一つの伝承がある。これも上述の「古座川風土記」に収載されているので引用する。

いたずら河童(かっぱ)

 この渕に河太郎という河童が住んでいて、よく悪さをして村人を困らせていた。毎年、田植え期に入ると、尾又の瀬に田んぼへ水を引く水車を架ける。すると、この水車に登って回転を止めたり、畑の西瓜(すいか)や南瓜(かぼちゃ)、さつま芋を荒らすなどのいたずらをした。
 ある時、庄屋「すぎや」が馬を尾又の瀬の川岸に繋いでおいた。すると、河太郎が漆渕(うるしがふち)からのこのことはい上がり、馬の手綱を自分の体に巻き付けて結び、馬をそろそろと川に引込みにかかった。馬は知らず知らず深みに入りかけて驚き、一気に岸に飛び上がって馬屋に駆け戻った。河太郎は引きずられて同じ馬屋へ。
 陸に上がった河童ではどうしようもない。家人に捕まえられたので、許しを請うた。家人は、
助けてやるが条件がある。
一、漆渕の丘(望月岩)の松木が枯れるまで
二、炒豆(いりまめ)が芽を出すまで
この二つの条件を守って守って悪いことはしないというなら許してやる」と言われ、命が助かるならとやむを得ず誓う羽目となった。それならばと家人に連れられて、牛蒡硲(ごぼさこ)(国皇大神の境内に炒豆を蒔かされたあと放たれた。
 河太郎はその後、漆渕(うるしぶち)以外の月野瀬周辺の渕から姿をけしたという。

  • 上記の引用文中にある「牛蒡硲宮(国皇大神」とは、古座川町池野山にある「国皇(こくおう)神社」を指すものと考えられる。この神社は、下記の熊野新聞の記事にあるように、後亀山天皇の5代目子孫とされる朝里重太夫が創建したものと伝えられ、当初は古座川町月野瀬の牛蒡谷の一角にあったものである。

7区の役員ら礼尽くす 国皇神社本殿前で例祭 古座川町
(略)
 この神社は、中世の南北朝の内乱を経て南朝最後の天皇となった後亀山天皇の5代目子孫・朝里重太夫1616年に月野瀬の牛蒡ごぼう谷の一角で創建。1823年に13代の朝里利平が現・国王山の一角へ遷(うつ)し、例祭は麓にある旧七カ村の奉仕も得て積み重ねてきた。
 近年、長寿化に伴う区役員の高齢化で尾根伝いの徒歩参拝が難しくなったため、1991年に自家用車で行ける林道沿いの池野山区有地へ遷座。旧七カ村につながる高池上部、同下部、池野山、宇津木、月野瀬、直見と串本町にある古田の7区が持ち回りで例祭を続けている。
(略)

https://kumanoshimbun.com/press/cgibin/userinterface/searchpage.cgi?target=202003180803

 

  • 上記で取り上げられている国皇神社と朝里氏について、作家・司馬遼太郎氏は自著「街道をゆく 熊野・古座街道」で次のように記述している。

 私の左に郷土史家の橋爪氏がいて、しきりに昔の話をしてくれた。 (略) 私は翠巒(すいらん)のなかにひたりきっていたかったし、水の音を聴いていたかったのだが、しかし満月のように善意で満ちきった橋爪氏はそれを許してくれず、この地方に後南朝(ごなんちょう)の皇子の末裔の家があって名家とされている、というお話をしきりにされた。非常な情熱だった。

(略)

 橋爪氏の後南朝の話が、つづいている。
 南朝の流亡の天皇後亀山天皇の皇子で小倉宮という人が、北朝の世になってしまっているために里住まいができず、吉野・熊野の山中を転々とかくれ住み、ついにこの古座川の源流の山奥に落ちて住み、子孫は農業を営んで明治に至り、さらにこんにちにまでつづいているという。橋爪氏は年来、その家系や文書を調査されてきた。

(略)

 橋爪氏は、風呂敷包のなかに、ご自分が整理されてゼロックスにとっておられる朝里家文書というのを包んでおられた。冊子になっていて、表題は『後南朝(ごなんちょうえい)朝里家文書』とある。拝見すると、朝里家は南朝天皇やその一族の霊を合祀して「皇大神」という神名をつけ、屋敷神として祭祀をつづけてきたという。しかしいつのほどか社(やしろ)がなくなってしまった。明治政府は一面では大義名分イデオロギーがその成立の基礎にあるから、朝里家は請願書を時の宮内大臣に出して国の予算で再建してほしいと願っている。請願の文書によれば明治三十六年十月二十日ということで、こんにちともなればふしぎな感じのする請願行為だが、尊王攘夷大義名分論が唯一のイデオロギーで革命を成立させた明治政府としては、思想的にこの種の請願行為に当然呼応せざるをえないフェロモン誘引臭を感じざるを得なかったろうと思える。

※本テキストは司馬遼太郎著「街道をゆく 8 熊野・古座街道、種子島みち ほか(新装版)(朝日新聞出版 2008)」によった 

 

  • また、下記の個人ブログで紹介されているように、月野瀬には朝里氏の遺跡と伝えられる場所がある。

    blog.goo.ne.jp

 

 

川内所々に淵ありて
その内 牛鬼淵 漆淵 鮧淵などの名あり
川に鰻鱺(ばんれい 鰻のこと)魚の大なる者あり
回り七 八寸より尺回り(胴まわり 約20~30センチメートル)の者多し
最大なるものに至りては二尺五 六寸回り(約1メートル)
二尺五 六寸の者も丈は一丈(約3メートル)(ばかり)なりという
最大なるものは油強くして食うべからず
これを炙るに 油多きを以て
肉皆蕩(とろ)け 油となりて流るという

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。